最後の願い 前編
朝、いつものように私を見送るママ。心の中で何度もごめんねをした。今まで授業をサボった事すら一度もない。この後ママは学校から初めての呼び出しを食らうのだろうか。それだけでは済まないだろう。そういえばママは今日も「忘れ物はない?」「車に気を付けてね」と言っていたな。すっかり聞き慣れていたけれど、母親の優しさが今になって決意を揺るがす。でも私は決めたのだ。もう決めた。
柵をぎゅっと握り、体を乗り出す。その時――
「じゃーん。ミツキちゃんでぇーす」
「みつ、き……」
目の前におどけた表情のミツキが現れた。薄暗い空の下でも彼女の派手な髪色は目立って見える。ミツキは私の元気がない時、いつもこの顔をしていた。
驚きのあまり口が開いたままの私を気にも留めず、彼女は話し続ける。
「もお〜。学校中探したのに、どーこにもいないんだもん!」
「なんで、ここに……」
「なんでって、ふふ! キョウカの考える事くらい、お見通しだよおっ!」
ミツキが私の背を大きく叩く。痛みはない。ばぁんと派手な音が鳴ったように感じる。
「ひゃあ〜、改めてとんでもない眺めだね」
ミツキは眼下に流れる濁流を覗き込む。私が学校を無断欠席してやって来たのは、学校の裏手にある雑木林。現在、生徒は立入禁止となっている場所。晴れた日でも木に遮られて暗い。今日のような天気だとますます暗い。
それにこの暴れ狂う川である。普段から轟々と勢い良く流れ、特に雨が降った翌日は大人でも近寄らない。私達もよく言い聞かされたものだ。ボロボロになった古い木の柵の一部が新しくなっているものの、頼りなく私達と川を隔てている。
「確かにこりゃ死ぬわ」
「笑い事じゃないよ」
つい先日、ここで女生徒が死んだ。
三日前から行方不明となっていた女生徒の死亡が告げられたのは昨日。夕方のホームルーム。担任の泣き腫らした目は嘘くさくて吐き気がした。
そうしてやっと、この雑木林への立入が禁止になったのだ。古い柵の一部が壊れていた事から「女生徒はここから落ちたのではないか」と言われている。壊れた箇所のみが急ぎ新しく作り直された。それでもこんなものじゃ簡単に越えられてしまうだろう。
「もっと早く立入禁止にすべきだったのに」
「ええー! そっち派?」
「派、とかじゃない。こんな危ない場所、自由に入れるようにしておくべきじゃなかった」
「真面目なんだから。でもさ、こうやって入ってきちゃうでしょ。立入禁止にしたってさ」
ぐ、と言葉に詰まる。実際に今、私はここに居てしまっているのだから、ミツキの発言は最もだった。
「さっき学校行ったらその話で持ちきりだったわ」
「……みんな好き勝手言って。馬鹿みたい」
「パパ活してて揉めたとか、闇バイトに手を出して……とか、想像力豊かだよねぇ」
同じ学校の生徒が死んだというのに、どいつもこいつもくだらない噂話をするしか能がない。
少し間を置いて、ミツキがわざと明るい声で言う。
「聞いたよ〜? キョウカ、キレちゃったんだって?」
「そういうんじゃ……」
「ごちゃごちゃ言ってる人達、怒鳴りつけたんでしょ?」
ミツキの言う通りだった。真実とはかけ離れたデタラメをあぁだこうだと煩いので、カッとして思わず冷静さを欠いてしまった。心の奥で蓋をしていたものがふつふつと湧き上がり、ついに爆発したのかもしれない。
一昨日の放課後。同じクラスの香水臭い女達がゲラゲラと下品に笑っていたのが、既に私の神経を逆撫でしていた。それに加えてありもしない噂話である。気が付いたときには女達の中に割入り、中心にいたリーダー格の女の襟元を掴んでいた。
この女達というのが「世界は私達を中心に回っています」といった顔で毎日楽しそうに生きている。私はと言うと、こいつらから「下僕」と呼ばれていた。何を言われても、何をされても、一度も反抗した事はなかった。そんな事をすれば、次はどんな目に遭っていたか分からない。だがそれも昨日まで。
「本当にくだらない人間! 自分達が何言ってるか分かってるの? そんな馬鹿げた噂話が楽しいなんて、つくづく脳みそが腐ってる。いつまでもそうやって、一向に成長しないで……いいね、馬鹿はクソみたいな話で楽しくて。ああ知能が低くて羨ましい!」
女の襟を掴んだまま一気にまくし立てる。言ってしまってから喉が詰まる感覚に襲われるけど、もう引くわけにはいかなかった。
自分達が自由に出来るはずのおもちゃが急に自我を持ったのだから、面食らうのも仕方がない。
「は、お前……ふざけんなよ」
「下僕が調子のんな」
苦し紛れの暴言はどうにも弱々しい。私がこれまで怯えていたものは何だったのか。一度正面からぶつかってしまえば、大して恐ろしいものではなかった。
ついでにパンパンの学生鞄を振り回し、相手の顔面に叩きつけておく。その女は後ろへとふらつき机に突っ込む。けたたましい音がした。取り巻きの悲鳴は大変に耳障りだった。
「いった、」と聞こえてきたけれど、これまでに私の「痛い、やめて」は聞き入れてもらった記憶がない。
こちらだって聞いてやる義理はないのだと、女達の不快な喚き声に耳を貸さない。
「ふざけんな!」
取り巻きの一人が私の腕を掴む。
とてもムシャクシャしていた。行方不明とされていた彼女が心配で心配で堪らず、夜もほとんど眠れていない。そのせいもあったかもしれないけれど、掴まれた腕は痛いし、それ以上にこの失礼な女達の発言を思い出すと怒りが収まらない。
私はぐっと奥歯を噛み締め、拳をこれ以上ない程強く握る。そうして目の前で図々しくも怒りの感情を見せ、私の腕を爪が食い込む程強く掴む愚かな女の上腕骨目掛けて拳を振り下ろした。さらに悲鳴が大きくなる。
振り返らない、絶対謝らない、逃げたと思わせない――そう強く念じながら、わざとゆっくりした足取りで教室を後にした。
翌日はかなりの決心で登校したけど、彼女達は学校には来ていなかった。
「――そんなのまで噂になってるんだ」
「いいじゃん! やっと言い返せたね、おめでと!」
「内心、心臓ばくばくだったけどね」
ミツキは自分の事のように喜び、私は苦笑混じりに本音を漏らす。私の返答に彼女がけらけらと笑った。ミツキの笑顔はいつも眩しくて、まるで道標のよう。どんなに暗い道でも、彼女の眩しい笑顔を頼りにそちらへ歩いていけば良かったのだ。
ある日突然いじめが始まった。気が付いた時には「下僕」と呼ばれるようになっていた。
先生や同級生の中に、助けてくれる人は一人もいなかった。「子どものやる事」「じゃれてるだけ」「仲良しなんだから」大人はそう言いたがり、クラスメイトは「次は自分の番かもしれない」「めんどくさい」「関わりたくない」そんなとこだろう。それともみんな私を嫌っていたのかもしれない。
理由は今でもよく分からない。最初は無視される、とかそんなの。所詮幼稚な嫌がらせ、って思うでしょ? それでも毎日続くと暗闇に一人取り残されたみたいに、どうしようもなく心細い。前も後ろも見えはしない。無視だけで済まず、どんどん悪化していく。
手を伸ばしても触れる物は何もなくて、代り映えのしない毎日から前に進まなければと、もがいてもがいて……そして、私の前に突如として現れた変化。ミツキだった。
ミツキが転校してきたのだ。ミツキは私を下僕と呼ぶ女達と同様に、髪を明るくし、顔に色を乗せ、スカートは短い。
「きっとこいつも私を助けてくれない」
先に先入観を持ったのは、私の方だった。
案の定、ミツキは女達と仲良くなった。女達は早速派手で可愛い見た目のミツキを気に入り、仲間にしてあげると招き入れる。
しばらくは転入生という新しい風にクラス全体が浮足立ち、私に構っていられないようだった。このまま私の存在を忘れてくれたら良いのに。と、心から思った程だった。
しかしそうはいかない。
ミツキがうちのクラスにやって来てから数日が経ち、久しぶりに私を思い出したのだろう。
「あ、こっち来なよ下僕ちゃん! たまには一緒に帰らないとねー」
「ミツキも好きに使っていいよ、紹介するね」
「いたっ、やめてっ」
女達に無理やり手を引かれ輪の中に入れられる。クラスメイトの大半が「うわ、また始まった」と、お決まりの他人顔をした。
目の前に引きずり出された私を見て、ミツキはぽかんとしていた。大きな目をぱちくりさせる。
「こいつが下僕ちゃん。私達のお願いなんでも聞くもんねー」
「え、なに? 何ちゃん?」
「下僕! げ・ぼ・く、ちゃん!」
女達がぎゃはははと顔を見合わせて下品に笑った。
「どういうこと? それあだ名?」
「あだ名って言うかぁ、こいつの第二の名?」
「げぼくって、下僕? 召使いとかそういう意味の?」
「そうそう! それ、召使い!」
ミツキが眉をひそめて尋ねると、一層大きな笑い声が上がった。
今までに私を下僕と呼ぶように言われて、呼ばない人はいなかった。それが一人増えるだけ。そう思っていたのに。
「うっそでしょ? 人につけていいあだ名じゃないよ、やめなよ。頭おかしいんじゃないの?」
教室の空気が凍る。とても驚いていたようだった。ミツキが。彼女の中には、他人を「下僕」なんて言葉で呼ぶ概念自体がなかったのだ。
もちろん女達も唖然としていた。彼女達にそのような物言いをしてきた人物は、大人の中にさえ誰一人いなかったのだから。
「えぇ、最悪〜。うわぁ、ミツキそういうの無理かも」
ミツキはクラス全体を見渡す。見世物のようにこちらを見ていた人達が気まずそうに目を反らした。
「やだぁ、容認系? クラスガチャ失敗かもぉ。全員おかしい系だ〜」
「ちょっと……そんな言い方許されると思ってんの? 自分も下僕になりたいわけ?」
「て、転校してきたばっかで何も知らないだろうから、謝れば今回だけは許してあげるけどどうする?」
はっきり言ってヒヤヒヤした。この子どうなるかわかってるの? って。
すっかり鼻息を荒くした女達が、少しでも優位に立とうと必死になっている。
「こわぁ。ミツキが謝るの? びっくりびっくりおったまげ〜」
ミツキは自分で言って自分で笑っている。多分おかしいのはミツキで、他の人達が普通だ。誰だって自分は安全な場所にいたいもの。
「びっくりびっくりおったまげ、いいね。みんなも使って良いよ!」
使うわけがない。みんなそれどころではない。
ミツキが私の手を握る。驚いて小さく叫ぶ。今まで何度も強く腕を引っ張られ痛い思いをしてきたけれど、ミツキの手のひらは柔らかくて優しくて、とても暖かかった。
「キョウカちゃんが唯一まともだった、を願うしかないかぁ。行こ、キョウカちゃん!」
「な、名前っ……あっ!」
彼女が私の名前を覚えていると思わなかった。ミツキは強引に、けれど優しく私を教室の外に連れ出した。
これが、私達が友達になった日の出来事だった。