第10話「灯りの消えない川端」
交通局の封筒は、思っていたよりも分厚かった。
白い紙の角が少しよれていて、何度も誰かの手を経由してきたことが分かる。封を切ると、インクと古紙の匂いが、局の乾いた空気に混ざった。
御影さんが、中身をひっくり返す。
モノクロの新聞記事のコピー。泥水に浸かった線路の写真。手書きの赤い印がいくつもついた古い地図。そして、片隅に小さなコラムだけが切り抜かれた紙片。
「“川端線廃止 水害で橋脚流される”……」
私は見出しを声に出した。
記事には、今はもうない「川端線」という名前が、当たり前のように並んでいた。茶色く変色しかけた紙面の中で、そこだけが生々しい。
水位を示す棒の横で、長靴姿の作業員が肩を組んでいる写真。濁流に飲まれかけた橋の写真。
その下に、小さなコラムがあった。
本文より少し柔らかい書体で、こう書かれている。
――増水で橋が通行止めになった夜、対岸に渡れなかった人々のために、電停に屋台が出て、明け方まで灯りが消えなかった――。
その一文だけで、ページの色合いが変わった気がした。
「“灯りの消えない川端”……」
コラムのタイトルを、私は思わず読み上げる。
たぶん、当時の新聞記者が、ちょっと気の利いた話として添えたのだろう。水害被害の深刻さを少し和らげるために、夜通し灯り続けた屋台の話を。
「やっぱり、名前がついてたんですね」
「まあ、こういうのはすぐ“○○伝説”とか“××騒動”とか、ラベルが欲しくなるからね」
御影さんは、コラムを指先で軽く叩いた。
「“灯りの消えない川端”。いいじゃないか。ネーミングセンスとしては合格点だ」
「褒めるところ、そこですか」
思わず突っ込むと、御影さんは肩をすくめる。
「記事としては、たぶんこの程度の扱いだったんだろう。欄外の小話。けど、当事者には一晩中灯ってた灯りの方が、本編かもしれない」
その言い方が妙に引っかかって、私はコラムの文章をもう一度目で追った。
橋が通行止めになって帰れなくなった人たち。急ごしらえの屋台。湯気。明け方まで消えなかった灯り。
「待ち時間」と「残業時間」と「寄り道時間」が全部ごちゃまぜになったような夜。
――やがて路線ごと川にのまれ、地図から消えた。
最後の一文だけが、唐突に冷たい。
「……今も、そのあたりに屋台が出てるはずだ」
御影さんが、古い地図と、現在の交通局の路線図を並べて見比べながら言った。
「水害で橋脚を作り直して、堤防をかさ上げして。そのとき、川端線ごと整理された。けど、川沿いの屋台だけは、場所を変えながら残った」
「場所を変えながら、ですか」
「川は、簡単には消せないからな」
淡々とした口調だった。
「夜の顔は、夜に見た方が早い。……どうせなら、屋台のラーメンくらいは奢ってもらおう」
「誰にですか」
「交通局。……と言いたいところだが、そこまでの予算は振られちゃいない」
そう言って、御影さんは立ち上がる。
「今日の夜、川沿いに出るぞ。昨日の“幽霊電停”の位置と、この“灯りの消えない川端”が、本当に同じかどうかを確かめたい」
「夜ロケ、ですね」
「嫌か?」
「いえ。どうせなら、ちゃんと暗いときの顔も見ておきたいです」
本当のところを言えば、ほんの少しだけ、胸が高鳴っていた。
夜の川沿い。屋台。橋のライトアップ。
昼間の団地や住宅街とは違う帝都の顔が、そこにはあるはずだ。
◇
日が傾き始める頃、幻灯局を出た。
冷えた空気の中に、夕飯の支度の匂いと、どこかの店から漏れる油の匂いとが混ざっている。
路面電車の線路を辿り、川沿いの通りに出ると、空の色はすでに藍色に近かった。ビルとビルの隙間から覗く川面は、まだ完全には夜を引き受けきれていない。
それでも、川沿いの一角だけが、ひと足先に夜を始めていた。
赤ちょうちんの列。小さな提灯。屋台の中から漏れる黄色い光。道路脇に並んだ折りたたみ椅子。湯気と煙。
「おでん」「ラーメン」「焼き鳥」の文字が、手書きの紙に踊っている。
川面に、ちょうちんの赤がゆらゆらと映っていた。風が吹くたび、光の線がほどけては結び直される。
「……昼間とは、ぜんぜん違いますね」
「そりゃそうだ。昼の川端はただの物流ルートだ。夜になってようやく、人間の血が通い始める」
遠くで、路面電車の走る音が聞こえた。
規則的なレールのリズムが、屋台の雑多な喧騒の向こうから、かすかに届く。街のどこかで、まだ日常が続いていることを知らせる音。
「コラムにあった写真の屋台は……」
「たぶん、あの辺りだな」
御影さんが顎で示した先に、一軒の屋台があった。
赤いちょうちんに「中華そば」と書かれている。暖簾の端が少し擦り切れているのが、かえって年季を感じさせた。
屋台の背中側、板張りの壁に、何枚かの古い写真が画鋲で留めてある。
白黒の川沿い。昔の路面電車。丸い電停標識。湯気の向こうで笑っている人々。
「いらっしゃい、二人さん。寒いだろ、あったかいのにしな」
屋台の中から、腰の曲がった中年の主人が顔を出した。手ぬぐいを頭に巻き、エプロンにスープの染みをいくつも付けている。
「写真、見てったらどうだ。うちの自慢でね」
その言葉に甘えて、私はカウンターに一歩近づいた。
写真は、黄ばんでいた。
川端線がまだ現役だった頃のものらしい。今よりも水面に近い位置に線路が走っていて、そのすぐ横に電停のホームが見える。
丸い標識。そこに書かれた停留所名。ざっと「○○川端」と読めるが、文字の一部は白く飛んでしまっている。
ホームの前に、屋台が横付けされていた。
古いラーメン屋台。今のものより、少し幅が狭い。木のカウンターに、肩を寄せ合うようにして並ぶ人々が、湯気の向こうで笑っている。
写真の端には、川の向こう側に渡る橋の欄干が写っていた。増水で使えなかった、あの夜の橋だろうか。
「おじさん、この写真……」
「親父の親父の時代よ」
主人は、チャーシューを切りながら言った。
「ほら、新聞に出たろ。“灯りの消えない川端”って。あれの夜の写真さ」
「じゃあ、ここが、その……」
「そうそう。川端線の電停の一つ。名前、覚えてるか?」
主人は、私の顔を覗き込む。
「……すみません。読もうとしても、かすれてて」
「はは、そりゃそうだ。今はもう、うちの親父でも怪しいもんよ」
冗談めかしながらも、主人の声には、どこか名残惜しさが混じっているようだった。
「ただ、“橋の向こうに帰れなかった連中を一晩中食わせた電停”って話だけは、ずっと聞かされててさ」
主人は、レンゲを鍋の中で軽く泳がせる。
「増水で橋が通行止めになって、電車も途中までしか行けなくて。帰れなくなった人たちが、ここでラーメン食って、酒飲んで、夜明け待ったんだと」
「……明け方まで灯りが消えなかった」
「そう。だから、“灯りの消えない川端”」
新聞のコラムにあったフレーズと、主人の話が重なる。
「写真、撮ってもいいですか」
「おう。商売の邪魔にならん程度にな」
許可をもらって、私はカメラを構えた。
屋台の板張りの壁ごと、写真をフレームに収める。古い写真に写った屋台と電停、その手前の湯気。その上から、今の屋台の赤ちょうちんの光が斜めに差し込んでいる。
シャッターを切る。
カシャン。
液晶を確認すると、モノクロの写真の電停標識の部分だけ、少し白くぼやけていた。現物でもかすれているが、写真の方では、輪郭そのものが薄くなっている。
さっきまで鮮明だったはずの丸い輪っかが、霧の中に溶けかけているように見えた。
「……標識のところ、やっぱり薄くなりますね」
「お、写り悪いか?」
「いえ。多分、元からです。ただ……」
どう説明していいか迷っていると、主人は気にも留めない様子で笑った。
「ま、いいや。ちゃんとラーメンも撮っといてくれよ。今の方がうまいんだから」
「そうですね。屋台の今の姿も」
私は今度は、カウンターの端から川の方にレンズを向けた。
川面に映る赤ちょうちんの光。対岸のビル群のネオン。橋のライトアップ。少し離れたところでは、屋形船がゆっくりと岸に寄せられている。
水面は、ところどころ黒く沈んでいて、その間を光の帯が縫っている。
シャッターを何枚か切るうち、主人がふと、こんなことを口にした。
「たまにな」
「はい?」
「終電過ぎて、人もまばらになってからな。向こう側から、手を振ってる影が見えることがあるんだよ」
おでん鍋の蓋を少し持ち上げながら、主人はのおとぼけた調子で言った。
「橋を渡らずに、川の上をね」
私は思わず、川面を見た。
屋台が並んでいるこちら側と、対岸の街の間には、黒い水が広がっている。橋はあるが、その下を電車や車がくぐるたび、陰になって一部が見えなくなる。
「こんな感じの霧の晩にな」
主人は、店先から身を乗り出し、川の方を顎でさした。
「向こう岸の街灯が、霧でぼやけるだろ。あの中に、古い丸い電停の灯りみたいなもんがふっと浮かんでさ。その前で、誰かが手を振ってんの」
笑いながら、箸で麺をほぐす。
「だいたい酔っぱらいの見間違いだろうけど。ネタになるから、若い連中には話してやるんだ。“川の上から手を振る人影”ってな」
「都市伝説、ですか」
「そうそう。“灯りの消えない川端・リターンズ”」
屋台のカウンターの隅に、手書きのメニューとは別に、小さく「川端線ラーメン」と書かれた札が立っているのに気づいた。
「こういうのは、笑い話にしとくのが一番だ」
主人は、そう言ってウインクをする。
「真面目に怖がるより、酒の肴にした方が楽だろ?」
「……そうかもしれません」
私は曖昧に笑った。
怖がる対象と、笑い飛ばす対象と。その境界線は、たぶん、屋台のカウンターの幅くらいしかない。
「……位置は、ぴったりだな」
私の背中越しに、御影さんの声がした。
振り返ると、御影さんはタブレットの地図アプリと、交通局から借りた古い地図とを重ね合わせるように見ていた。
「さっきの“幽霊電停”がログ上で現れたポイントと、この屋台の位置。誤差数メートル以内」
「そんなにぴったりなんですか」
「ああ。ここが、かつての“灯りの消えない川端”の電停のすぐそばだったってことだ」
彼は、古い地図の一点を指さした。
川沿いの曲がり角に、小さな丸。それが、廃止された電停のマーク。
周囲には、「治水計画」「堤防改修」「危険地区再編」といった文字が、当時の行政の手書きメモとして書き込まれている。水害の被害写真の裏には、「治安の観点からも再検討」のような言葉も、かすかに読み取れた。
直截には何も言っていないが、「水害」だけではない何かが、この川端一帯の線を変えていったのだと、ぼんやりと分かる。
大人の事情。都市計画。治安対策。
整った言葉たちが、かえって実感から遠ざかって見えた。
「……水に流されたのは、線路だけじゃなかったのかもしれませんね」
私がそう言うと、御影さんは、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
「言葉ってのは、便利だな。“再編”“対策”“整理”。どれも悪く聞こえない」
「でも、その裏で“待っていた時間”ごと切り捨てられた人もいる」
「だからこそ、だ」
御影さんは、屋台のちょうちんを見上げる。
「だからこそ、ログから消さずに残しておくべきだ」
主人が話してくれた、橋を渡れなかった人たちの夜。
電車が止まり、橋が閉ざされ、帰れなくなった人々が、屋台の灯りの下で夜を明かした時間。
あの夜通し灯っていた灯りの一部が、今も川の上に滞留しているのだとしたら。
幽霊電停の一分間の停車は、その「待ち時間」の名残なのかもしれない。
◇
ラーメンを一杯ごちそうになり、屋台を後にした。
川沿いの風は、さっきより冷たくなっている。頬に当たる空気に、湯気の温度が名残りのようにまとわりついていた。
屋台の列を抜け、少し歩くと、川にかかる歩道橋がある。
金属の欄干と、コンクリートの床。橋の上には、恋人らしき二人組が一組だけ、寄り添って川を見下ろしていた。
「ここからなら、川面の反射がよく撮れる」
御影さんが言い、私たちは歩道橋の中央付近まで進んだ。
川は、黙って街の灯りを受け止めている。
屋台の赤。ビルの白。看板の青。橋のライトアップのオレンジ。
色とりどりの光が、水面に引き延ばされて、揺れながら重なっている。
私は、欄干に肘を乗せて、カメラを構えた。
一枚目。
川面に映る現在の街のネオンと、橋のライト。屋台の列。その向こうを、路面電車が走り抜けていくのが、かろうじて影として写っている。
二枚目。
少しシャッタースピードを変えて、光の帯を長く引き伸ばしてみる。水面が、柔らかい布のように見えた。
三枚目。
屋台の赤を少し多めにフレームに入れる。反対側の岸の暗さとの対比が、はっきりした。
何枚か撮った最後のコマだけ、川面の反射の中に、丸い標識のようなものが浮かんでいた。
電停標識。
古い形の、丸い盤。そこに書かれたカタカナ。現実のどこにも見当たらないはずの名前。
その隣には、小さな赤ちょうちんが並んでいる。
現実の屋台と、反射の中の屋台。その距離感が、一瞬だけ、わからなくなった。
「……見えました」
私は、小さな声で呟いた。
「何が?」
「電停の……丸い標識と、屋台の赤ちょうちんが、水面の中で並んでる一枚です」
御影さんが、画面を覗き込む。
反射の中だけに現れた丸い標識。そこにシルエットのように重なる旧型車両の影。
光の加減だ、と言ってしまえば、それまでだ。
でも、その一枚だけが、他の写真とは違う時間を写し取っているように、私には思えた。
「向こう側に渡れなかった人たちの“待ち時間”だけ」
口から言葉がこぼれた。
自分でも、何を言っているのか、半分くらいは分かっていなかった。
「まだここに残ってるのかもしれませんね」
御影さんは、しばらく黙って川面を見下ろしていた。
風の音と、遠くを走る電車の音と、屋台から漏れ聞こえる笑い声とが、橋の上まで届いてくる。
ようやく彼は、小さく息を吐いた。
「帰れなかった時間、か」
その言葉を、一度、手のひらの上で転がすように繰り返す。
「そういうのは、消さない方がいい」
「……怖い話として、ですか」
「それもある」
御影さんは、携帯端末の画面に視線を落とした。交通局との共有フォルダに、私の撮った写真の一部が同期されていく。
「けど一番は、“何があったか”を忘れないためだ。水害。治水。都市計画。どれも正しい言葉だが、それだけじゃあの夜を説明できない」
「橋を渡れなかったこととか、屋台の灯りとか、ラーメンの味とか」
「そう。そこにいた人たちの“待ち時間”を、どこかに退避させておく必要がある」
彼は、にわかに真面目な口調になった。
「運行上は“支障なし”。安全も問題なし。だからと言って、“ログをきれいに消してしまいました”じゃ、どこにも残らない」
「……ゴミ掃除みたいに、ですね」
「うん」
御影さんは、少しだけ笑う。
「だから、交通局にはこう言う。“運行に影響なし。ログ修正は不要”と」
「不要」
「そう。システム上だけ、“存在しない停留所”に一分間停車した記録を残しておく。その一分間が何なのかまでは、向こうも踏み込まない」
公式記録と、幻灯局の記録。
二つの記録のあいだに挟まれた、一分間の空白。
そこに、昔の屋台の湯気と、橋を渡れなかった人たちの肩と、ラーメンの匂いと、眠れない夜とが、ぎゅっと押し込められている。
「幽霊電停っていう言葉は、報告書には書きませんよね」
「そりゃあね」
御影さんは、肩をすくめて笑った。
「“川霧の影響によりセンサー誤作動の可能性あり。ただし運行には支障なし”くらいで、十分だ」
「それで、本当にいいんでしょうか」
思わず問い返していた。
屋台の主人が笑いながら語った「川の上から手を振る影」。その軽さと、今目の前に広がる川面の重さとの間で、言葉の重心をどこに置けばいいのか、まだ掴みきれていなかった。
「よくはないさ。全部を言葉にすることなんてできない」
御影さんは、あっさりと言った。
「でも、“全部を言葉にしないまま、痕跡を残す”っていうやり方もある」
彼は、私のカメラのストラップを指で軽く弾いた。
「そのために、うちと、お前のカメラがある」
川面に、また一台、路面電車の影が走った。
現在の車両と、反射の中の古い車両。その境界線は、水の揺らぎと同じくらい曖昧だ。
私は、もう一度だけ、シャッターを切った。
◇
翌日、交通局の会議室は、午前中の光で妙にまぶしかった。
窓の外には、昨日とは違う方向から見る川が流れている。運行管理室につながるドアの前を、制服姿の職員が足早に行き来していた。
テーブルの上に、御影さんが作成した報告書のプリントが一式置かれている。
「○○橋〜△△川端間における運行ログ異常について」
私は、その中の一段落に目を落とした。
――始発および二本目の電車において、「存在しない停留所」に一分間停車した記録が残っている件について、川霧の発生状況およびセンサーの仕様を照合した結果、計測系の誤作動と考えられる。
――ただし、乗務員の証言、車両制御ログの内容を併せて検証したところ、実運行上の支障、ならびに安全上の問題は確認されない。
――よって、ログの修正は不要とし、現行の記録を保存することを提案する。
最後の一文だけ、他の行よりも少しだけ、御影さんの字が濃い気がした。
「ログ修正、不要……」
交通局の担当者が、その部分を声に出して読み上げる。中年の男性職員。ネクタイを少しゆるめ、疲れた目で書類を追っている。
「修正しなくて、本当に大丈夫なんですか。変な噂になったりしません?」
「消しても、噂になるときはなりますよ」
御影さんは、あっさりと答えた。
「むしろ、“何かを隠したらしい”って方が、火の回りは早い」
担当者は、苦笑いを浮かべた。
「耳が痛いですね、それは」
「運行管理上問題がないなら、“よく分からない一分間”があったって記録を残しておくのも、帝都らしさじゃないですか」
「帝都らしさ、ねえ……」
男性職員は、窓の外の川を一瞥した。
「まあ、いいか。少なくとも、“危険だから廃線にしろ”みたいな話にはならないんですね?」
「ええ。それはきっぱり否定して構いません」
御影さんは、軽く頭を下げた。
「“昔、川端線っていうのがあってね”くらいの雑談ネタになれば、それで十分です」
職員は、「そうですね」と頷きながら報告書に決裁印を押した。
紙に朱肉の色がじわっと広がるのを見ながら、私は胸の内で、小さく息を吐いた。
幽霊電停は、公式には「システム誤作動の可能性あり」。でも、ログ上だけは、「存在しない停留所」が確かにそこにあったことになった。
それだけで、十分だと思えた。
◇
午後、幻灯局に戻ると、いつもの蛍光灯の白い光が、少しだけ柔らかく見えた。
団地の案件のファイルと、川沿いの案件のファイルとが、私のデスクの端に並んでいる。どちらも、「正式に解決した事件」にはなっていない。
でも、どちらにも、それぞれの「確かにあった」証拠が挟まっている。
ふと顔を上げると、壁に貼られた帝都路面電車の路線図が目に入った。
カラフルな線が、一目で分かるように整理されている。主要な駅名。乗り換え案内。観光地へのアクセス。
その端っこに、ほんの小さな余白があった。
私はペン立てから鉛筆を一本抜き、路線図の前に立つ。
川沿いを走る路線の、○○橋と△△川端のあいだ。
公式の図には、何も書かれていない区間。
そこに、ごく小さな文字で、私は書き込んだ。
「灯りの消えない川端(旧)」
紙を傷めないように、そっと、慎重に。
書き終えた文字の上を、指先でなぞる。
鉛筆の粉のざらつきが、指の腹に残った。
ここにはもう、電停も線路もない。
でも、「灯りの消えない川端」という名前だけは、この壁の片隅に、確かに刻まれた。
ふと、窓の外から、路面電車の走る音が聞こえた。
レールのつなぎ目を踏むリズム。モーターの唸り。いつもと変わらない音。
その音のどこかに、ほんの一瞬だけ、川霧の中で減速したときの感覚が、紛れ込んでいるような気がした。
「……また、誰かの“待ち時間”を拾うことになるんでしょうね」
自分でも聞こえるか聞こえないかの声で呟く。
誰に聞かせるでもなく、ただ自分の胸の内に沈めるための言葉。
返事の代わりのように、天井の蛍光灯がじん、と鳴った。
私は鉛筆をペン立てに戻し、デスクの上のカメラにそっと手を置いた。
今日書き込んだ小さな文字が、いつか誰かの目に留まるかどうかは、分からない。
それでも――
帝都のどこかで、橋を渡れなかった夜の灯りが、今もかすかに川面に揺れているのだとしたら。
「灯りの消えない川端」という名前は、ここでしばらく、消えずにいてくれるだろうと思えた。




