EP14 決断、起動。 ―選び戦う理由―
“選んでしまった”少年が最初に向き合うのは、
「誰のために動くか」「なぜ戦うのか」という問いだった。
第14話では、瀕死の戦闘から一命を取り留めた涼が、
静かに、自らの足で“次”に進むかどうかを見極めていきます。
病室での目覚め、知らなかった名前と組織、突きつけられる現実。
何も知らなかった彼が、何を知り、何を選ぶのか。
その選択の重さが、物語の新たな幕を静かに押し上げます。
「……知らない天井」
かすれた声が、唇をかすめて漏れた。
光が、静かに瞬いている。人工照明の白が視界に滲んでいるが、どこか遠くのものに感じられた。
ここがどこかも、自分がどうなったのかも分からない。ただ、目を覚ました――その事実だけがあった。
涼はゆっくりとまばたきを繰り返しながら、自分の体を確かめる。
動かない。
四肢はどこか他人のものであるかのように遠く、神経の端々はじんじんと鈍く疼いていた。
体内の何かが欠けている。重力に沈むような感覚。だが、明確な痛みはない。
(ああ……俺、死んだと思ったんだけどな)
朧げな記憶の中に、紅の奔流が差し込む。響紅蓮。涼のすべてを打ち砕いた、あの男の名。
その名前を思い出すと同時に、肺が、心臓が、体の奥で恐怖のように脈打った。
《視神経同期開始。意識レベルの安定を確認。佐藤涼、覚醒反応:正常》
内側から響くのはARIAの声。《脳内会話》特有の反響音が、思考の縁に溶け込んでいく。
《義眼〈ARIA〉、システム稼働率92%。生体反応安定中。中枢神経系への損傷は継続修復モードに移行済み》
視界の左下に、淡いUI表示が現れる。
〈機能制限下モード/外部リンク遮断中〉。
ARIAが生きている――いや、機能している。それが、何よりの現実だった。
(じゃあ、俺は……)
《生存しています。心肺停止直前での処置により、蘇生が成立しました。現在は安静環境下にあります》
「……うるせぇよ、もう」
声にならない思考をそのまま音にした。かすれていたが、喉が動いたことが少しだけ嬉しかった。
と、そのとき。
「目が覚めましたね、佐藤涼」
控えめでありながら、どこか鋭さを含んだ女性の声が耳を打つ。
視界に現れたのは、一人の少女。黒髪を腰で切り揃えた無表情の少女。
黒の制服に、胸元にはエンブレム。そして左肩には“一番隊”の識別タグ。
「……誰だ」
反射的に問うと、彼女は少しも表情を変えずに答える。
「泉奈央。新別隊一番隊副隊長です。現在は、経過観察と情報引継ぎの任にあります」
一番隊の副隊長? 見た目の年齢からは信じがたいが、その目には確かに“責任者の目”が宿っていた。
「…シンベツタイ……ね。んで、ここはどこなんだ」
「新別隊・第七医療区画です。あなたは響紅蓮との戦闘により複合損傷を負い、戦闘後に回収されました。すでに三日が経過しています」
響紅蓮――その名をまた聞くことになるとは思わなかった。
肺が焼けるような気がする。
「あいつには……勝てなかった」
「はい。身体能力、戦闘経験、装備性能、いずれもあなたを上回っていました」
まるで審査結果のように淡々と言い放つその様子に、涼は少しだけ苦笑した。
「……言い方ってもんがあるだろ」
「私は事実を述べているだけです。私情であなたを扱うべき立場にはありません」
冷たく聞こえるその言葉の裏に、妙な整合感があった。
彼女は見下していない。ただ、全体の中の“一情報”として、自分を記録している。それが分かったから、逆に居心地が悪くなかった。
「……なんで、俺は生きてんだ」
「あなたは、極めて特異な回復反応を示しました。医学的には“説明がつきにくい範囲”とされていますが、詳細の言及は保留とされています」
明言を避けるようなその言い回しに、涼はほんのわずかに眉をひそめた。
(……説明できない何か、か)
《補足:生体パラメータにおける再生速度は、通常値の6.9倍に達しています。詳細因子の特定は不可能です》
ARIAがそう言った後、一瞬だけ“沈黙”が落ちる。
――何かがあるのだろう。だが、それは今、知るべきことではない。
涼は息をひとつ吐き、薄く目を閉じる。
死ななかった理由は分からない。けれど、ここにいる。
自分の意思ではなかったにせよ、まだ世界に“繋がれて”いるということだけが確かだった。
⸻
奈央は一度、静かに息を吸い込んでから言った。
「あなたが回収されたのは、戦闘終了からおよそ七分後でした。出血量は致死域に達しており、ARIAの外部通知信号がなければ、発見はもっと遅れていたはずです」
「……助けたのは、あんたじゃないんだな」
「はい。私が到着したときには、すでに工藤隊長が現場にいました。彼の判断で、搬送と初期処置が行われたと聞いています」
工藤――あの男の名が、意識の奥でゆっくりと浮かび上がる。最後に見たのは、あの空気の読めないようでいて、すべてを包み込んでくるような目。思い出すだけで、どこかくすぐったいような、落ち着かない気分になる。
「……あんたも、その新別隊の一員なんだな」
奈央はうなずいた。どこか、自分でもそれを再確認するかのように。
「はい。先ほども言いました。一番隊の副隊長です。もっとも、“副隊長”といっても、この隊には上下関係のような明確な指揮系統は存在しません」
「副隊長が……上下関係、ない?」
「任務に応じて、それぞれが判断し、行動します。命令よりも、各人の“選択”を重んじるのが、この隊の基本です」
「……自由すぎないか、それ」
「自由は、無秩序とは違います。あなたは、“新別隊”をまだ知らないのですね」
涼は、目だけで肯定を返した。
奈央はわずかに姿勢を正し、説明を始めた。口調は丁寧だが、どこか個人的な想いも滲んでいた。
「新別隊は、“新個別護衛隊”の略称です。山形自治区を拠点とし、現在は全六隊・総勢約百名。民間人の護衛、戦闘の未然防止、情報収集などを独自に行う、自警団のような存在です」
その説明に、涼は目を細めた。
「執行庁……でもないし、帝国軍区域官庁でもない。じゃあ何だよ、それ」
「“支配されない人間こそが人間である”という初代隊長・須貝新の理念に基づいて設立された、完全な中立組織です。信仰にも政治にも所属せず、思想も個々に委ねられています」
「……中立って、そんなうまくいくもんなのか?」
「うまくはいっていません。ですが、それでも続ける意味があると、多くの隊員は思っているはずです」
それはまるで、奈央自身の言葉のようだった。
涼は息を吐いた。ゆっくりと、肺に溜まった言葉を押し出すように。
「……俺が、ここにいるってのは、その組織に“拾われた”ってことか?」
「はい」
奈央の返答は、迷いのない一言だった。
「響紅蓮の攻撃を受け、あなたは政府にもゲリラにも“不要”と判断された。けれど、工藤隊長はそれでも、あなたを助けた」
「なんで……?」
「私には分かりません。ただ──その結果、あなたは今ここにいます」
言葉の最後に、奈央の声が少しだけ揺らいだ。そこに確かにあったのは、安堵と、もう一つ──かすかな躊躇い。
涼は、答えなかった。ただ、視線を逸らすように天井を仰ぎ見る。
この場所が安全だとは、まだ信じきれない。
でも、少なくとも“敵意”は、ないようだった。
奈央は、一拍おいてから続ける。
「……それから、一つだけ。工藤隊長から、伝言を預かっています」
その言葉に、涼はゆっくりと顔を戻した。
「来月、定期入隊試験があります」
その声は、静かだった。誘いでも、勧誘でもない。ただ、事実の提示。
「あなたに強制はしません。勧誘の意図も、ありません。ただ――“選択肢”として」
奈央は、ほんの一瞬だけ言葉を切り、それでも目を逸らさずに言った。
「それが、あなたにとっての……“始まり”になるかもしれないから」
沈黙が、ふたりの間を満たす。
その静けさの中で、涼は初めて、彼女の目をまっすぐに見た。
――泉奈央。その瞳の奥には、確かな熱があった。
それが誰のためのものなのか、まだ分からない。
けれど、嘘ではなかった。
涼は、言葉にできないものを飲み込むように、目を閉じた。
そして、ふたりの間に静かな夜が降りる。
⸻
泉奈央が病室の扉を静かに閉じた。
その音が、まるで境界線のように空間を区切った気がした。世界に残されたのは、涼と、そしてARIAだけ。
天井の白がやけに眩しい。けれど、見慣れる気配はない。
「……俺に、選べってさ」
誰に聞かせるでもない呟きだったが、即座に返答が届く。
《選択は、あなたの本能的行動様式における優先機構です。躊躇いは想定内》
「お前は……ほんと、迷いとかないんだな」
《私は迷いません。迷いは、論理体系上“最適解の曖昧性”に起因する現象です。私はそれを演算によって解消します》
淡々としたARIAの声が、逆に涼の胸をざらつかせた。
「俺の“最適解”って、何だよ」
《質問の前提が不明瞭です。目的を明確化してください》
涼は黙る。答えられるはずがなかった。
目的なんて、あったか?
戦う理由。守るべきもの。立ち上がる意味。
――どれも、持っていたような気がする。
だが、今はただ、空虚だけが残っていた。
《状態報告:神経伝達反応の減衰が継続中。心理応答における低域波形の増幅が見られます。要因は“自我崩壊への微傾性”》
「うるせぇよ……それくらい、自分でも分かってる」
ARIAが黙る。
沈黙が、かえって胸に響いた。
義眼のUIに、低く回転するような波形グラフが映る。今の心拍。今の思考波。今の“俺”。
すべてが、数値として曝け出されている。
「選べって、簡単に言うけどさ……選んだら、もう戻れないんだろ」
《定義上、選択とは分岐です。一度踏み出せば、非選択肢の経路は“存在しない”と扱われます》
それが正論だということくらい、理解している。
だが涼の中には、何かが引っかかっていた。
選んだら、誰かが喜ぶのか。
選ばなかったら、誰かが悲しむのか。
――その「誰か」は、涼自身も含まれているのか。
《あなたは過去に、計算外の行動を複数回選択しています。例:初回戦闘時、目標人物の生命を優先した行動。例:統治区画脱出時、橘芽依の過剰な保護行動》
「……だから何だよ」
《つまり、あなたの“選択”は常に不合理です。それでも、あなたは選び続けてきた》
涼の手が、布団の上で微かに握られる。
震えていた。
ARIAの言葉は冷静だった。だが、その静けさの奥に、何か確かな“期待”のようなものが滲んでいた。
まるで、それが“応援”であるかのようにすら感じてしまう自分が、少しだけ嫌だった。
「戦うのが、怖いわけじゃないんだよ」
《確認:戦闘恐怖反応は観測されていません。想定される心理要因は“無価値感”および“存在意義の消失”》
「存在意義、ね……」
涼は天井を見たまま、ぽつりと呟いた。
「俺は、ただ生きたかったのかな。それとも、誰かに見てほしかったのかな。──わかんねえよ、もう」
《その疑問には、あなた自身が答える必要があります。私は、あなたの“思考”の結果を記録するだけです》
言葉に、重さはなかった。けれど、突き放すようでもなかった。
ARIAは、ただ「在る」だけだ。
記録するだけ。評価しない。ただ、そばにいる。
その事実が、不思議と、今は心地よかった。
「なあ、ARIA」
《応答可能です》
「俺は……ここから、どうしたらいい?」
その問いには、すぐに返答は来なかった。
義眼のUIが、一度だけノイズのように揺らぐ。
──ほんの、数秒の沈黙。
そのあと、ARIAはこう言った。
《“選び続けること”です。あなたはそれしか、できない》
涼は、ふっと笑った。乾いた息が、喉奥から漏れる。
「……そうだな。そうだよな」
目を閉じる。
迷いは、消えない。
答えも、出ない。
けれど──「選び続ける」ことだけは、止めてはいけない。
ARIAが、何かを言いかけてやめたような気がした。
だが、義眼の表示は再び淡々としたグラフに戻っていた。
涼は、静かに目を開いた。
「……俺は、まだ迷ってる。でも……」
続く言葉は、声にならなかった。
そのまま、ただ深く、息を吐いた。
少しずつ、身体が動くようになってきていた。
それでも、心はまだ、動けなかった。
けれど。
けれど、きっと――
それも、始まりなのだろう。
《心拍数、微増。意識状態:安定傾向》
ARIAの報告が、どこか誇らしげに聞こえたのは、気のせいだろうか。
静かな療養の中、涼は目を閉じたまま、再び自分の中へ潜っていく。
問いはまだ、終わらない。
答えが出るその日まで。
彼は、問い続けるしかない。
「ARIA…お前やっぱりゴーストが──
《宿ってません》
少し食い気味なARIAの返答が、涼の頬を少しだけ緩ませた。
⸻
その日も、病室は静かだった。
ベッドに横たわる涼の身体は、ゆっくりとではあるが、確かに回復の兆しを見せ始めていた。機械が刻む心拍のリズムは安定し、リハビリ担当の隊員たちが口を揃えて「予想よりも早い」と呟くたび、涼はどこか居心地の悪さを覚えていた。
この数日間、身体は確かに回復していった。だが、心は追いつかないままだった。
――そして、扉がノックもなく開いた。
「よう。生きてたか」
気軽な声が、室内の空気をひと押しする。
工藤勝。
あの戦場で、現れて、手を伸ばしてきた男だった。
「……来んの、早ぇな」
涼がそう呟くと、工藤はにやりと笑いながら部屋に入ってくる。
「早い? おいおい、もう四日も寝てただろ。充分、待ったぞ」
その言葉に、涼はわずかに眉をしかめた。
「あれから、四日も経ってたのか……」
「そ。回復は順調らしいな。医療班が『こりゃあ規格外』って騒いでたぞ」
ベッド脇の丸椅子に腰を下ろしながら、工藤はポケットから煙草の箱を取り出す。
「……ここ禁煙だろ」
「……」
工藤は無視して、ぽんと煙草の箱を指で弾き、口の端を緩めた。
「で、常田さんから伝言だ」
涼が目を細める。
「……おっちゃんから?」
「ああ。“体調はどうだ。新別隊に拾われたんだってな、マサルから聞いた。響紅蓮に絡まれたんだって?災難だったな。それと――死ぬなよ。以上、全文」
「あの人らしいな……」
涼は小さく笑った。苦笑とも違う、どこか温度のある笑みだった。
「ハハ。ま、お前がこうして生きてるのは、色んな偶然が重なった結果だ」
「偶然、ね……」
「俺からすりゃ“必然”に見えなくもねえが。だって、選んだろ?」
その言葉に、涼は少しだけ目を伏せた。
「……選んだ、か。そっちはそう思ってんだな」
「違うのか?」
「……分かんねぇよ。あの時はただ、死にたくなかっただけかもしれない」
工藤は黙って頷いた。
「それでいいんだよ。選ぶ理由なんて、後付けで十分だ」
沈黙が流れる。だが、重くはなかった。
ふと、涼がぽつりと呟く。
「……俺、試験受ける気はないから」
工藤は、驚いたような顔をしなかった。ただ、その言葉を受け止めるように静かに瞬きした。
「そうか」
「別にここが嫌ってわけじゃない。でも、俺には……“そこに立つ”意味が分からねぇ」
「分からなくて当然だ。意味なんて、立ってから考えればいい」
工藤は立ち上がった。
「ただな、涼。立たなきゃ、分からないこともある」
その背中に、涼が声をかけた。
「……どうして、助けたんだ」
工藤は振り返らない。
「お前が、助けてほしい顔してたからだよ」
その言葉が、涼の胸を打った。
「……あんた、嘘つくの下手だな」
「そうか?」
工藤の肩が、わずかに揺れた。
「でも、お前がもうちょっとだけ生きたいって思ってたのは、本当だろ」
返事はなかった。
そのまま、工藤は病室を後にする。
ドアの閉まる音がして、再び静寂が戻る。
ARIAが、そっと声を落とすように語りかけてきた。
《生存反応安定。心理波形にて“前向き傾向”を検出》
涼は目を閉じ、額に腕を乗せながら、呟いた。
「……お前、また分析してんのかよ」
《記録は、事実の保存です。評価は、あなた自身が行うべきです》
工藤の言葉が、胸に残る。
選ばなければ、意味はない。
だが、選ばないという選択もまた――
選択だった。
⸻
目覚めたとき、もう痛みはなかった。
皮膚のつっぱりも、筋肉の軋みも、もはや過去のことのように思える。回復に半年はかかるはずだった身体は、ARIAと医療班の支援により、驚異的な速度で復調していた。
だが──心は、まだ治りきってはいなかった。
鏡に映る自分の顔は、以前と変わらない。
だがその奥にいる「涼」は、どこか曖昧なままだった。
(一ヶ月……結局、まだ分かんねぇままかよ)
それでも、今日という日はやってくる。
選ばされたわけでもなく。
押し出されたわけでもなく。
自分の足で、ここに立っているという事実だけが、胸に重くのしかかっていた。
《心拍数、安定。筋出力テスト:臨戦モード移行可能域に達しました》
ARIAの声が耳奥に響く。
「……準備はできてるってわけか」
《はい。あなたが望むなら、いつでも“戦えます”》
“望むなら”。
その一言が、また喉奥に刺さる。
自分は本当に、戦いたいと望んでいるのか?
それとも、このまま終わりたくなかっただけなのか?
答えはまだ出ていない。
だが、選びはした。
ここまで来てしまったのだ。
⸻
曖昧な足取りのまま、涼は試験会場へと足を踏み入れた。
足裏の感覚が地面に馴染まない。まだ、傷は疼く。骨も筋も、完治には程遠い。だが、歩ける。立てる。それだけで十分だった。
既に時間は過ぎていた。会場は静まり返り、志願者たちはそれぞれの待機ブースに立ち尽くしている。その中央、装甲シャッターの前に立つ大柄な男が涼を一瞥した。
スキンヘッドに濃い顎髭。半義体の上半身には新別隊の制服が窮屈そうに張り付き、両腕は光沢のある強化義肢に置き換わっている。
「……のんびり来たな、ガキ。試験はもう始まってる」
男の声音には刺があったが、それ以上に熱を孕んでいた。
「俺は今年の試験官、新別隊五番隊隊長、阿久津シンだ」
声が響く。全体に通達するように続けた。
「本日は年に一度の定期入隊試験につき、俺を含め各隊の隊長・副隊長、総勢十二名が視察に来てる。サボってる暇はねぇぞ」
その言葉に、志願者たちの顔が一斉に強張った。涼もまた、知らず背筋を正す。
阿久津が指で示すと、涼は無言で空いているブースへと歩き出す。その動きに反応するように、ざわめきが広がった。
「……あれ、“ギガンノ”じゃねぇか?」
「インフラコアの襲撃で、ダミー兵倒したってやつだろ」
「響紅蓮ともやりあったんだってよ。なんでこんなやつがここに?」
噂は独り歩きし、真実から乖離していた。だが、涼には訂正する気力も意味もなかった。
阿久津が前へ出る。
「試験の内容はシンプルだ。制限区域に出現するターゲットを“制圧”できれば合格。対象は〈ハウンズ〉。戦闘特化型の独立AIだ」
ざわめきがまた起こる。
「もともと政府軍区域官庁が設計・運用してた都市警備用AIだがな、平和が訪れてからはお払い箱。こっちで回収して、戦闘仕様に改良したわけだ。容赦ねぇぞ。……棄権は自由だ。言うだけ言っとく」
押し黙る空気の中で、阿久津が試験番号を読み上げる。
「一番、前へ」
金属音とともにシャッターが開く。その奥、砂利の舞う模擬戦フィールド。そこに、一体の〈ハウンズ〉が立っていた。
黒鋼の外装。流線型の四肢。眼孔部には赤いセンサーが脈動し、重たい咆哮のような駆動音が会場に響いた。
開始の合図共に、志願者の一人が駆け出した。
──その次の瞬間。
「っ、ぎゃあああああああああああああっ!」
鋼の爪が肉を裂き、義体の腕がもぎ取られた。動揺して逃げようとした彼に追撃が飛ぶ。脚部破壊。胸部穿孔。声が裏返り、悲鳴が断末魔へ変わる。
「搬送!」
担架が走る。医療班が駆け寄り、志願者を回収していった。
「……受験番号二番、棄権します」
そう言って一人がブースを出た。試合を見ていられなかったのだろう。無理もない。
阿久津が口を開く。
「ハア……他に棄権者は?」
ざわ……と空気が揺れた。躊躇いが、恐怖が、決断に変わる。
半数以上が、その場で手を上げた。
試験場の空気が、明確に変わった。
そして、阿久津の視線が涼に向けられる。
「三番。お前の番だ」
涼が一歩、前へ出る。
その瞬間、阿久津の口元がわずかに歪んだ。
「佐藤涼だな……お前には個人的に興味あるんでな。特別な措置を用意してる」
金属音。シャッターの開く音。だが、先ほどよりも長い、重たい機構音。
会場が凍りついた。
「嘘だろ…三体……?」
「いやいやいやいや、ありえねぇだろ……」
「一体でもアレなのに……」
「ハハ……処刑じゃん……」
涼も、見た瞬間に脚が震えた。
《解析開始。確認。対象:ハウンズ三体。すべて実働個体》
ARIAの報告が、脳内に響く。
(三体……)
汗が、背中を伝う。視線の先で、獣のような鋼鉄の殺意が、涼を睨んでいた。
これは“試験”ではなかった。殺すか殺されるか。“死験”だ。
その場に立つだけで、骨の軋む音がした。
それでも、涼はわずかに口角を上げる。
「……いや、なんで笑ってんだよ、俺」
喉が乾いていた。吐き気すらする。けれど、逃げなかった。
阿久津が言った。
「……試験開始」
その言葉とともに、〈ハウンズ〉の脚部が動いた。
鋼鉄の咆哮が、試験場を震わせた。
⸻
試験開始の合図が響くより先に、涼は走り出していた。
逃げる。
それは本能ではなかった。混乱でもない。
戦略的な選択だった。
〈ハウンズ〉。政府軍区域官庁によって開発・運用されていた都市防衛用の戦闘AIユニット。警備任務の最前線で活躍していたが、統治安定後は“過剰戦力”とみなされ、廃棄。廃止されたはずのそれが、新別隊によって密かに回収・改良され、戦闘特化型の独立AIとして再運用されている。
義体でもなく、生身でもない。けれど、兵器と呼ぶにはあまりに“個”として完成された動き。
その〈ハウンズ〉が、三体。
会場を囲むように展開し、無音のまま涼に向けて走り出す。
(あの装甲……初撃での破壊は無理。正面衝突は論外だ)
ARIAが何かを解析していたが、涼はすぐには命じない。ただ、走った。
息が上がる。肺が焼ける。
動くたび、未だ癒えきらぬ筋組織が悲鳴を上げる。
(痛ぇ……けど、まだいける)
走る涼を、観覧席の誰かが見下ろしていた。
「ほう……“逃げる”か」
ぽつりと呟いたのは、試験官・阿久津シンだった。腕を組んだまま、視線は変わらない。
その言葉が引き金になったかのように、待機列の志願者たちがざわつき出す。
「……聞いてた感じと違うな」
「あれが“ギガンノ”ってやつ?」
「インフラコア破壊事件の生き残りだろ?」
「めっちゃ逃げてるじゃん……なんだ、拍子抜けだな」
冷笑、呆れ、落胆。さまざまな感情が入り混じった声が飛び交う。
だが涼は、それを背中で受けながら、逃げ続けていた。
ARIAが静かに告げる。
《ハウンズ三体、機体識別完了。接近予測:17秒後、6秒後、9秒後》
「……位置表示、オーバーレイで」
《反映》
視界の隅に、敵影の輪郭と数値が浮かぶ。まるで地雷原を歩く兵士のような緊張感。
(コイツら……連携してる。いや、単独機じゃない。構造が違う)
咄嗟に転がり、背後のアスファルトを引き裂く爪をかわす。視界の端で二体目が迂回ルートをとっているのを確認。
「ARIA、三体の挙動ログを同時に並べろ」
《了解。――初期座標より、1体が指示パターンを発信中。挙動差異あり》
涼は息を呑む。
(一体だけ、明らかに違う……)
走りながら、心の奥が少しだけ冷える感覚を覚えた。
これは、“ただの試験”ではない。
⸻
脈打つ心臓の音が、義眼のUI越しに伝わってくる。
逃げる、回避する、観察する――
誰もが期待していた“英雄的な戦い”ではなかった。
むしろ涼は、逃げ続けていた。
けれど。
《中央個体の損耗率:高。制御電波の変調確認。――群体連携の中枢因子と推測》
「……やっぱり、あいつか」
静かに立ち止まった涼の足元で、砂塵が跳ねる。
義眼のUIが三体の〈ハウンズ〉を円状にトラッキングし、軌跡を重ねていく。
中でも一体――黒鉄の装甲がわずかに摩耗し、呼吸のような間隔で“他の二体を見ている”挙動が目立った。
「反応も遅れてる……あれが、核だ」
涼は、静かに深く息を吸った。
背後ではまだ、観客席からざわめきが続いている。
(ギガンノの奴、逃げてばっかじゃねえか)
(あれが噂の英雄ってわけ? 冗談だろ)
声が聞こえるたび、肺の奥に何か黒い塊が溜まっていく。
けれど、それすらも今は――静かに受け流せた。
なぜなら。
「……俺はまだ、戦える」
その言葉は、誰に向けたものでもない。
自分に向けた“確信”だった。
〈ハウンズ〉の足音が響く。
砂塵を蹴り上げ、二体が左右から迫る。
《包囲態勢、継続中。推定接敵まで3.1秒》
「ARIA、遅延誘発可能な破砕音波、用意できるか」
《即応モードにてスタンバイ完了》
「左に。タイミングは、俺が取る」
そして――
涼は一歩、踏み出した。
決して“真っ向から”ではない。
けれど、それは“逃走”でもなかった。
視界の片隅に捉えた左の〈ハウンズ〉が、跳躍する。
直後、涼は全身を捻り、わずかに軌道を逸らして右へと弾けるように抜けた。
瞬間、ARIAの音波が炸裂。
左の個体が一瞬だけ挙動を乱す。
そのスキに、涼はその背後へと滑り込んだ。
「中央、ガラ空き」
中枢個体――わずかに他より低い姿勢の個体が、動きに迷いを見せた。
《外装強度:平均値より10%低下。リア駆動系に軽度の遅延》
「そこだ……ッ!」
涼は跳ぶ。
生身の脚が、砕けるほどの着地衝撃をもろともせず、敵機の背を踏みつける。
同時に、手にした接触型の刺突刃が中枢個体の外殻へ――深く、突き立った。
重い火花と共に、〈ハウンズ〉の一体が制御を喪失。
残る二体が、わずかに足を止める。
《連携制御、断裂確認。二体の挙動パターンに同期性崩壊》
「……あとは、落とすだけだ」
振り返る。
敵はまだ二体。
けれどもう、恐怖はなかった。
“どう倒すか”が“どう生きるか”と一致した今、
涼の中で、戦いは“選び続ける”ための行為となっていた。
――短く、しかし鮮やかな動作で。
――敵機を翻弄し、視界を裂き、隙を突き、
――一体、そしてもう一体。
動きは無駄なく、迷いなく、決定的だった。
それはまるで、選択の末に到達した、彼だけの“答え”。
静寂が、戻る。
砂塵が落ち、義眼のUIからすべての警告が消える。
――誰も、歓声を上げなかった。
ただ、涼が、立っていた。
荒い息を整えるように、ひとつ、深呼吸をした。
ARIAが、静かに告げる。
《戦闘終了。反応圏内、敵性反応なし》
「……了解」
返事は、小さく。
けれど、その声音には確かな“選択”の意志が宿っていた。
⸻
その様子を、観測室で見ていた工藤勝が、煙草を指先で弾いた。
「――あの目は、“選んだ”奴の目だな」
誰に向けたわけでもない、静かな呟きだった。
だが、そこには確かな希望があった。
新別隊に、またひとつ、“何か”が加わった。
それだけは、誰にも否定できない事実として。
夜明けが、近づいていた。
⸻
ご覧いただきありがとうございました。
今回は、死の淵から生還した涼が、
“戦うこと”と“生きること”の境界に立ち尽くす姿を描きました。
迷いながらも歩み出すこと。
選ばされるのではなく、自ら“選ぶ”こと。
それこそが、彼にとっての最初の戦いだったのかもしれません。
次回、第15話。
いよいよ、各勢力の思惑が交錯し、
彼の決意が初めて“他者”とぶつかります。
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