第二章:06:組合長との話し合い
獅子我兵志は伊冴姫に連れられて、《酒場》の最上階に足を踏み入れた。
伊冴姫のオフィスは《薄楼自治区》のコンセプトと同じで、和華折衷だ。
豪奢な家具たちはどこか大陸系の造りをしている。
だが要所要所に、和風のデザインが使用されている。
伊冴姫は執務室に兵志を案内する。
部屋の中心には大きな執務机があり、その前には革張りのソファが一対。
その間には、ガラス細工のローテーブルが置かれていた。
兵志はソファに座らずに、窓辺に近づく。
伊冴姫の執務室は一つの壁がまるまるガラス窓になっている。
その窓からは、《薄楼自治区》が良く見渡せる。
「確かに、前に来た時よりも随分と《外周区》が広がっているな」
兵志は伊冴姫のオフィスから、《薄楼自治区》を見渡す。
《薄楼自治区》に集まった人々が勝手に造りあげた《外周区》。
《外周区》は兵志の記憶よりも、確かに拡大していた。
伊冴姫は執務室にある給湯スペースの前で、お茶を用意しながら兵に声を掛ける。
「兵志が『組合』へ視察に来たのは確か一年前よね。あの後半年で、めちゃめちゃ人が増えたんよ。人口増加はあの時がピークだったかな。いまも増えてるんけどね」
伊冴姫は慣れた様子で二人分のお茶を用意しながら、肩をすくめる。
「《内周区》を広げてほしいと良く言われるんけど、街の構造上それは無理。外堀を埋めてちょっと改修するだけ、なんて簡単にはいかないから」
伊冴姫は人差し指を口に当てて、にやりと笑う。
「だからいま、ちょっと秘密裏に《外周区》の下で工事してるんよ。これ秘密ね」
いつかバレることだから別にいいけど、と伊冴姫は笑う。
兵志は《薄楼自治区》を見るのを辞めて、からっと晴れた空を見上げる。
「『軍警』でも平穏な時代が到来した際の人口増加に備えてシミュレートをしていた。だが近年の人口爆発は、その予想をはるかに超えている」
「そうね、ウチも実感してる」
伊冴姫はお茶の準備をしてお盆に乗せると、兵志に笑いかける。
「それだけいまが平穏な時代になったというわけよ。……人類は強いね。平穏が訪れれば、また繫栄する。《市場》なんて会合期間外もすごい活気。本当に良い時代よ」
「そうだな。良い誤算だと俺は思っている」
兵志は笑って、革張りのソファに近づく。そして座ると、伊冴姫がお茶を出した。
「棒茶って言うんだけど、すぐに淹れることができて便利なお茶なんよ。《市場》で買って気に入って、ウチは最近これ飲んでる」
「いただこう」
兵志は頷き、茶器をもってお茶を飲む。
良い香りで、のど越しも良い
兵志は茶器を置くと、優雅にお茶を飲む伊冴姫に笑いかける。
「伊冴姫は茶を淹れるのがうまいな」
「そりゃ毎日淹れてますから。得意にもなるよ」
伊冴姫ははにかむように笑うと、自分もお茶を飲む。
そして一息つくと、兵志を見た。
「美愛が迷惑かけてごめんね、兵志。まさかあの子が一人でアブラサソリなんて狩りに行くとは思わんかった。……これも『聖占』の思し召しかもしれんね。狩場で兵志に会えたことは、幸運だったわ」
「美愛に監視をつけてたのか?」
「監視はつけてない。でも、あの子のことはいつも気にかけてたんよ」
伊冴姫は肩をすくめると、壁際に置いてある丸テーブルとソファに目を向ける。
丸テーブルの上には、碁盤が置いてあった。だが普通の碁盤ではない。
碁盤の目が蒼く光り輝く、やけに機械的な一品だ。
「あれ、ウチが保有している演算装置系の『不解』から着想を得て、神秘術で応用して作ったモンなんだけど」
伊冴姫は立ち上がると、兵志を呼んで丸テーブルの上の碁盤に近づく。
伊冴姫が碁盤に触れると、小さい《薄楼自治区》が空間投影で浮かび上がった。
「美愛の場所を示して」
伊冴姫が指示すると、碁盤上が様変わりした。
《薄楼自治区》の《酒場》周辺の地図が映し出される。
そして碁盤がひっくり返り、白い碁石が現れた。
その碁石の表面には《現在地》と書かれていた。
伊冴姫は碁盤をのぞき込んでいる兵志の隣で、腰に両手を当てて告げる。
「神秘術の概念に、照応というものがあるんよ。ミクロな世界はマクロな世界と照応していて、どちらも相互関係にある。この碁盤は現実を模倣して、登録した人物の位置を映し出すことができるんよ。美愛は事前に登録してあったのよ」
神秘術というのは、神秘を再現するための秘術だ。
『不解』が溢れる前から、この世界には神秘が息づいていた。
それは妖精や妖怪、物の怪。超常的な現象といったものだ。
そんな神秘に携わり、神秘の再現を目的とする学問。
それが神秘学であり、神秘術だ。
神秘術を扱う者たちを、神術師と呼ぶ。
俗にいえば、魔術師や呪術師、法師と呼ばれた類の者たちである。
そんな神術師が築き上げた概念の一つ、それが照応と呼ばれるものなのだ。
「なるほど。神秘術を用いて現実をシミュレートしているってことか」
説明を聞いた兵志が頷くと、伊冴姫は穏やかに笑う。
「そそ。『軍警』の高度演算装置みたいに完全な科学技術じゃなくて『不解』やら神秘学やら盛り込んでるから言い回しが複雑だけど。そんな感じ」
「これで美愛の場所を突き止めたのか。登録した人物を中心に映し出すから、《薄楼自治区》の外にいても分かるのか?」
「うん、ピンチアウトも可能よ」
伊冴姫は碁盤に空間投影された《薄楼自治区》に触れて、人差し指と親指を離す。
すると地図が縮小し、広範囲が見渡せるようになった。
兵志は感心した様子で顎に手を当てる。
「『軍警』は神秘学に疎い。勉強になる」
「『軍警』の専門分野じゃないからね。でも『不解』には他組織に追随を許さないくらいに詳しいし、良いんじゃない?」
伊冴姫はからからと笑うと、兵志と共に再び椅子に座る。
「さて。兵志に話しておくことがあるんだけど」
伊冴姫は気を取り直すと、目の前に座る兵志のことをまっすぐと見た。
「あんたが助けたあの子──美愛のことで、話があるんよ」
兵志は伊冴姫の言葉に頷く。
全身に貴い存在の証である真紋が刻まれた少女──美愛。
おそらく美愛は、現界樹という『不解』の大規模討伐の後に生まれた子だ。
そんな美愛は、『教導』を嫌悪している『組合』と『華街』が保護している。
兵志も美愛の存在が気になっていた。だからこそ、伊冴姫の言葉を大人しく待つ。
「美愛は現界樹討伐の最中に、《聖女》綾凪が身籠った子供なの」
伊冴姫は、美愛の始まりから話し始める。
「美愛を身籠った綾凪を見つけたんは、母上なの。それで母上は身重の綾凪をウチと兄さんのもとに連れきたんよ。面倒を見てほしいってね」
「──化生の慈母狐神。かの存在が、お前たちに綾凪を託したのか?」
「ええ、そうなの」
伊冴姫と伊冴見の母──化生の慈母狐神は、人間ではない。
化生の慈母狐神は、この世界に『不解』が溢れる前から存在していた神秘。
それも日本最古の妖狐と呼ばれる、現代にも生き続けている神秘だ。
つまり化生の慈母狐神はかつて神として祀られた神秘であり。
九つの尾を持ち、石という過程を経て再誕し続ける妖狐だ。
「母上に頼まれたらウチらは断れないし、そもそも綾凪は身重だった。だからウチと兄さんはすぐに綾凪を匿った。秘密裏に、誰にも知られないようにね」
兵志は伊冴姫の説明を黙って聞いて、続きを待つ。
「美愛は、三か月で生まれたの。しかも生まれた時に性別がなかった。もちろん真紋は全身に刻まれていた。女の子になったんは、それは美愛が望んだからなのよ」
「……美愛を身籠った《聖女》綾凪には、相手がいなかったのか?」
伊冴姫は兵志の問いかけに、しっかりと頷く。
「その通りよ。綾凪は性交渉すらもしたことがなかったん。つまり、聖書に出てくるような神の子を産んだ処女懐胎のようなもので、綾凪は美愛を生んだ」
《聖女》綾凪は現界樹討伐の最中に、唐突に美愛を身籠った。
兵志は大変な思いをした《聖女》綾凪を想って、眉をひそめる。
「……母体となった綾凪には、精神・肉体共に凄まじい負担がかかっただろう」
昔から、女性が子供を産むのは命がけだった。
ひと一人産むというのは、本当に命懸けだ。
それに子供は母のお腹の中で、十月十日を掛けてゆっくりと成長する。
その過程で、女性は母になるのだという自覚が芽生えると聞く。
だが美愛の母親である聖女は、突然おなかに美愛が宿った。
突然身籠った美愛を生むという決心は、並大抵のものではない。
伊冴姫は貴い《聖女》のことを想って、淡々と言葉を紡ぐ。
「綾凪は本当に真の髄まで《聖女》だった。まあ、『教導』の意向に背いて現界樹の討伐に参加するような子だからね。貴い考えを持っているのは当たり前だけど」
伊冴姫は《聖女》綾凪のことを考えながら、足を組む。
「綾凪は美愛のことを無事に産むことだけを考えていた。この子が自分のもとに来たのは、意味がある。命を懸けても、自分はこの子を産むべきだと言ったんよ」
突然おなかに宿った子を、拒絶することなく守ろうとする。
その精神に、兵志は感服するしかない。その精神は、本当に貴いものだ。
「ウチもにいさんも、この子たちは絶対に守らなくちゃいけないって思ったんよ。だから綾凪を保護して、あの子を守るために、『華街』の男衆と結婚してもらった」
伊冴姫は綾凪の相手を思い浮かべて、ふっと笑う。
「もちろん綾凪とアレの結婚は名目上の結婚よ。でも彼は綾凪にも美愛にも尽くしてくれてる。本当に頭が上がらんよ」
『華街』や『組合』は、『教導』から追放された《聖女》や《聖者》を受け入れ、身内と結婚させて後ろ盾を作って守っている。
表立って言うべきことではないが、そうやって『組合』や『華街』は貴い行いをして古巣から追放された《聖女》や《聖者》を守っていた。
伊冴姫は自分たちが保護している《聖女》や《聖者》を思いながら、言葉を紡ぐ。
「美愛は生まれからして特別な子。でもウチと兄さんはそんなこと気にせず、大切に育ててきた。……すると、今年の初め。ウチらの心配に拍車をかけることがあった」
「──『聖占』の予言だな?」
兵志が問いかけると、伊冴姫はゆっくりと頷く。
『聖占』とは、未来を見通すことができる力を持つ者たちの集団だ。
彼らは自分たちの未来識が人々を混乱させることを知っている。
だからこそ、人々と衝突しないために、彼は一か所に拠点を築かない。
絶えず移動して、この地域を旅している。
去年、『聖占』は一つの予言を公布した。
『今年。『教導』の新たな指導者である、《御子》が来臨する』
『《御子》は『教導』の新たな星。《真なる者》の教えを再び広める貴き星である』
兵志は『聖占』のトップ、《堕天千果》千世が告げた予言を思い返す。
そして、伊冴姫を見た。
「美愛は、《御子》なのか?」
「ううん、それは分からない。その可能性が高いだけで、確証がないんよ」
伊冴姫は首を横に振ると、淡々と告げる。
「あの子は《真なる者》に通じるほどに貴い力を持っている。ただそれだけなのよ。だからあの子が《御子》なのかは分からない。……でも、最近『教導』はやっきになって《御子》を探しているでしょう」
伊冴姫は美愛のことを想い、『教導』を警戒しながら言葉を紡ぐ。
「あの子には自分の真紋を見たひとがいるなら、絶対に記憶を消しなさいと言ってあったの。その方法だけは、綾凪がきちんと教えてた。……けど、あの子は兵志たちの記憶を消さなくてもいいと判断した。あんたたちを、信用したのよ」
《真なる者》に通じる貴き者たちは、ひとの本質を見抜くことができる。
その力によって、美愛は兵志と志鶴が信用に足る人物だと察した。
だから共に狩りをして。食事をして、絶大すぎる信頼と好意を寄せていたのだ。