第4話「異端の翼」
夜の空は、あまりにも遠かった。
かつて“日常”を過ごした場所を背に、リュナーレ・ノクトリアは魔導箒の柄を握りしめていた。
本来は民間業務や日常の移動用として使われていた、旧式の民間箒にすぎない。
魔導箒の騎乗経験自体は豊富だったが、ここまで長い時間での飛行は本当に初めてだった。
冷たい風が容赦なく頬を打つ。自分はいつまでこうしていれば良いのだろう?
夜の帳に紛れながら、ノクトリアはただ黙々と飛び続けた。
アストレアの空は優しくはない。いたるところに空域監視術式が張り巡らされている。
魔導塔から展開された索敵の魔法が、風の流れすらも読み取るという噂すらあった。
――もし、捕捉されれば終わり
息を殺し、箒を旋回させて逃れる。心臓の鼓動が耳にうるさい。
今までの人生で感じたことがない程の不安。
それでも、振り返ることはなかった。
振り返れば、そこにあるのは“自分の居場所”ではない。
裏切りと拒絶、そして“神の名”を騙る正義。
かつて育ったアストレアの街並みも、学院の白い塔も、すべて闇の中に沈んでいく。
光を信じた自分が愚かだった――そう思えるほどに。
だが、空はまだ続いている。
夜を裂き、旧式の箒が呻くような音を上げて飛ぶ。
魔力の出力は不安定で、補助術式の精度も既に限界。
それでも、飛ぶ。
この空の先に、自分を受け入れる場所があると信じて。
やがて、東の地平がわずかに明るくなり始めた。
空が、夜から“朝”へと変わろうとしている。
追手の気配は、もう遠い。風の匂いも変わっていた。
神を祀る香や聖銀の鎖ではない――蒸気と油、硝煙と鉄の匂い。
ノクトリアは、地図の記憶を辿る。
ここは、アストレアの国境地帯を越えた先。
科学と魔法の融合国家――マグノリア。
視界の端、遠くに黒煙と高塔が見えた。
巨大な鋼鉄の柱、巨大な工房群、無数の魔導灯が灯る都市。
「……あれが、“境界の都市”」
そこは、マグノリア魔導工廠の試験区だった。
亡命者が足を踏み入れるには、あまりにも危険な場所。
だが、彼女は迷わずそこを目指した。
危険しかない場所にしか、自分の未来はないと知っていた。
その時、箒の制御が限界を迎える。
魔力の流れが乱れ、箒が左右に大きく揺れる。
「……っ、持たない……!」
速度が落ちず、地表が迫る。試験区の外縁部に鉄塔が並ぶのが見えた。ぶつかる――そう直感した。
――次の瞬間、衝撃
耳を突き刺すような金属音とともに、機体が鉄塔に激突し、爆風が吹き上がった。
火花が散り、黒煙が空に昇る。鉄と火薬の匂いが辺りに充満する。
「何が起きた!? 落下物か!?」
「いや、違う――人影だ! 魔導箒が……!」
混乱と怒号の中、焦げた制服に身を包んだ少女が煙の中から転がり出た。
工廠の警備員と技術者たちが現場に駆け寄る。
そこにいたのは、血まみれで意識を失った少女だった。
焦げた制服。壊れた民間箒。異国の魔力とは異なる、淡く蠢く黒の残滓。
「おい、誰か急げ……この子、まだ生きてる!」
脈を確認した技術者が叫ぶ。
その瞬間、周囲の空気が変わった。
「医療班!すぐに担架を!工廠上層部にも連絡しろ!」
誰も、その少女が“敵国の処刑対象”だったとは知らなかった。
だが、彼女の纏う雰囲気が、すべてを物語っていた。
――この少女は、普通ではない。
ノクトリアの視界が、ぼやけていく。
焦げた空、鉄の匂い、人々の影。
(……生きて、いる……?)
淡くそんな疑問を抱いた直後、意識は闇に呑まれていった。
■ ■ ■
目を覚ましたのは、三日後の朝だった。
天井には魔導照明の光。鉄と薬品の匂い。
寝台の横では魔導式の呼吸補助器が静かに稼働していた。
「……ここは……」
口内に鉄の味。けれど、意識は明瞭。
扉の向こうから足音が近づき、白衣を着た整備士が顔を覗かせた。
「目が覚めたか。驚いたぞ、あんな状態で生きてるなんてな」
中年の男。胸には〈マグノリア魔導工廠・整備部所属〉の紋章があった。
「名前は?」
「……リュナーレ・ノクトリア」
男は腕を組み、しばらく無言で彼女を見つめた。
「で、あんたは何者だ? こんなもん乗り回して、アストレア側の危険な空域を越えてくる奴なんて見たことねえ」
彼が示したのは、焼け焦げた民間用箒の残骸だった。
ノクトリアは答えなかった。ただ、その問いに目だけを向けた。
「まあ、いいさ。無理に聞くつもりはねえ」
彼はそう言って、ぽつりと呟いた。
「……けど、アンタの魔力波……とんでもねえな。こんなの、見たことがねえ」
「……」
「アストレア人特有の光属性じゃねえな。なんだ、これ。黒い、でも濁ってない……」
整備士は興味を隠しきれない表情で唸った。
「まあいい。俺の名はエミリオ。魔導整備士だ。縁があったら、また会うかもな」
そう言って、彼は軽く手を挙げて部屋を出ていった。
残されたノクトリアは、天井を見つめながら、静かに息を吐いた。
その瞳には、闇に沈んでなお消えぬ微光が宿っていた。
――名も、国も、信仰さえも捨てた少女に残ったもの。それは、ひとつの意志。
――私は、生きる。
――そして……抗う
夜を越え、少女は再び目を開ける。
この空に、新たな風を巻き起こすために。
読んでいただき本当にありがとうございます!
小説初心者で拙い文章ではございますが、最後までお付き合いいただけましたら幸いです。
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