第三章:01:《繚嵐》へ
『華街』という組織が治める街──《繚嵐》。
《繚嵐》とは、昼夜絶えず人々が活動する街だ。
そしてこの地域において、最も人間の尊厳が守られる街でもある。
《繚嵐》は《学修区》と《不夜区》という二つの区域に分かれている。
《学修区》とは、子供のための街。
子供たちが、勉学に励むことができる人材育成の場所だ。
《学修区》には学校が多く存在し、多くの子供たちが住んでいる。
対して《不夜区》とは、大人のための街。人材売買が行われる街だ。
基本的に《学修区》の子供たちは《不夜区》に入れない。
《繚嵐》は、大人と子供の棲み分けがきちんと区別されている街だ。
『華街』という組織は、人材売買と人材育成を行う組織だ。
人材売買や人材育成というと、聞こえが悪い。
だが『華街』で行われる人材売買は、人間の尊厳が最大限尊重されている。
その証拠に、『華街』での人材売買は必ず『契約』が求められる。
『契約』とは『華街』のオーナーである《契約の権化》、伊冴見の権能だ。
彼の権能である『契約』は双方の合意によってのみ結ばれる。
それに加えて、『契約』が結ばれる際、いくつかの約束事を決められる。
その約束事を破れば、破った方に正当な『契罰』が下される。
それに『華街』で行われている人材育成は、育てて売るためのものではない。
あくまで子供たちが、自分の力で生きていけるようにするため。
だから人材育成で育てられた子供が、そのまま『華街』で身売りはしない。
『華街』で行われる人材売買は、誰かに強要されるものではない。
自分の身や技術を売りたいと思う者が、『契約』に基づき自分を売るのだ。
『契約』によって、人々の尊厳が最大限に守られる街。
だからこそ《繚嵐》は、この地域で最も人々の尊厳が守られる街と謡われるのだ。
《繚嵐》はかつて日本に存在した遊郭や花町と言った情欲の街をベースに、どこか大陸系の色香が集まる街並みをモチーフにしている。
そんな《繚嵐》が最も静まり返るのは、朝の九時過ぎから一〇時。
大人たちが眠りにつき、子供たちが学校への登校を終えた時間帯である。
その時間帯。『軍警』の副総指揮である獅子我兵志は大型バイクに乗り、《繚嵐》の《学修区》──その居住区画を訪れていた。
兵志が乗っているバイクには、『軍警』のエンブレムが施されていない。
そして兵志自身も、『軍警』の隊服や武装を一切身に着けていなかった。
兵志が着ている服はインナーシャツに前を開いたワイシャツ、ボディハーネス。
それと締め上げるベルトが一体化しているズボンに、厚底のブーツ。
服装のすべては、兵志が『軍警』としての身分を隠す時のために用意したものだ。
兵志は二輪バイクのエンジンを停めると、生体認証で鍵をかける。
そしてバイクから降りて、目の前の家屋を見上げた。
《学修区》にある居住区画の家屋は、日本家屋に大陸系の意匠が施されている。
兵志の目の前にある二階建ての家屋には、軒先には提灯が飾られていた。
兵志がインターホンを押そうとすると、表の窓が開いた。
「兵志様、お久しぶりです」
兵志に声を掛けてきたのは、二〇代前半の儚げな女性だった。
黒髪に、黒い瞳。白い肌。
典型的な日本人の姿をした女性は、見るからに体が弱そうだ。
儚くて不確かで、すぐに消えてしまいそうで。
それでも彼女は確かにそこに存在していた。
「美愛の母である、かつてあなたと共に戦場を駆けた綾凪です」
美愛の母──《聖女》綾凪は、窓辺に立ったまま頭を下げる。
「久しぶりだな、綾凪。伊冴姫との約束を果たしに来た」
兵志は『組合』の長である伊冴姫と、美愛に力の使い方を教えると約束した。
だから今日、身分を隠して兵志は美愛のもとを訪れたのだ。
「伊冴姫からお前の話は聞いてる。体調は落ち着いているようで何よりだ」
兵志は七年前、とある『不解』──現界樹討伐の際に《聖女》綾凪と共闘した。
綾凪が所属していた『教導』は、現界樹の討伐に参加しないと表明した。
だが一部の《聖女》や《聖者》たちは『教導』の意向に背いた。
そして人々を守るために立ち上がり、兵志たちと共に現界樹と戦った。
その結果。綾凪たちは命に背いたとして、『教導』から追放された。
兵志は当時のことを思い出しながら、綾凪を見つめる。
「美愛の杖槍はお前が使っていたものだな?」
「はい、その通りです。美愛が私のものを欲しがったので……お守りにもなると思ったので、持たせています」
美愛が持っていた蒼海鋼によって造られた、『教導』の第三世代の特攻儀礼武装。
あれは元々、綾凪が使っていたものだ。それを兵志は覚えていた。
兵志の七年前の記憶が鮮明であることが嬉しくて、綾凪は微笑む。
「兵志様とまた会うことができて、とても光栄です。ここではなんですから。どうぞ家に入ってきてください。いま鍵を開けますね」
綾凪はそう告げると、兵志に頭を下げて窓を閉める。
そしてすぐに、綾凪は自宅の玄関の扉をがらがらと開けた。
「いま、美愛は準備をしています。中でお待ち下さい、兵志様。……それと、少しお話をさせていただいてもよろしいでしょうか。あまりお手間は取らせません」
「そこまで畏まらなくていい。時間には余裕がある。問題ない」
兵志は頷くと、綾凪に促されて自宅に入る。
綾凪はそんな兵志を見て、懐かしそうに表情を緩ませていた。
美愛の自宅である二階建ての平屋は、旧日本国由来の木造平屋と何も変わらない。
玄関から続く廊下。その廊下の両側や突き当たりにそれぞれ扉があり、途中には二階に上がることができる階段がある。
兵志は靴を脱いで、綾凪が差し出してくれたスリッパに履き替える。
すると、二階からぱたぱたと走る軽い足音が聞こえてきた。
「兵志さまっ」
二階から兵志に声を掛けたのは、美愛だ。
美愛は二階の階段からひょこっと顔を出して、兵志に頭を下げる。
「ごめんなさい、兵志さまっ。いま『軍警』に持っていく荷物の最後の確認をしていて……っもう少し時間をくださいっ」
「問題ない、忘れ物がないようにな。ゆっくりやればいい」
「はいっ! 母さま、兵志さまのことをよろしくお願いいたしますっ」
「美愛、落ち着いてやるのよ」
美愛は返事をしながらぱたぱたと二階の廊下を走っていく。
「美愛が慌ただしくて、すみません兵志様。あの子も少し緊張しているんです」
「初めて親元を離れるんだろう。当然だ」
「……そうですね。あの子はずっと私と一緒にいましたから……初めてのことです」
綾凪は我が子のことを想って、自分の胸にそっと手を沿える。
綾凪の年齢は二〇代中頃だ。美愛の外見は一八歳程。
並んだら、少しだけ年の離れた姉妹にしか見えない。
だがそれでも、綾凪が美愛を見つめる視線は母そのものだ。
「リビングにいらしてください、兵志様。こちらです」
兵志は綾凪に案内されて、廊下の突き当たりの部屋──リビングへと入る。
革張りのソファ。ローテーブル。ラジオにダイニングテーブル。そしてキッチン。
リビングの内装も、昔の日本家屋によく似ている。
兵志は綾凪に案内されて、ソファに向かう。
その途中で、書き物机の上に置いてあるテーブルブーケに気が付いた。
赤いバラやピンクのバラ。カスミソウに豪奢なリボンとハートの飾りが差し込まれた、淡い桃色の紙に包まれた白い編みカゴに入ったブーケ。
(模倣花か。……綺麗だな。丁寧に仕立て上げられている。職人技だな)
人類文明が崩壊した今、技術の塊である模倣花を造ることができる工房は少ない。
しかも実用性のない飾りや置物は、嗜好品の中でも高級品として扱われている。
綾凪は兵志の視線に気が付いて、書き物机に近づく。
「美愛が私とヒナデ様……夫の結婚記念日にプレゼントしてくれたのです」
綾凪は愛おしそうに目を細めて、ブーケを見つめる。
「美愛はいつも私とヒナデ様の結婚記念日に、生花を送ってくれていました。今年はいつまでも飾れるようにと、イミテーションのものをプレゼントしてくれたのです」
綾凪は愛おしそうにブーケを見つめると、兵志に向き直った。
「美愛から聞きました。ブーケを買うお金を稼ぐためにアブラサソリを狩りに行ったら、兵志様にお世話になったと。ご迷惑をおかけて申し訳ありません。美愛を助けていただき、本当にありがとうございます」
「問題ない。あの後美愛にはアブラサソリを巣から誘い出す手伝いをしてもらった」
「それも聞き及んでおります。とても貴重な体験をしたと、本当に嬉しそうでした」
綾凪は笑うと、兵志へソファに座るよう促す。
そしてお茶の準備をすると言って、キッチンに向かっていった。
兵志が一人掛けのソファに座って待っていると、綾凪はすぐに緑茶を持ってきた。
どうやらお湯をすでに沸かして、用意していたらしい。
綾凪は滑らかな手つきで兵志の前にお茶を出す。
そして三人掛けのソファの端に、足を揃えてちょこんっと座る。
「現界樹の討伐は、もう七年も前のことなのですね。とても感慨深いです」
兵志は一口お茶を口にしてから、綾凪を見る。
「伊冴姫から、お前が現界樹討伐の際に美愛を身籠ったと聞いた」
「はい。……私はあの時、『正しい声』を聴いたのです」
『正しい声』とは、《真なる者》である真者が人間だった頃に聴いたとされる声だ。
世界に『不解』が溢れた時。真者は在る時、『正しい声』を聴いた。
『正しい声』を聴いた真者は、人間としての自分を終わらせた。
人間であった事実をすべて捨て去り、完成された存在へと至った。
真者の聴いた『正しい声』。
その『正しい声』が、《真なる者》に通じる貴い者たちは時々聴こえるという。
「私は真者さまのように貴いわけではありません」
綾凪は長いベージュのフレアスカートに隠されていた足を兵志に見せた。
綾凪の片方の足首には、真紋が刻まれていた。
虹色に光り輝く、《真なる者》に通じる貴い証。
綾凪は兵志に真紋を見せると、少しだけ寂しそうに笑った。
「私は《真なる者》に遠く及ばない、貴きお方に少しだけ通じている《聖女》の端くれです。だから私は『正しい声』を人々に伝えることができないのです。あれを、あの全てを。私はひとに伝えられない。私にはその資格がないのです」
真者は『正しい声』を聴き、それを周りの人間に伝播することができた。
だが真者のように自分は『正しい声』を伝えられないのだと。
綾凪は悔しそうに告げる。
「私は、美愛に『正しい声』の意味を教えてあげられないのです。それが本当に心苦しくて、美愛に申し訳なくて……あの子には、要らない苦労を掛けてしまいます」
綾凪は顔を歪めると、自分の胸に手を当てる。そして、兵志を見た。
「兵志様。どうか、……どうか、私のお願いを聞いてくださいませんか。美愛のことで、私はあなた様に頼みたいことがあるのです」
「──聞こう」
兵志が応えると、綾凪はほっと安堵して表情を緩めた。
そして兵志にお願いをするために、喋り始めた。