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 坂口から告白されたのは、去年の秋のことだ。

 大学の、いちばん馴染み深い校舎の最上階。小さなラウンジの隅に置かれた古ぼけたソファに、今のようにふたりきりで座っていた。

 三限目の授業が終わり、土屋はもう帰るだけだったのだが坂口はまだ五限目の授業が残っていた。彼が四限の空きコマを潰すのに付き合っていた。さっきまで一緒に受けていた授業の話をしたり、共通の友人の噂話をしたり。それまでずっと、いつものようなくだらない会話をダラダラと続けていたのに。

 四限目の終わりを告げるチャイムが鳴り始め、そろそろ帰ろうかと土屋が腰を浮かそうとした、そのときだった。

「好きだ」

 それは、チャイムにかき消されてしまいそうなほど、小さな声だった。

こんなくだらない冗談、いったいどんな顔で言っているんだろう、と坂口の顔を覗き込んで。

 ハッとした。その目が、本気だと告げていたから。

 どんな顔をすればいいのか、なんと返せばいいのか。なにも分からずただ茫然と顔を見つめ返す土屋に、坂口はくすっと小さく笑った。それは紛れもなく自嘲だった。眉をすこし寄せて口の端をゆがめて、諦めにも似た色を浮かべたその表情に。ぎゅっと心臓を掴まれた気がした。

「ま、べつにどうなりてーとかでもねェから」

 目を伏せてそう告げた坂口は、そのままソファーから腰を上げた。引き止める言葉すらも出てこなかった。ただ去っていく背を目で追う。そのうち、ぞろぞろと講義室から出てきた学生たちの波がその背中を呑み込んで隠して、ついに見えなくなった。

 信じられなかった。土屋は両手で顔を覆った。本当に、信じられない。そんな素振り、まったく見せなかった。どうしよう。分からない。そんな言葉だけがひたすらに頭の中を回る。心臓の音だけが、ひたすらにうるさかった。

 翌日、まったく眠れなかったせいで霞んだ頭と重い足を引きずって大学へと向かった。いくら坂口と顔を合わせづらいとは言え、授業を欠席するわけにはいかない。けれど、どんな顔で坂口と会えばいいのか分からない。

 重い心を抱えたまま、講義室のドアを開ける。もはや二人の定位置となった席に、坂口がいるのを見つけた。同時に、坂口も部屋に入ってきた土屋に気付いたようだった。視線が交わり、思わず顔が強張る。けれど。

「よう。なんか今日来るの遅かったな」

 坂口は、コーヒー牛乳のパックのストローを咥えながらひらひらと片手を振ってきた。まるでいつもと変わらない、何も無かったかのようなその態度。

「……ああ、いや、ちょっと寝坊して」

 土屋も、ぎこちないながらも坂口と同じようにいつもどおりを装った。

 きっと、本当に何も無かったことにするつもりなのだ。坂口の、あっけらかんとした表情と飄々とした態度を見れば、すぐに分かった。

 これまで通り、友達のまま。坂口がそれを望んでいるのだから、昨日のことを蒸し返すような真似ができるはずもなかった。

 土屋には、その想いにこたえる術がないのだから。

 そのまま、友達という関係を守り続けたままで、今までずっと過ごしてきたのに。




「早いな、もうあれから半年以上経つのか」

 相変わらずのあっけらかんとした口調で坂口が言う。妙に冷静な表情だった。それが作られたものであろうことは、さすがに分かっていた。

「……そうだな」

 ここまできたら、もう誤魔化すことなどできないだろう。坂口も、自分も。土屋はそっと目を閉じた。

「もう忘れてくれてるのかと思ってた」

「ばかじゃねーの。あんなの、忘れられるかよ」

 言いながら、ハッとした。

 そうだ。いっときだって忘れたことなどなかったのだ、本当は。ただずっと、忘れたふりをしていただけだった。

 それを望んだのは、はたして誰だったのだろう。

「あのとき、本当は言うつもりなんて全然なかったんだよ」

 先ほどまでのあっけらかんとした口調から一転して、誰かに言い訳しているみたいな、どこか後ろめたさの漂う声で坂口が言う。

「……お前の事情も、分かってたし」

 ぽつりと小さな声で呟いた坂口が、気遣うような視線を向けてくるのが分かった。土屋は小さく眉を寄せる。

 坂口の言う、土屋の事情。

 それは、土屋は恋愛が分からないということである。

「お前、めちゃめちゃモテるのになあ」

 もったいねーよな、と苦笑する坂口に、うるせえ、と弱々しく返す。

 


 確かに、土屋はよく告白される。中高でも、大学に入ってからも、女の子からの告白は絶えたことがない。けれど、恋人がいたことは一度もなかった。人見知りしがちで内気な少年だった土屋は、友人もそう多くはなかった。交友範囲が狭いうえに他人に対する興味が希薄だったので、恋愛感情という発展した感情が芽生える機会も少なかったのだ。

 恋らしき感情を抱いたことは、一応ある。ふたつ歳上の、幼馴染の女の子。ふわりとほどけるように笑う、陽だまりのような子だった。みんなに平等に優しくて、人見知りで内気だった土屋にも明るく接してくれた。彼女が笑うと嬉しかった。ずっと笑っていてほしいと思った。

 彼女は肺を患っていて、何度も入退院を繰り返していた。ある日、入院している彼女のもとに見舞いに行くと、病室には彼女しかいなかった。しばらく二人で話していると、不意に彼女が黙り込んだ。どうしたの、と顔を覗き込むと、彼女はパッと顔を上げて、

「好きよ」

 と、小さく、けれどきっぱりとした声で告げたのだった。

 胸が高鳴った。息が詰まった。けれど、同じ言葉を返すのが怖かった。自分の気持ちがほんとうに恋と呼べるものなのか自信が持てなかったし、なにより彼女との関係が変わってしまうのが怖かったのだ。なにも返せないでいると、彼女の母親が病室に現れたので土屋は病室をあとにした。家に帰り、ぐるぐるとした気持ちを抱えながら自室のベッドに寝転がって。そして、決意した。明日、必ず「俺も」と伝えに行こうと。

 けれど翌日、彼女は亡くなった。中学一年の、秋の終わりの頃だった。

 もう二度と彼女の笑った顔は見られない。もう彼女はそばにいない。その事実に、目の前が暗くなる。告げられた言葉が、渡された想いが本物だと分かっていながらも、何の言葉も返してあげられなかった。彼女に、応えることができなかった。ふがいなくて悔しくて、ただただ茫然とする。

 そのとき、ようやく掴みかけていた恋というものが、まるでろうそくの火が消えるようにふっと失われた。それによって、土屋は恋という感情が分からなくなった。

 恋愛感情というものがまるで分からなくなってからも勿論告白されることは多かったが、そのどれもに色好い返事をしたことはない。当然だ、彼女らの言う『好き』なんて気持ちが分からないのだから、同じものが返せるはずがない。

 坂口には、そのことを伝えてある。大学二年生の夏休みが直前に迫った、坂口との付き合いもだいぶ気の置けないものになってきた頃。名前も知らない女の子から告白された土屋に、坂口が「付き合うの?」と尋ねてきた。そのときに、土屋は自分の抱えている事情を話したのだ。

「だから俺は、告白されても受け入れられねえんだ」と。そう言うと、坂口は「そっか」とだけ、短く返した。

 そのとき、彼の顔にはどんな表情が浮かんでいたのか。それも、今となっては思い出せないことである。



「まさか、お前みたいな見た目したやつに恋人がいねぇとは思わなかったよ」

 深刻さを払拭するように坂口がカラカラと笑う。

「……お前は、そんな見かけのわりに案外一途なんだな」

 目を伏せたまま告げる。存外に、拗ねたみたいな子供っぽい響きの声になった。

「ははっ、ひでぇな」

 軽い笑い声を上げた坂口はまたごろりと寝転がった。首筋に滲んだ汗が薄く光っている。

「つーかお前が思ってるよりもずっと長いぜ、俺の片想いの期間」

「え?」

「あと数ヶ月で丸二年が経つ」

 土屋は驚いて思わず坂口を振り返った。それはつまり、大学に入学して半年経った頃からということだ。

「……初耳だな」

「そりゃあ言ってねーもん」

 坂口はからからと笑った。

 なんだか、さっきまでと比べて彼も饒舌になっている気がする。今まで心の内に秘めて凍らせていたものが、じわりと融けだしてしまったようだった。蕩けそうな頭では思考力も判断力も鈍っているのだ、お互いに。

「たしかに、随分と長ぇんだな」

「うん」

 短く答えたきり、坂口はふいと目を逸らした。閉ざされた口元がもぞもぞと動いている。言うべきか、言わざるべきか、迷っているかのような仕草。

 言わないでほしい、などと願う権利は土屋にはない。ふたりで閉ざしていた箱を、最初に開けたのは土屋だ。

 坂口がごくりと唾を飲み込む。微かに上下する喉仏。停滞するに相応しいはずだったふたりきりの部屋の空気が、わずかにかき回されていくのを肌で感じる。

「いつの間にか、好きになってた」

 自嘲じみた響きとともに、ぽつりとこぼされた言葉。坂口の目がゆっくりと土屋を捉えた。

「自分が男もいけることは分かってたんだけど、ちゃんと好きになったのは初めてだった」

「男も?」

「ああ、俺、バイだから」

 苦笑するように小さく眉を寄せながら坂口は笑った。

「そうなのか」

「驚かねーの?」

 特別な反応を示さない土屋に、むしろ坂口の方が驚いたようだった。土屋は小さく頷いた。

「べつに、そんな珍しいもんでもねぇだろ」

「そっか、それで俺が告白したときもあんまり驚いてなかったんだな」

「いや、あんときは普通にびっくりした。脳みそがフリーズしてただけだ」

「まじか、全然なんも言わねーから動じてないのかと思ってた」

「友達から告白されたのは初めてだったんだよ」

 すると坂口がふいと目を逸らした。どうやら、この『友達』というものが坂口の心を締めつけているらしい。告白したのに『友達』で居続けることを望んだ理由も、ここにあるのだろうか。土屋はすぐ近くにある坂口の横顔を見つめた。

「なんでお前は、あのとき告白したんだ?」

 本格的に暑さにやられたのかもしれない。そう思いながらも、土屋は口をついて出てくる言葉を止められなかった。

 この、居心地のよい、中途半端な関係を続けたいのであれば、聞くべきではないこと。分かっている。けれど、熱に浮かされた頭ではどうにも止められそうもなかった。……いや、ただそれを言い訳にしたいだけなのかもしれない。

 欠片ほどの大きさになった氷のひとつが、音もなく溶けて消えた。ひとくちだけ口に含んだ麦茶はもう既に生ぬるくなっている。


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