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帝都幻灯局 ― 失われた街を撮る者たち ―  作者: 灯坂 フィルム


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第14話「喫茶二階、締切前夜」

 花さんの喫茶店の窓ガラスには、雨粒の跡がまだ残っていた。


 さっきまで降っていた小雨はもう上がって、路面電車通りのアスファルトは、街灯の光をじわじわと吸い上げている。大きなガラスの向こうを、ちょうど一本、電車が通り過ぎた。窓の手前には店の看板の文字、奥には走り去る車体の光跡。それが路面の水たまりに、ぼやけた二重の線になって伸びていく。


 カウンターの中では、花さんがグラスを拭いていた。あたたかい照明に照らされた横顔は、いつも通りで、昨日見た川沿いの高架下よりもずっと柔らかい。


「灯子ちゃん、二階、あったかくしといたからね」


 ふと、目が合うと、彼女はタオルを肩にかけたまま言った。


「はい。ありがとうございます」


 私はカウンターに置いてもらったコーヒーを両手で包み込んだ。ほっとするような苦味が、鼻の奥に広がる。


 喫茶店の一階は、いつもの常連たちで賑わっていた。


 仕事帰りらしいスーツ姿の人。新聞を広げて、コーヒーを片手に時間を稼いでいる人。商店街のパン屋さんのご主人は、「今日も余ったから」と袋をひとつ花さんに渡していた。


「これ、明日の朝にでも食べてよ」


「ありがとう。じゃあ、こっちはお返しのプリンね」


 そんな会話が、カウンター越しに行き交う。テレビはついていない。代わりに、小さくジャズが流れている。


 昨日歩いた川沿いの、高架下の静けさを思い出す。あそこでは、誰かの生活の残りかすだけが、ひそやかに音を立てていた。ここには、まだ目の前で言葉を交わす人たちがいる。


 この差を、どうやって一枚の写真に、一本の記事に落とし込めばいいのか。


 そんなことをぼんやり考えていたら、ドアのベルがけたたましく鳴った。


「やってるやってる?」


 肩からノートパソコンの入ったバッグを下げ、紙袋を片手に提げた九条さんが、ずかずかと入ってきた。いつも通りのヨレたシャツに、今日は締め切り前だからか、ネクタイだけがやけにきちんと結ばれている。


「いらっしゃい」


 花さんは、笑いながらも一瞥して言う。


「また“転がり込む”顔してるわね」


「正解です。締切前夜の亡者が一名、ご厄介になりにきました」


 九条さんは、カウンターに紙袋を置いた。


「差し入れ。編集部でもらったサンドイッチの余り」


「そういうの先に言いなさいよ」


 花さんの表情が、ぱっと明るくなる。


「二階、使っていい?」


「もちろん。灯子ちゃんと御影さん、もう上にいるわよ」


 花さんは、階段の方を顎で示した。


「はい、さっき来ました」


 私はコーヒーを持ち上げる。


「資料、ありがとうございます」


「いやあ、こっちこそ。あんなの見ちゃったら、書かずにはいられないでしょ」


 九条さんは、少しだけ冗談めかした声でそう言う。けれど、その目の下のクマは、笑っていなかった。



 二階は、小さなフロアだ。


 一階ほど天井は高くなくて、窓も少ない。その代わり、低いテーブルがひとつと、壁にそって並んだ本棚と、ちょっとしたソファがある。どこか友だちの家の居間のような空間だ。


 テーブルの上には、すでに紙が広がっていた。


 川沿い高架下で撮った写真のプリント。古い都市計画図、防災マップ、最新の再開発図。それから、例の濡れた名簿の写真。


 その真ん中に、私のカメラと、御影さんのノートパソコン。


「お邪魔しまーす」


 九条さんが階段を上がってくるやいなや、テーブル横のクッションに、どさっと腰を下ろした。


「うわ、もう本格的に編集会議じゃないですか」


「そういう名目にした方が、九条くんも真面目に話を聞いてくれるかなと」


 御影さんは、パソコンから顔を上げずに軽く笑った。その横には、彼がさっき淹れてもらったらしいコーヒーが湯気を立てている。


「で、進捗は?」


 九条さんは、自分のノートPCを開きながら、少しうんざりしたように言った。


「進捗……という名の迷走ですね」


 画面には、途中まで書かれた記事の原稿が映っていた。タイトルはまだ仮のまま。本文には、「川沿い高架下」「簡易宿泊所」「再開発計画図」といった単語が並んでいる。


「名簿のことは?」


 御影さんが尋ねる。


「そこなんですよねえ」


 九条さんは、頭をかく。


「名簿の存在に触れただけで、編集長の眉間にシワが寄る顔が目に浮かぶ。“証拠はあるのか”“誰の責任で保管されてるのか”“本当にそこにあったのか”。こっちとしては“そこに落ちてました”としか言えない」


「事実だけ書けばいい、って話じゃないんですか?」


 私がそう口を挟むと、彼は苦い顔をした。


「事実だけ書いても、一番消されるのは“紙面”なんですよね」


 ぽつりと出た声は、さっき一階で聞いた冗談よりもずっと低かった。


「“再開発計画から消されたドヤ街”なんて見出しにしたら、間違いなく誰かが怒る。で、怒った側の電話一本で、新聞社の上の方と上の方の上の方が相談して、“これはなかったことにしよう”ってなる」


 彼は自分の胸を指でつついた。


「そういう時に一番先に切られるのは、書いた本人と、その記事なんですよ。名簿でも図面でもない」


「……嫌ですね、それ」


 思わず言葉が口をついた。


「嫌ですよ。だからといって書かなきゃ、それはそれで、あの高架下は最初から“空き地”だったことになる」


 九条さんは、目を閉じて天井を仰いだ。


「どこまで公にするか。その線引きで、今、締切前に胃がキリキリしてるわけです」


 階段を上がる足音がした。


「胃薬もってきた方がいい?」


 顔を出したのは、トレイを抱えた花さんだった。コーヒーのカップ数個と、小さなサンドイッチの皿が乗っている。


「うわ、花さん女神」


「はいはい。大げさ言ってもサンドイッチの量は増えないからね」


 トレイをテーブルに置きながら、花さんは一人ひとりにカップを配った。


「さっき一階でも言ったけどさ」


 彼女は、ソファの背にもたれながら言う。


「もし私がテレビつけてて、今の話みたいなニュースが流れてきたら……たぶん、ちょっとしんどくなってチャンネル変えちゃうかも」


 九条さんの眉がぴくりと動く。


「うわ、ストレート」


「だって、そうでしょ?」


 花さんは、肩をすくめた。


「仕事でクタクタになって帰ってきて、ごはん食べながら見てるテレビで、“再開発で消されるドヤ街”って、重くない?」


「……まあ、重いですね」


 私も、つい頷いてしまう。仕事帰りのスーツの人たちの顔が、頭に浮かんだ。


「だからといって、知らなくていいとも思ってないけどね」


 花さんは、テーブルに視線を落とす。


「ただ、見た瞬間に全部自分で抱え込まなきゃいけない気がするニュースって、しんどいのよ。私みたいな一般人には」


 九条さんは、しばらく黙っていた。


 イラっとしているようにも見えたし、何かを飲み込もうとしているようにも見えた。


「……じゃあ、どういうのなら、チャンネル変えずに見てくれます?」


 ようやく絞り出した声は、少しだけ拗ねていた。


「うーん」


 花さんは、真面目な顔で考える。


「翌日も仕事に行けるくらいの重さ、かな」


「翌日も、仕事に行けるくらい」


「そう。見終わって、“ああ、やだなあ”ってなるんじゃなくて、“なんか引っかかるな”くらいで寝られるやつ。でも、忘れたつもりで寝て、翌日になっても、どこか頭の片隅でチクチクする感じ」


 花さんは、自分の胸を指先で軽くつついた。


「そういう記事とかニュースなら、たぶん私もチャンネル変えないと思う」


 九条さんは、何度か瞬きをした。


 その言葉を、頭の中で反芻しているようだった。


「“翌日も仕事に行けるくらいの重さ”か……」


 彼は、ノートPCの画面に視線を戻す。


「なるほど。そういう“ライン”か」


 御影さんが、静かに口を開いた。


「君はいつも、“誰も知らないことを暴きたい”って言うけど」


「言いますね」


「それと同じくらい、“読んだ人が翌日も生きていけるようにする”っていうのも、書き手の仕事なんじゃないかな。……と、テレビをあまり見ない派の人間は思うわけだ」


「御影さん、さらっと名言みたいなこと言わないでくださいよ」


 九条さんは、苦笑しつつも、その目は少し柔らかくなっていた。



「写真、見ます?」


 私は、自分のノートPCの画面に切り替えながら言った。


「昨日撮った分です」


 川沿いの高架下。簡易宿泊所の列。濡れた名簿。川面に映る高架と建物の影。


 いくつかの写真をモニターに並べると、部屋の空気が少しだけ冷えた気がした。


「……やっぱり、絵になるなあ」


 九条さんが、ぽつりと言う。


「見出しとキャプションさえつければ、そのまま紙面に載せられる」


「問題は、その“キャプション”ですね」


 私は、自分の指を画面に近づけた。


「この一枚を、“何もない川沿いの風景”として載せることもできます」


 川面に高架が映っている写真を指さす。


「“再開発予定地の川沿い、今はひっそり”みたいな感じで」


「うんうん」


「でも、“消された名簿のあった場所”として載せることもできる」


 同じ写真に、別の言葉を乗せる。


「“再開発図から消された列。その足元には、濡れて滲んだ名簿があった”とか」


 自分で言いながら、その差がどれくらい重いのか、うまく測りきれなかった。


「写真そのものは、同じです」


 私は続ける。


「でも、読み手の頭の中に浮かぶ“見えない部分”は、きっと違ってくる」


「キャプションの一行で、読者の視線の行き先を決めてしまう、ってことか」


 九条さんは、腕を組んだ。


「そう考えると、文章ってやっぱり怖いな」


「カメラも、だいぶ怖いですよ」


 私は苦笑する。


「何を入れて、何を入れないかを、毎回どこかで決めてるので」


 御影さんは、画面から目を離さずに言った。


「記事にするにしろ、しないにしろ。君たちは、すでに“選んで”いる」


 その声は淡々としていたが、その裏にある重みを、私は少しだけ感じる。


「……記事にしないで、このまま局の記録だけにする手もあるよ」


 御影さんは、コーヒーを一口飲んでから、そう付け足した。


 部屋の空気が、ぴたりと止まる。


「どういう意味ですか?」


 九条さんの声には、はっきりとした反発が混ざっていた。


「名簿も、現場の写真も、図面も。全部、幻灯局のアーカイブに入れておく。十年後か五十年後か、誰かがこの街の変化を調べる時に、必要になるかもしれない」


 御影さんは、テーブルの上の写真を指先で整えながら言う。


「でも、“今、記事として誰かに投げる”ことはしない。そういう選択肢もある、という意味」


「それじゃ、誰も知らないままじゃないですか」


 九条さんの声が、少し大きくなった。


「図面を書き換えてる人たちにとっては好都合ですよ。“あそこは最初から空き地だった”って顔していられる」


「そうだね」


 御影さんは、あっさりと認めた。


「だから、どちらが正しいとか、間違ってるとかを今ここで決めるつもりはない。ただ、“幻灯局の記録”っていうのは、そういうブラックボックスでもある」


「ブラックボックス?」


「誰がいつ開けるか分からない箱。開けられないまま、どこかの棚の奥で眠り続けるかもしれない。けれど、少なくとも、中には何かが入っている」


 私は、その言葉を聞きながら、局の書庫の棚を思い浮かべた。


 分厚いファイルと、まだ数の少ないデジタルアーカイブ。そこには、きっといつか開けられることを期待している箱と、二度と誰にも触れられない箱が、同じような顔をして並んでいる。


「記事は?」


 花さんが、静かに口を開いた。


「記事は、箱じゃないの?」


「記事は……そうですね」


 九条さんは、少し考えてから答えた。


「箱というより、紙飛行機に近いかもしれない」


「紙飛行機?」


 私が思わず聞き返す。


「一枚の紙に言葉を書いて、折って、誰かのいる方角に向かって飛ばす。届くかどうかは分からないし、雨が降ったら溶けるし、風が強ければ曲がって飛んでいく」


 彼は、自分のノートPCのキーボードを軽く叩いた。


「でも、誰か一人のところにでも届いて、その人の頭の片隅に刺さってくれたら、それで十分かもしれない」


 花さんは、ふっと笑った。


「紙飛行機か。うちの店で折ったら、ソーダ水のグラスに着水しそうね」


「それはそれで絵になるなあ」


 重たかった空気が、少しだけ軽くなる。


「じゃあ、幻灯局の記録は、何なんでしょう」


 私は、おそるおそる尋ねた。


「冷凍庫、かな」


 御影さんは、即答した。


「今すぐ食べない料理を、材料ごと、形ごと残しておく場所。調理されていないから、そのままだと誰の口にも入らない。でも、誰かがちゃんと解凍して、下ごしらえして、火を通せば、“料理”になる可能性はある」


「解凍するのは、いつの誰かも分からない、と」


「そう」


 御影さんは、小さく頷いた。


「どちらが良い悪いではなくて、紙飛行機と冷凍庫は、役割が違うだけだよ」


 私は、自分のカメラを見下ろした。


 紙飛行機と冷凍庫。その両方に、写真は使われる。


 幻灯局の記録にするための一枚。記事に添えるための一枚。


 どこまでを写して、どこまでを写さないか。その決め方次第で、誰かの明日が少しだけ変わるかもしれない。



「……よし」


 沈黙のあとで、九条さんが息を吐いた。


「名簿のことは、ぼかします」


 彼は、自分に言い聞かせるように言葉を続ける。


「“名簿がどこそこに落ちていた”とか、“何人分の名前が”とか、そういう具体的なことは書かない。ただ、“再開発図から消された列がある”ことと、“そこに、確かに人が住んでいた”ことだけは、残す」


 彼は、ノートPCのカーソルを少し戻し、何行かの文章を削った。


「柔らかめのルポにします。今の段階では、それが限界かな」


「いいんじゃない?」


 花さんが、頷く。


「さっき言った“チャンネル変えないライン”にも、なんとなく収まりそう」


「“なんとなく”が一番難しいんですけどね」


 九条さんは、自嘲気味に笑った。


「でも、まあ。紙飛行機を折ると決めたなら、ちゃんと飛ぶ形にしないと」


 その時、花さんはふと、「あ、そうだ」と言って立ち上がった。


「ちょっと待ってて」


 そう言って、一階に降りていく足音が聞こえる。


 しばらくして戻ってきたとき、彼女の手には、使い込まれたノートが一冊握られていた。表紙は角が丸くなり、コーヒーのシミのようなものがついている。


「何ですか、それ」


 九条さんが興味津々で身を乗り出す。


「うちの“公式台帳”」


 花さんは、テーブルの上にノートを広げた。


 中のページには、細かい文字がびっしり書かれていた。


 常連客の名前。その横に「砂糖なし」「ミルク多め」「アイスコーヒーは氷少なめ」なんてメモ。さらに、「ピーナッツアレルギー」「辛いもの苦手」「来月誕生日」などの走り書き。


「すごい……」


 私は思わず声を漏らした。


「こんなに」


「一応、ちゃんと許可取ってるからね。“覚えきれないから書かせてー”って」


 花さんは、照れくさそうに笑う。


「うちには、公式の会員カードとか台帳とか、何もないけどさ。このノートに書いてある人たちは、“ここに来た”ってことにしてる」


 彼女は、ページのひとつを指でなぞる。


「誰かがここに座って、何を飲んで、どんな顔で帰っていったか。全部覚えてるわけじゃないけど、このメモさえあれば、“たしかにここにいた”って思えるのよ、私」


 私は、川沿いの名簿の写真を思い出した。


 滲んだ名前と、チェックマークだけが並んだ紙。あれも、きっと管理人さんにとっては、“ここにいた人たち”の証だったのだろう。


「このノート、撮らせてもらってもいいですか」


 気づけば、私はそう口にしていた。


「え? こんなの撮ってどうするの」


「名簿の写真と、一緒に置きたいんです」


 私は、カメラを取り出しながら言う。


「川沿いの名簿と、ここに来た人たちのノート。どっちも“公式”じゃないけど、確かに誰かの手で書かれた記録ですから」


 花さんは、一瞬きょとんとしたあと、「なんか、こそばゆいね」と言って笑った。


「いいよ。変なところだけは写さないでね」


「変なところ?」


「“失恋したら甘いもの倍増”とか書いてあるページ」


 そう言いながらも、彼女はノートをテーブルの中央にそっと置き直した。


 私は、ノートのページと、その隣に置いた名簿の写真のプリントを、一緒のフレームに収める。


 ペンで書かれた名前の列。小さなメモ書き。チェックマーク。紙の擦り切れた端。


 シャッターを切る。


 カメラの中で、川沿いの冷たい紙と、喫茶店のあたたかい紙が、ひとつの写真に重なった。


「記録って、たぶんこういうのも全部まとめて」


 ファインダーから目を離しながら、私はゆっくりと言葉を選んだ。


「いつか誰かが“帝都”って呼ぶんだと思います」


 花さんは、少しだけ目を丸くしてから、「かっこいいこと言うねえ」と笑った。


「九条さんの記事も、御影さんのファイルも、花さんのノートも。ぜんぶ合わせて、この街の“記録”なんだろうなって」


「じゃあ、灯子ちゃんの写真も、ね」


 花さんは、コーヒーカップを持ち上げてみせた。


「そうだよ」


 御影さんは、あいかわらず淡々とした声で言う。


「君が撮ってくれないと、俺たちの言葉は宙ぶらりんになる」


 九条さんは、自分のノートPCの画面を見つめながら、小さく笑った。


「じゃあ、そろそろ紙飛行機、折り上げますか」



 夜更け。


 一階のシャッターは、半分ほど降りていた。ガラス戸の下に、銀色の帯がすべり落ちている。その向こう側では、まだ数人の常連が名残惜しそうに話している声が聞こえた。


 二階の小さな窓からは、まだ灯りが漏れている。


 外の通りを、一本の路面電車が通り過ぎた。車体そのものは窓から見えなくても、ライトの光だけが、窓ガラスを横切っていく。雨上がりの路面には、喫茶店の看板と、その光の筋が、一緒に映り込んでいた。


 私は、二階の窓際に立って、その光景を眺めていた。


「どう?」


 背後から、九条さんの声がする。


「きれいです」


 私は、カメラを構える。


 半分閉まったシャッター。喫茶店の看板。二階の灯り。路面電車の光跡。濡れたアスファルトの反射。


 シャッターを押すと、カメラの中に、今日一日の会話の名残りまで一緒に封じ込められたような気がした。


 振り向くと、テーブルの上に置かれたノートPCの画面が目に入る。


 九条さんが書き上げた記事のタイトルが、そこにあった。細かい文字までは読めないけれど、「川沿い」と「列」という文字だけが、ぼんやりと視界に入る。


 九条さんは、送信ボタンにカーソルを合わせたまま、指を止めていた。


「まだ迷ってるんですか」


 私は聞いた。


「迷ってますよ、そりゃあ」


 彼は、苦笑した。


「この一回で世界が変わるわけじゃないのに、“押すか押さないか”でこんなに迷うのも、バカみたいだなって」


「押さなかったら?」


「押さなかったら……たぶん、今日ここで話したことは、うちのノートと、幻灯局のファイルと、花さんのノートの中にだけ残る」


 彼は、短く息を吸い込んだ。


「押したら?」


「押したら」


 九条さんは、窓の外を一度見た。


 もう電車の姿はなく、光の跡だけが、まだアスファルトの上でぼやけている。


「押したら、どこかの誰かが、明日の朝の電車の中で、あるいは仕事の休憩時間に、この紙飛行機を拾うかもしれない」


 彼は、自分の指先を見つめた。


「その人が、チャンネルを変えずに読んでくれるかどうかは、分からないけど」


 私の胸の中に、花さんの言葉がよみがえる。


 ――翌日も仕事に行けるくらいの重さ。でも、どこか引っかかって忘れられない記事。


「……押しましょう」


 自分でも驚くくらい自然に、そう口にしていた。


「幻灯局の冷凍庫には、もう入れましたから。あとは、紙飛行機の番だと思います」


 九条さんは、目を瞬かせたあと、「ですね」と小さく笑った。


 そして、送信ボタンをクリックした。


 画面に「送信中」の表示が一瞬だけ現れ、すぐに消える。


 何も変わっていないようでいて、何かが、確かにひとつ終わった。


 階段の下から、花さんの声がした。


「そろそろ閉めるよー。終電逃したら、床貸さないからねー」


「はいはい、今行きます」


 九条さんが返事をし、ノートPCを閉じる。


 私は、もう一度だけ窓の外を見た。


 喫茶店の看板の灯りは、まだついている。シャッターは半分降りたまま。二階の灯りが、通りに少しだけ漏れている。


 この店には、花さんのノートがある。常連たちの些細な好みと、ささやかな日常が、こっそりと書き留められている。


 幻灯局には、今日撮った写真と、名簿の記憶が残る。


 そして、今飛ばされたばかりの紙飛行機が、どこかの誰かの頭上に、静かに降りていくかもしれない。


 この街は誰のものか。


 その答えは、まだうまく言葉にならないけれど。


 たぶん、今ここでコーヒーを飲んでいる人たちと、川沿いで名前を失いかけている人たちと、そのどちらのことも話そうとしている人たちの間で、少しずつ形を変えながら、決まっていくのだろう。


 私はカメラを肩にかけ直し、階段を下りる。


 店のドアを開けると、ひんやりした夜気が頬を撫でた。遠くで、路面電車の走行音が、またひとつ、帝都の夜を横切っていく音がした。


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