エスケープゾーン
その日から、ミシェルの生活は大きく変わった。
「あ、あの……自分でしますから」
「いえ。私の仕事です」
執務室には常に侍女が控え、あれやこれやとミシェルの世話を焼く。書類を探すのも、茶を淹れるのも、取次すらも侍女が間に入る。
仕事中だけならまだ良い。侍女たちは仕事が終わって私室に帰ってからも、入れ代わり立ち代わりミシェルの側に控えていた。
(うぅ……落ち着きません)
トネールがミシェルの隣で手元を覗き込む。
机の上には紙片と筆ペン。背後では侍女がニコニコと朗らかな笑みを浮かべていた。
「ミシェル様、ルカ様がお手紙をお待ちですよ?」
「はっ……はい!」
最早ミシェルは、ダラダラと気ままに過ごすどころか、好きなように時間を使うことすら許されなかった。
毎日、その日の仕事が終わると、ルカへの手紙を求められる。忙しく過ごすルカへ、その日の出来事を報告する内容だ。
それが終わると、侍女頭のサリバンが来て、礼儀作法の講義が始まる。しかも、あくまで茶を飲みながら、互いにプライベートな時間を楽しんでいる体で行われるので質が悪かった。
「なるほど。で、私たちの所に助けを求めに来た、と」
「はい……助かりました」
アリソンの部屋のソファに身を投げ出しながら、ミシェルはため息を吐いた。
さすがに城の外にまで侍女たちは付いては来ない。それに、勤務時間外に外出することを咎める者はいなかった。
「案外大変なのねぇ。王子の婚約者って」
トネールを撫でながら、ディーナが苦笑いを浮かべる。ミシェルは涙目になりながら、首を横に振った。
「まだ婚約者じゃないわよ。王様のお許しを得てないもの」
茶菓子を運びながらアリソンが言う。ミシェルはコクコク頷きながら、柔らかいクッションを抱き締めた。
「婚約者ですらないのにこの待遇!?」
ディーナはそう言って目を丸くした。
(やっぱり、そう思いますよね)
アリソンから茶菓子を受け取りながら、ミシェルは頭を抱える。気の毒そうに眉を顰めながら、アリソンはミシェルを撫でた。
「ルカってミシェルのこと愛してるのねぇ~~~~。ちょっと過保護過ぎる気もするけど」
ニヤリと歯を見せてアリソンとディーナが笑う。けれどミシェルはブンブンと首を横に振った。
「いいえ。ルカ様はこの件については何も、指示をしていないんだそうです」
「えっ、そうなの?」
ミシェルの返答に二人は身を乗り出す。相当意外だったらしい。アリソン達はティーカップをテーブルに置くと、先を促すようにミシェルをまじまじと見つめていた。
「……お二人とも、この状況を楽しんでいらっしゃいますよね?」
珍しく棘のある声音であることを自覚しながら、ミシェルが唇を尖らせる。ディーナはパッと口を手のひらで押さえると、ブンブンと首を横に振った。
「そんなまさかっ!……それで?ルカ様のご指示じゃないなら、一体どうしてこんな状況に?」
トネールをぬいぐるみのように抱きかかえながら、ディーナは尋ねる。まるで本をせがむ子供のような期待に満ちた瞳に、ミシェルは頬を膨らませた。
「それが、どうもマダム・サリバンの采配らしいんです」
「えぇ~~~~あの、侍女頭の?」
そう声を上げたのはアリソンだった。二人は眉間に皺を寄せ、苦汁を呑むかのような表情を浮かべる。どうやら研修の間に、サリバンに対して苦手意識を抱いたらしい。ミシェルはコクリと頷きながら、ため息を漏らした。
勤務後の講義の中でサリバンに教えられたこと。それは、ミシェルの存在や身の振り方は、今後の王室の存続に関わるということだった。
「何でも、いつ王家の子を身籠るかも分からない私は、今から王族と同じ振る舞いを身に着け、扱いを受けなければならないんだそうで」
「うわーぉ。侍女からそんな生々しい話されるなんて、嫌すぎるでしょ」
アリソンは口をへの字に曲げながら、苦々し気に舌を出した。
「……もしかしたら、これまでもこういったことがあったから、ルカ様には未だ妃がいらっしゃらないのでしょうか」
冷めてしまった紅茶を啜りながら、ミシェルがポツリと漏らす。
ルカが誰かと朝を迎える度に、こんな待遇をしていては、相手が逃げ出してもおかしくはない。そんなことが続けば、ルカが色事に慎重になっても致し方ないだろう。
(何ででしょう。胸が苦しく感じるのは)
左手の薬指には、ルカから貰った指輪が光る。まるで太陽みたいに輝く宝石が、どこか冷たく感じられた。
「うーーーーん。単にルカは恋愛に興味がなかっただけのような気がするけど」
アリソンはそう言って首を傾げた。目を瞑り、記憶を辿っているらしい。その表情はどこか険しかった。
「でもなぁ、私が知らないだけって可能性もあるし」
心がチクチク痛むのに気づかない振りをしながら、ミシェルが首を縦に振る。知らず目頭がジワリと熱くなった。
「……それなのに、本当に私で良いのでしょうか。王族としての教育なんて必要ない、もっと相応しい方が沢山いらっしゃるのに。……もしかしたら、私なんかよりずっと、ルカ様が一緒にいたいと願った女性がいたかもしれないのに。私では誰の期待にも応えることができないのに」
口にしながら、ミシェルの瞳には涙が浮かぶ。
ルカと一緒にいたい。腕の中にいるだけで、例えようのない幸せを感じる。
けれど、それと同じぐらい、言葉にならない感情がミシェルを襲った。
(ついこの間まで、ただただルカ様が好きで。嬉しくて。幸せだったのに)
瞳からは次から次へと涙が零れ落ちる。
(きっとまだ早かったんです。いえ……ルカ様の側にいる自信なんて、一生手に入らないかもしれないのに)
きっと困らせてしまったのだろう。アリソンもディーナも何も言わない。ミシェルは涙を拭いながら、ギュッと目を瞑った。
「良いんだ。誰の期待にも応えなくていい」
そんな言葉と共に、誰かがミシェルを後ろから抱き締めた。
テノールの凛と響く声は、アリソンでもディーナのものでもない。
「ルカ様……」
ふわりと香るルカの香りと、背中に感じる温もりに、ミシェルはまた涙を流す。ぐちゃぐちゃで見苦しい表情を晒すわけにはいかない。ミシェルはぐっと俯いた。
「サリバンたちが負担になっているなら、私に教えてくれたら良かったのに。そんな風に一人で悩ませたくなかった」
ルカは無理やり顔を上向かせると、じっとミシェルの瞳を覗き込む。ミシェルは首を横に振りながら、目を瞑った。
「私が……ルカ様のお相手として至らないのは事実ですから。お部屋のことも、講義も……善意でしてくださってることなのに。それを負担に思ってるだなんて、とても口にはできなくて」
霞む視界の中、部屋の後方に苦笑を浮かべたディーナとアリソン、それからアランが見える。ルカは困ったように笑うと、もう一度ミシェルを抱き締めなおした。
「ミシェル……ミシェルは一つ、大きな勘違いをしている」
「勘違い、ですか?」
ルカの言葉にミシェルが首を傾げる。コクリと頷きながら、ルカは小さくため息を吐いた。
「サリバンはミシェルが私に相応しくないから、侍女たちを側に付けているわけじゃない。講義に行っているわけでもない。あいつはただ――――嬉しいだけなんだ」
ミシェルの涙を拭いながら、ルカはそう言って笑った。
(嬉しい?)
頭の中に疑問符を浮かべながら、ミシェルは黙ってルカを見つめ続ける。ルカはミシェルを撫でながら、そっと額に口づけた。
「……サリバンはずっと、王家の行く末を案じていたから。母を亡くして以降、父は新たに妃を迎え入れようとはしなかったし。私はこの年になるまで、誰かを大切に思うことも、部屋に呼ぶことも、結婚を望むこともしなかった。最後の王族になっても構わない。そう思っていた程だったのに――――全部ミシェルが初めてだ。だから嬉しくて……きっと大切にしたいんだと思う」
ミシェルはほんのり頬を染めながら、ルカを見上げた。
(嘘、ですよね?)
俄かには信じがたい話に、ミシェルは眉を寄せる。けれど、ルカの表情は真剣そのもので。ミシェルの心臓はトクトクと早鐘を打つ。
「でも、それがミシェルの負担になっているなら話は別だ。そんなことでミシェルを不安にしたくない。私との結婚を迷って欲しくないんだ」
ルカはそう言って真っすぐにミシェルを見つめた。切なげな瞳が、ミシェルの心を大きく揺さぶる。
「ルカ様……」
「だから、私にだけは、きちんと気持ちを伝えてほしい。その上でミシェルがどうしたいか……どうするのが良いのか、一緒に考えていこう」
ミシェルは思わずコクリと頷く。するとルカは目を細め、とても嬉しそうに笑った。
「ねぇ、アラン。ルカってあんな奴だったっけ?」
その時、アリソンの小さな声がミシェルの耳を捕えた。次いでアランがブンブンと首を横に振る。
「人ってあんなに変わるものなのね……参考になるわ」
ニヤリと口角を上げてアリソンが笑う。
「おまえ、聞こえてるからな」
ルカがそう言って、照れたように頬を掻いた。ほんのりと紅く染まった頬が愛おしい。抱き締めたい――。そんな衝動を抑えながら、ミシェルはそっと、ルカの手を握ったのだった。




