誕生日の夜に④
月の美しい夜だった。夜風に当たりながら、ミシェルは未だ落ち着きを取り戻せずにいる。
目の前に広がるのは壮大な王都だ。人々の営みが織りなす灯りが、まるで星空の如く輝いていて美しい。ミシェルの部屋のバルコニーからでは見下ろせない景色だった。
「良かったのですか? 」
連れてこられた場所がどこなのか、それは説明されずともわかっていた。
ミシェルの住まいが与えられた東の塔の一番奥。いつもは厳重な警備が敷かれていて、騎士や政務官たちですらおいそれと近づくことは許されない場所。ルカの私室だった。
「何がだ? 」
答えながらルカは、バルコニーに身を乗り出した。きちんと閉められた襟元を崩し、ため息を吐くその様は、妙な色香を放っていて心臓に良くない。
ミシェルはごくりと唾を呑み込みながら、そっと後ずさりした。
「ルカ様がいないのでは皆さまお困りになるのではないかと」
ルカは一瞬何のことかわからないといった表情を浮かべたが、ややして声を上げて笑った。
「問題ないよ。俺がおらずとも、つつがなく会は始まり、そして終わる。そういうものだ」
庶民のミシェルにはよく分からないが、ルカが言うならばそういうものなのだろう。けれど、ルカが会場を抜け出したのを皆が見ている。おまけにポッと出の魔女が一緒となれば、外聞も悪いのではないだろうか。
(そう、思うのに……)
下手に喋ると墓穴を掘りかねない。だから、言葉選びは慎重にならざるを得なかった。
「戻られますよね? 」
尋ねると、ルカはゆっくりとミシェルを見上げた。まるで少年のような無垢な眼差しが、真っ直ぐにミシェルを捕えている。彼が醸し出す雰囲気と妙にアンバランスだった。
やがてルカはゆっくりとミシェルを手招きする。戸惑いながらも一歩前へ踏み出せば、ルカは一気にミシェルを引寄せた。
「ルッ……ルカ様」
ルカの腕の中、ミシェルが声を上げる。
心臓がうるさかった。身体がこれまで経験したことのないほど熱くなり、小刻みに震える。
けれど、それより何より困ったのは心の方だ。ダメだと諭す冷静な自分と、嬉しいと思ってしまう自分がせめぎ合っている。
いやいやと首を横に振ろうにも、きつく抱きしめられた身体はピクリとも動かない。辛うじて動く左腕でルカを押し返すべきなのだろう。けれどそれとは反対に、彼の背へと回してしまいたくなる衝動がミシェルを襲った。
「戻る必要なんてない」
ルカはそう言ってミシェルを見下ろした。神秘的な瞳の奥に見え隠れする炎のような揺らめきが、ミシェルを拘束する。少しずつ少しずつ、ルカの瞳が近づいてくる。肌と肌が触れあう程、間近に迫ったその時、ようやくミシェルは我に返った。そっと顔を背けながらフルフルと首を横に振ると、ルカの指がミシェルを追う。
「ダメ、です」
絞り出すようにそう言うのが精一杯だった。
「何故? 」
ミシェルにはルカの顔を見ることはできない。見ればきっと、縋りたくなる。触れたくて、頷いてしまいたくなって、自分で自分が制御できなくなる。そう分かっていた。
「私ではルカ様に釣り合いません。身分も、それから人間としてもそうです。私ではルカ様を支えることはできません」
口にしてしまえば意外なほどに、次から次へと言葉が紡ぎだされた。
王族の結婚とは第一に国益に繋がらなくてはならい。それは、社会に疎かったミシェルですら分かることだ。
御伽噺のように、王子様が庶民の少女を見初めて結婚するなど、現実にはあってはならない。国同士の結びつきを強めるなり、政治や軍事力、経済的に益のある者と結婚すべきなのである。
それに、ルカは次期国王となる人だ。国を治めるため、多大な重圧を抱えて生きていくルカを支えられるほど、ミシェルは強くない。
「そんなこと、ミシェルに求めるつもりはないよ」
ルカはハッキリとそう言い放った。ミシェルは唇をギザギザに結びながら首を横に振る。けれどルカは、ミシェルを自分に向き直らせるとコツンと額を重ね合わせた。
「ただ側にいて欲しい。それぐらい許されるだろう? 」
甘えるように囁くルカはあまりにも魅惑的だ。けれどミシェルは、そのまま頷くわけにはいかなかった。
「今だってお側にいます」
このままルカの側に仕えていたい。それはミシェルの願いだ。
「それは王室専属魔女としてだろう? 」
ルカの手のひらがミシェルの頬を包み込む。鼻先が触れ合う。心臓が熟れて、ジュクジュクになっている。
これ以上は耐え切れない。ミシェルが瞳を閉じた瞬間、唇に柔らかな何かが触れた。温かく、ドクドクと波打つ唇は、まるで自分から切り離されたかのような感覚だ。
「んっ」
瞳を開けることなどできなかった。もしもまた、あの紫の瞳に捕らえられたら、全てを投げ出してしまいたくなるような気がした。
例えばミシェルが貴族であったなら――――もしも何のしがらみもない普通の女の子だったならば、きっと彼の想いを受け入れることができたのだろう。
(私には無理です)
そう思っているのに、甘やかに吸われた唇も、抱きしめられた身体も、ミシェルの心以外の全てがルカを求めていた。
チュッ小さなと音を立てて二人の唇が離れる。名残惜しそうにミシェルの唇を撫でながら、ルカはもう一度、触れるだけのキスを落とした。
「ミシェル」
まるでこの世界にただ一人の女性であるかの如く名が呼ばれる。
「ルカ様」
ミシェルはルカの胸に身を預けながら、そっと名を呼んだ。
もしかすると、これがルカに会える最後の夜になるかもしれない。そう思うと、心が軋む。ミシェルはルカの背にそっと腕を回して抱き締める。頭上でルカが嬉しそうに笑うのが、嬉しくて悲しかった。
「お慕いしています」
「あぁ」
ルカがミシェルを上向かせた。無邪気に笑うルカの表情があまりにも眩しく、愛おしかった。
「けれど、だからこそ……私はあなたの側にいてはいけません」
ミシェルはそっとルカの胸を押し返した。
悲しかった。苦しかった。ミシェルの一方的な想いならばどれほど良かっただろう。そう思うほどに、心が悲鳴を上げていた。
「何故? 」
「それは私が母の……犯罪者の娘だからです」
ミシェルはもう、ルカの顔が見れなかった。俯き、目を伏せながら、言葉を絞り出す。ルカが小さく息を呑む音が聞こえた。
「ルカ様は完璧な存在です。本当にお慕いしています。ですから、そんなあなたに私が影を落とすわけにはいきません」
ルカは明らかに戸惑っていた。ミシェルは眉間に皺を寄せながら、必死に言葉を紡いだ。
「……もしもこのことで、王室専属魔女を辞さねばならないならば、従います。必要ならば、罰も受けましょう」
クリスや彼の父親は、ミシェルの抱える事情を知っていた。知っていて、試験を受けても問題ないとそう話していた。けれど、決めるのはルカだ。
「ルカ様」
踵を返しながら、ミシェルはルカを呼んだ。先程まで触れ合っていたというのに、随分と距離ができてしまった。
(ですが、これで良いのです)
ミシェルの頬は、冷たく濡れていた。滴る涙を拭うこともせず、ミシェルは笑う。遠くに光る星空があまりにも美しかった。
「お誕生日、おめでとうございます」
そっとそう言い残して、ミシェルはルカの部屋を後にしたのだった。
 




