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帝都幻灯局 ― 失われた街を撮る者たち ―  作者: 灯坂 フィルム


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第12話「シャッターの向こうの商店街」

 雨の日の幻灯局は、音から埋まっていく。


 窓ガラスを叩く細かい雨粒の音。ビルの壁を伝って落ちる水の筋。路面電車が水たまりをはねて通り過ぎる、ぴしゃりという音。コピー機の低い唸りと、湯沸かしポットのかちりとしたスイッチの音が、その上に薄く重なっていた。


 私は、昨日まとめた坂の上の神社のファイルを、棚の端に押し込んでから戻ってくる。机の上には、濡れた傘立てから持ってきたハンドタオルと、少しだけ冷めた紅茶。


 日付印の赤い跡がいくつも並ぶ書類に、御影さんがスタンプを押していた。


「よく降りますね」


 何気なく言うと、御影さんはスタンプをポンと置き、窓の外をちらりと見る。


「雨の日は、街の輪郭がにじむ」


「写真を撮るには、悪くない日です」


「うん。こっちの仕事的にも、悪くない」


 意味ありげなような、ただの相槌のような。


 そんな会話をしていると、局の固定電話が鳴った。


 黒い受話器が、音に合わせて小さく揺れる。


「はい、帝都幻灯局……」


 御影さんが受話器をとり、「はい」「ええ」と短く相槌を打っていく。その横顔を眺めながら、私はマグカップを手に取った。


 数分後。受話器がカチリと戻される。


「今度は“公式”じゃなくて、“個人的なお願い”だそうだ」


「個人的?」


「区役所経由……なはずなんだけどね。本来は」


 御影さんは、受話器の横に置いていたメモ用紙にボールペンを走らせた。


「帝都◯◯商店街。アーケードの雑貨屋の店主さん。若い女性。名前は……西条。西条葵さん」


 漢字を一文字ずつ書いていく。


「“うちの商店街、ずっと前にシャッターが閉まったはずの店が、雨の日だけ開いてることになってる”ってさ」


「……どういうことですか?」


 思わず聞き返す。


「商店街の公式サイトと、地図アプリ上だと、噂の店が“営業中”扱いになる時間帯がある。今日みたいな雨の日に限ってね」


 そう言って、御影さんは自分のスマートフォンを取り出し、何度か画面をタップした。


「ほら」


 机の向こうから差し出された画面を、私はのぞき込む。


 シンプルな地図アプリの画面。帝都の路面電車の路線図のすぐそばに、「◯◯商店街」の名称が表示される。その中に、小さなカメラのアイコン。


 《星野写真館 営業中 〜19:00》


 モノクロのカメラマークが、雨粒の形をした小さなスタンプに囲まれていた。「雨の日サービス実施店」のアイコンだろう。


「……でも、その写真館って」


「十年前にシャッター下りたまま、だそうだ」


 御影さんはスマートフォンをスリープにし、机にコトンと置いた。


「商店街の公式サイトでも、雨の日セールのページだけ、その店の名前が残っている。“雨の日クーポン”を配っていた元祖だとか」


「雨の日限定のサービスが、そのままデータのどこかに残ってる……」


 私は、窓の外の雨に視線を移す。


「それで、その店主さんが、ここに?」


「正式な依頼書類にするほどでもないし、役所に回すと面倒だから、“一度、見に来てもらえませんか”って。幻灯局の噂、耳にしてたらしい」


「噂、便利ですね」


「便利な時と、便利じゃない時がある」


 御影さんは立ち上がり、ハンガーから自分のコートを取った。


「今日は午後から、雨脚は強いけど雷はない。アーケードの屋根もあるし、撮影にはちょうどいい」


 私の視線が、自然と窓の下の路面電車の線路に向かう。


 雨の日のアーケード。半分シャッターの閉じた商店街。濡れた路面に映るネオン。


 ――たしかに、写真で見てみたい景色だ。


「行きます」


 私は、自分のコートとカメラバッグを掴んだ。



 駅前の電停で降りると、目の前に古いアーケードの入口が口を開けていた。


 鉄骨の枠に、透明なポリカーボネートの屋根。昔はきっとガラスだったのだろう。その名残りのように、ところどころ曇った板が混ざっている。


 入口の上には、「◯◯商店街」と書かれた、少し色あせた看板。看板の端には、小さな字で「雨の日も楽しいお買い物」と添えられていた。


 アーケードの中は、薄暗かった。


 天井の蛍光灯が、一本おきにしか点いていない。連なった光のラインが、遠くの方へと消えていく。軒先から延びるネオン看板が、ところどころで色を差していた。


 シャッターが半分以上降りている。昔ながらの肉屋、文房具店、靴屋。白いスチールシャッターに、手書きの「貸店舗」の紙が貼られている店も多い。


 その合間に、リニューアルされた小さなカフェや雑貨店が点々と並んでいる。ガラス張りの店内には、木の棚と、センスの良い雑貨たち。コーヒーの匂いと、焼き菓子の甘い香りが、雨の湿気と混ざっていた。


 屋根を叩く雨の音が、低く響いている。ビニールの波板ごしに見える空は、まだ灰色のまま。


 私は、濡れた路面をフレームに収めながら歩いた。


 足元の水たまりに、ネオンの文字がゆらゆらと映っている。「半額セール」「本日サービスデー」。閉じたシャッターに取り残されたポスターの文字も、反射の中ではまだ鮮やかだ。


 シャッターの列の中に、ひとつだけ、古いレリーフ看板が残っている店があった。


 カメラの形をした木のレリーフ。色はほとんど褪せているが、円形のレンズや蛇腹の部分がかすかに浮き出ている。看板の下には、かろうじて「星野写真館」と読める文字。


 そこが、問題の店だと、すぐに分かった。


「星野写真館……」


 私が小声でつぶやくと、その隣の店のガラスドアがカラランと鳴った。


「あ、もしかして――幻灯局さん?」


 顔を出したのは、エプロン姿の女性だった。二十代後半くらいだろうか。髪をひとつに結び、胸には「SAIJO」の名札。


「西条さん?」


「はい、西条です。わざわざ、こんな雨の中……。どうぞ、中で少しお話ししませんか?」


 彼女の店は、小さな雑貨屋だった。アーケードの中でも新しい方で、木の棚に、手作り風のアクセサリーや、レトロな柄のマグカップが並んでいる。


 奥の方には、ドライフラワーを吊るしたスペースがあって、雨の日でも少し明るい匂いがした。


 私たちは、カウンターの横の小さなテーブルに案内された。


「さっき電話した、西条葵です。……その、変なお願いでごめんなさい」


「いえ。“変なお願い”は、うちの標準装備みたいなものなので」


 御影さんが、椅子に腰を下ろしながら淡々と言う。


 西条さんは、ホッとしたように笑ってから、タブレット端末を取り出した。


「商店街のサイト、見てもらった方が早いかもしれません」


 画面には、「◯◯商店街」の公式ホームページが表示されている。「雨の日セール」のページには、参加店舗の一覧。傘のアイコンとともに、「西条雑貨店」「◯◯青果店」などの名前が並んでいた。


 その中に、ひとつ、見覚えのある名があった。


「星野写真館」


 タップすると、店舗情報のページに飛ぶ。


《星野写真館》

《営業時間 10:00〜19:00》

《定休日 不定休》

《雨の日サービス:スタジオ撮影料金20%OFF》


 住所欄には、きちんとこのアーケードの地番が書かれている。


「でも、実際には」


「十年前から、ずっとあのままです」


 西条さんが、アーケードの向こう側に目をやる。


「私が子どもの頃は、まだやってました。七五三の写真とか、ここで撮ってもらって。雨の日に行くと、ちょっとだけ安くしてくれるんです」


「雨の日限定サービス、ですか」


「当時から、うちの商店街って、晴れの日より雨の日の方が人が多いくらいで。駅から濡れずにここまで来られるから。だから、雨の日セールなんてものをやり始めて、その中心が星野さんでした」


 彼女は、少し懐かしそうに笑った。


「で、その星野さんのお店が、十年前に閉まって。それからも、“雨の日の看板”だけは消えないんです」


「“消えない”?」


「商店街の公式ページだけじゃなくて、地図アプリとか、うちの『雨の日セール版マップ』とか。誰が更新してるのかも、もうよく分からないんですけど」


 彼女は、カウンターの下から、折りたたまれた紙を取り出した。


 商店街のマップだった。「雨の日セール版」と印刷されていて、雨粒のイラストが散りばめられている。アーケードの中の店舗が、色付きで塗られている。その一角に、小さなカメラのアイコンと「星野写真館」の名前。


「これ、いつの版ですか?」


「三年くらい前だと思います。でも、その前のも、その前のも、ほとんど同じレイアウトで……。星野さんのお店だけ、ずっと“営業中”扱いなんです」


 彼女は、申し訳なさそうに言葉を付け足した。


「正直、ちょっと羨ましいというか。うちだって頑張ってるのに、“昔のお店”の名前がずっと残ってるの、どうなのかなって。……それで、一度ちゃんと調べてもらえたらと思って」


「“残り方”を、ね」


 御影さんは、マップを手に取り、じっと眺める。


「“閉めているのに、開いていることになっている店”。うちの領分かどうか、微妙なラインだね」


「すみません、場違いな相談だったら」


「いや」


 御影さんは、即答した。


「“どこのどんな店があったか”っていう記録は、街の骨格の一部だ。更新の時に落ちるなら、それも含めて撮っておく価値はある」


 彼は、マップをそっと私の方に押しやった。


「……雨のアーケードの撮れ高も、悪くないだろう?」


 そう言われて、私の胸のあたりが少しだけ軽くなる。


「撮らせてもらいます」


 私は頷き、カメラバッグのファスナーを開けた。



 アーケードの中を、もう一度歩く。


 さっきよりも雨脚が強くなったのか、屋根を叩く音が濃くなっていた。蛍光灯が自動で点き始め、通路に白い光の帯が伸びる。


 私は、天井のラインとシャッターの列を、斜めにフレームに収める。濡れた路面に映る光が、二重のアーケードを作っていた。


 星野写真館の前で立ち止まる。


 シャッターは、完全に降りている。灰色の鋼板には、古いポスターの剥がし跡が無数に残っていた。端の方に、小さな文字で「◯◯写真コンテスト開催中」とかすれた印字が読み取れる。


 レリーフ看板のカメラの形だけが、どこか立体的に浮かんでいる。雨に濡れた路面に、その影が細く伸びていた。


 私は、シャッターの前に立ち、少し距離をとってカメラを構えた。


 シャッターとその上の看板。その左右に並ぶ、他の店のシャッター。一本だけついている蛍光灯の光が、レリーフのレンズ部分に反射していた。


 シャッターの下には、小さなガラス窓が一枚だけ残っている。その奥は、真っ暗で、中は見えない。


 私は、フォーカスをシャッターに合わせたり、レリーフに合わせたりしながら、数枚シャッターを切った。


 その時――


 アーケードの照明が、ふ、と一瞬だけ揺らいだ。


 天井の蛍光灯が一拍遅れてチカリと光り、雨音がその瞬間だけ遠のいたように感じる。


 私は、反射的に連写ボタンを押した。


 カシャ、カシャ、と短い間隔でシャッターが切れていく。


 閉ざされたシャッター。レリーフ看板。濡れた路面。その全てが、連続した絵としてメモリーカードの中に積み重なっていく。


 数秒後、照明は何事もなかったかのように安定し、雨音も元の強さに戻った。


 私は、息を吐き、カメラを下ろす。


 背後から、御影さんの声がした。


「中、覗けそうか?」


「うーん……」


 シャッターの下の小窓に、顔を寄せてみる。曇ったガラス越しに、かろうじて差し込む蛍光灯の反射が見えるだけで、内部は真っ黒だった。


「肉眼だと、ほとんど何も」


「じゃあ、撮ったものを後で見よう」


 御影さんは、そう言って、自分のタブレットを取り出した。


「理事長室、見てくる。古いマップやポスターが山になってるらしいから」


「分かりました」


 御影さんはアーケードの奥に消え、私はその場に残った。


 シャッターに雨粒が跳ねる音と、遠くの方で鳴る八百屋の呼び込みの声。たまにアーケードを通り抜ける通行人の足音。


 その全てが、閉ざされた写真館の前を通り過ぎていく。


 ――この店の中には、今、何が残っているんだろう。


 スタジオの背景紙。照明のスタンド。ポートレート用の椅子。星野さんと呼ばれていた人の使い込んだカメラ。


 それとも、もう何もなくて、空っぽのコンクリートの箱だけが残っているのか。


 私の視線は、自然とカメラの液晶へと落ちた。


 さっきの連写の中身を確認したくなる衝動を、少しだけこらえる。


 ――あとで、まとめて。局に戻ってから。


 そう思っていると、背後から声をかけられた。


「お嬢ちゃん、星野さんのとこ、撮ってくれてるのかい?」


 振り返ると、アーケードのベンチに座っていたおじいさんが、こちらを見ていた。手にはビニール傘。足元には、小さな買い物袋。


「いえ、その……記録の仕事で、少し」


「いいねえ。あそこは“雨の日の店”だったからなあ」


 おじいさんは、懐かしそうに天井を見上げた。


「雨の日でも“閉めない店”。星野の親父さん、そう自分で言ってたよ。“晴れの日はよそでも撮れる。雨の日の顔こそ、うちの出番だ”ってな」


 聞きながら、そのフレーズが胸のどこかに引っかかった。


 ――雨の日でも閉めない店。


 シャッターは、今、完全に閉まっている。でも、データの中では、雨の日だけ「営業中」になっている。


 現実と情報が、逆転している。


 おじいさんは、笑いながら続けた。


「雨の日には、ここで写真撮って、そのままアーケードぐるっと回って、おやつ食って帰るのが楽しみでなあ。……いつの間にか、シャッター降りちまったけど」


 彼は、少しだけ寂しそうに言った。


「けど、不思議なもんで、雨の日になると、ここを通るたびに、“まだ開いてる”ような気がするんだ」



 商店街の理事長室は、アーケードの真ん中あたり、二階の一角にあった。


 西条さんに案内されて階段を上がると、ドアの向こうに、紙と埃の匂いが濃く漂ってきた。


 古いポスター、チラシ、帳簿。段ボール箱が床に積み上げられ、その上にさらに紙袋が乗せられている。壁には、「◯◯商店街創立○周年記念」の写真が黄ばんだまま飾られていた。


 理事長と呼ばれる中年の男性が、眼鏡を額に上げながら出迎えてくれた。


「いやあ、こんなところまでわざわざ……。幻灯局さんって、もっとこう、幽霊だの何だのを相手にしてるのかと思ってたら、うちみたいな地味な話でもいいんですか」


「幽霊が出るかどうかは、撮ってみないと分からないもので」


 御影さんが、肩をすくめる。


「今日は、“雨の日セール”の記録の方がメインです」


「はは、それならいくらでも出てきますよ」


 理事長さんは、段ボール箱のひとつを蹴り出すように机の上にのせ、ガサガサと中身をかき回した。


 その中から、色あせたポスターがいくつも出てくる。


 「雨の日サービス実施中!」「雨の日に傘をさして来てくれたお客様に、特典あり!」


 文字の横に、小さなカメラのイラストと、「星野写真館」の文字が必ずと言っていいほど入っていた。


「星野さんはねえ、とにかく“雨の日の顔”にこだわってたから」


 理事長さんは、一本のポスターを広げて見せてくれた。


 中央に、大きなカメラのイラスト。その下に、「雨の日限定! 星野写真館スタジオ撮影20%OFF アーケード全店で使える“雨の日クーポン”発行中」の文字。


 ポスターの端には、小さな注意書きがあった。


《※雨の日サービス対象日は、◯◯商店街雨の日セール企画会議の定める「雨の日」とします》


「ここに書いてある“企画会議”っていうのが、実質星野さんだったわけです」


 理事長さんは、指先でその部分をトントンと叩いた。


「どの日を“雨の日”扱いにするか、どうやって知ってもらうか。あの人、自分で商店街のサイト立ち上げて、ニュースレターも作って……。データのことも、好きでやってたから」


「なるほど」


 御影さんは、ポスターやチラシを一枚一枚、スマートフォンで撮っていく。私は、その様子を横から撮影した。黄ばんだ紙と、新しいタブレットの画面。過去と現在の情報媒体が、机の上で並んでいる。


 理事長さんは、古いパソコンの電源を入れながら続けた。


「十年前に奥さんが倒れちゃってね。それで店をたたんで、子どもさんのいる郊外の方へ引っ越したんだけど……。データ関係のことは、“誰かに渡すより、そのままにしておいてくれ”って言って出て行っちゃったんだよな」


「“そのままに”?」


「“雨の日セールの仕組みは、勝手に変えないでほしい”って。まあ、うちも詳しいことは分からないし、なあなあでここまで来てしまって」


 理事長さんは、申し訳なさそうに笑った。


 ――誰かが更新をサボった、というより、「変えないでおこう」と思った人がいた。


 その結果が、「雨の日だけ営業中の写真館」という、妙な現象として残っている。


 御影さんは、小さく頷いた。


「情報のインフラが、過去の意志を引きずり続けることはあります。便利な時もあるし、厄介な時もある」


「厄介な方ですかね、これは」


「……どちらとも言えません」


 御影さんは、ポスターをもう一度見下ろした。


「“雨の日に来た人を、ちゃんと迎えたい”という気持ち自体は、悪いものじゃない」


 私は、その言葉を聞きながら、自分のカメラを見下ろした。


 ――私が撮った写真も、誰かの「そのままにしておいてくれ」という気持ちと一緒に残ることがあるのだろうか。



 夕方近く、アーケードの照明が本格的に点き始めた頃。


 私は、ようやく我慢できずに、さっきの連写の結果を確認することにした。


 星野写真館のシャッターを撮った連続カット。


 一枚目。蛍光灯の光が少し暗く、シャッターの上半分に影が落ちている。レリーフ看板の輪郭がぼんやりと浮かぶ。


 二枚目。蛍光灯が明るくなり、シャッター全体が均一な灰色になっている。ガラス窓には、アーケードの蛍光灯のラインがかすかに映り込んでいる。


 三枚目。


 ――そこで、私は指を止めた。


 シャッターの下の小さなガラス窓。その奥に、うっすらと白いものが浮かんでいた。


 スタジオの背景紙だろうか。奥へと引かれた白いロール紙のようなもの。その手前に、椅子のような輪郭。クラシックな肘掛け椅子のシルエット。


 そして、その椅子の横に、ぼんやりと立つ人影。


 顔も服も、輪郭も曖昧で、光のにじみのようにも見える。でも、何度見ても、「人がいる」としか思えない形だった。


 私は息を詰め、画面を拡大した。


 見間違いかもしれない。シャッターの凹凸と、蛍光灯の反射と、外を歩く人の影。それらが偶然重なって、そう見えているだけかもしれない。


 でも――


「何か、写ってた?」


 背後から、御影さんの声。


 私は少し迷ってから、カメラを彼に向けた。


「……こういうのを、“写ってしまった”って言うんでしょうか」


 御影さんは、画面をじっと見た。拡大して、左右にスクロールし、もう一度全体表示に戻す。


「ふうん」


 短い相槌。


 彼の表情からは、驚きとも怖れともつかないものが、読み取れなかった。


「どう見えますか」


「スタジオセットと、人みたいなもの」


 あっさりとした答え。


「“昔ながらの写真館”という記号にはなっている。幽霊かどうかは、分からない」


「……この写真、どう扱うべきでしょう」


 思わず、少し真面目な声になった。


「商店街の人たちに見せたら、きっと喜び半分、怖がり半分になると思います。これをもとに“幽霊写真館”なんて噂になったら、それはそれで違う気もして」


「そうだな」


 御影さんは、アーケードの通路を一瞥した。


 シャッターの隙間から漏れる、他の店の明かり。雨の日の静けさ。遠くで響く、路面電車の走行音。


「うちは、“幽霊を売り込む”仕事じゃない」


 彼は、静かに言う。


「“ここにどんな店があったか”を残す仕事だ。この写真も、その文脈で使うべきだろう」


「文脈……」


「たとえば、商店街の歴史コーナーに、古い広告と一緒に展示してもらう。『雨の日に撮られた、閉店後の星野写真館』として」


 御影さんは、理事長室で撮ったポスターの写真を思い出すように、少し遠くを見た。


「“雨の日に来た人を迎える店”として、この街にあったこと。その記憶を支える証拠としてなら、悪くない」


「幽霊写真だって言わずに見せれば、ただの“懐かしい写真”に見えるかもしれませんね」


「見る人がそれぞれ勝手に、ちょっとだけ“写っている気のするもの”を感じ取る。それくらいの余白がいい」


 私は、画面をもう一度見た。


 白い背景紙。椅子。人影のようなもの。


 たしかに、「決定的な怪異」として突きつけるには、曖昧すぎる。それがかえって、星野写真館の「雨の日の顔」を、静かに立ち上がらせている気もした。


「……この写真、商店街の皆さんに見せていいですか」


「もちろん」


 御影さんは頷いた。


「その上で、“営業中店舗”かどうかの線引きは、あっちにしてもらえばいい。うちは、“ここに確かに店があった”という証拠を、差し出すだけだ」



 それからの時間は、少し慌ただしく過ぎた。


 理事長室に戻り、ポスターやチラシと一緒に、連写した中の一枚を見てもらう。


 「うわあ、懐かしい」「本当に中、こんな感じだった」「なんか……いるよね、これ」と、商店街の人たちが口々に言う。


 怖がる人もいたけれど、それ以上に、「まだここにあるんだな」という安堵のようなものが空気に満ちていた。


 話し合いの結果、商店街の公式サイトとマップからは、「星野写真館」を“営業中店舗”としては外すことになった。


 代わりに、サイトの端に「かつて雨の日を照らした写真館」という小さな紹介欄を作る案が出る。商店街の歴史コーナーを作り、そこに昔の広告やポスターと一緒に、私の撮った写真を飾る計画も立った。


 西条さんは、少し複雑そうな顔をしながらも、「それなら、私も納得できます」と笑った。


「“今の店”の頑張りをちゃんと見せたいから。……でも、こうやってちゃんと残るなら、きっと星野さんも喜ぶと思います」


 アーケードの中で、皆がスマートフォンやパソコンの画面を見ながら、サイトの構成や文言を決めていく。古いポスターをスキャンする音。キーボードを叩く音。雨音と混ざり合って、奇妙に心地よいざわめきを作っていた。


 私は、その様子を数枚写真に収めた。


 今の商店街の人たちの顔。星野写真館のレリーフ看板。黄ばんだポスター。そして、その全てをつなぐディスプレイの光。



 幻灯局に戻る頃には、雨は小降りになっていた。


 アーケードの出口で振り返ると、屋根を叩く音も弱まり、蛍光灯のラインが、湿った空気の中にぼんやりと浮かんでいる。


 足元の水たまりに、ネオン看板とシャッターが一緒に映り込んでいた。


 「営業中」と書かれた立て看板。隣の店のものだ。その文字と、星野写真館の閉ざされたシャッターが、水の中で並んでいる。


 現実の世界では、看板とシャッターは数メートル離れているのに、反射の中では、ほとんど肩を並べていた。


 私は、その光景をフレームに入れた。


 水たまりの中の「営業中」の文字。その横に、閉ざされたシャッター。上から落ちる雨粒が、水面に輪を広げるたび、二つの像が揺れて重なったり、離れたりする。


 シャッターは閉まっている。でも、完全に消えてしまったわけではない。水の中や、紙の中や、画面の中で、まだ少しだけ灯りを残している。


 シャッターを切りながら、私は小さく呟いた。


「閉まっていても、灯りが消えない店って……ありますよね」


 隣で傘を閉じていた御影さんが、聞こえたのか聞こえなかったのか、曖昧な顔でこちらを見た。


「そういう店のことを、“街の記憶”と呼ぶのかもしれない」


 彼は、そう言って、アーケードの出口から外の路面電車の線路を見やった。


 雨上がりの線路の上を、一台の電車が静かに通り過ぎていく。その音が、商店街の奥まで届いては、ゆっくりと消えていった。


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