美貌の伯爵子息に求婚されましたが、そもそもクレーマーは願い下げですから
「エミリー。ずっと愛していた。僕と結婚してくれ!」
赤い薔薇の花束を向けられて求婚されたら多くの女性はときめくのだろうか?
エミリーは頭の片隅でそんなことを考えながら、跪きながら薔薇の花束を差し出してきた男を見下ろしていた。
金色の髪に青い瞳をしている、いかにも貴族といった装いの男――ヨーゼフ。
その青い瞳は見ようによっては海のようにキラキラと輝いている。自分の美貌に絶対の自信を持っているからか、恐らく断られることはないだろうと思っているのだろう。
返事を期待する眼差しに、エミリーの顔がみるみる赤くなっていく。
照れているわけではなく、怒りからだ。
「お断りします!」
「なんで!? 僕のどこが駄目なんだ?」
本当に何もわかっていないっていう顔だ。
その眼差しに、さらに怒りが湧き起こる。
だが相手は貴族だ。それも伯爵家の長男。ゆくゆくはここら一帯の領地の当主になる男。
平民の女性が、次期伯爵に見初められた。
そう言葉にすると、同じ平民の女性なら夢のような出来事にうっとりと吐息を漏らすだろう。
だけどエミリーはそうではない。
(この男は……この男だけは、許せない……!)
「父上にはもう許可を貰っている。だから遠慮しなくてもいいんだ。素直になってくれ」
怒りで震えるエミリーを見て、喜びで震えていると思ったのか、ヨーゼフが近寄ってくると赤い薔薇の花束を押し付けるように渡してきた。
その花束を叩き落とす。地面に落ちた花束を見て少し胸が痛む。この美しい薔薇の花には罪はない。だけど、やはりこの男――ヨーゼフだけは許せない。
「あなたはなにか、勘違いをしているようですね」
「勘違い?」
「私はあなたを愛していません。それどころか呪いたいほど嫌っているのです」
「え? 僕がなにをしたっていうんだ?」
「なにをした? ……ほんと、それすら理解していないんですね」
早朝の通りはそれなりに人がいる。ヨーゼフのプロポーズにより、最初の方は面白そうな眼差しで見ていた人々が、なにやら不穏な気配を感じ取って顔を見合わせている。
エミリーは振り返ると、そこに掲げてあるプレートを指さした。
「ここになんて書いてあるのか、わかりますか?」
「ああ。このカフェは廃業したと書いてあるな」
「ええ、その通りです。この店が廃業したのは、あなたのせいなんですよ!」
エミリーの言葉に、ヨーゼフは意味がわからないとでも言いたげに眉を顰める。
(やっぱり、何も理解していないのね。このクレーマー野郎が)
このクレーマー野郎――もとい、伯爵家長男ヨーゼフがこの店を訪れてからいままで自分がどんな思いをしてきたのか、彼はなにひとつ理解していないのだろう。
自分の影響力すらわからずに、毎日のように店にやってきては、この店の不満をエミリーに向けるだけに飽き足らず、ここら辺に吹聴して回っていたのだから。
それがどんな結果をもたらすかも知らないで。
エミリーの両親が始めた、この町でも評判のカフェ。
両親が亡くなってから、エミリーはカフェを受け継ぎ、大切に経営してきたはずだった。
それなのに、この男、ヨーゼフが通いだしてからすべてが変わってしまった。
なぜ伯爵家の長男がこのカフェにやってきたのかはわからないけれど、ヨーゼフが初めてこのカフェにやってきた日のことは嫌でも脳裏にこびりついている。
「なんだ、このマズいコーヒーは」
そのコーヒーは父から受け継いだ製法で豆を挽いている、当店いちばん人気のコーヒーだった。
だけど相手は貴族だ。高級なものに慣れていて、庶民である我々とは味覚が違うから合わなかったのだろうと思って、素直に頭を下げた。それでもヨーゼフの不満は次から次に口をついて出た。
「ケーキもマズい。スポンジがパサついているし、クリームも甘すぎる」
これは母から譲り受けたレシピだった。当店でも評判のケーキだけれど、このカフェはもともと庶民向けだ。そこまで高級な店ではないから、やはりこれも貴族に合わないのだろうと思った。
ヨーゼフは散々文句を垂れ流すと、多めのお代を置いて店から出て行った。
これでもっと良いものを作れ、と吐き捨てて。
エミリーはもうきっと来ないだろうとそう思って、その日のことは忘れることにした。
けれどエミリーの予想も虚しく、ヨーゼフはそれからも毎日のように店に顔を出すようになった。
その度に、ヨーゼフはカフェの品に文句をつけたり、内装にケチをつけたりした。
その度にエミリーの心はすり減って行った。両親から受け継いだ大切なレシピを馬鹿にされて、毎日必死に手入れをしている店内を貶されて、それをなんとも思わないほど朴念仁ではない。
最初の頃は自分の実力が足りないのかと悩んだりしたけれど、ヨーゼフの発言を聞いていた常連客からは、「あなたの淹れてくれるコーヒーは特別なんだ」とか「あなたの焼くケーキは美味しい」とか「朝はここのコーヒーを飲まないと元気が出ないから、あの男の言うことは気にすることないよ」と温かい言葉を掛けられていたからどうにか耐えることができた。
だけど、毎日ヨーゼフが店に入り浸るから客足はどんどん遠のいて行って、次第に常連客も遠慮をして訪れなくなった。雇っていた数名の店員も辞めてしまった。
残されたのは、エミリーと両親の死と入れ替わりで拾った大きな黒い犬だけ。
黒い犬の毛に顔をうずめると、少しは気が楽になる。
だけどズタズタにされた自尊心がもとに戻ることはない。
これまで培ってきたものを、ヨーゼフによってすべて破壊されてしまったのだから。
経営も立ち行かなくなって、家賃も払えなくなった。
だからエミリーは店を閉めることにしたのだ。廃業という、最悪の看板を掲げて。
(それなのに、この男は……! 私を愛しているですって? いままで散々、私の大切なものをコケにしてきたくせに。馬鹿にするのもいい加減にしてほしいわ!)
「なぜ、廃業が僕のせいなんだ?」
「そんなのあなたが店に入り浸って、カフェのメニューを散々貶してきたからでしょう」
エミリーの言葉に、ヨーゼフが大きく目を見開き、それからなぜか顔を赤くすると俯いた。
「それは、君に会いたかっただけなんだ。町でひとめ惚れをして、だけどそれを伝える勇気がなかったんだ」
ひとめ惚れをした相手にケチをつけたというのだろうか。
愛情の裏返しに人を傷つけるなんて、そんなの愚か者のすることだ。そんなことで相手が振り返ってくれることなんてありえないし、むしろ余計に嫌いになる行為だというのに。
「当然君も気づいていると思っていた。だって、君はいつも笑顔で僕に接してくれていたから」
「営業スマイルですけど?」
接客業の笑顔を自分への好意だと解釈するなんて頭が痛くなる。
ヨーゼフ以外の常連客やほかの客は、心の底からエミリーのカフェを気に入り訪れてくれた。だからそれに関して純粋な笑顔で接することはできたけれど、ヨーゼフだけは違う。ヨーゼフは貴族子息だということもあり、無理矢理笑顔を作って接していたというのに。
それを好意だと勘違いするなんて、なんてめんどくさい男なのだろうか。
「そ、それでも僕は毎日ここに来ていたんだぞ。君の笑顔を見てコーヒーを飲むと元気になれるし……」
「いつも文句ばかりつけながらコーヒーを飲んでいたのに、それで元気になっていたなんて信じられません。それにあなたが毎日、店に入り浸るからここ一カ月はすっかり客足が途絶えてしまったんですよ?」
「それは……僕のせいなのか?」
「は?」
「客が途絶えたのは、単純にこのカフェの評判が悪かったからだと思うが……確か、噂で聞いたことがある。この店のコーヒーがマズいって」
「それは……あなたのせいでしょう……」
「なんで僕のせいなんだ?」
「この店のこと、誰かに話しませんでしたか?」
「ああ、そういえば! 君の店のことを、みんなに知ってもらいたかったからな。友人に話したんだ」
「その時にどう話したのですか?」
「――それは、マズいコーヒーのカフェがあるんだが、そこの店主がかわ、可愛くって……」
(なんで照れてるんだ、気持ち悪い)
この男がただの迷惑な客であるのなら出禁にすることもできたかもしれない。
だけど相手はここら一帯の地主である伯爵家の息子だ。叩きだすことなんてできないし、彼がこの店の悪評を垂れ流すことも止められなかった。
三カ月前ぐらいから、この店の悪評は瞬く間に広がっていた。
常連客はどんどん減り、ここ一カ月ほどはヨーゼフ以外このカフェにやってくることがなかった。
その悪評を広めたのが誰なのかはわからなかったけれど、おおよその見当はついていた。
(まさか正解だったなんて……!)
照れ隠しでマズいコーヒーのカフェと言ったのか、それとも本心だったのかなんて関係がない。
この男が話した悪評は彼の友人から平民にまで広がって、客はどんどんいなくなったのだから。
たとえ間違いであったとしても、一度流れた悪評を止めることなんてできない。特に影響力のある人が口にしたら、多くの人がそれを真実だと思うだろう。
(この男がいなかったら、私はまだカフェの営業を続けられたはずなのに……)
目の前がぼんやりすると思ったら、頬を何かが流れた。
「泣いているのか? 悪評は気にするな。君の淹れてくれるコーヒーはいつも僕を癒してくれていたんだから。……それに、僕は君の泣き顔ではなく、笑顔が見たいんだ!」
目の前でおろおろしている金髪の男が憎い。
もし彼が貴族じゃなかったら、拳の一つでもお見舞いしてやったというのに。
「いいからもう帰ってください。あなたと話すことはありません」
「ま、待ってくれ、エミリー。僕は本気で君のことを愛しているんだ」
「私はあなたのことなんて大っ嫌いです!」
「なっ。……平民の君が貴族夫人になれるんだぞ! それに僕との結婚を断ったら、絶対に後悔するぞ!」
エミリーは心底軽蔑した瞳で、目の前で喚くヨーゼフをにらみつけた。
ただ一言。
「帰れ」
そう口にして、急いで店の中に戻った。
扉の向こうからはまだ何か喚きが聞こえてくるが、耳を塞いでしゃがみ込む。
(これでなにも聞こえなくなった。あのクソ野郎)
鼻先を何かがくすぐった。
目を開けると、人よりも大きな黒い犬がいた。
「ルン」
エミリーの呼びかけに、ルンがワンと吠える。
その身体に、エミリーは飛びついた。優しく抱きしめるようにその毛に顔をうずめると、先ほど止まったと思った涙があとからあとから流れていく。
「ルン。ありがとう。明日は、お引越しだね」
伯爵子息の結婚を断ったのだ。もうこの町にはいられない。
借金を返して、余ったお金でどこまでいけるかはわからないけれど、エミリーはこの町から出ていくつもりだった。
◇◆◇
鞄の中に詰められるだけ荷物を詰めた。両親から譲り受けたレシピと、簡単な調理器具は外せない。どこかの町でカフェを営業するには資金が足りないけれど、それでもこれは大切なものだ。
店の家具はもうすでに売り払っている。残っているのは両親の手作りの看板と、廃業のプレートぐらいだろう。
「お父さんお母さん、ごめんね。店を守ってあげられなくて」
看板も持っていけたらいいのだけれど、移動の邪魔になってしまう。
「じゃあ、ルン。行こうか」
「ワンッ」
ルンの返事に自然と笑顔を浮かべる。
三年前に両親が亡くなった後、墓の前でエミリーが泣いていると、どこからか現れた黒い犬が目の前で倒れた。犬の背中には傷があって、流れた血が地面に跡をつけていた。
それなのに黒い犬はエミリーの姿を見ると、いたわるように頬を流れる涙を舌で舐めはじめたのだ。
エミリーは慌てて彼の傷の手当てをして、食事を与えた。
傷はほどなくして治った。それからエミリーはルンと一緒にこの店で暮らしてきた。
ルンはとても人懐っこく、首輪は着けていないものの、もしかしたらどこかの飼い犬で捨てられたのかもしれない。
そう思って迷子の犬の捜索届を探したが、ルンほど大きくて黒い犬の届けはなかった。
だからいまではすっかり、ルンは家族になっている。
ルンはとても不思議な犬だ。
彼が一緒にいるのなら、別の町に行ってもエミリーは静かに暮らせるかもしれない。
そういえば、ルンは基本的に人懐っこくって、常連客が頭を撫でたりするのに拒否反応もなかった。
だけどなぜかヨーゼフだけには歯を剥き出しにして唸っていた気がする。ヨーゼフもルンのことを嫌っていたから、彼が来店するとルンを店の裏に繋ぎに行かなくってはいけなかった。
(賢い犬だからあそこまでヨーゼフにだけ凶暴になるのがわからなかったけれど……)
もしかしたらエミリーを守るためだったのかもしれない。
「エミリー。今日こそ僕のプロポーズを受けてもらうぞ」
店の外に出ると、また性懲りもなく赤い薔薇の花束を抱えたヨーゼフが待っていた。
(ほんと懲りない男。嫌いって言われた相手にまたプロポーズをするなんて。やっぱりこの男は人の心がわからないんだわ)
怒りを通り越して呆れてしまう。
エミリーはもうすぐこの町から出ていく。だからここはもう一度きっぱり断ろう。
そう心に決めて一歩踏み出すよりも、犬の吠え声が響く方が早かった。
「う、うわあ。なんだこの犬はッ!」
「る、ルン!?」
ルンは一目散にヨーゼフに突進していくと、その足に嚙みついた。
バランスを崩して倒れたヨーゼフの上に乗り、その顔に向かって大きな吠え声を浴びせている。
(ああ、嚙んじゃった! 貴族に傷を負わせたらどうなるんだろう。それよりも、ルンが危ない!)
貴族子息がひとりで出歩いているとも思えない。
だからきっとどこかに護衛がいるはずだ。
たった一人の家族であるルンが殺されでもしたら、エミリーはもう生きていけない。
「ルン! ダメ! 戻ってきて!」
『……なぜだ、エミリー』
「……え?」
どこからかくぐもったような人の声が聞こえたような……。
周囲を見渡すが、騒ぎに気づいて家から出てきた町の人たちの姿しか見えない。
もしかして、と黒い犬に視線を向けると、赤いルビーのような瞳と視線が合った。
『オレはこの男が嫌いだ。エミリーのことを散々傷つけたくせに、エミリーにプロポーズなんてしやがった。首を噛みちぎればすぐ死ぬただの人間の分際で、オレの大切なエミリーを侮辱したんだぞ』
「る、ルン?」
『ああ、この姿だからいけないのか。まだマナが足りないが仕方がない』
黒い犬の全身が黒い靄に包まれたかと思うと、その中から長身の一人の男が姿を現した。
長い黒髪をひとつに縛った赤い瞳の男だ。ヨーゼフを踏みつけたまま、彼は少し不貞腐れたようにエミリーの様子を伺っている。
「る、ルン?」
「ああ、あなたのルンだ」
「ひ、人だったの?」
「正確に言うと、オレは獣人だ」
「獣人!?」
確かに他所の国には、人間とは別の種族も暮らしていると聞いたことはあるけれど。
「三年前、襲撃を受けて傷を負ったオレをあなたが助けてくれた。だが人の姿になるにはマナが足りなくてな。ずっと獣の姿のままだったんだ」
「そ、そうだったんだ」
「ああ。だがエミリー。あなたのおかげで、やっと元の姿を取り戻すことができた」
赤い瞳が優し気に細められる。その瞳は大きな黒い犬と一緒だった。
(ほんとうに、ルンなんだ……)
両親が亡くなってからいつも傍にいてくれた黒い犬。
前から賢い犬だとは思っていた。まさか獣人だったなんて驚いたけれど、彼は紛れもなく家族のルンだ。
「それで、エミリー。この男はどうしたらいいんだ? 首でも噛みちぎってやろうか?」
「駄目よ、ルン。戻っていらっしゃい」
ついいつもの調子でルンを叱ってしまった。
ルンは叱られたときにいつもするように、少し悲しそうなウルウルとした瞳で見上げてきたが、彼を人殺しにするわけにはいかない。
「もう充分よ。クレーマー野郎の上からどいて」
「……わかった」
踏みつけていたヨーゼフの上から足を退けると、すっかり怯えたヨーゼフが立ち上がろうとする。だがその足は震えていて、おぼつかない自分の足に躓いて無様にも転んだ。美しい金髪はボサボサで、ぴっちり着ていた服のボタンはいくつか取れていて、ところどころ汚れているしとてもダサい。
「な、なんだよおまえら。お父様に、言いつけてやるからな! 覚悟しろ!」
足が使えないのなら這ってでも去って行こうとしているのだろうか。
虫のようにバタつく様子を見ていると、すこし溜飲が下がるような気がした。
去って行く背中を眺めていると、入れ替わりのように警備兵と思われる人たちが走ってくる。誰かが通報したのかもしれない。
早くこの町から出たいのに、捕まるなんてたまったものじゃない。
「エミリー」
ルンが手を差し出してくる。
「逃げるぞ」
「……っ、うん!」
その手を掴む。荷物の入った鞄はいつの間にかルンの手にあった。
ふと後ろ髪を引かれるように振り返る。
父と母の手作りの看板。エミリーのなによりも大切だったカフェの象徴。
唇を噛みしめるのと、ルンが手を引くのはほぼ同時だった。
「看板は、落ち着いたらまたあとで取りにくればいい。いまは逃げるのが優先だ」
ルンの言葉に押されるように、エミリーは走り出す。
さすが犬だけあってルンの足は速かった。途中でエミリーを抱えるとさらに加速して、警備兵との距離はどんどん開いていき、町の外に広がる森に入ったらもうすっかり見えなくなった。
森の中を走って行くと町明かりは見えなくなり、やっとルンは走るのをやめた。
「……すまない。隣の町までたどり着きたかったが、マナ不足のようだ」
地面にエミリーを下ろしたルンがそう言うと、彼の体は黒い靄のようなものに包まれて、いつもの大きな黒い犬の姿に戻ってしまった。
『エミリー。いままですまなかった。本当はもっと早くに自分の正体を明かすつもりだったのだが……嫌われるかと思って、口にできなかったんだ。あなたを騙すような形になって、本当にすまなかった。……その、もしかしてオレを、嫌いになっただろうか?』
しゅんとして項垂れるような姿に、胸がキュンとする。
大きな犬だから破壊力は抜群だ。
「嫌いになんてならないわ! あなたは私のたった一人の家族なんだから。何があったとしても、嫌いになんてならない」
良いことがあった時は一緒に喜んでくれて、辛いことがあった時はいつも寄り添ってくれた。
そんな彼の正体が獣人だったとして、それがなんだというのだろうか。
ルンはルンだ。
エミリーのたった一人の大切な家族なんだから。
『そ、そうか。それならよかった』
「ねえ、ルン。抱き着いてもいい?」
『お、オレは構わないが……いざそう言われると、悩むところだな』
なんか俯きながらブツブツ言っているけれど、構うことなくエミリーはその黒い毛に顔を埋める。
こうしている時が一番落ち着く。
『……エミリー。これからどうするんだ?』
「うーん。とりあえず町からは出られたけど……貴族に喧嘩を売ってしまったからね。指名手配されるかもしれないし」
『あの男ならやりかねんな』
「だから、どうせなら別の国にでも……」
『それならおすすめの国がある。本当は、オレもその国に行こうとしていたんだ』
「おすすめの国?」
『ああ。三年前――生国から抜けたオレはその国に向かう途中に、生国の刺客から襲撃に遭ったんだ』
襲撃に遭ったルンは、命からがらこの国に入り込み、あの町に逃げてきたらしい。
そして墓の前で泣いているエミリーに会った。
『本当はあの時の傷、けっこう深かったんだぞ。だけどエミリーのおかげで、命拾いをした』
「そんな大げさにいうことじゃないわよ。私はただ、目の前の命を助けただけ」
『――もしかして、気づいていないのか?』
「なにを?」
『なにって、あなたの能力だ。店の客も言っていただろう。不服だがあのクレーマー野郎も言っていた。あなたの淹れたコーヒーを飲んだり、料理を食べたりすると、元気が出るって』
「え?」
『わかっていないという顔をしているな。もしかして、いままで無自覚だったのか? オレは三年前、確かに死にかけていた。だけどエミリーが傷の手当てをしてくれて、何かを飲ませてくれただろう。その瞬間、体を温かいものに包まれる感覚があったんだ』
三年前のあの日。怪我をした黒い犬を助けた時、エミリーは持ち歩いていたお手製の果実水をルンに飲ませた。スプーンで少しずつだったけれど。
『あなたの作る料理には、回復効果がある。オレは、それに命を救われたんだ。あなたはオレの命の恩人だ』
赤いつぶらな瞳と視線が交わる。
『だからオレはこれからもエミリーの傍にいる。家族でもペットでも、なんだろうがずっと傍にいる。エミリーも、オレの傍にいてくれないか?』
これはもしかして本当のプロポーズ!?
一瞬そう思ったエミリーだったが、首を振って考えを吹き飛ばす。
ルンはたった一人の家族だ。それはこれからも変わらないことなのだから。
「もちろん。ルンも、私の傍にずっといてね」
黒い犬が、嬉しそうにクゥンと鳴く。
「それでさっき言っていたおすすめの国ってどこのこと?」
『ああ、ここから一カ月ぐらい歩いたところに、多種族国家があるらしい。そこの国では種族間の衝突も、身分などもないそうで、とても暮らしやすい国だと聞いた』
「……身分などがない。いいわね、それ」
身分が無ければ、悪質クレーマーが現れたら我慢することなく、拳をお見舞いできるかもしれない。
それはとても興味がそそられるお話だ。
「その国に行きましょう」
『ああ。ちなみにオレの足なら、一カ月もしない内に着く』
「ふふ。あなたに抱えられて走った時、とても気持ちよかったの。楽しみね」
『あ、それと。オレの本当の名前は、リカルドだ』
「リカルド。良い名前ね。これからそう呼んだ方がいい?」
『いや、いままで通りで良い。オレはあなたのルンなのだから』
昨日から怒涛の展開で疲れているのかもしれない。
ルンの毛並みが気持ちいいからか、大きな欠伸と共に眠気が襲ってくる。
微睡みの中、ルンの優しい声が聞こえてきた。
『おやすみ、エミリー』
「うん。おやすみなさい、ルン」
明日はもっといい日になる気がした。