秘密の時間
その日の夜中のことだった。
部屋で寝ていたナタリーは、物が割れるような音で目が覚めた。
アッシュの部屋の方から聞こえた為、飛び起きてアッシュの部屋へ走った。
ドアをノックし、
「アッシュ様?音がしましたが、どうされました!?」
声をかけても返事がない。鍵はかかっていなかった為、そのまま部屋の中に入った。
部屋の中は、暗く、枕元に置いてあった花瓶が割れ散乱していた。アッシュは、苦しそうに呻きながら床に座り込んでいた。
ナタリーはアッシュに駆け寄った。
「アッシュ様!?どうされました?苦しいのですか!?」
アッシュの額は汗ばんでおり、かなり苦しそうで苦悶の表情を浮かべている。こんなことは初めてだった。
「大変・・・!!医者を呼びます。」
ナタリーが魔法使い専属の医者を呼ぼうとした時、アッシュに両肩を強く掴まれた。
「よせ・・・!!誰も呼ぶな!」
「え!?しかし・・・!」
こんなに苦しんでいるのに、人を呼ぶなとは、理解できなかった。
しかし、アッシュが鬼気迫る表情で助けを呼ぶことを禁じた為、ナタリーはそれ以上、どうしようもできなくなった。
「分かりました。人は呼びません。私に出来ることはありますか?」
魔力無しの自分に、アッシュの力になれることなど何もないことは分かっていたが、侍女としてせめて何か役に立ちたかった。
すると、アッシュはしばらくなにも言わず、ゆっくりと顔を上げた。そして、ナタリーの方に向き直ってはっきりとこう言った。
「お前の助けが必要だ。俺を信じ、全て身を委ねて欲しい。」
「・・・・・・? はい。私にできることなら。」
ナタリーは、アッシュが何をしようとしているのか、どういう意味で言っているのか理解できなかったが、今自分にできることがあるならば、その期待に応えたいと思った。
「ありがとう。」
静かにそう言ったかと思うと、次の瞬間、ナタリーの唇はアッシュに塞がれていた。
一瞬何が起きたか分からず、手でアッシュの胸元を押し返し、離れようとしたが、強く抱き締められた。
アッシュが苦しんでいたことと、今されているこの行為が何か関係があるのだろう。ナタリーには知る由もないが、アッシュを助けたい一心だったナタリーは、体の力を抜き、この口づけを受け入れた。
すぐに床に押し倒され、口づけはさらに深くなっていった。次第に頭がボーッとし、暗闇の中、2人の息遣いがやたらはっきりと聞こえていた。
ナタリーは、頭の隅では、このまま男女の行為をするのかな。。。私はできるだろうか。などと考えていたが、アッシュは口づけ以上のことはしてこなかった。
しばらくそうしていたが、ふっとアッシュが顔を離した。表情は落ち着いており、苦しんでいる様子はなかった為、ナタリーは少し安心した。
「あの。。。アッシュ様・・・」
ナタリーが何か言おうとすると、アッシュは一言
「・・・・・・寝る。」
と言い、スタスタと自分のベッドに潜り込んでしまった。
取り残されたナタリーは、唖然としたが、とりあえずアッシュの様子が普段通りに戻った為、一旦は落ち着いたのだろう。
心配ではあったが、これ以上、部屋に居座り続けるのは、恥ずかしさと居たたまれなさで無理だった。
「何かあればお呼びください。」
とアッシュに声をかけ、ナタリーは自室に戻った。その日、ナタリーが眠れなかったのは言うまでもない。
翌日、いつも通りの時間に起きたナタリーは、アッシュの部屋をノックした。
「アッシュ様、お目覚めですか?ナタリーです。入ります。」
どんな顔をして会えばいいのか分からなかったが、いつも通り仕事はしなければならないと思った。
ナタリーは、何事もなかったかのような態度で部屋に入った。
アッシュは珍しく起きていて、着替えも済んでいた。
「今日の予定は?」
「腹が減った。朝食にしよう。」
といつもと全く変わらない会話をした。昨日のことを聞く勇気は、ナタリーにはなかった。
(ああ、なかったことにしたいのね。)
ナタリーは、そう解釈し、忘れてあげることにした。
苦しんでいたのは気になるが、アッシュから言ってこないところを見ると、何か知られたくない理由があるのだろう。
ナタリーとアッシュは、魔法使いと魔力無しの人間だ。
そこには決定的な違いがあり、普通の人間のナタリーが、大魔法使いであるアッシュの全てを理解することなど不可能だと割りきっていた。
幼馴染みとはいえ、自分は所詮侍女に過ぎない。むやみに詮索してはいけないことを、ナタリーはわきまえていた。
その日はいつもと変わらずスケジュール通りに動き、2人の会話も態度もいつもと変わらなかった。
1日を終え、ナタリーは自室に戻ろうとアッシュに声をかけた。
「それでは、私は部屋に戻ります。今夜もゆっくりお休みください。」
そう言って部屋を出ようとしたところ、アッシュに呼び止められた。
「ナタリー、こっちへこい」
ナタリーは振り向き、何だろうかと緊張しながら近付いた。アッシュの1歩手前で立ち止まり
「何でしょうか・・・?」
と聞いた。
「もっと近くに寄れ」
と言ったかと思うと、ナタリーは腕を掴まれ、アッシュの方へ引き寄せられた。
そして、なにも言わずに、昨日と同じように口づけをされた。
それから毎日、1日の終わりにアッシュとキスをすることがナタリーの日課になった。
◇
最初は、この日課に戸惑っていたナタリーだったが、次第に自分から、この時間を望むようになっていた。
いつもは横暴でぞんざいな態度を取るアッシュが、この時だけはナタリーを優しく扱ってくれた。ああ、私はこの人のものなんだと感じられる瞬間だった。
しかし、ナタリーも成人を過ぎた女性であり、そういった欲も人並みにはあった。
毎日、キスはするのに、それ以上は手を出してこない。
キスは、アッシュの発作を和らげるための何らかの薬みたいなものであり、自分に抱きたいと思わせるほどの、女性としての魅力はないのだと思い知らされている気分だった。
夜の時間は、ナタリーにとって甘い蜜であり、毒でもあった。