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帝都幻灯局 ― 失われた街を撮る者たち ―  作者: 灯坂 フィルム


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第15話「高架下のライン」

 その日の幻灯局は、いつもより少しだけ静かだった。


 窓の外を、路面電車がゆっくりと通り過ぎていく音がする。線路の振動が、古い建物の床下をかすかに揺らす。その上で、私は机に広げたプリントの端をそっと押さえた。


 川沿い高架下の写真。簡易宿泊所の列。滲んだ名簿。


 昨日までの調査の名残が、まだ局内の空気に居座っている気がした。


「……顔色、悪いよ」


 隣の机から、御影さんの声が飛んでくる。彼はモニターに向かったまま、手元のマグカップを指先でくるくる回していた。


「そうですか?」


「プリントに穴が開きそうな勢いで見てるから」


 言われて、私は慌てて視線を外した。


 局の壁には、帝都の路面電車路線図が貼られている。色分けされた線が、蜘蛛の巣みたいに街のあちこちへ伸びている。その中に、昨日見た高架下の区画は、あくまで小さな一本の枝に過ぎない。


 でも、その枝の下にも、ちゃんと誰かの暮らしがぶら下がっていた。


 そう思った瞬間、事務所の扉がノックもなく開いた。


「よっ」


 軽い声といっしょに、冷気が入り込む。


 七瀬さんだった。今日も、黒いジャケットにノーネクタイ。肩口は少しだけラフに着崩れているのに、全体から漂う空気は、どこか鋭い。


「相変わらず、暗いとこで地図とにらめっこしてるなあ、あんたら」


「こんにちは、七瀬さん」


 私は慌てて立ち上がりかけたけれど、彼は手をひらひらさせて制した。


「座ってていいよ。こっちは“お願い”に来たんだから」


「お願い?」


 御影さんが、マグを机に置いた。


「表の窓口で受け付けた記憶はないけど」


「そりゃまあ、“表”で頼む話じゃないからさ」


 七瀬さんは、局の真ん中にある来客用の椅子に腰を下ろす。背もたれに寄りかかるでもなく、腰だけを預ける座り方が、彼らしい。


「駅裏の高架下って、分かる?」


「帝都駅の西口の裏手の……」


「飲み屋とか、質屋とか、ちっこい事務所がゴチャっと並んでるあたりだね」


 御影さんが補足する。


「うん。あそこ、ウチの通りだ」


 七瀬さんは、あっさりと言った。


 「ウチ」という言葉に込められた意味を、私は何となく察しながら黙っている。


「最近さ、その通りで妙な噂が回っててね」


 彼はポケットからタバコを出しかけて、ここが禁煙だったことを思い出したように、指先で箱をもてあそぶだけにとどめた。


「“ウチの通りを撮ってくヤツがいる”って話」


「撮ってくヤツ?」


「カメラぶら下げた、観光客だか、調査だか。そいつが撮った写真が、全部“抜け落ちる”んだとさ」


 その言葉に、思わず背筋が伸びる。


「抜け落ちる、って……」


「真っ白になるとか、看板だけ飛んで人が写ってないとか。まあ、聞いた感じはオカルトじみた笑い話だよ」


 七瀬さんは、軽く肩をすくめて見せる。


「でもさ。そういう“妙な噂”ってのは、商売には毒なんだわ。客足が落ちる。怖がって、別の通りに流れる」


「だからといって、警察に相談するわけにはいかない、と」


 御影さんが、淡々と続ける。


「ご明察」


 七瀬さんは、口の端だけで笑った。


「表の連中に来られると、別の意味で商売が死ぬ。だから、“中立っぽい”あんたらに声をかけにきたってわけ」


「“中立っぽい”ねえ」


 御影さんが苦笑する。


「で、我々に何を?」


「簡単な話」


 七瀬さんは、椅子の背にようやく体重を預けた。


「その噂、本当に“変なモン”のせいなのか。それとも誰かが意図的に流してるのか。ちょっと覗いて、撮って、判断してほしい」


「……誰かが意図的に?」


 私が思わず反復すると、彼は私の方に視線を向けた。


「駅裏の土地なんてさ、昔から欲しがるやつが多いのよ。ちょっと“事故物件扱い”にしときゃ、値段も話も、いろいろ下げやすい」


 さらりとした口調なのに、その裏にあるものが透けて見える。


「ま、全部俺の勘ぐりかもしれないけどね」


 七瀬さんは、そこだけは冗談めかして笑った。


「どう? 局としては、“笑い話”で済むかどうか、見にきてくれない?」


 御影さんは、しばらく黙ってから、小さく頷いた。


「いいよ。どうせ、駅裏の高架下は、いつかどこかで調べることになると思ってた」


「助かる」


 七瀬さんは立ち上がる。


「じゃあ、今夜。うちの若いのを一人つけるから。案内させる」


「今夜……」


 時計を見れば、まだ午後の早い時間だった。


 昨日の川沿いに続いて、今日もまた高架下。


 私は、机の端に置いていたカメラのストラップに、そっと触れた。



 帝都駅の裏口を出ると、空気の色が一段階変わった。


 正面の広場には、ガラス張りのビルと、明るい看板。人の流れはカラフルで、音も光も忙しい。


 けれど、駅の建物に沿って歩き、高架の下に潜り込むと、途端に音がくぐもる。頭上を通る電車の軋みだけが、コンクリートを震わせていた。


 高架の柱が、等間隔に並んでいる。その影の下に、小さな飲み屋や、古い質屋、看板だけが立っている事務所が、ぴったりと寄り添うように並んでいた。


 油と煙草とアルコールの混じった匂い。どこかの店から聞こえる笑い声。ビールケースを積み上げる音。


 遠くに、夕方の路面電車の走行音が、かすかに重なっている。


「……いいですね」


 思わず口から漏れた。


「なにが?」


 隣で相馬さんが、不思議そうに眉を上げる。


「全部が“線”でつながってる感じが」


 私は、頭上の高架と、それを支える柱、それから足元の白いラインを見回した。


 道路の端に引かれた白線。路地を区切るように走る、少し擦り減ったライン。電線の束が、高架の間を横切っている。


「写真映え、ってやつ?」


「……まあ、そうですね」


 私はカメラの電源を入れる。


 少し遅れて歩いていた御影さんが、周囲を見渡しながら言った。


「ここまで“線”だらけだと、逆に何をどう切り取るか難しいな」


「贅沢な悩みだねえ」


 前を歩いていた若い男性が、振り返りながら笑った。金髪に近い茶髪をオールバックにまとめた、細身の青年だ。


「紹介が遅れました。七瀬さんちの……」


「真島です。よろしく」


 青年は、軽く会釈する。


「今日は、うちの通りを案内しろって言われてまして」


「お世話になります」


 私たちは軽く頭を下げた。


「で、まずは噂の聞き込みから、っすか?」


「そうだね」


 御影さんが答える。


「“写真が抜け落ちる”店、っていうのを教えてほしい」


「了解っす」


 真島さんは、さっそく先導して歩き出した。



 一本目の路地の角に、小さな居酒屋があった。


 赤い提灯が、まだ半分しか灯っていない。準備中の暖簾の奥から、がっしりした体格の店主が顔を出した。


「おう、真島。今日は団体さんか?」


「ちょっと、写真の件で」


 真島さんは、手短に事情を話す。


 店主は、「ああ、あれか」と頭を掻いた。


「スマホでな。常連のおっちゃん撮ろうとしたら、真っ白になってよ」


「真っ白?」


「ほら」


 店主は、自分のスマホを取り出して、写真アプリを開いた。


 画面には、カウンターとテーブルと、壁に貼られたメニュー表が映っていた。なのに、肝心の“人”が、そこだけ、白いノイズのように飛んでいる。


「……これ」


 私は思わず画面を覗き込んだ。


「普通の手ぶれ、ではなさそうですね」


 御影さんが、身を乗り出す。


「露出オーバー……にしては、部分的すぎる」


「そうなんだよ。何回撮り直しても、同じヤツだけこうなる」


 店主は、腕を組んだ。


「“俺、もう死んでんのかね”なんてアイツは笑ってたけどよ。そういうの、あんま続くと、縁起でもねえだろ」


「その人以外は、ちゃんと写るんですか?」


「他の連中は問題ねえ。そこの兄ちゃん撮ってみ?」


 私は、言われるままにカメラを構えた。


 店先に立つ真島さん。背後に赤い提灯。高架の影が、斜めに落ちている。


 シャッターを切る。


 モニターには、普通の写真が表示された。


「問題なさそうですね」


「だな」


 御影さんも頷く。


「……ただ」


 彼は、画面の一部を拡大した。


 真島さんの顔。その周囲の輪郭が、ほんのわずかに、ぶれている。ピントは合っているはずなのに、視線だけがどこか焦点を結びきらない。


「気持ち悪いほどではないけど」


 御影さんは、首をかしげた。


「まっさらでも、完璧でもない。中途半端に“ズレてる”感じだね」


 店を数軒回るたびに、“ズレ”は微妙に形を変えていた。


 あるスナックでは、店主の顔だけが少し暗く沈む。質屋の前では、看板に書かれた屋号だけが、やけにくっきり浮かび上がる。そのバランスに引き換えに、手前を歩く人影が薄くなる。


 スマホやインスタントカメラで撮られた写真は、どれも、どこかちぐはぐだった。


「本当に“変なモン”のせいなのか、“噂に引っ張られた目”のせいなのか」


 御影さんは、袖口でメガネを拭きながら呟く。


「その境目が、一番厄介だ」


 私は、その言葉を胸のどこかにしまい込んだ。


 幻灯局の仕事は、たいてい“境目”と向き合うことだ。都市伝説と公式記録、オカルトと事故、存在と不在。


 今日の“境目”は、高架下の薄暗がりと、ネオンの光の中にあった。



 聞き込みを一通り終えた頃、路地の奥から拍子抜けするような明るい声が聞こえてきた。


「おっ、噂の“撮影隊”じゃないですか?」


 振り向くと、薄いグレーのジャケットに、派手な柄のシャツを合わせた男が立っていた。手にはタブレット端末。笑顔だけは人懐っこい。


「あんたか、話に出てたのは」


 真島さんが眉をひそめる。


「最近出入りしてる情報屋だって?」


「やだなあ、“出入りしてる”なんて言い方」


 男は、おどけたように両手を上げる。


「ただのフリーの情報屋ですよ。需要があるとこに、供給を持っていくのが仕事でして」


「その“供給”ってのが、変な噂なわけだ」


 御影さんが、じっと男を見る。


「“写真が抜け落ちる高架下”とか、“人を消すカメラ”とか。耳目を引くには充分だ」


「まあまあ。ちょっとスパイス効かせないと、誰も振り向いてくれませんからね」


 男は、タブレットを軽く振った。


「で、その“抜け落ちた写真”ってやつ、見せてもらえる?」


 御影さんが、さりげなく尋ねる。


「いいっすよ」


 男は、あっけらかんと画面をこちらに向けた。


 タブレットの中には、サムネイルがぎっしり並んでいた。


 高架下の路地。店の看板。ぼやけた人物。白飛びした一角。


 一枚だけ、異様に真っ白な写真があった。周囲の輪郭だけがかろうじて残り、中央がまるごと消しゴムで消されたみたいに抜けている。


「……」


 その隣に並んでいる別のサムネイルが、相馬さんの目を引いた。


 警察用の黄色いテープ。散らばった何か。遠巻きに集まる人々。フラッシュの光に照らされた、濡れたアスファルト。


 一瞬で、局の空気が変わった気がした。


「それ」


 相馬さんの声が、低く出る。


「そのデータ、どこで拾った」


 いつもの柔らかい調子と違っていた。私は思わず、彼の横顔を見上げる。


 情報屋の男は、肩をすくめて笑った。


「まあまあ、こっちも商売なんで」


「聞いてるのは、“商売の種”の出どころだ」


 相馬さんの目は笑っていない。


「警察の案件の写真が、どうしてあんたのタブレットなんかに入ってる」


「さあて」


 男は、視線をふっと逸らした。


「世の中、“消したつもりで消えてないデータ”って、意外と多いもんですよ。河川敷で拾ったUSBかもしれないし、誰かのゴミ箱かもしれないし」


 曖昧な笑い。


 隣で、真島さんが一歩前に出かけたところで、路地の反対側から足音が近づいてきた。


「おーおー、物騒な話してるね」


 七瀬さんだった。


 彼は、状況を一瞥すると、情報屋の肩を軽く叩いた。


「悪いけど、うちの客人、あんまり怖がらせないでくれる?」


「いやいや、怖がらせてるつもりは」


「“事故物件”だの“人が消える写真”だの、火がつきすぎると面倒なんだよ」


 笑っているのに、声だけが冷たい。


「ウチの通り、変な噂で値崩れさせようって魂胆なら、そりゃ筋が通ってない」


 情報屋は、肩をすくめて見せた。


「筋にはうるさいですねえ、相変わらず」


「そういう商売だからね」


 七瀬さんは、男の視線を受け止めたまま、わずかに笑った。


「とりあえず、あんたの持ってるデータは、今日のところはこの場で終わり。話のネタにするのは勝手だけど、“事故物件扱い”にする線越えたら、こっちも考える」


「怖い怖い」


 情報屋は、冗談めかして両手を上げる。


「じゃ、今日はこの辺で。あとはプロの方々にお任せしますよ」


 そう言って、タブレットを抱えたまま、路地の奥に消えていった。


 去っていく背中を見送りながら、七瀬さんは、さっきまでより真面目な顔つきになっていた。


「……今の、誰?」


 私が小声で尋ねると、代わりに答えたのは相馬さんだった。


「“どこにも属さない”って言い張るやつほど、どこかの色がつきやすい」


 彼は、自分の掌をじっと見つめるようにして言う。


「ああいう連中がばらまく“噂”に、何回現場を振り回されたか」


「さっきの写真」


 御影さんが、相馬さんの方を見る。


「見覚えがありそうだったけど」


「……昔の案件と、構図が少し似てただけです」


 相馬さんは、短く切るように言った。


「今は関係ない話ですよ」


 それ以上、彼は何も言わなかった。


 けれど、その沈黙の重さだけが、あたりの高架の柱に染み込んでいくようだった。



 夜の帳が落ち始めると、高架下のネオンが一斉に灯った。


 頭上を通る電車の光。柱に貼られた色あせたポスター。路地の奥から漏れてくるカラオケの音。


 私は、交差する路地の真ん中に立った。


 四方向から伸びる道。その真ん中に、白いラインが十字に引かれている。高架の梁が、その上にさらに“上の線”を作る。電線の束は、そのまた上を斜めに横切っていた。


「――ライン」


 思わず、口の中で呟く。


 この通りには、いくつもの“線”がある。


 道路の白線。区画図のライン。高架の梁。縄張りの境界線。警察の管轄と、七瀬さんの“シマ”のライン。


 そして、そのどれにも、まだ私は足をかけていない。


「灯子。そこから、こっちとあっち、両方入るように撮ってみて」


 御影さんが、少し離れた場所から声をかけた。


「はい」


 私は、高架の柱と、路地の白線と、看板の列が一枚に収まるようにアングルを探す。


 ファインダーの中に、電車の光が走る予感がした。


 シャッターを切る。


 液晶には、高架下の交差点が映し出される。四方向からの光が、白いラインの上で交わっていた。


「……よし」


 御影さんが頷く。


「ラインを記録した。あとは、人の“ライン”だね」


 彼の言葉と入れ替わるように、路地の端から二つの影がこちらに近づいてきた。


 七瀬さんと、相馬さんだった。二人は、交差点の白線の上を、まっすぐこちらに向かって歩いてくる。


 私は、思わずその足元にレンズを向けた。


 黒い革靴。少し擦れた革靴。二種類の靴底が、同じ白い線の上を踏んでいく。


 上から俯瞰で撮ったら、きっと一本の線上に、二人の足が並んで見えるだろう。


 それぞれ違う場所から来て、違う行き先を持ちながら、一瞬だけ同じラインに重なっている。


「で?」


 七瀬さんは、白線の交差点で立ち止まった。


「“妙なモン”のせいって感じ?」


「今のところは、噂が独り歩きしてる域を出ていません」


 御影さんが答える。


「ただし、写真は少し変です」


 私は、さっき撮った写真を見せた。


 高架の柱。ネオンの光。白線の上を歩く二人。


 よく見れば、七瀬さんと相馬さんの輪郭が、ほんのわずかに滲んでいる。ピントは合っているはずなのに、どこか、画面の中から抜け出ようとしているみたいだ。


「俺の顔が怖すぎて、カメラが拒否ってるとかじゃなく?」


 七瀬さんが、冗談めかして笑う。


「そういうのは、補正しようがあります」


「ありがと」


「ただ、“ここの通り”だけ、全体的に焦点が定まりきってない感じはあります」


 私は、言葉を選びながら言った。


「真っ白にもならないし、完全に普通でもない。何かを写そうとして、何かに遠慮してるみたいな」


「遠慮、ね」


 七瀬さんは、白線の上をつま先で軽く踏んだ。


「この通りはさ。再開発の話が出るたびに、“線引き”されてきた場所なんだよ」


 彼は、高架の梁を見上げる。


「“ここからこっちが危険区域”“ここからあっちは再開発候補地”ってな。線を引く連中は、いつだって、その向こう側の人間の面倒なんか見ちゃくれない」


 白線の上に、彼の声が落ちる。


「ウチから見りゃ、この通りは、ここで酒飲んで、ここで寝て、ここで喧嘩して、ここで笑ってきた連中のもんだ。それを、“線”一本で全部まとめて消されちゃ、たまんない」


「だから、噂の話に敏感になってる、と」


 御影さんが静かに言う。


「商売を潰されたくない、ってのもあるけどさ」


 七瀬さんは、視線を横に流した。


「一回“事故物件”の烙印押されると、そこにいた連中のことまで、“無かったこと”にされる。……そういうのは、勘弁してほしいんだよ」


 その言葉に、私は昨日の高架下と、濡れた名簿を思い出した。


 名前だけのリスト。チェックマーク。どこかへ回されて消えた記録。


「だからと言って」


 相馬さんが、白線の上で足を止めた。


「“ウチの通りを守るためなら、何してもいい”って話にはならない」


 七瀬さんは、じっと彼を見る。


「もちろん。ウチだって、好き勝手やってるわけじゃない」


 彼は、自分の胸元を軽く叩いた。


「ウチの通りを守るためなら、場合によっちゃ証拠ごと呑み込む。それが、こっちの筋だ」


 空気が、少しだけ冷える。


「そこに、“事故物件扱い”したい連中が紛れ込んできてるなら、そりゃ排除する。でも、それと“全部表に晒して、誰か一人を血祭りにあげる”のとは違うだろ」


 彼の視線が、私と御影さん、それから相馬さんを順番になぞる。


「あんたらは“残す側”だろ」


 七瀬さんは、言葉を続けた。


「残すことで誰かを救うこともあるだろうし、逆に誰かの首を絞めることもある。……全部残していいもんじゃない。ここら一帯が一回まっさらにされた方が、楽になる人間もいるんだよ」


 その言い方は、脅しでも開き直りでもなかった。ただの事実として、淡々としているのが余計に重かった。


「そうやって“楽”を選んだ結果が、どうなったか」


 相馬さんは、短く息を吐いた。


「俺は、よく知ってる」


 七瀬さんの目が、そこだけ鋭く光る。


「……そうかい」


 それ以上、彼は何も聞かなかった。


 私には、二人の間に交わされている「何か」が分からない。ただ、高架の梁の陰で、目に見えないラインが一本引かれたような気がした。


 警察と、裏社会と、幻灯局。


 それぞれの立場で、守ろうとしているものと、見ないふりをしようとしているものが違う。そのズレの上に、今、私たちは立っている。



 結局、その夜の調査で、決定的な“何か”は見つからなかった。


 噂の写真は、どれも奇妙ではあるけれど、“明らかな怪異”とは言い切れない。情報屋の存在も、“線の向こう側”にいる誰かの影を匂わせるだけにとどまる。


 局としての報告書には、「現時点で、異常な現象を断定できる材料は見当たらず。しかし、意図的に噂を拡散している人物の存在が疑われる」とだけ書かれるだろう。


 写真は、幻灯局のサーバーに保存される。高架下のラインも、路地の白線も、交差点を歩く二人の足元も。


 私は、自分のカメラの再生ボタンを押した。


 モニターの中で、白線の上を歩く七瀬さんと相馬さんが、一瞬だけ同じラインを踏んでいる。その背後で、ネオンと高架の梁と電線が、いくつもの“線”を重ねていた。


 写真は、ちゃんと残っている。


 ただ、その中の“どこまで”を言葉にするかは、まだ決められない。


「今回の件」


 帰り際、高架下の交差点の端で、御影さんが言った。


「報告書は上げるけど、外には出さない。少なくとも今は」


「はい」


 私は頷く。


「七瀬さんにも、“妙なモンのせいじゃなさそうだ”ってだけ伝える。噂の出どころについては、“誰かが商売でやってる”って匂わせる程度」


「それで、いいんですか」


「今夜の材料だけで、“誰か”を名指ししても、多分、誰も得しない」


 御影さんは、肩をすくめた。


「こういう案件は、線を一本引いておくくらいがちょうどいいんだよ。“ここから先は、何かあるかもしれない”っていう線をね」


 私は、白線の上につま先を置いた。


 線のこちら側と、向こう側。その境目を、写真に撮ることはできる。でも、その先に踏み込むかどうかは、また別の問題だ。


「……分かりました」


 私は、カメラを肩にかけ直した。



 高架下の路地を抜けると、少し開けた交差点に出た。


 その先の通りを、黒い車が一台、ゆっくりと走っていく。テールランプの赤い光が、遠ざかるにつれて細くなっていく。


 私は、なんとなくその光を目で追っていた。


 赤い光が消えた先。高架の向こう側には、暗い空き地がある。そこが、かつて相馬さんが担当した“ある事件現場”だということを、私はまだ知らない。


 ただ、ほんの一瞬だけ、赤い光の残像の上に、別のフラッシュの白い光が重なって見えた気がした。


 ――気のせいだろう。


 私は、そう自分に言い聞かせる。


 ふと、頭上を路面電車が通り過ぎた。高架の梁に沿って、金属のラインが夜空を横切る。その振動が、地面から足の裏へ伝わってくる。


 駅のホームまで戻ると、さっきまでの高架下の匂いが、少しだけ薄まった。


 電車を待つ人たちは、今日一日の仕事を終えて、ぼんやりとホームのラインの内側に立っている。黄色い点字ブロックが、その足元にもう一本の線を引いていた。


 私は、線路の向こうに広がる帝都の夜景を眺める。


 この街には、数えきれないほどの“ライン”がある。


 誰かが引いた線。誰かを守るための線。誰かを排除するための線。見える線と、見えない線。


 その上を、電車が走っていく。人が歩いていく。噂が流れていく。


 私は、カメラを胸に抱えながら思う。


 ――どのラインを写して、どのラインを写さないか。


 その選び方次第で、“この街は誰のものか”という問いの形も、きっと少しずつ変わっていくのだろう。


 ホームに電車が滑り込んでくる。車体のラインが、ホームの白線と重なった。


 ドアが開く音を聞きながら、私は一歩、線の内側へ足を踏み出した。


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