第11話「坂の上の小さな社」
午前中の局は、コピー機の音と、湯気の薄い匂いでできている。
古いビルの一階、半分地下みたいな事務室。窓の外には、路面電車の線路が斜めに覗いている。
私は、昨日の「灯りの消えない川端」のファイルを閉じて、輪ゴムで留めた。川沿いの写真と、交通局の報告書。その上にペンを置いたまま、伸びをする。
蛍光灯の白い光が、紙の上でぺたりと停滞していた。
「ひとつ片づいたと思ったら、もう次だ」
机の向こうで、御影さんがぼそっと言った。
振り向くと、局宛ての茶封筒を指先でつまみ上げている。封筒の端には、区役所の赤いスタンプ。
「……また役所案件ですか」
「そう。“困るけど、大ごとにはしたくない”シリーズだ」
御影さんは、ハサミで封を切り、中身を取り出した。
A4の書類が数枚。最初の一枚だけ、役所らしい定型の文章で埋まっている。
「ええと……“当区における神社の所在地表示について”」
私は、つい声に出して読んでいた。
「“住民から、『坂の上の小さな神社の住所が、ここ数年で少しずつ違って表記されているように思う』との問い合わせが複数寄せられており……”」
「住所が違って表記されてる、ねえ」
御影さんは、ふっと笑った。
「“神社が動いてる気がする”とは書かないあたり、役所の文書だな」
「……つまり、そういうことなんでしょうか」
私は書類の続きに目を走らせる。
古い住宅地図のコピー。十年前の防災マップ。最新のデジタル地図をプリントアウトしたもの。それぞれに、ボールペンで小さく丸が書き込まれている。
「ほら」
御影さんが、三枚の紙を並べて見せた。
一番古い住宅地図では、坂のてっぺん、三丁目の角地に丸がついていた。
十年前の防災マップでは、その丸が、四丁目との境界線ぎりぎりの位置に移動している。
最新の地図では、いつの間にか、二丁目側に食い込むように印が記されていた。
「……本当に、ちょっとずつ場所がズレてません?」
「“住所上は”、な」
御影さんは椅子の背にもたれ、天井を見上げる。
「神社の建物そのものが歩いて行ったとは思えないし」
「じゃあ、地図の方が動いてる?」
「地図を書き換える誰かがいるか、“土地の扱い”が変わったんだろうね」
さらっと言われて、私は紙の上の線を指でなぞった。
町丁名を区切る境界線。細いグレーの線が、くねくねと住宅街の間を走っている。よく見ると、古い地図の方には、鉛筆で何度も消し跡と書き直しの跡が重なっていた。
「誰かが消して、また書いて、を繰り返した形跡ですね」
「うん。人間の手癖って、こういうところに残りやすい」
御影さんは、その線の上をボールペンで軽くトントンと叩いた。
「ま、座って見てても埒が明かない。行ってみようか」
「坂の上の神社まで、ですか」
「坂を登るのは嫌いか?」
「……好きとは言えないですけど」
思わず本音が出て、御影さんが少し笑う。
「でも、“坂の多い住宅街と小さな神社”って絵面は、帝都ぽくていいと思うけどね」
そう言われてみれば、たしかに、どこかで見たようなアニメの背景みたいな光景が頭に浮かぶ。
私はカメラバッグに手を伸ばした。
「了解です。坂の撮れ高、稼いできます」
◇
区役所から教えられた最寄りの電停で降りると、目の前に、すでに緩やかな坂が始まっていた。
舗装された道路。左右には、二階建てや三階建ての住宅がぎっしりと並んでいる。オレンジ色の屋根瓦。ベランダに干された洗濯物。門扉の脇の植木鉢。
遠くから、さっき乗ってきた路面電車の音がまだ聞こえていた。線路は、すぐ近くの高架を渡っているらしい。頭上を横切る電車の影が、ビルの隙間からちらりと見える。
「ここからが本番だ」
御影さんが、案内図を折りたたみながら言う。
「神社は、あの高架をくぐって、さらに二本ぐらい坂を折り返した先」
私は、カメラを首から提げた。
坂を登り始める。
最初は、まだ余裕があった。緩い勾配、車もたまにしか通らない。道端で、幼稚園に行く途中らしい子どもと母親が、手をつないで歩いている。
「ちゃんと信号見て渡るのよー」「はーい」
そんな会話が、背中越しに聞こえた。
途中、古い木造の長屋が一棟だけ残っている一角があった。土壁を塗り直した跡と、狭い路地にまであふれ出した植木鉢。物干し竿に、使い込まれたタオルやシャツが並んでいる。
向かい側には、真新しい建売住宅が四軒ほど、同じ顔で並んでいた。白い外壁。規格品のポスト。駐車スペースには、まだ客の来ていないモデルハウスの旗だけが揺れている。
「……世代交代中って感じですね」
「そうだな。街が入れ替わるときってのは、こういうチグハグな景色がいちばん出る」
御影さんは、長屋と建売住宅の境界を見比べるように眺めていた。
「古い側は、生活の高さが全部外に出ている。新しい側は、外から見えないように閉じようとする」
「どちらにも、洗濯物はあるんですけどね」
「洗濯物は生活の旗だからね。どこでも必ず立つ」
そんなことを言いながら、私たちはさらに坂を登る。
道は次第に細くなり、車一台通るのがやっと、という幅になった。左右から、住宅の塀や壁が迫ってくる。
ふと見上げると、頭上すれすれのところを、路面電車の高架が横切っていた。鉄の桁とコンクリートの梁。その上を、ちょうど一台の電車がガタンと通り過ぎる。
電車の車輪の音が、硬い空気を震わせた。
私は、思わずカメラを構えた。
ローアングルで、狭い坂道の両側に住宅の塀と鉢植え。その上に、赤い鳥居の上端だけが少し見えている。さらにその上を、路面電車の高架が横切っている。
石段の頂上に、小さな社の屋根。その背後には、遠くのビル群。
シャッターを切る。
写真の中で、帝都の層が縦に重なった。
「こうして見ると、本当に隙間に挟まってる感じですね」
「都市計画の隙間埋めパーツ、みたいなもんだな」
御影さんが、鳥居の前まで歩きながら言う。
坂をいくつも折り返し、ようやく、神社の石段の下までたどり着いた。
赤い鳥居は、思っていたよりも小さかった。くぐるとき、頭を軽く下げないといけないくらいの高さだ。
石段は、十段かそこら。決して大きな神社ではない。けれど、両側を住宅にぎっしり挟まれているせいで、その短い石段が、やけに急な斜面に見えた。
社殿の片側ぎりぎりまで、新しい三階建ての住宅が迫っている。窓の向こうに、ちょうど夕飯の準備をしているらしい人影がちらっと見えた。換気扇のフードと、室外機と、物干し竿とが、社の屋根すれすれのところまで迫り出している。
反対側には、まだ取り壊されていない古い木造家屋が一軒だけ残っていた。瓦屋根。雨戸。玄関の前には、年季の入った植木鉢がいくつも並んでいる。
「押し出される前の最後の一本って感じだね」
「杭……みたいな」
私は、小さく呟いた。
「変わり続ける町割りの中で、ここだけ昔から刺さってる杭」
「悪くない比喩だ」
御影さんは、石段の下から社殿を見上げた。
「問題は、その杭の“属する土地”が、書類の上でグラグラしていることだ」
私は、石段を登りながら、カメラを構えた。
一段ずつ登るたびに、視界が変わっていく。足元の坂道。左右の塀。頭上をかすめる路面電車の高架。その向こうに広がる、屋根と屋根の波。
途中で立ち止まり、坂道と社殿と住宅街が重なる構図を探す。
石段の中ほどから下を見下ろすと、さっき通ってきた細い坂道が、蛇のように折れ曲がっているのが見えた。そこを、買い物帰りの主婦が自転車を押して通っていく。小学生の男の子がランドセルを揺らして駆けていく。
彼らの日常の動線の、そのちょうど上に、この小さな社がぶら下がっている。
シャッターを切る。
◇
社殿の前に着くと、鳥居の見た目通り、こじんまりとした空間が広がっていた。
石畳。小さな拝殿。鈴。お賽銭箱。隅には、手入れの行き届いた鉢植えと、小さな石像が並んでいる。
神主らしい人物の気配はない。
代わりに、境内の隅の掃き掃除をしていた年配の女性が、こちらに気づいて顔を上げた。
「まあ、珍しいわね。若い人」
ほうきを持ったまま、笑い皺を寄せる。
「こんにちは。役所の方から、神社のことでお話を伺いに来ました」
御影さんが軽く頭を下げると、女性は「ああ、あれね」と頷いた。
「住所がどうのってやつでしょう? なんだか最近、紙の上でこの神様、あっちこっち移動させられてて」
軽口のように言いながらも、どこか呆れたような響きが混じっていた。
「元々、この神社は……」
「昔はね、こっち側が“町内会の境”だったのよ」
女性は、社殿の裏手に回り込みながら話し始めた。
「この石段の真ん中までが三丁目で、向こう側が二丁目。四丁目とは、あそこの路地の向こう側で区切られてた。それが、区画整理だか何だかで、何回か線を引き直したのよ」
指さす先には、住宅の間を抜ける細い路地や、開発途上の更地が見えた。
「合併したり、名前変えたり。“こっちの方が数字が揃って見栄えがいい”とか、そういう理由でね」
女性は、ほうきを立てかけ、社務所代わりの小さなプレハブに私たちを案内した。
中には、折りたたみテーブルとパイプ椅子。それから、段ボール箱がいくつか積んである。そのうちのひとつを開けると、中から写真立てやアルバムが出てきた。
「祭りのときの写真なら、いっぱいあるわよ。ほら」
女性は、テーブルの上に、年代ごとの祭りの集合写真を並べていった。
昭和の終わり頃の、よれたカラー写真。平成初期の、少し色味の落ちたプリント。最近の、スマホで撮ったような鮮やかな写真。
どの写真にも、社殿と石段が中央に写っている。
けれど、その下の方――階段の下に広がる家並みや看板が、写真ごとに微妙に違っていた。
古い写真には、木造の長屋と、手書き看板の小さな商店。「たばこ」「駄菓子」の文字。
少し新しい写真では、その駄菓子屋の場所に、小さなコンビニが写っている。さらにその次の写真では、コンビニもなくなり、銀色のシャッターが降りたままの空き店舗になっていた。
最近の写真では、その空き店舗の部分に、三階建ての真新しい住宅が立っている。
家並みの変化だけではない。写真の下に書かれた町内会名も、少しずつ変わっていた。
「第三町内会」「第三・四合同」「第二〜第四合同」「○○地区連合」……。
「前はこの神社、こっち側の町会の神様ってことになってたのよ」
女性は、古い写真を指さした。
「でも、合併だなんだって言ってるうちに、“じゃあ、こっちとあっちで一緒にやりましょう”ってなって。そのうち、“どこの町の神様か”なんて、誰もちゃんと意識しなくなっちゃった」
彼女は、少し肩をすくめる。
「この神社ね、“どこの町の神様にもなれるように”って、昔から扱いが曖昧だったのよ。だから、線が動くたびに、所属も一緒に動かされてるのかもねえ」
「……地図の上の線だけが先に動いて、あとから“神様の所属”が追いかけてる、みたいな」
私が口を挟むと、女性は「そうそう」と笑った。
「前なんて、市から来た紙に、“二丁目○番地・三丁目○番地・四丁目○番地所在の○○神社”って、全部書いてあったんだから」
「ひとつの神社に、住所が三つ」
「そうそう。欲張りでしょう?」
女性は、愉快そうに目を細めた。
私は、並べられた写真を、年代順に撮っていくことにした。
上から俯瞰するように、テーブルの上をフレームに収める。古い写真ほど色が落ち、最近の写真ほど色が濃い。社殿だけは、ほとんど変わっていない。その周囲だけが、別の町内のものに少しずつ入れ替わっている。
シャッターを切るたび、「時間」が、写真の中で少しずつズレていく感覚があった。
「……ほんとに、神社だけが杭みたいですね」
思わず口から出た言葉に、自分で苦笑する。
「杭?」
「変わり続ける町割りの中で、ここだけが動かないで刺さってる、っていうか」
「ああ」
御影さんが、頷いた。
「でも、杭も、打ってる手によっては、少しずつ角度を変えさせられる」
彼は、役所から来た古い住宅地図のコピーを取り出した。
地図の端には、鉛筆で何度も線が書き直されている。三丁目と四丁目の境界線。線を消した跡が灰色の帯になり、その上から別の線が引かれている。そのさらに上から、ボールペンで太くなぞり直された部分もあった。
「誰がこんなに線をいじったんだろうね」
御影さんは、誰にともなく呟いた。
区役所の担当者。町内会の代表。都市計画の部署。あるいは、もっと別の、名前の出ない誰か。
線そのものは、ただの鉛筆とインクでできている。それを動かした意志だけが、紙の上に残っている。
「……名前、出てきませんね」
私は、地図の余白を指でなぞりながら言った。
「“境界線調整”って言葉はあるけど、その裏に誰がいたかまでは、分からない」
「そういうもんだよ」
御影さんは、地図を畳みながら言った。
「“町内会/区/市/都”っていうラベルの向こう側に、人間やら別の何かやら、いろんな事情が折り重なってる。それを一枚一枚剥がしていくのは、たぶんうちの仕事じゃない」
「うちの仕事は、“線がこれだけ動いた”って記録を残すこと、ですか」
「そういうこと」
御影さんは、祭りの写真と地図とを一緒に私に渡した。
「社殿の写真も、何枚か撮っておいてくれ。坂の下の家並みごと、ね」
◇
境内を出る頃には、少し日が傾き始めていた。
石段を降りる前に、一度振り返る。
小さな社殿。その横を、三階建て住宅の外壁が押しつぶすように迫っている。その隙間には、人ひとりやっと通れるかどうかの幅しかない。
軒と軒の間に、うすい青空が挟まれていた。
私は、その「圧迫感」ごとフレームに入れた。
社と住宅の隙間。塀の上の鉢植え。エアコンの室外機。電線。遠くのビルの角。
境界線ぎりぎりの世界が、画面の中で固まる。
シャッターを押しながら、少しだけ迷いがあった。
――この神社を、「動かされている杭」として撮るのか。
――それとも、「どこの町の神様にもなれるように」と受け止めている人たちの柔らかさごと撮るのか。
写真は、見る人によって意味が変わる。
住所がズレていることを、行政のミスや不備として告発する材料にもできるだろうし、「帝都らしい曖昧さ」として面白がることもできる。
私たちの写真は、どちらの手にも渡りうる。
そこまで考えてしまって、指先が一瞬、止まった。
「迷うか」
背中から、御影さんの声がした。
振り向くと、石段の途中で立ち止まり、私の手元を見ている。
「こういう時、どう撮るべきかってことですか」
「“どう撮るか”というより、“どう残すか”だな」
御影さんは、ゆっくりと石段を降りてきた。
「住所が揺れていること自体は事実だ。それを写真と地図で残す。それ以上の解釈は、行政の仕事でもあるし、住民の感情の領分でもある」
「じゃあ、私たちは――」
「“この神社は、長い間ここにあって、周りの方がぐるぐる変わってますよ”ってことだけ、きちんと写しておけばいい」
彼は、淡々とした口調で言った。
「“どこの町の神様にもなれるように”っていう、おばあさんの冗談も含めてね」
私は、少し息を吐いた。
そうだ。この神社を、「誰かの失敗の証拠」としてだけ切り取る必要はない。
誰かの調整や事情によって線が動いてきた歴史も、そこで暮らし続けている人たちの祭りや生活も、全部ひっくるめて「この場所」に重なっている。
その重なりを、そのまま写す。
それが、私にできることだ。
もう一度、カメラを構えた。
今度は、石段の途中から社殿越しに、帝都の街並みを見下ろす構図を探す。
社殿の屋根の向こうに、重なり合う屋根と屋根。そのさらに向こうに、ビル群。よく目を凝らすと、さっき頭上をかすめた路面電車の高架が、斜めに走っているのが見える。その下を、小さな電車が一両、ゆっくりと進んでいく。
さらに遠く、薄く光る帯が一本。
川だ。
帝都を貫く川のきらめきが、建物の隙間から細く覗いている。
小さな神社の境内から見える、帝都の層。
私は、その全部をフレームに収めて、シャッターを切った。
◇
坂を降りる頃には、夕方の斜め光が屋根をオレンジ色に染めていた。
洗濯物が、光を受けて白く輝いている。学校帰りの子どもたちが、自転車のベルを鳴らしながら坂を駆けていく。商店のシャッターが半分だけ開き、店主が商品を並べ始めている。
この街の誰も、神社の住所が二丁目だの三丁目だのといったことを、いちいち気にしているようには見えない。
そのゆるさと、紙の上の線の神経質さ。その両方が、帝都の輪郭をつくっている。
局に戻ったら、今日撮った写真と、古い地図と、祭りの写真のコピーを一つのファイルにまとめることになるだろう。
ファイルの背には、「坂上神社所在地整理」とでも書くのだろうか。
その背表紙を、誰かがいつか引き抜いて見るかどうかは、分からない。
それでも――
坂の上の小さな社が、地図の上でどれだけ書き換えられてきたか。その間も、町の人たちが祭りをして、洗濯物を干して、坂を登り降りしてきたこと。
その両方を、一緒に残しておけるのなら。
今日の写真には、きっと意味がある。
私は、坂の下の電停に向かう足を少しだけ早めた。
頭上を、路面電車の影がもう一度、ゆっくりと横切っていく。
その影は、坂の上の小さな社の屋根も、遠くの川のきらめきも、一瞬だけ、まとめてなぞっていった。




