多様性があって寛容で平等で理解ある人が暮らす世界で起きた殺人事件
「この世の中で一番贅沢な娯楽は、誰かを許すことだ」
駅裏の心療内科から周囲を警戒するようにして出て来たのは三〇を目前とした部下だった。不安気な顔をした彼を見た時、私が最初に感じたのは裏切られたと言う思いだった。
だってそうだろう?
怪我や病気であるなら医者を頼るのも理解できる。だが、悩みがあるのならば、何処の誰かも知れない他人を頼るよりも、五年間も一緒の時間を共にした私に相談してくれてもいいではないか。その裏切られたと言う被害者意識は、直ぐに相手に対する攻撃的な感情へと塗り替えられた。
何も考えず、私は大股で部下へと歩み寄る。回りを気にしていた部下は素早く私に気が付き、すぐさま嫌そうな顔を作った。その表情が腹立たしく、自然と歩幅が広がるのを覚えた。
一挙に距離を詰めた私は内に潜む怒りのままに部下に詰め寄ると、近くにあった喫茶店へと押し込み、通院の理由を詰問した。部下は中々喋ろうとせず、しかし最終的には根負けして前置きを口にした。
「誰にも言わないでくださいよ」
仕事の時とは違う、初めて見せる表情と声音で部下は言った。その姿は卑屈で、恥辱を感じているかのようだ。
「普通に女性を好きになりたいんです」
「はい?」
「ガキの頃、母親と…………まあ色々あって、俺は女性に不信感を抱いていたんですよ」
思わぬ告白に、怒りは消し飛んだ。
いや。それ以上に自分の不作法と言うか空気の読めなさに凍り付いた。
まさか、こんな重い話をされるとは思ってもいなかった。思い返せば、私は勝手に部下の悩みを仕事のことと決めつけていたのだろう。だから、裏切られたなんて身勝手に思い込んでいたのだ。
これでは私はただのパワハラ上司ではないか。
内心の焦りを隠しながら、なんとか弁解のチャンスはないかと冷や汗を額に浮かべ相槌を打つ。
「あれ? でも彼女と別れたって前に言ってなかった?」
「ああ。まあ、彼女って言っても、男ですよ。同性愛って奴です。でももう、俺も三〇じゃないですか。将来のことを考えると、やっぱり普通に結婚したいって思いもあるんです。だから、将来の可能性を広げるためにも、過去と向き合おうって感じたんです」
その言葉を聞いて、私は部下の真の悩みに気が付いた。
「同性愛は恥ずかしいことじゃあない」
「へ? ああ。そうですね」
部下は私の言葉に虚を突かれたような顔をした。
「そう言うわけで、ちょっと前から通院してたんです。別に会社に不満があるとか、そう言うわけじゃないんで安心してください。労災ってわけでもないですし」
辛そうに笑って、大丈夫アピールする部下に、私は首を横に振る。
「違うだろう。自分に正直にならないと」
「え? は? なんの話でしょうか? ああ、もうちょっと給料上げてもらえると嬉しいすけど」
「そんな話は今は関係ない。貴方は男の人が好きなんだろ?」
「男とか女は別に関係ないんです、母との決着がついた時、そこはまた考えます」
まるで今までの自分が間違っていたかのように部下は誤魔化すように曖昧に宣言する。が、それは間違いだと私は見抜いた。
「大丈夫。私は同性愛にも理解があるから」
きっと、この部下は世間の目に負けて同性愛者と言うアイデンティティを捨てようとしているに違いない。そうであれば、クリニックから出て来た時の自信のない姿にも説明がつくし、中々通院の経緯を説明しようとしなかったことにも説明がつくだろう。
そして、それは残念なことだ。少数派だからと言って、卑屈になることはない。間違ったことをしているわけでもないのだから、自信をもって堂々とすればいい。
過去の自分を否定する必要は微塵もない。
無理に異性愛者になる必要なんてない。
「とにかく、これは非常に私的なことなので、そっとしておいてもらえますか? 会社にも迷惑はかけません」
少し怒った風の部下。確かに、彼が言う通りにこれは彼のアイデンティティに関することで、とても繊細な問題だ。踏み込み過ぎた私に対して憤りを覚えるのは当然のことだろう。
その後、私達は当たり障りのない会話を一つ二つして店を後にして別れた。
さて。上司として、年長者として、彼に出来ることをしてあげよう。
「何でバラしたんですか!」
数日後、会議室に私を呼び出した部下がはっきりと怒りをあらわに叫んだ。社会人としてあるまじきその態度が癪に障る。ましてや、それが私の善意に対する感謝ではなく、叛意とも言える台詞と共に吐き出されたのだから一入だ。
「今の社会に必要なのは理解です。難しいから、理解されないからと言って隠していても変化はありません」
なるべく苛立ちを声色に出さないように心掛け、部下に諭すように言ってやった。
あの後、私は会社の一部の人間に部下が重要なアイデンティティに関して悩んでいることを説明し、彼を受け入れる姿勢を求めた。同性を愛することと異性を愛するに何の違いがあるだろうか? 過去のトラウマに向き合って傷ついてまで、自身の愛すると言う尊い感情を無理矢理に変更する権利が誰にあるだろうか?
私は部下に必要なことをしたと断言できる。
だが、部下は自身が同性愛者である事が社内で噂になっているのを知ると、酷く狼狽し、まるで自身の恥を晒されたかのように羞恥を覚えた。
これは良くない傾向だ。
「俺は課長だから教えたのに! 母のことを話すのにどれだけ俺が勇気を振り絞ったかわかってますか!?」
口角泡を飛ばし、部下は殆ど涙目で訴える。
可愛そうに。偏見の目で見られたのだろう。この社会はどうして理解を拒むのだろうか?
「ああ。わかるよ」
「だったら何で喋った!」
「おい。言葉使いは気を付けろ? まあ私は気にしないが。何でって、その勇気を知る人は多い方が良い。君の勇気と言葉が社会を変えるのに必要なんだ。そして周り巡って、それが君の為になる」
怒りに冷静さを失う部下だが、悪いのは彼ではない。彼を認めようとしない社会だ。
「社会なんてどうだっていい! 俺の過去の問題なんだ! 放っておいてくれって言ったのに!」
そして、悲しいことに彼自身が彼を認めていない。周囲の偏見に晒されて、本当の自分を曝け出すことを恐れてしまっている。だから、自身を苦しめることが解決策だと思い込んでしまっている。これは彼だけの小さな問題ではないのだ。
「放っておかないさ。君は私の大切な部下なんだから」
「…………わかりました」
そんな私の想いが通じたのか、彼は憑き物が落ちたように冷静さを取り戻すと、私の肩に手を置いた。何故に肩? 握手とかじゃあなくて? と、言うか肩に手を置くのは、上司に対して少しなれなれしくないだろうか?
そのことを注意しようとしたが、それよりも早く腹部に冷たく鋭い感覚が走った。
「え?」
それは直ぐに灼熱の熱さに代わり、直ぐ近くにもう一度同じ感覚が走った。
冷たい熱さは、直ぐに痛みへと代わり、私は立っていられなくなり膝から崩れ落ちた。咄嗟に腕を付くことも出来ず、額から会議室の床に頭が落ちる。スーツが鮮血で染まっていく不快さと、驚くほどの血の熱さ、そして対照的に冷たくなっていく身体。
痛みを堪えて部下の顔を見上げると、血走った目で包丁を振り上げる姿が見えた。
部下は自宅から持ち出した包丁で私の腹部を二度刺した後、自らの喉を掻き裂いて死んだらしい。
「警察は自殺として処理するみたいだよ」
病院のベッドの上で、部長は私にそう説明した。
確かに、客観的に見て元部下の死は自殺と言えるかもしれない。
だが、真実は違う。
元部下を殺したのは世間の色眼鏡だ。私以外、誰も彼の苦悩に付き合おうとしていなかった。その事実が、彼をあんな凶行に到らしめるまでに追い込んでしまったに違いない。
警察は私を刺したのは怨恨だと言っていたが、それも違う。きっと、優しく恩人で頼り甲斐のある私意外に、本音をぶつけることができなかったのだろう。だから、八つ当たりの対象としても私が選ばれたのだ。関係の薄い人間や、無差別に会社の人間を襲わなかったことに、彼に残された最後の人間性を感じずにはいられない。
私は彼に刺された。
が、私は彼を加害者だとは思わない。
彼もまた、時代と習慣の被害者だからだ。
彼の死を無駄にしない為にも、私はこれからも社会的弱者のためにも闘おう。




