第7.5章 三浦ゆり ― 罪の記憶(泣かない子)
「泣かないの」
その言葉の中には、矛盾が潜んでいた。
泣かないでほしい――そう言いながら、
泣いてほしいとも思っていた。
涙を見れば、まだ自分を必要としてくれていると思えた。
痛がる顔を見れば、愛が生きている気がした。
ゆりにとって“泣かない子”は、
愛を失った証だったのかもしれない。
だから叩いた。
だから撫でた。
ゆりは、泣かせたいほどに、愛していた。
これは、愛を知らない母と、泣くことを忘れた子の、
すれ違った祈りの記録。
――泣かない子、その涙のかわりに光を
音が、遠い。
部屋の奥で時計の針が動く音だけが聞こえる。
カチ、カチ、と――静かに、確かに。
壁は淡い桃色。
でも光が当たるたびに、少しずつ赤く変わる。
その部屋の空気は、息を吸うたびに痛かった。
「泣かないの。泣いたら、ママ困るでしょう?」
その声が近づくたび、心臓が縮む。
逃げようとする足が動かない。
床の冷たさが、肌に染みてくる。
ママの手が髪を撫でる。
優しい手つき。
けれど次の瞬間、頬が叩かれる音が響く。
――パシン。
光が跳ねる。
頬が焼けるように熱い。
そして次の瞬間、空気がなくなる。
何かが喉に詰まったみたいに、息が吸えない。
「ママがいるのに、なんで泣くの?」
声は笑っていた。
唇の端が、ほんの少し上がっていた。
優しい声で、痛みを与える。
そのたびに、世界が小さく歪む。
「ママが一番好きって言って。」
――言わないと、終わらない。
そうわかっていた。
涙が喉に落ちて、声が出ない。
「……ママが、いちばん好き。」
そう言うと、手が止まった。
静寂が訪れる。
叩かれない時間。
でもその静けさが、いちばん怖かった。
ママは微笑んでいた。
その笑みが、光よりも冷たかった。
◇◇◇
夜。
押し入れの奥で、息を止める。
壁の向こうから、足音。
カツ、カツ、カツ――
靴の音が、床をゆっくり踏む。
「環、どこ?」
その声が近づくたび、空気が凍る。
胸が上下するたび、衣擦れの音さえも恐ろしくなる。
息を止めた。
止めすぎて、視界が滲んだ。
ドアの向こうで、ノックの音。
知らない声が叫ぶ。
「児童相談所です! 三浦さん、開けてください!」
空気が一気に変わる。
怒鳴り声、開く音、冷たい風。
でも環は動けなかった。
光が怖かった。
その光の中で、ママがまた笑う気がした。
「この子は泣き虫で、困ってるんです。」
やさしい声。
何も知らない大人たちが頷く声。
その中で、環はただ、息を潜めていた。
――息をすれば、また見つかる。
だから、息をしなかった。
生きるために、呼吸をやめた。
◇◇◇
現在。
モニターの光が、ゆりの頬を照らす。
そこにはもう、血も涙も映っていない。
ただ、満足げな笑みだけが浮かんでいる。
「ねぇ、環。ママね、ちゃんとやり直すから。
だから、もう一度笑って。
……泣かないで、ね?」
ゆりの声は驚くほど優しい。
まるで、世界でいちばん穏やかな子守唄のように。
その優しさが、冷たい空気の中でゆっくりと広がっていく。
「泣くのはもうおしまい。
ママが全部守ってあげる。
痛くないようにしてあげるからね。
――息もしなくて、いいのよ。」
微笑んだ唇の端が、ゆっくりと震えた。
モニターの光が彼女の瞳の奥に映り込み、
そこには“祈り”と“破壊”が同時に揺れていた。
ゆりの指が机の上の小さな靴に触れる。
カチ、と鳴った。
あの夜の音と同じ。
息が止まる音だった。
ゆりの「泣かないの」は、
優しさの形をした願いであり、支配の言葉でもあった。
環が泣かないほどに、ゆりは不安になった。
涙が出ない娘を見て、
「もう、自分を愛していない」と感じた。
だから、確かめたかった。
自分の存在を、愛の残り火を。
叩けば泣いてくれる、そう信じて。
けれど環は泣かず、
その静けさが、ゆりの罪を突きつけた。
――泣かない子。
それは、強くなった娘の姿ではなく、
愛し方を見失った母の鏡だったのかもしれない。
ゆりは今もあの夜の音を覚えている。
パシン――愛が壊れる音。
そして、その音の向こうで確かに聞こえた、
自分自身のすすり泣き。
そして環は今も、静かに息をしている。
泣かないのは、もう恐れからではなく――
あの夜を越えて、生きるための祈りだから。




