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EP13 交渉、余白。ー近似値の内包ー

“選ぶこと”が許されなかった少年に、

思いもよらぬ“力”が問いかける。


第13話では、極限の状況下で交差する三者の在り方と、

それぞれが抱く信念の輪郭を静かに描いています。


浮かび上がるのは、“守る”という言葉の本質。

揺らぎの中、少年は、まだ名前のない衝動と向き合います。



 振り上げた拳が、重く宙に止まっていた。


(……これで、いいのか?)


 響紅蓮の喉が、ごくりと鳴る。


 涼は動かない。血塗れで、息も絶え絶えのその身体が、まるで“これで終わる”ことを受け入れているように見えた。


(だが……)


 この小僧は、死に物狂いだった。怒りでも、執着でもない。“何か”を守るために戦っていた。矛盾だらけの行動原理に、俺は惹かれてしまった。


 だからこそ、殺さなきゃいけないのが、心底腹立たしい。


(けど、これは……仕方ねぇんだ)


 このまま放っておけば、こいつはゲリラの制御を逸脱する。政府にとっても、うちにとっても、香具師にとっても。手に負えない存在になる。


 だから、ここで“処理”する。


 わかってる。


 ……はずだった。


 だが、拳が落ちない。


 もう一度、自分に問い直した瞬間だった。





 「──うわ、ぐちゃぐちゃじゃねーか」




 奇妙な声が、すぐ傍らから聞こえた。


 紅蓮が目を見開く。だが涼には目をやらず、視線を動かす──そこに、“男”がしゃがみ込んでいた。


(……は?)


 いつからいた? どこから現れた?


 まるで自然の一部のように、そこに“最初からいた”かのような佇まい。


 無造作に腰を下ろし、涼の血に濡れた頬を指でつつく。


 「ひゃー……こりゃ痛ぇわ。よく耐えたな、お前」


 気安く話しかけるその様子には、戦場の緊張も、敵意も、まるで存在しない。


 異質だった。


 佐藤涼の顔を覗き込みながら、男は深くため息をつく。


 「──あんまり長くは持たないな、こりゃ。ネクターの過剰反応、義眼との共鳴……うーん」


 飄々とした態度の奥に、“何かを見透かす”ような光が宿っている。


 響紅蓮の眉間に、じわりと汗が滲む。


(何者だ……この空気、ただ者じゃねえ)


 思わず構えを取り直す。自然と、身構えずにはいられなかった。


 男がこちらに目を向ける。


 初めて視線が交わったその一瞬、響紅蓮の肺が、きゅっと縮こまり、鼓動が早まる。


 “圧”だ。


 殺気でも敵意でもない。ただ、そこにいるだけで、呼吸を奪っていく。


 響紅蓮は気づいた。いや、思い出した。


 ──この“気配”を、俺は知っている。


 直感が名前を呼ぶ前に、脳が勝手に口を動かしていた。


 「……親別隊一番隊隊長、工藤勝」


 名前を出した瞬間、男の口角がわずかに持ち上がった。


 「やっと気づいたか。直に会うのは初めでだよな──ゲリラ東北圏幹部、響紅蓮」


 その一言に、紅蓮の心拍が、また一段跳ね上がる。


(こいつ、“クロエ”と同格か、それ以上か…)


 強者が強者を知る、という感覚。


 紅蓮は拳を下ろした。


 それが敗北ではなく、“理解”によるものだと、彼自身が一番よくわかっていた。



 工藤勝は、まるで涼のことしか見えていないかのように、しゃがみ込んだ姿勢を崩さなかった。涼の頬をつついた指先が、まだ温もりを持っていることを確認し、ゆっくりと離れる。


「うん……ホントぎりっぎり。息してるのが不思議なレベルだ」


 その軽口には、哀れみも優しさもなかった。ただ、“現実”をそのまま言葉にしているだけの温度。だが、その無機質さとは裏腹に、どこか“守っている”ような空気が纏っていた。


 紅蓮は、言葉を発することなく、その様子を見つめていた。先ほどまで全身を熱で灼いていた怒気は、すでに消えている。


 ──違う。


 圧倒的な“異質”が、目の前にいた。


 戦場という空間にあって、誰よりも自然で、誰よりも異様。踏み込めば即死、近づかなければ置いていかれる。まるで自然災害のような存在。


 だが紅蓮は、恐れていなかった。


 むしろ、その心は、躍っていた。


 紅蓮は唇の端を上げ、わずかに目を細めた。


「……なあ」


 低い声が、その異物に向けられる。


 「お前、強ぇよな?」


 その言葉に、工藤は涼から視線を外すと、紅蓮を見上げた。まるでずっと話しかけられるのを待っていたように、穏やかに口角を上げる。


 「はは。たまに言われる」


 茶化すように言いながらも、空気は一切緩まなかった。


 紅蓮は笑う。大きく、静かに──


「おもしれえ……殺れるかどうか、今、考えてた」


 工藤の目が少しだけ細まる。


 「そりゃ、嬉しいね。で、答えは?」


 紅蓮はほんの一瞬だけ目を閉じ、すぐに言った。


「腕一本、足一本……よけりゃ二本。そこまでやれたとして、俺は──確実に、お前に殺される」


 その言葉には、恐れがなかった。諦めでもない。ただ、事実の確認だった。


 工藤は頷き、そして満面の笑みを浮かべる。


「おお、わかるか!」


 心底嬉しそうに、手を打つように言った。


「いやあ、そういうやつ、ほんと減ったよ。ちゃんと相手の強さを認識して、それでも前に出る。そういうの、大好きだわ」


 紅蓮は鼻を鳴らす。


 「こっちはそもそも、そういうのしかやってねぇ」


 互いの間に、何の言葉もなく、静かに火花が散る。


 そして、再び涼へと視線を落とした工藤は、軽く肩をすくめた。


 「……ただな、今回ばかりは、コイツを殺されるのは勘弁な」


 その一言に、紅蓮の笑みが薄れる。


 工藤の声音は変わらない。飄々としたまま、だが空気だけが一段冷えた。


 「せっかくここまで面白くなってきたんだ。そっちの都合で壊されちゃ、こっちの楽しみが減る」


 静かに放たれた言葉に、紅蓮は何も返さなかった。


 だが、その拳は──すでに下ろされていた。



 言葉が交わされることなく、響紅蓮と工藤勝の間に張り詰めた空気だけが残っていた。互いにわずかな動きもなく、だが確かに何かが交錯していた。涼の存在を挟んで、二人は対峙する。工藤が咥えたタバコに火をつけた。


 静寂を破ったのは、工藤の何気ない一言だった。


 「んで……これは、本当にお前がやりたいことなのか?」


 ぽつりと、ただそれだけ。だが、その一言は紅蓮の胸に鋭く突き刺さる。


(……やりたい、か)


 問いかけに含まれた感情は見えない。だが、その不干渉な声音が、逆に紅蓮の内部を暴いていく。


 殺す理由なら、いくらでもある。

 組織のため、統制のため、そしてこの場の収拾のため。

 だが、“自分”はどうだ?


 ──ギガンノを殺したいと思っているのか?


 すぐに答えが出せない自分に気づいた時、紅蓮は奥歯を噛んだ。


 「……誰かがケリをつけなきゃいけねえ。そういう立場ってのもあるんだよ」


 声は低く、だが苦しげだった。まるで、自分に言い聞かせるように。


 工藤はそれに返さなかった。ただ、涼の顔をもう一度見やってから、再び紅蓮に視線を戻す。


 「お前、コイツに惹かれてるんだろ」


 紅蓮の目が細くなる。敵意ではない。警戒でもない。

 ただ、自分の核心を突かれたことに対する反射的な反応だった。


 「……は?」


 「戦う理由が似てる。行動が直線的で、不器用なまでに“守ろう”としてる。しかも──暴力を、手段としてしか見ていない」


 工藤は言葉を選びながら続ける。

 「お前がいるべきなのは、今の組織じゃない。……それでも、お前はゲリラを選び、属してる。なら、その役目を果たすために、アイツを殺す。……そうだろ?」


 紅蓮は沈黙する。


 図星だった。

 だからこそ、言い返せなかった。


 工藤は一歩、前へ出た。

 だが、威圧ではなかった。


 「俺は命令しねぇよ。する理由もない。けどな、あんたがここでその拳を振り下ろしたら、もう後には戻れない」


 その言葉に、紅蓮の拳が、わずかに震えた。


 「──なんでだよ」


 しぼり出すように、紅蓮は問う。

 「なんで、てめぇはこんなガキに肩入れすんだ」


 工藤は肩をすくめて、ゆっくりと笑う。


 「おもしれぇじゃねえか、コイツ。誰の下にもつかず、誰の言葉にも従わず、それでいて誰かを守ろうとする。──そんなヤツ、そうそういねぇ」


 紅蓮の喉が、かすかに鳴る。


 (俺も……昔は、そうだった)


 もう一人の自分が、心の奥でそう呟いた。


 拳はまだ上がっている。

 だが、その意味は、もう違っていた。


 重く、ゆっくりと──その拳が、下ろされる。


 沈黙が、空気を満たす。


 紅蓮は目を伏せると、静かに工藤を見た。


 「……好きにしろ。俺は何も見なかったことにする」


 その一言に、工藤は満足げに頷いた。


 「ありがとな。……話が早くて助かる」


 紅蓮は無言で背を向けた。


 その背には、敗北でも屈辱でもない、“納得”があった。



 拳を下ろし、背を向けた紅蓮は、しばし無言で立ち尽くしていた。


 荒い呼吸が夜気に滲む。高揚でも、疲労でもない。そのどちらでもあって、どちらでもない──言葉にできない感情が、紅蓮の胸中で渦を巻いていた。


 すぐ傍には、まだ倒れ伏したままの佐藤涼。あれほど暴れた男が、今は小さく縮こまり、かすかに息をしているだけだ。


 見下ろす視線に、怒気はない。憐憫もない。あるのは、ただ一点の迷いだった。


(殺さなくて、よかったんだよな……)


 自問のような独白が、頭の奥で響く。


 「……また話せる日が来ればいい」


 誰に向けたとも知れぬその呟きを残し、紅蓮は踵を返す。だが、その足取りに迷いはなかった。


 この選択が正しいか否か──そんなことは、すでにどうでもいい。自分が“そうしたい”と思ったから、そうした。それだけのことだ。


 踏み出した一歩が、アスファルトをかすかに軋ませる。


 風が、吹いていた。


 その背中を、誰も追わない。ただ静かに──一人の戦士が、その場を去っていく。


 未練と敬意をその足音に滲ませながら。


 数歩離れたところで、紅蓮はふと、背後に目をやることもなく、手だけをひらりと振った。それは別れの挨拶にして、彼なりの“応答”だった。


 返事はない。


 それでよかった。


 そのまま、彼の影は夜の闇に溶けていった。


   


 残された静寂を破ることなく、工藤勝は黙ってそれを見送っていた。


 煙草の火を指先で軽く弾く。宙を描いた赤い光点が、弧を描いて地に落ちた。


 誰もいなくなった空間。沈黙は続く。


 涼の傍らに、ゆっくりと立ち上がる工藤。彼の視線は、倒れている少年の顔から逸れない。


 表情に、感情はない。


 けれどその沈黙こそが、何よりも深い“言葉”だった。


 彼は、確かにそこにいた。


 まるで、この瞬間のすべてを見届けるために現れたかのように。


 夜が深まる。風が、落ちる。



「……生きてるか?」


 軽く、だが確かに届く声。


 反応はない。だが、工藤は構わず続けた。


「もう少し寝てたいって顔してんな。──」


 その口調は、どこまでも軽く、どこまでも優しかった。それは命を助けた者のものではない。隣に立つ覚悟を問うような、“同じ道を見ている者”にだけ許される口調だった。


 涼の胸が、わずかに上下する。


 生きている──それだけで、十分だと工藤は頷いた。


「ネクターの反応、やばかったな。義眼があれだけ共鳴してんのも、珍しい。……ってかこの義眼、誰が作ったんだよ。洒落になってねぇ」


 独りごとのように呟きながら、工藤は涼の肩口に手を添える。傷の具合を確かめているのか、それとも、ただそこに“在る”ことを感じ取ろうとしているのか。


 涼のまぶたが、微かに動いた。


 その瞬間、工藤の表情が、ほんのわずか和らぐ。


「──ああ、起きるか。大したもんだな。ここまで壊れてりゃ、普通もう少し寝かせてほしいって言うぜ?」


 冗談めかした言葉に、返事はない。


 だが、涼の指先がかすかに動く。


 工藤はその動きを見逃さなかった。


 「……おいおい……」


 工藤少し屈むと、涼の右手が、ゆっくりと空を探るように動きはじめる。その動作には明確な意志があった──助けを求めるような、いや、“何か”を求めるような。


 (……生への強烈な執着か…あるいは)


 工藤は言葉にしないまま、その手を取った。


 静かに、しかし強く。


 握られたその手は、小さく震えていた。


 だが工藤は、それを拒まない。


「──ほら、立てるか?」


 優しさではない。


 導くでもない。


 ただ、“そこに居る”という証明のように、工藤は涼の手を包み込んだ。


 涼の目が、うっすらと開かれる。焦点の合わない瞳の中で、義眼だけが微かに光を宿していた。


 ARIAのUIが揺らぎ、再起動の兆候を示す。


〈神経応答回復──心拍安定。意識水準、低位にて推移〉


 そのデータを読むまでもなく、工藤はわかっていた。


 この少年は──まだ、ここにいる。


 そして今、自らの手で“選んだ”。


 誰の命令でもなく、誰の指示でもなく。


 自分の中にある、まだ名前のつかない“何か”に従って。


 ──工藤勝が涼の手を取り。涼が工藤勝の手を取った。


 その意味を、工藤だけが知っていた。



 涼の手を取った工藤勝は、軽く息をつきながらゆっくりと立ち上がった。


 血の気の引いたその手には、まだ温もりがあった。かろうじて、まだ生きている──それを確認しただけで、工藤の足は自然と動いた。


 「……歩けるか?」


 問いはあくまで優しく、だが、どこか確信に満ちていた。返答はない。それでも、涼の指がわずかに動いた気がした。


 その瞬間だった。


「──隊長、いつまでやってるんですか」


 場を断ち切るように、涼やかな声が背後から届いた。


 工藤がふっと肩を落とすように振り返ると、そこに立っていたのは、長髪の黒髪──副隊長・泉ナオだった。制服の皺ひとつない装い。無駄のない姿勢。表情は相変わらず無味無臭で、まるでこの場の誰とも関係を持たぬ存在のよう。


 「予定の時間。とっくにオーバーしています。回収班は帰投済み」


 ナオは時計を確認するような仕草すらせず、ただ情報だけを事実として告げた。


 工藤は頬をかきながら苦笑を浮かべる。


 「悪い悪い」


 「……彼が例の“義眼の少年”」


 「ああ」


 そう言って、工藤は肩を組んだ涼を顎で指した。奈央の視線がわずかに動き、涼を確認する。


 「……確認済みです。統治波反応、想定外の数値が出ていました。情報通りですね。」


 「それだけじゃない」


 工藤は首を振った。


 「けれど、今はただ生きてるってだけで、十分だ」


 ナオは頷きもせず、返答もなく、ただ数秒だけ黙った。


 「で?」


 「ん?」


 「いつまで浸ってるんですか。そろそろ本部から無線が入ります」


 その声音はどこか呆れのようでもあり、諦念のようでもあった。


 工藤はやれやれと肩をすくめ、涼の方に最後の視線を落とす。


 「お前も、だいぶ面倒な組織に拾われちまったな……」


 その声は、どこか寂しげで、だが微かに笑っていた。


 そして、工藤はようやくその場から離れようとする。


 「ナオ、戻るぞ」


 「了解。──あ、隊長」


 「なんだよ」


 「シャツの裾、血で汚れてます。帰ったら着替えてください」


 「コイツ抱えて結構血だらけだし……て言うか前は俺のお母さんか」


 その呟きが最後の音となり、工藤勝と泉ナオは、涼を抱えその場を後にした。



 涼の肩を工藤がそっと支えたまま、時間だけが静かに流れていた。


 佐藤涼は、まだ朦朧としていた。意識は薄氷のように脆く、不安定なまま漂っている。けれど、確かに“ここ”にいる──そのことを、工藤は肌で感じ取っていた。


 「……助けられちまった、って顔してんな」


 ぽつりと洩らすように、工藤が言う。


 リョウは何も応えなかった。答えられるほど、頭も心も整理されていない。ただ、あの瞬間、咄嗟に“彼の手を取ってしまった”自分だけが確かだった。


 それが何を意味するか、言葉にはできなかった。


 助けてほしかったのか?

 ただ死にたくなかったのか?

 それとも──何かを託したかったのか。


(わからない……わかるわけがない)


 涼は、まだその問いに答えを持たない。ただ一つ、自分が“選んでしまった”ことだけは、胸の奥で引っかかり続けていた。


 「……答えなんて、今出すもんじゃねぇよ」


 「けどもし、答えが出たら」


 視線が交わる。

 涼の義眼が、かすかに光を返す。瞳の奥に映る工藤の姿は、ぼやけながらも、どこか穏やかだった。


 「またゆっくり話そうぜ」


 ただ、それだけ。命令でも、誘いでもない。

 ひとつの“余白”を残すような、工藤の声だった。


 涼は口を開かなかった。何も言えなかった。


 けれど──その背中に、目だけが吸い寄せられていく。


 何かを言わなければ、何かを返さなければと、喉の奥が疼く。だが、声にはならなかった。心に残ったのはただ一つ、“あの手を取ってしまった”という事実。それだけが、胸の奥で重く残り続けていた。


(俺は──あの瞬間、何を望んだ?)


 自問は答えを返さない。ただ、ARIAのUIが静かに再起動を始め、統治不能性の数値が揺らぎながら表示されていた。


〈義眼デバイス、外部干渉なし〉

〈心理応答異常波形、持続的反応〉

〈心拍数:上昇傾向〉


 機械的な数値が、心の混乱を裏付けるように刻まれる。


 ARIAの声は聞こえない。だが、涼の脳内にだけは、静かな警告音が鳴り響いていた。


 (俺は──このまま、どこへ向かう?)


 思考が遠のきかけたその時だった。


 誰かの腕に抱えられ、身体がふわりと浮いた。


 視界の端で、暗い天井が過ぎる。車のドアが開き、工藤勝の声が何かを確認するように響いた。


 「後部座席、確保してくれ」


 その直後、涼の身体はやさしく座席へと下ろされた。シートの感触が、傷だらけの背中に静かに沈む。


 ──ああ、車だ。


 そう認識した頃には、意識の輪郭がまた一つ崩れていた。


 重く閉じた瞼の裏、最後に焼きついていたのは──去り際の工藤の背だった。


 それを、ただ、見送っていた。



 夜の静寂が戻っていた。


 車両の灯が遠ざかり、涼の姿は闇に呑まれていく。

 その場に残されたのは、泉ナオと工藤勝のふたりだけだった。


「──輸送班、二十五分後に本部到着だそうです」


 ナオの声は淡々としている。それが事実であること以上の意味は含まれていない。

 だが工藤には、その無機質な響きが妙に心地よかった。


「ああ」


 工藤は煙草の箱を探る素振りをして、すぐやめた。


「反応は?」


「ギリギリです。神経伝達系、アンプル過剰反応。統治波干渉データは想定を超えていました。

 ……ナノマシンへの耐性が高すぎる」


「だろうな。あれは“設計された器”だ。佐藤慶吾がどこまで仕込んでたのか、いまだによくわからねぇが……」


 工藤は少し顔を伏せ、鼻先で笑う。


「“お前は何も知らなくていい”って顔して、全部一人で完結させちまう。あの人らしいよ」


 ナオは無表情のまま、空を見上げた。


「佐藤慶吾、須貝新、黒江冥、そして常田正宗。

 プロジェクトノアを動かした五人のうち、慶吾だけが、すべてを“私有”していた」


「共有なんか、する性格じゃなかった。だから今、俺たちは“佐藤涼”という爆弾を前にしてる。解体図なしのままな」


 工藤の口調には呆れも怒りもない。ただ、少しだけ寂しさが滲んでいた。


「……こいつが何を壊すのか、慶吾は全部わかってるんだろうな。最初からさ」


「私は、理解できません」


 ナオの声は少しだけ低くなった。


「“未来を書き換える”ために、“息子を使う”。それは、倫理の問題ではなく……

 あまりにも、感情のないやり方に見える」


「感情はあったさ。……ただ、アイツの“感情”は、普通じゃ測れねぇ」


 工藤は静かに呟く。


「自分の未来を潰してでも、誰かの自由を通したい。そんなバカげた愛情だ。……だからあいつは、慶吾の“選択”だ」


「彼が、“選ばされた”のではなく?」


 「違うな」


 工藤は静かに否定する。


「“選んだ”んだよ、あのガキは。無意識に、あるいは身体で。だから俺は……少しだけ、期待してんだ」


「期待、ですか」


「ああ」


 工藤は夜の空を見上げる。遠くの星が、まるで他人事のように瞬いていた。


「俺たちはもう、“正しさ”を作ることはできねぇ。でも、残すことはできる。

 そのバトンが、あいつに渡るなら──それだけで、もう十分だ」


 泉ナオは無言で工藤の背を見つめる。


 そして、いつものようにそっけなく告げた。


「そろそろ、戻ります」


「……ああ、行こうぜ。時間はとっくに過ぎてる」


「言ってました。最初から」


「うるせぇ」


 ふたりの足音が、夜の地表を静かに踏みしめていった。


 風がまたひとつ、彼らの背を押して過ぎた。


 ──あの男の息子でなければ、あれは成立しない。


 その言葉だけが、夜に残されていた。



ご覧いただきありがとうございました。


今回は、“誰かのために動く”という選択肢しか持たなかった少年が、

他者の意志と矜持に直面し、“それでも生きる”という結果を得る姿を描きました。


押しつけられた答えではなく、

自ら手に取ってしまった可能性──それは、まだ不確かな光にすぎません。


次回、第14話。

静かに動き始めた歯車が、やがて“試練”を呼び寄せます。


▼キャラクター紹介や更新通知はこちら

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