音を立てて崩れ落ちていく
「ジェーンは元々、父上の侍女だったんだよ」
その日、深夜近くになって、ルカは部屋に戻って来た。湯浴みを終えたルカが夜着に着替えるのを手伝いながら、ミシェルの胸中は複雑だ。
「侍女、ですか」
「あぁ。雇い始めたのは5年ほど前だと言っていたかな……。あまり目立つタイプじゃなく、黙々と裏仕事をこなしていたらしい」
そう言ってミシェルを撫でながら、ルカは笑う。
(胸がザワザワする)
ミシェルは右手で胸元を押さえつつ、ギュッと目を閉じた。
いつになく、ルカに触れたい。抱き付いて胸に顔を埋めたいし、甘えてしまいたい。けれど、普段と全く変わりないルカの様子が、ミシェルにそうすることを躊躇わせた。
「その……侍女の方がどうして、政務官をすることになったのですか?」
「父上から推薦されたんだよ。あれは確か……ミシェルが見つかる少し前。父上に私たちの結婚を打診して、婚約発表の打ち合わせをしていた頃だったかな」
ルカのエスコートを受けて、ミシェルはソファに腰掛ける。すると、馴染みの侍女がすぐにティーセットを運んでくれた。ミシェルがティーポットを受け取ると、侍女は恭しく礼をし、すぐに部屋を辞していく。その後姿を見送りながら、ミシェルは心の中でふぅとため息を吐いた。
「父上とはこれまであまりやり取りをしてこなかったからね。最初はやっぱり壁があった。そこで時間や場所、いろんな提案や調整をしてくれたのがジェーンだった。そうしている内に、侍女というより政務官としての能力があるんじゃないか、って話になって。クリスがミシェルの護衛に就くこともあって、私の仕事を手伝ってもらうようになったんだ」
そう言ってルカはミシェルを抱き寄せると、気持ち良さげに目を瞑った。疲れているのだろう。身体をミシェルに預け、甘えるように擦り寄る。
「そうなんですね。随分前から知っていらっしゃる方なのかと思いました」
カップに紅茶を注ぐ間も、ミシェルの心臓はドクドクと脈打つ。
出会ったのが最近だという割に、ジェーンとルカの距離は近い。本当はもう、この話題を続けるべきではないのだろう。けれど、ミシェルは気持ちをうまく切り替えることができずにいた。
「そんな風に見えたのか……それは良かった」
「えっ……?」
ルカが小さく笑いながらミシェルを見つめる。けれどミシェルにはルカの意図が分からずにいた。
(どうして‟良かった”?)
ズキズキと音を立てて心が痛む。それほどルカがジェーンと仲良くなることを望んでいるということだろうか。
(それとも、二人は既に恋仲に……?)
思ったよりもミシェルがショックを受けて無さそうで良かったと、そういうことなのだろうか。
けれど、唇に触れる柔らかな温もりに、ミシェルの思考は唐突に遮られた。
いつもはルカに触れられるだけで、ただただ嬉しい。ひたすらに温かく、幸せな気持ちに包まれるというのに。
(やっ……!)
思わず漏れそうになった声は、塞がれた唇のおかげで音にはならなかった。
(良かった。ルカ様を傷つける所でした)
ホッと胸を撫でおろしながらも、ミシェルの心はささくれ立ったままだ。
固く繋がれた手も、ルカに撫でられる頬も、いつもと同じ。けれど、ミシェルの心は激しく痛み、上手く呼吸ができずにいる。
ルカと兄妹だと思っていた時に感じていた痛みとは別の痛み。ほの黒く蜷局を巻くような熱のような何かが、ミシェルの心臓を焼いた。
以前ルカは、ミシェル以外に妻は持たないと約束してくれた。他の女性に触れてほしくないと、そう望むことを許してくれた。
けれどそれは、ミシェルが姿を消す前の約束だ。今なお有効とは考えづらい。
(嫌、なんて思っちゃいけない……言えるわけがありません)
二人の関係に溝を作ったのは他でもない。ミシェル自身だ。
再会した時にも、ルカはミシェルと生きていきたいと言ってくれたし、他に妻を娶るつもりはないと発表をしてくれた。
けれどルカがジェーンと出会ったのは、その発表の直前。接近したのはミシェルと再会した後のことだ。もしも婚約発表がもう少し後だったら、違う発表がなされていたかもしれない。
「ミシェル?」
ハッとミシェルが顔を上げる。すると、ルカが怪訝な表情を浮かべながら、ミシェルの表情を覗き込んでいた。
「どうした?体調でも悪いのか?」
ミシェルの眉間に寄った皺を優しく伸ばしながら、ルカが問いかける。心配してくれているのだろう。優しく、温かい表情だった。
「少し……疲れてしまったようです」
俯きながら、ミシェルが答える。すると、ルカはそっとミシェルを抱え上げた。
「遅くまで待たせてすまなかったね。今夜はもう休もう」
もう一度触れるだけの口づけを落としながら、ルカが微笑む。ミシェルはコクリと頷きながら、唇をギザギザに引き結んだ。
それから数日が経った。
元々、勤務中のルカの様子を知る機会は殆どないため、その後のルカとジェーンの様子はわからない。ミシェルの精神も表面上、落ち着きを見せつつあった。
けれど、そんなある日のこと。
「おや、ルカ様とジェーンですね」
クリスの言葉にミシェルが身体を震わせる。
ふと顔を上げると、執務室の窓の外を指さしながら、クリスが朗らかに笑っていた。
「そうですね」
気が進まないものの、ミシェルもそっと窓の外を覗き込む。そこには仲良さげに会話を交わす、ルカとジェーンがいた。他に供もつれず、お忍びデート、といった雰囲気だ。
「仲が良さそうで何よりです」
ミシェルは踵を返しながら小さく笑った。そんな心にもないことを口にできるのは、ミシェルが心を持たぬように育てられたからだろうか。
(本当に、馬鹿ですね、私)
自虐的に笑いながら、ミシェルは羽ペンを強く握りなおした。
「えっ?二人はもう、恋仲なのですか?」
クリスが目を丸くしながら尋ねる。
(もう、か)
ミシェルは視線を落とし、膝の上のトネールを撫でた。
「わかりません。私は何も、知らないのです」
トネールは首をゴロゴロ言わせながら、そっとミシェルに擦り寄る。小さな相棒の存在に、ミシェルの心は救われるような気がした。
「ミシェルは……それでいいのですか?」
先程までとトーンの異なるクリスの声に、ミシェルは顔を上げる。
するとクリスは、至極真剣な表情で、ミシェルのことを見つめていた。
「私は…………私には関係ありません」
クリスから視線を逸らしながら、ミシェルは言う。声は無意識に震え、表情はきっと酷いことになっている。けれどミシェルは更に言葉を続けた。
「ルカ様は王族です。妃を何人得られても良い方です。私が口出しできることは、何もありません」
するとクリスは、開いていた分厚い本をパタンと閉め、そっと身を乗り出した。
唐突に頬に触れる熱。ビクリと身体を震わせながらミシェルが振り向くと、そこには獲物を射抜くような瞳のクリスがいた。
「本当にそれで良いんですか?」
いつも温和なクリスが、今は別人のように感じられる。
クリスの手のひらに包み込まれた頬が、燃えるように熱い。強い力で押さえられては、頷きたくとも頷けない。ミシェルの瞳に滲む涙を見つめながら、クリスは大きなため息を吐いた。
「私は――――ミシェルに、そんな風に悲しんでほしくありません。自分の心を殺しながら生きてほしく等ないのです」
ミシェルの肩に顔を埋め、クリスがそう口にする。ズキズキと痛む心を押さえながら、ミシェルは首を横に振った。これ以上聞いてはいけない。そんな気がしていた。
「私なら、そんな想いはさせない。ミシェルだけを大事にするし、一生幸せにします」
「クリス、お願い……」
もうやめて、と。そうミシェルが口にしようとしたその時、唇を何かが掠めた。
時間にしてほんの一瞬。けれどそれは、無機質な物質とは異なる。人のぬくもりの伴う何かだった。
ドン、と音を立ててミシェルがクリスを押す。涙がポロポロと零れ落ち、心臓が張り裂けそうに痛かった。
(どうして、どうしてこんなこと)
トネールはミシェルの膝から飛び降りると、まるで主人を庇うようにクリスに立ちはだかった。耳と尾をピンとそばだて牙を剥き、喉を鳴らしてクリスを睨みつける。周囲の空気がビリビリと震えているようにミシェルには感じられた。
これまでもトネールは、クリスに対してあたりが強かった。ミシェルとクリスが仲良くするだけで不機嫌そうな表情を浮かべたり、威嚇したりする。
けれど、こんな風に敵意をむき出しにしたトネールは初めてだった。
(クリス…………っ!?)
見上げると、クリスの瞳は紅く冷たく光っていた。いつも優しいブラウンの色をしているというのに、瞳孔は開き、凍てつくような空気を身に纏っている。
ミシェルをも冷たく見下ろし、まるで憎んでいるかのような表情。思わずゴクリと喉が鳴った。
「すみません……しばらく護衛は、部屋の外からしていただけますか?」
それがミシェルの口にできる精一杯だった。
クリスは何も言わぬまま小さく頷くと、そっと部屋の外へ出た。
(どうしよう)
部屋の扉が閉まると同時に、ミシェルは膝から崩れ落ちた。涙が止め処なく流れ落ちる。
(どうしよう、どうしよう)
クリスとキスをしてしまったこと。それはミシェルの意思によるものではない。けれど、原因を作ったのは、間違いなくミシェル自身だ。心に隙が出来た。クリスに唇を許すだけの隙が。それはルカに対する裏切りになるのではないか。
(ルカ様に合わせる顔がありません)
小さな執務室に、ミシェルの嗚咽が漏れる。
トネールはミシェルの隣に佇みながら、クリスが去っていった扉を、ずっと見つめていた。




