第10章 言葉の光
“母”という名の鎖と向き合うとき。
環は、自分の中の“言葉”で未来を切り拓く。
警察の立ち会いのもと、
クレイド・インダストリーズの応接室。
白い壁と冷たい蛍光灯の光の下、
三浦ゆりは静かに座っていた。
その表情は穏やかで、
まるで何事もなかったかのように見える。
ドアが開く。
柊、凪、そして環が入ってくる。
空気が一瞬で張りつめた。
ゆりの唇が、ゆっくりと動く。
「……環。来てくれたのね。うれしいわ。
やっぱりいい子ね。私の娘……環。」
環は無言で椅子に座る。
深く息を吸い、
そのまま目を逸らさずに、母を見た。
胸の奥はまだ少し震えていた。
けれど、その震えの下に、確かな“強さ”があった。
柊と凪が後ろで静かに見守る。
何も言わない。
環が自分の力で立つ瞬間を信じている。
◇◇◇
「環……あなたも、私のこと恋しかったでしょ?
ママ、ママって言ってたものね。
私もあなたに会いたかったわ。とっても。
環は私のかわいい娘だもの。」
ゆりの声は柔らかかった。
その柔らかさが、むしろ怖かった。
環は静かに首を横に振る。
「いいえ。
私には“母”という言葉が、
どんな意味を持つのか、わかりません。」
ゆりの眉がわずかに動く。
環は胸の前で手を握りしめた。
「……身体は反応してしまいます。
でも、あの頃のことはもう覚えていません。
あなたの顔も、名前も。
あなたが私にしていたことも。
あなたを母だと思っていたことも。
すべて――覚えていないんです。」
ゆりの表情がかすかに揺れた。
環は続ける。
「あなたが私にしたことで、私は感情をなくしました。
でも、柊と凪くんに出会って、
少しずつ感情を取り戻しました。」
言葉を口にするたびに、
風が頬を撫でていくようだった。
恐怖の奥にある“生きている実感”を、
環自身が確かめるように。
「今、ここに……あなたの前にいることは、――とても怖いです。
でも、怖くてもあなたと向き合えるのは、
柊と凪くんが隣にいてくれるからです。」
柊が静かに頷く。
凪も、優しく見守る。
「怖くても強くいられるようになりました。
柊も凪くんも、私を真っ直ぐ見てくれています。
あなたは――私の何を見てきたんですか?
私の、何を知っているんですか?」
風が止まった。
ゆりの笑顔が、音もなく崩れていく。
環の目には、涙ではなく光が宿っていた。
「……柊と凪くんのおかげで、私は今、とっても幸せです。」
ゆりは微笑んだ。
「強くなったのね、環。」
「違います。
強くなったんじゃなくて、“支えてくれる人がいる”だけです。」
柊の方を見ずに言う。
けれど、その声には確かな“ぬくもり”があった。
◇◇◇
「……あなたのしたことは、消えません。
でも、私の中にはもう“怖い”だけじゃない。
“生きたい”っていう気持ちがあります。」
「生きたい?」
「はい。
怖いと思えることは、生きている証拠だから。
私は“怖い”を知って、“怖い”って言えるようになった。
それでまた少し、前に進めたということです。」
ゆりは黙った。
そして、小さく笑う。
「……やっぱり、あなたは私に似てる。」
「いいえ、違います。」
環の声が、はっきりと響いた。
ゆりが目を見開く。
「私は、痛みを与えることでしか
誰かをつなぎとめられない人間にはなりません。
私が誰かに優しくできるのは――
柊や凪くんに、優しさをもらったからです。」
環はゆっくりと立ち上がった。
椅子の音が、静寂の中に響く。
「ただ1つだけ、あなたにはお礼をしなければなりません。」
小さく息を吸い、まっすぐにゆりを見た。
「私を産んでくれたおかげで、
柊と凪くんに出会うことができました。
それだけは――ありがとう――と思っています。」
環はゆっくりと頭を下げた。
その姿は、もう“恐怖に怯える娘”ではなかった。
静かに前を向く女性の、凛とした強さがあった。
ゆりの瞳に、一瞬だけ何かが揺れた。
涙ではない。
それは、崩れ落ちそうな“空洞”のような揺らぎ。
環は振り返らない。
柊と凪が、彼女のそばに立った。
柊がそっと囁く。
「怖いを知って、怖いって言えた。
もう、それでいい。」
環は小さく微笑んだ。
「……うん。ありがとう、柊。」
◇◇◇
外に出ると、
雨上がりの空に光が差し込んでいた。
遠くで鳥が鳴き、
街の音がゆっくりと戻ってくる。
雨上がりの風が、頬を撫でた。
その風の中に、光が混ざっていた。
胸の奥までゆっくりと届き、息のように広がっていく。
環は空を見上げ、
小さく呟いた。
「もう、過去に縛られない。
私は、私として生きていく。」
その声は、雨上がりの空へ吸い込まれていった。
柊と凪が、そっと並んで歩き出す。
3人の影が、朝陽の中で1つに重なった。
「ありがとう」と言えたその瞬間、
環は過去を断ち切り、自分として生きる光を見つけた。




