記憶喪失
診察室に入ってきたのは、どこか虚ろな目をした男だった。危なっかしい足取りで椅子に腰掛けると、彼は深くうなだれた。
「今日は、どうしましたか?」
医師が問うと、男は片手を額に当てて、ゆるく首を振った。
「黙っていてはわかりませんよ。どこか具合が悪いのでしょう? えーと……おや、問診票に名前が書いてありませんね」
「わからないのです」
男はぼそりと呟いた。
「わからないとは、どう具合が悪いのかがわからないということですか?」
「違います。何もわからないのです。自分の名前も、何もかもです」
男はポケットから一枚の紙切れを出して医師に見せた。
「ここに来たのは、唯一持っていたこの紙にあなたの名前が書いてあったからです。先生は私について何かご存じなのではないですか」
「……確かに、あなたは以前にもここを訪ねていらっしゃいました。私は先日、人の記憶をすっかり消してしまう薬を発明しましてね。それを聞きつけてきたのでしょう。私はそれを使って、ご希望どおりあなたの記憶を消したというわけです」
「その、消した記憶を取り戻す方法はないのですか」
「ええ、もちろん、そういった薬も一緒に発明してありますよ。しかしなんですな、果たして記憶を戻していいものかどうか、私には判断がつきかねますよ。何か、たいそうつらい思いをされたようにお見受けしましたからね」
「いいえ先生、つらい記憶を消してしまおうとするなど間違っていました。記憶がなければ、私は何もできません。頼れる家族や友人がいるかもわからず、働こうにも履歴書も書けません。どんなにつらいことがあっても、記憶を捨ててはいけなかったんです」
「わかりました。そこまでおっしゃるのなら、記憶を取り戻す薬を処方しましょう。その薬を飲んで三日ばかり経てば、記憶はすべて元通りになりますよ」
男は礼を言って診察室を出ていった。
医師が次の患者を呼ぶと、虚ろな目をした女が入ってきた。危なっかしい足取りで椅子に腰掛けると、彼女は深くうなだれた。
「今日は、どうしましたか?」
医師が問うと、女は決意したように顔を上げた。
「先生、私の記憶を消してください」
「しかし、あなたは先日、ご自身の希望で記憶を戻したのではありませんでしたかな」
「ええ、そのとおりです。でも、それは間違っていました。あんなつらいことを覚えたまま生きていくなんて、とてもできません。一度すべてを忘れてやり直すより他にないのです。どうか先生、お願いします」
「わかりました。そこまでおっしゃるのなら、記憶を消す薬を処方しましょう。その薬を飲んで三日ばかり経てば、記憶はすっかり消えてしまいますよ。ああ、もしものときのためにこれをお持ちになってください。私の連絡先のメモです」
女は礼を言って診察室を出ていった。
医師が次の患者を呼ぶと、虚ろな目をした老婆が入ってきた――。
一日の診療を終えると、医師は深くため息をついた。
「あいつらときたら、記憶があったらあったでつらい、なければないでつらいというのだからな。ずいぶんと勝手なものだ。しかし、ああいう連中のおかげで俺が食いっぱぐれることは一生ないのだから、ありがたく思うべきか。まったく、ぼろい商売だ」