EP15 雷鳴、静謐。 ―名を問うその理由―
“選んでしまった”少年が次に対峙するのは、
誰かを「傷つけない」という、あまりに困難な選択だった。
第15話では、極限の空間で交差する二つの“意志”を描きます。
刃を交えることなく心を通わせることはできるのか──
戦いの中に、答えのない問いが浮かび上がっていきます。
翌日、試験場には緊張と静寂が立ち込めていた。
「それでは現刻をもって、“新個別護衛隊定期入隊試験”、二次試験を開始する。」
前日の第一戦で〈ハウンズ〉を相手取り、ただ一人合格を果たした佐藤涼。
他の志願者は全員が負傷・棄権し、予定されていた三回戦形式の試験は異例の措置として変更された。
今回の第二戦は、“合格者・佐藤涼”に対する個別試験として実施される。
指揮を執るのは、試験官を務める五番隊隊長・阿久津シン。
観測ブースには、全六隊の隊長・副隊長が静かに並び立っていた。
それぞれの表情に、緊張と関心が交錯する。
「……また、始まるのか」
待機ブースの中で、涼が息を吐く。
恐怖は、ある。ただし、それが脚を縫いとめることはもうなかった。
眼前の扉が、ゆっくりと開かれる。
「本試験は、佐藤涼への個別課題として実施される」
「対戦相手:ゲリラから移送された被拘束対象、紫藤アマリ」
「模擬戦形式に基づくが、安全装置の作動は限定的とする」
「受験番号三番、佐藤涼前へ」
会場に低く響いたアナウンスが終わると同時に、重厚な足音が響いた。
入場ゲートから、数名の新別隊一般隊員たちが現れる。中央に護衛されるようにして、ひとりの少女が歩いていた。
金髪。
緩やかなウェーブがかかった髪が、照明を反射してきらめいている。
痩身で華奢な肢体に、無機質な拘束具が取り付けられていた。
その表情は、無言のまま。しかし、目だけがこちらを射抜くように鋭い。
涼が、ほんの一瞬だけ息を飲む。
新別隊の隊員たちは彼女を試験場の中央まで連れ、そして無言のまま拘束具のロックを外した。
手錠が外れると、カシャンという冷たい音が場内に響いた。
その瞬間、少女──紫藤アマリは、静かに顔を上げた。
声はない。ただ、金の髪が揺れ、瞳の奥に炎のような殺意が灯る。
「“紅蓮の飼い犬”、ねえ」
観測ブースの中、工藤勝が誰ともなく呟いた。
息を呑む空気の中で、第二戦の幕が、今、静かに上がる。
⸻
〈第二戦、開始〉
無機質なアナウンスが試験会場に低く響いた直後、静寂が一層深まった。
中央で対峙するのは、佐藤涼と、金髪の少女──紫藤アマリ。
互いに声はなく、微動だにしない。ただ、間合いの中で熱だけがじわじわと増していく。
(……妙に静かだな。ARIA、彼女の初動に備えろ──)
《待機中。ただし、通常の立ち上がり挙動には該当しない予兆あり》
そうARIAが返すのと同時に、アマリが動いた。
唐突な――嘔吐音。
涼の眉がわずかに動いた。
彼女は、前傾姿勢のまま口を押さえ、喉奥から何かを無理やり引きずり出している。
「……ッ!」
湿った音。胃液にまみれた何かが、舌の上から吐き出された。
銀色のカプセルと細かな何かの部品だった。消化液に溶かされ、表面は既に曇っている。
目を逸らしたくなるほど生々しいその行為を、アマリは迷いなくやり遂げていた。
指先でそれを掴むと、ゆるりとしゃがみ込み、細かな部品を組み上げる。
注射器だ。
慣れた手つきでカプセルをセットする。
涼が反射的に一歩踏み込もうとした、その一瞬前。
アマリは迷いなく、それを自らの首筋に突き立てた。
ぶしゅ、と音がして、薬剤が一気に体内へと流れ込む。
〈血圧上昇、心拍急増、筋出力:通常時比320%〉
〈擬態部:変異兆候アリ〉
ARIAのUI表示が義眼内に浮かぶも、涼は読み上げを要請しなかった。
アマリの全身が、小さく震えている。
吐息が白く、細かく、乱れている。
「……グレン……さん」
唇が動いた。誰かの名を、誰かへの想いを、そこに込めて。
その次の瞬間、爆ぜた。
アマリの金色の髪が、まるで風を孕んだようにふわりと舞い上がる。
軌跡を描くその髪は、まるで――雷。
美しく、そして危うい。
「ッ──!」
風が、吹いた。
アマリの身体が、爆風のように涼の間合いへと滑り込む。
地を蹴った音などなかった。ただ、衝動と肉体が一致した結果として、そこに「移動」が生まれていた。
金の髪が雷の軌跡を描く。その中央、眼光が、殺意を帯びて燃えている。
《涼、回避を──》
だがARIAの声よりも早く、涼は身を捻っていた。
それでも遅い。
「ッぐ──!」
左肩に、鈍い衝撃。骨に響く蹴りだった。
よろめきながら距離を取る涼を、アマリはまるで獣のように追い詰める。
まさに、点火された衝動。
この戦いは、模擬でも、形式でもない。
ただひとつ、“生きるか、殺すか”の、現実。
⸻
――衝動の爆発は、まさに稲妻のようだった。
風を裂く音とともに、アマリの蹴りが横なぐりに迫る。
瞬間、涼は半歩だけ下がり、その脚を躱した。
だが――
「チッ!」
踏み込みの反動を利用し、アマリが身体を捻る。
踵が涼の脇腹に突き刺さった。
「ぐ……っ!」
骨に鈍い衝撃が響く。
涼の身体が、よろける。
〈外殻:側腹部に衝撃検知。損傷軽微。骨格異常なし〉
義眼のUIが即座に報告を表示する。
だが涼は、それを意識の外に押しやった。
視線は、前に立つ少女だけを見据えている。
「動けよ、テメェ……!」
アマリが叫びながら突っ込んでくる。
足元が地を滑る。
拳が、涼の顎を狙って振るわれる。
涼は、その拳を受けた。
脳内が、一瞬だけ白く塗り潰された。
(……来るのは、わかってた)
その拳は、怒りと悲鳴の塊だった。
咄嗟にかわすことも、受け流すこともできた。
けれど、それをしなかった。
なぜなら――
(“どこまで持つか”だ。あいつの衝動が)
涼は吐血をこらえながら、体勢を崩さずに立つ。
頬に血が流れるのを感じながら、ただ前を見る。
アマリの表情は、笑っていた。
狂気と痛みが、混ざり合った笑みだった。
「なあ!もっと避けろよ! もっと抗えよ! じゃなきゃ……気持ちよく殺せねぇだろうがッ!」
怒声とともに、アマリの膝が腹部に突き刺さる。
またしても、涼は防御しなかった。
呼吸が止まり、視界が揺れる。
胃の奥がせり上がるような感覚に、涼は歯を食いしばった。
〈呼吸器圧力上昇・内臓負荷:中度〉
「わかってる」
ARIAが冷静に分析を送り込んでくる。
しかし涼の意識は、目の前の“衝動”を宿した少女に向けられていた。
金色の髪が、空間に残像を描く。
それは、まるで雷のようだった。
稲光の軌跡が、空気を焼きながら迫ってくる。
その刹那――
「ッるせぇ!」
咆哮とともに、アマリの拳が振り下ろされる。
その拳は、稲妻の如く涼の左肩に叩き込まれた。
鈍い音が響いた。
肉が裂け、アマリの義体の接合部から火花が飛ぶ。
それでも、涼は動かなかった。
(止まるな、見極めろ。衝動の先に、“何があるか”)
涼は自分の身体よりも、相手の内側を見ていた。
この怒り、この攻撃性の根源にあるもの――
それが、彼の戦う理由になるかもしれなかった。
「なあ、なんで、反撃しねぇんだ……!何もできねえまま死んじまうぞ!」
アマリが、声を震わせた。
それでも手を止めない。
拳が、蹴りが、傷が――重ねられていく。
しかし、その度に、涼の視線は揺らがなかった。
そこには怒りも、悲鳴も、怯えもなかった。
ただ、相手を見つめる意志があった。
そして、それが――アマリを苛立たせ、同時に、揺さぶり始めていた。
(……見せろ、お前の“衝動”を)
そんな願いが、血の味とともに滲んでいた。
⸻
涼の頬を、血が伝っていた。
倒れ伏す彼の顔を、アマリは無言で見下ろす。
「……また、避けねえのかよ」
地に這いつくばったまま、涼は動かない。
防御もせず、反撃もせず、ただ殴られ、蹴られ、倒れたまま。
それでも、視線だけは逸らさずに、こちらを見上げてくる。
アマリは、苛立ちと焦燥が混ざるのを感じていた。
そして、自分でも理由がわからないそれが、ますます苛立ちを加速させていく。
「殺せばいいんだ」
誰に言うでもない言葉が、喉からこぼれる。
そう、殺せばいい。
何もかも、それで終わる。
殺してしまえば、また“あの場所”に戻れる。
「……殺せばグレンさんの所に、帰れるんだ」
ぽつりと漏らした言葉に、自分でもぞっとする。
それが本心なのかどうか、もう分からない。
でも、そう思いたかった。
アマリは、涼の胸元に足をかけた。
踏みつける。
その顔を、足元に押し込めるように、体重を乗せた。
鈍い感触が伝わってくる。
骨の軋み、皮膚の弾力、呼吸を止めようとする咳き込み。
それは、かつて幾度となく味わった“実感”だった。
でも――
(違う)
胸の奥で、何かが引っかかった。
これは、かつて殺した誰かとは違う。
似ているのに、まるで違う。
その顔は、恐れてもいなければ、怒ってもいない。
ただ、受け入れていた。
痛みにも、暴力にも、衝動にも。
その全てを拒まずに、受け入れていた。
「……なんで、抵抗しねぇんだよ……!」
叫びが漏れた。
声が震えるのが、自分でも分かった。
「殺すって決めたのに……テメェが何もしてこねぇから、やり辛えんだよッ……!」
足を振り上げて、もう一度踏みつけようとする――が、動きが止まった。
視界が、歪む。
(グレンさん……!)
頭の中に、優しく背中を押してくれたあの人の面影がよぎる。
あの人は、決して殺せとは言わなかった。
ただ、生き抜けと。自分の信じるもののために戦えと。
だから、アマリは勝手にそう信じていた。
「殺せば近づける」と。
「殺せば守れる」と。
「ッ……!」
拳を握る。
震える。
ぶつける相手も、目的も、いまは曖昧だった。
「戻らなきゃいけないのに……!」
それが、いつからこんなに苦しいものになったのか。
踏みつけた足が、わずかに揺れる。
涼の顔は、依然として静かだった。
苦悶もあるはずなのに、そこにあるのは――まっすぐな意志。
アマリの拳が、ぶるりと震えた。
「なんで……なんで、何もしないんだよ!!」
怒声が試験場に響く。
観測ブースの誰もが黙して見守る中、アマリの絶叫だけが空間を裂いた。
涼は、依然として拳を振るわなかった。
彼女の怒りを、悲しみを、躊躇いを――まるで、受け止めようとしているかのように。
(お前は……何を見てる)
その問いすらも、声に出せなかった。
ただ、震えだけが、止まらなかった。
⸻
静まり返った観測ブースに、誰も言葉を発さない時間が流れる。
試合場の中央──紫藤アマリの左腕が、変質し始めていた。
義体特有の膨張音、微細な冷却音。
皮膚の下に隠れていた構造体が露出し、各部のロックが外れていく。
斉藤コウは、立ったままそれを見つめていた。
腕を組み、僅かに顎を引く。
眉も動かさず、ただ観察している。まるで、眼前にあるのが感情を持つ存在ではなく、ひとつの機構であるかのように。
やがて、彼は静かに口を開いた。
「セーフティ、解除したな」
その一言だけが、音もなく響くブースに落ちた。
誰も返さない。
言葉は、報告のようであり、確認のようでもあった。
「アマリの擬態、あれは雷撃用にチューニングされてる。放熱面積の拡張と神経信号の即応性を優先した設計だ。耐久性は、そこまで高くない」
五番隊の阿久津が、わずかに顎を上げた。
「じゃあ……一回限りってことか」
斉藤は頷かない。ただ、視線を画面に向けたまま続ける。
「可能性は高いだろうね。アレはあいつにとって、一撃必殺の切り札だ。セーフティを外せば、擬態の抑制リミッターが解除される。出力は跳ね上がるが……その分、リスクも大きい。義手の基部にまで熱と応力が集中するからな。制御できなきゃ、破損する」
静寂の中、他の隊長たちも無言のまま耳を傾けていた。
誰もアマリを非難しない。
そして、誰も同情しない。
それぞれの立場で、理解しようとしている。
「……あの距離で、撃つつもりか」
三番隊の河井ミオが、僅かに声を漏らした。
彼女の視線もまた、試験場の中にある。
アマリの左腕が変質を終え、雷光が走る。
蒼白い光が皮膚の隙間から噴き出し、空気が震えるような静電音が会場に満ちていた。
その先にいるのは、拳も構えず、ただ立っている涼だった。
「……彼女は、当てるつもりだろうな」
白鷺ユーリが囁くように問う。
その問いに、斉藤は即答しない。
少しだけ目を細める。
「……」
その言葉に、ブースの空気が揺れる。
「アマリがあの構えに入るまでに、何度もチャンスはあった。殺すためだけなら、もっと効率のいい手段があったはずだ」
「じゃあ、あれは“何”なんだ?」
阿久津が問う。
斉藤は、ほんの少しだけ肩をすくめた。
珍しく、感情の揺らぎがあったとすれば、それは技術者としての不可解さへの戸惑いだ。
「ただの機構なら、理屈通りに動く。だがあれは……人間だ。衝動で起動したセーフティ解除の先にあるのが、“殺意”なのか“選択”なのか、それは俺の分野じゃ測れない」
ブースの奥で、泉奈央が小さく息を呑む。
だが口は開かない。
彼女の中にもまた、言葉にできない理解が芽生えつつあった。
アマリの左腕が、完成する。
雷光が明確な形を取り、拳の周囲を包むように凝縮される。
まるで意思を持つかのように、荒れ狂うエネルギー。
「“穿雷”……擬態が壊れるぞ、あれは」
誰に言うでもなく、斉藤がぽつりと呟く。
それは、技術者としての分析でもあり、観察者としての警告でもあった。
そしてその時――
画面の中、アマリの瞳が細められた。
殺意ではない。勝利でもない。
そこに宿っていたのは、別の“何か”だった。
静かに、雷が唸る。
次の瞬間、一撃が放たれる――その刹那の直前で、時間は凍りついていた。
⸻
「これで全部、終わりにする……!」
金色の髪が跳ね上がり、唸るように放たれたその言葉は、会場の空気を裂いた。
紫藤アマリの左腕が、深く沈むように構えられた直後、雷光が閃く。
〈擬態制御:セーフティ解除済〉
〈内部機構解放──出力制限を解除〉
義眼のUIが警告のように告げるその瞬間、アマリの左腕が異様な音を立てて変質し始めた。
蒼白い稲妻が、関節の隙間から奔る。
次の瞬間、振り下ろされた“それ”が、涼の目前で――
止まった。
時間が、止まったようだった。
静寂の中、観測ブースの空気が震える。
誰も言葉を発さない。
だが、誰もが何かを感じ取っていた。
その中で、最初に静かに口を開いたのは、工藤勝だった。
「うん、上出来」
それは、誰に向けたわけでもない独白だった。
彼の瞳には、かつての自分が見ていた“何か”と同じものが映っていた。
拳でも銃でもなく、“覚悟”で抗う姿勢。それが、涼の戦いだった。
隣で黙っていた泉奈央が、一歩だけ前へ出た。
表情は変わらない。けれど、目の奥が静かに揺れている。
「……躊躇ではない。あれは、意志だ」
少女の目線はアマリに注がれていた。
怒りでも、憎しみでもなく、困惑と葛藤の果てに、選び取った“停止”。
その選択の重さを、泉は理解していた。
やや離れた位置では、二番隊副隊長赤星イツキがモニターにかじりつくように立っていた。
息を呑み、わずかに肩を震わせながら、唇を噛む。
「すごい……これは、もう……」
言葉に詰まりながらも、彼の目には、確かな羨望が滲んでいた。
涼とアマリ――あの場に立つ二人の間に生まれた“何か”。
力でも技でもない。魂の奥底がぶつかり合った証のようなもの。
解析も、数値もいらない。
それは、ただ“見た者”だけにしか感じ取れない光だった。
その隣、三番隊隊長・河井ミオが、淡く目を細めた。
「……あれが、あの子の剣なのね」
まるで剣士が相手の型を見極めたかのように。
河井は、技術ではなく在り方に目を向ける。
攻撃しない。守るわけでもない。ただ立ち尽くし、“受ける”ことを選ぶ。
その異様な構えを、愚かだとは思わなかった。
むしろ、それを貫くには並外れた胆力と集中が必要だと、身をもって理解していた。
最後に、阿久津シンが重たい息を吐くように言った。
「はぁ……どうしろってんだよ、あんなの見せられたらよ」
彼の口調はいつもの粗さを残しながらも、どこか複雑だった。
勝敗も損傷率も、戦術評価も、あの瞬間には意味をなさない。
それでも――あれは、まぎれもなく戦いだった。
生と死が交差しながら、それでも殺さなかった二人の選択。
だからこそ、重い。
「ガキのくせに……覚悟決まりすぎなんだよ」
阿久津の声に、苦笑のようなものが滲んだ。
ブース全体に沈黙が広がる。
その静けさは、敗北や終了によるものではなかった。
誰もが、言葉を持たないだけだった。
ただ、胸の内に何かを刻み込まれたように。
そして、場の中心では、涼とアマリが向かい合ったまま動かない。
その距離はわずか数十センチ。
だが、交わされた“もの”は、それ以上の深さを持っていた。
……それを誰よりも強く感じていたのは、当事者ではなく“観る者”たちだった。
⸻
雷鳴のような衝撃の余韻が、まだ空間に微かに残っていた。
試験場の中央、金色の髪を揺らして立ち尽くすアマリの拳は、涼の鼻先で止まっていた。
その左腕は、既に限界を超えていた。義体の接合部からは火花が散り、オイルと焼け焦げた臭いが漂う。セーフティ解除の反動が、体を蝕んでいる。
それでも彼女は動かなかった。
殺せなかった。
殺さなかった。
静寂の中、会場スピーカーが低く、現実を告げた。
『特別試験・第二戦、終了』
そのアナウンスが、凍りついた空気に現実を突き刺す。
それを合図にしたかのように、アマリの膝が崩れた。
軋む金属音と共に、少女はその場に膝をつく。
顔を伏せ、肩がわずかに震えていた。
涙が、床にひとつ落ちた。
涼もまた、ゆっくりと力を抜く。
息を吸い込んだ肺が、ひどく重い。
音もなく膝をつき、アマリと同じ高さで、ただ彼女を見た。
どちらが勝ったとも言えない。
どちらが負けたとも、言えなかった。
だが、そこには確かに、何かが残っていた。
――共鳴。
理解しあえたわけではない。言葉を交わしたわけでもない。
それでも、交錯した拳と沈黙の中に、わずかな響きが生まれた。
涼がふと、視線を落とすと、アマリの肩が小さく動いた。
「……名前」
かすれた声が、空気を震わせた。
「……お前、名前は?」
その声には、怒気も敵意もなかった。ただ、消え入りそうな問いかけ。
涼は少しだけ、目を細める。
傷の痛みと混じった熱が、胸の奥をくすぶらせていた。
「……涼」
抑え気味な声が、空間に落ちる。
「佐藤、涼」
それ以上の言葉はなかった。
それで十分だった。
名前を尋ねられたということ。
名乗ることが許されたということ。
それは、敵としてではなく、人として認識されたという、微かな証だった。
アマリは、顔を上げないまま、ふっと息を吐いた。
どこか安堵にも似たその仕草に、涼は確かな変化を感じていた。
やがて、場内の照明がやや明るさを取り戻し、静かに試験場を包み込んでいく。
二人の間にあった激しさは消え、残されたのは、沈黙の中に宿る理解未満の何かだった。
誰も、その時間を壊さなかった。
観測ブースの誰もが、言葉を持て余していた。
それほどまでに、異様で、美しい試合だった。
涼は、ただ静かに目を閉じる。
傷が痛んだ。
だが、心のどこかに、温かい火が灯っている気がした。
あの少女が、本当にただの“敵”であるならば――あの拳は、止まらなかった。
(……また、一歩)
何かに近づけた気がした。
その確証は、まだ得られない。
だが、信じられると思った。
“言葉にならない痛み”こそが、人を動かすことがあるということを。
涼はゆっくりと視線を前に戻す。
そこに、アマリはまだ座り込んだまま、肩で息をしていた。
それでも、もう拳は握っていなかった。
そして、涼もまた――構えることなく、そこにいた。
⸻
ご覧いただきありがとうございました。
今回は、沈黙と衝動の狭間で、
“戦わない”という選択が生む新たな意味を描きました。
勝ち負けでは測れないもの。
理解し合えないまま残る感情。
その断絶の奥に、微かな共鳴が確かに息づいていたはずです。
次回、第16話。
試験の幕は静かに下り、そして、新たな問いが再び少年の前に立ちはだかります。
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