始まりの日
何かの始まりなんて、ほんの些細なことだったりすると思うんですよね。
始まりの日
今回から、徐々に視力が奪われていった日々の話を書いていく。
始まりは大学院修士課程二年の後期に入った頃だった。
当時の私の状況は以下の通りになる。
左眼は本物の眼球とそん色のない見た目をした義眼を装着し、右眼は小学生の時に白内障手術を受けている。
右眼の視力は裸眼で0.8程で、白内障手術の影響なのか、メガネなどの矯正は、あまり効果がでないようだったがそれでもメガネを使えば1.0程にはなるとされていた。
視界の欠損部分は、中心部分からひょうたん型に欠損部分があると言われていたが、あまり実感はなかった。
こんな状態でも、自動車の免許を持っており、ドライブを趣味の一つにしていた。
大学院に通っていたのは『人生、太く短く』の座右の銘を実践した結果だと思ってくれると幸いだ。
義眼の話や白内障についての話も書きたいところだが、それはまたの機会としておこう。
さて、今回書いていく話は、私の右眼の見る力に異常を感じ始めた日のことになる。
とは言っても当時の私には自覚症状が全くなく、ちょっとした出来事があっただけの平凡な日常だった。
それでも、この日を始まりの日とするのは、後々に思い返して、どこが始まりの日だったかと考えた時、思い出すのがこの日の出来事だったからだ。
さて、そんな始まりの日、私にとっては大きな出来事、他人から見たら小さな出来事は、本当に些細な出来事だった。
私がいた大学院の研究棟は、六階建てのビルで、私の所属する研究室は、五階にあった。
大学院生と言えば、研究室で籠って何かをしているイメージかもしれない。
私は文系で、フィールドワークのある研究をしていたので、イメージ通りの研究室に籠ることもあったが、一日中を外で過ごすこともあった。
そんな研究をしていたので体力と健康維持には気を使っており、エレベーターは、可能な限り使わず、なるべく階段での移動を心がけていた。
夏の空気を残しながらも、秋の空気を感じ始める頃、片手に修士論文の資料の入ったカバン、もう一方の片手にはノートパソコンの入ったカバンを持ち、普段通りに階段を上り始めた。
三階まで来て、四階へ続く階段に足を掛けようとしたとき、踏み外してよろめいてしまった。
この時に、荷物のバランスが悪くて階段を踏み外し多のだと思い、すぐにふらついた体を立て直して階段を昇り始めて無事に研究室に到着した。
たったこれだけの出来事である。
たった一段の階段を踏み外し、ふらついた出来事、これが始まりの日の出来事だった。
それから、何もないところでつまづくことが多くなり、毎日の階段昇りが少しずつ辛く感じ始め、一か月ほどが経った頃、階段を昇ることに無意識の恐怖感からなのか抵抗を感じるようになった。
丁度その頃に眼科の定期検診があり、検査を受けたところ、ひょうたん型の失われた視界部分が広がっており、視力もやや落ちていることが判明する。
何か切っ掛けや心当たりを探ったところ、このたった一段の階段を踏み外した出来事を思い出すことになる。
ちなみに、原因と言えるような何かまでは思い出すことはできなかった。
失われた視界は、基本的に二度と戻らないが投薬治療で使っていた点眼薬を変更することで、これ以上の欠損はしばらくの間、広がることはなかった。
視界を失ったり、視力が弱くなるとバランスを崩しやすくなる。
特に右眼だけで生活していた私は、本来は両目で無意識に測る距離感も右眼のみで無理やりに測っていたので、このバランスの崩壊が顕著だったようだ。
視界を失うことがどういう状態なのか、想像しにくい方もいるかもしれない。
なので、少し説明しておきたいと思う。
単純にイメージすると見える範囲が黒く塗りつぶされて欠けていくようなイメージになるかもしれない。
病気によっては、これもあるのだが、緑内障の場合は、これとは異なる。
視界が文字通り削られるのだ。
見える範囲の中に認識が出来ない場所が生まれる。
パソコンのモニターとマウスポインターで例えていこう。
モニターの中央にマウスポインターがあるとする。
そのモニター全体を見ている状態で、マウスポインターを下に持っていく。
下の一部の視界が欠けている場合、突然マウスポインターが消えてしまう。
再び中央にマウスポインターを戻すとしっかりそこにマウスポインターは見える。
同じように上や左右が欠けている場合、マウスポインターを移動させると消えてしまう。
もちろん、中央が消えている場合は、中央にあるマウスポインターが消えている状態で認識する。
これが緑内障の場合の視界が欠ける状態となる。
あくまで視神経の異常であり、緑内障でなくても同じように視界が欠ける場合もあるので、何らかの異常を確認した場合は、早急の眼科健診をおすすめしたい。
次回は数年後の本格的に見る力が奪われる日々の話を書きたいと思う。