第8章 再会 ― 凍る記憶
過去が、目の前に立っている。
忘れていたはずの声が、環の心を再び凍らせる。
曇り空の午後。
会議室のガラス越しに、鈍い光が差し込んでいた。
クレイド・インダストリーズとの定例ミーティング。
いつも通り、柊と凪、そして環が席に着く。
けれど今日は、空気の温度がどこか違っていた。
柊の表情は冷静そのもの。
凪も平静を装っていたが、
指先がわずかに緊張を滲ませていた。
そして――ドアが開いた。
「失礼いたします。」
柔らかな声。
その声を聞いた瞬間、
環の身体がビクリと震えた。
ゆりが、そこに立っていた。
淡いベージュのスーツ。
整った髪。
誰が見ても“できる女性”。
完璧な笑み。
その笑顔が空気を凍らせた。
だけど、環の瞳にはそれが別のものに見えた。
笑っているのに、目が笑っていない。
優しそうな声なのに、空気が冷たい。
柊の手が、環の膝の上でそっと触れる。
――大丈夫。ここにいる。
そのわずかな温もりだけで、環はかろうじて息を吸えた。
「はじめまして。三浦ゆりと申します。……あら、はじめましてではなかったかしら。あなたたち、先日お会いしてましたね。失礼。」
ゆりが会釈する。
だが、その目は環だけをじっと見ていた。
「お久しぶりね、環。」
――その一言。
その“響き”が、胸の奥を突き刺した。
「ずいぶん大人になったわね。
私に似ているのかしら。
綺麗よ、環。
でもそんな顔をすると……
あの頃のままね。
あの頃のままの私の環だわ。」
その瞬間、環の中で何かが壊れた。
肺が動かない。
酸素がどこにもない。
冷たい何かが胸の中で固まっていく。
――息をしちゃいけない。
そうしないと、また見つかる。
環の呼吸が止まる。
何も思い出せない。
なのに、全身が凍る。
空気が喉を塞ぎ、心臓が乱れる。
「……環?」
柊の声が届く。
環は声を出そうとしたが、
喉から音が出なかった。
指先が冷たくなっていく。
体温が奪われるみたいに。
ゆりは、微笑んだまま1歩前に出る。
「そんなに緊張しなくてもいいのよ。
もう、痛くしないから。」
その瞬間――
空気が張り裂けた。
その言葉で、
環の肺が完全に凍った。
呼吸が消える。
あの夜の声と、今の声が重なる。
息もしなくていいのよ。
脳裏に焼きついたあの言葉が、空気を奪う。
柊の声が、低く鋭く響く。
「三浦さん。距離を取ってください。」
凪もすぐに立ち上がり、
ゆりと環の間に入った。
ゆりは一瞬、驚いたように目を細める。
けれど、すぐに笑った。
「まぁ……大切にされてるのね、環。
いいことだわ。」
その声には、
母親らしさではなく、
“自分の所有物を取られた女の嫉妬”のような、
冷たい感情が混じっていた。
環はもう立っていられなかった。
柊がすぐに肩を抱き、そっと支える。
環はようやく空気を吸った。
けれど、肺の奥に残る冷たさは消えなかった。
「帰ろう。」
「……はい。」
凪が会議を中断し、佐伯がすぐに扉を開けてくれた。
その一瞬、ゆりが低く呟いた。
「逃げても、いずれ思い出すわよ。
私のことを。」
その声が背中に張りついて、離れない。
「怖い」と言葉にした瞬間、
環はもう、過去の中に閉じ込められた少女ではなかった。




