雨虹
その日も泣いているような土砂降りだった。革靴とスーツは傘を差していても、強風に流れてくる雨で濡れていた。だけど憂鬱だったのは雨のせいじゃない。
どうして愛美が忘れてきた傘を、僕が取りに来ることになってしまったんだろう。
目指している喫茶店は少し離れた場所にあった。
自宅近くのバス停から二十分ほど揺られ、数分歩くと下町の商店街の入り口に着いた。店のほとんどはシャッターが下りていて、天気のせいもあってか鬱屈とした雰囲気が漂っている。
商店街といっても屋根やアーケードがないので、傘を差したまま、湿気をまとった重い体を進ませる。
ほどなく見つけたレンガ造りの喫茶店は、シャッター商店街の中でそこだけ生きているように、橙色の外灯の光が儚く灯っていた。
軒先でたたんだ傘を傘立てに入れてから、冷えたドアノブに手をかけた。扉を開けるのを躊躇して深呼吸する。
あの傘は愛美のお気に入りだから、持って帰らないと何を言われるかわからない。最後には自分にそう言い聞かせて、喫茶店に足を踏み入れた。
ドアベルの音が鳴る。カウンター席の向こうにいたマスターと目が合った。七十代くらいだろうか。白髪まじりで、いかにも喫茶店のマスターという出で立ちだ。
店内は歴史を感じさせる重厚感があるのに、古臭さは感じさせない。椅子やテーブルはあたたかみのあるアンティーク調で、レンガの壁には西洋画が何枚か飾られている。ランチには遅すぎる時間だからか、客はいないようだった。
「すみません。傘を忘れて連絡していた町田です」
マスターは「お待ちしていました」と目尻の細かい皺をぎゅっと寄せて笑った。
待たせていたんだろうか。心配になりながら軽く頭を下げた。
「遅くなって申し訳ありません。連絡してから、なかなか取りに来られなくて……」
その台詞を本当に言うべき相手は自分ではないと言いたげに、マスターは首を横に振った。
「今、傘を持ってきますね。お掛けになってお待ちください」
◇
マスターが奥の部屋へ入っていったあと、静かな店内をぐるりと見渡す。そのとき、僕は気づいた。誰もいないと思っていた空間の一番奥に座っているのが、愛美だということに。
雨の打ちつける窓際のテーブル席だった。愛美は僕を見つけると、いつもと同じ笑顔で、いつもと同じように手招きをした。そして結婚する前、待ち合わせに遅刻してきた僕に言うのと同じように言った。
「壮ちゃん、遅いよ」
あのころと変わらない、ちっとも責めない口調だった。だけど僕は、今日だけは責めてほしい気がしていて、愛美に謝るのがやっとだった。
愛美の向かいのソファに座って、窓をつたう水滴の行く先を二人で眺めていた。言いたいことはどれだけでもあったはずなのに、どうしてか何ひとつとして声にならない。
「どうして傘なんて忘れたんだよ」
別にそれほど訊きたいわけでもない質問をすると、愛美は視線を窓から僕の顔に向けてほほ笑んだ。
◇
「喫茶店で雨宿りしたら、傘を忘れてきちゃってさ」
愛美がそう話したのは、どれくらい前だろう。
「雨宿りしたあと、お店の外に出たら雨がやんでて、きれいな虹がかかってたから、すっかり傘の存在を忘れちゃったんだよね」
悪びれもしない愛美はスマートフォンを操作して、そのときの虹の写真を見せてくれた。まるで、傘を忘れたおかげで虹が見られたとでも思っていそうな表情で。
「お店に連絡したら保管しておいてくれるって言うから、今度取りに行ってくるね」
それきり愛美は忘れた傘を取りに行くことはなかった。それどころか、僕は愛美の通話履歴の番号から喫茶店を特定し、再び店に連絡したけれど、しばらくは来られないまま、やっと今日この場所にたどり着いた。
◇
たどり着いた先で愛美に会うなんて、夢にも思っていなかった。
だったら傘を持って帰ってきてよ。
僕は愛美に会えた嬉しさも、僕に傘を取りに行かせる愛美への憤りも、一人になってしまう悲しさも、全部呑み込んで、それだけを言いたいのに、それだけがどうしても伝えられない。口にすれば、愛美が困った顔をするのがわかっていたから。
どうして傘なんて忘れたんだよ。尋ねると、愛美は愉しそうに両手で頬杖をついた。
「でも忘れなかったら、こうして壮ちゃんに会えなかったでしょ」
きっと愛美は傘を忘れたおかげで僕に会えたと信じている。虹を見られたあの日と同じように。
「僕は、そういう考え方ができる愛美が好きだよ」
そんな愛美だったから、結婚したいと思ったし、結婚してよかったと思えたんだよ。
目の前の愛美に告げると、彼女は照れ笑いをして、ありがとう、と言った。それから、心配そうに僕の顔を覗き込んだ。
「壮ちゃん、痩せたんじゃない? ちゃんとごはん食べてよ」
曖昧に相槌を打つと、食欲がなくなった原因は自分にあることを思い出したのか、愛美は気まずそうな表情を一瞬見せたけれど、すぐに切り替えて窓際に置かれた喫茶店のメニューを指差した。
「ここのブレンドと卵サンド、おいしいから食べてって! せっかくこんな辺鄙なところまで来たんだしさ」
土砂降りだった雨は、いつの間にか弱くなっていた。遠くに見える雲の切れ間から光が漏れている。もうすぐ、雨宿りする必要もなくなる。愛美といられる時間ももう終わってしまうことを、僕はどこかでわかっていた。
違う料理も食べてみたかったなぁ、とニコニコしながらメニューを眺める横顔に問いかける。
「どうして笑うの?」
泣いてしまいたかった。愛美が泣けば、ずっと簡単に僕は泣いてしまえるのに、愛美がそうしないから、できない。
うつむいて、テーブルの光沢に映される自分の顔はすごく苦しそうだ。同じ気持ちのはずなのに、どうして愛美は笑っていられるのだろう。
「きっと、逆の立場だったら、壮ちゃんもおんなじふうにしたと思うから」
「僕はそんなに強くないよ」
「私だってそうだよ。だけど、やっぱり、」
顔を上げると、愛美は目にいっぱい涙をため込んで、それでも笑っていた。
「壮ちゃんが私を思い出すとき、笑った顔をしていたいから」
雨がやむのと同時に霞んでいく愛美の手を僕は握った。実際には、握ろうとしただけなのかもしれない。掌には冷たい霧を掴んだような感触が残っただけだった。
そこにいたはずの愛美はもういなくなっていた。
◇
それは、まばたきをしただけの一瞬のような気もしたし、しばらく深い眠りについていたような気もする。
僕の手の甲を、雨粒に似た雫が流れていた。
泣いたのは僕だろうか、愛美だろうか。
まだ現実と夢が混濁している。
そのうち扉が軋む音がして、戻ってきたマスターは薄いピンク色の雨傘を持っていた。
「お待たせして申し訳ありません。こちらの傘でお間違いないでしょうか?」
傘を受け取る。シンプルだけど細かい刺繍が施された、紛れもない愛美の傘だ。
あの日、愛美が傘を忘れたのは偶然だったんだろうか。答えのない問題を払うように息を吐いて、そして確かなことを呟く。
「この傘も、妻の忘れ形見になってしまいましたけど、でも傘を忘れてくれてよかったのかもしれません」
マスターは不思議そうにしていた。窓の外の雨はすっかりあがったようで、空が白みはじめている。
「待っているあいだ、妻に会えた気がして」
口にしたあとで慌てて、夢ですよね、と付け加えると、マスターはすんなり受け入れたように優しい声で返してくれた。
「奥様も、雨宿りをしていたのかもしれませんね」
ふいに、愛美との思い出が雨のように降ってきて堪らなくなった。「会いたい」と「もう会えない」が、何度も何度も、何度も交差する。
それでも、僕は唇を噛んで、無理やりに不格好な笑顔を作った。
「マスター、ブレンドと卵サンド、頼んでもいいですか?」
もちろんです、と答えたマスターは厨房へ向かう。コーヒーの香りが包みこむ店内に、もう雨の音は響かない。
◇
ドアベルの音が僕を見送ったあと、空には虹がかかっていた。
雨宿りをしていた愛美も、どこかでこの虹を見ているだろうか。
僕は二人分の傘を持つ。そして、きみが見せてくれた虹を見上げている。