蛇口
「あなたの心は球体の形ね。最初は少量で満たされているけれど、中頃になって幅が広がって物足りなく感じて、そのまま最後はしぼんでいることに気付かずあふれ出てしまう。でもそれって幸せなことよ。だって満たされているのだもの。でもあなたは溢れた部分ばっかりに目を向けてまだ足りないと嘆くんだわ、きっと」
彼女は時々たばこの煙を吐きながら、ベッドに横たわる僕に向かってそういった。
キッチンの換気扇の音はその言葉を吸い込むように慌ただしく、しかし規則的に動いている。テーブルの上には昨日飲んだ缶ビールがへちゃげて斜めになりながらもしっかりと立っている。
部屋に広がるメンソールの香りはベッドの彼女の残り香と交わり甘く、僕を余計にベッドに縛り付ける。
「もっと換気扇に近づいて吸ってよ。こっちまでにおいが来てるよ」
僕は彼女の香りが鼻の奥にこびり付いていく様子を目を閉じながら感じていた。
「いいじゃない、そんなこと。それより私の分析はどう?あたってる?」
彼女は短くなったタバコを名残惜しそうに灰皿に押し付けた後、僕に近づきながら訪ねてきた。彼女が腰かけ沈んだベッドはその分僕から離れた気がした。
僕は彼女の指をからめとり引き寄せる。彼女はなされるがまま僕に倒れこんだ。さっきよりきつく、鮮明な彼女の香りはもはや、中毒的であった。人々が秋になると金木犀の香りを探すように僕はその香りの存在を確かめる。
僕の上にうつぶせに寝転がる彼女の鼓動は強く、鮮明に彼女を生かしていた。しかし僕の鼓動は聞こえない。まるで自分の存在がないように感じた僕はさらに彼女を僕の方に引き付ける。
黙ったままの彼女はどうやら僕の返答を待ち望んでいるようだ。
「君の分析ははずれてるよ。なぜなら僕は僕の心の形を見たことがないから」
「答えになってないよ」
耳元でつぶやく彼女の言葉に怒りはなく、むしろ満足しているようだ。
彼女の腕が僕の首を包み込むようにまとわりついてくる。
「君の心は三角だ。それも先っちょが下のね。最初は順調に溜まっていくように思えるけど、後半に進むにつれて一つの蛇口じゃ足りなくなる。そして満杯になったときに倒れてしまうんだ」
彼女は顔を上げ、色の薄い唇を三日月のように光らせ、ゆがめた後に正解よとつぶやき僕に口づけをしてきた。
彼女の口の中は生暖かくベッドのように優しかった。
僕は心からあふれたものを彼女の為に蛇口のように綺麗には注ぐことは出来ないが、それでも精一杯注いでいる。
しかし、僕は数ある蛇口の一つで、かといって独り占めしたいとも思わない。僕と彼女が一緒になってしまったら生きられないことはお互いにわかっている。
しかし、心苦しいことはある。注げば注ぐほど彼女の心は不安定になり、満たしてしまうと壊れてしまう。
それでも僕は彼女の心に注ぐことは止めない。壊れてしまっていいと思えるほど、むしろ壊してしまいたいと思ってしまうほど彼女は美しかった。
彼女の口づけでしびれてしまった脳で考えるにはこれで精一杯だ。
ただ一つ、僕は彼女を壊す人でありたいし、また彼女もそう願っていてほしい。
僕の願望を裏付けするように口の中にはメンソールの香りが残っていた。
壊れるほどの愛を描いてみたかったです。うまくいきませんでしたが。