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 ガラリと窓を開けて外に出る。暑い空気に晒され続けていたサンダルはまるで焼け石のようになっている。きちんと足裏をくっつけて履くことなんてできそうもない。仕方なく、土屋はつま先立ちのまま電話をかけることにした。

 数コール後に出た大家のおじさんは、エアコンが故障したことを告げるとしきりに恐縮しつつ謝り倒していた。彼が悪いわけでもないし、そんなに謝られても困ってしまう。ちらりと部屋の中を見ると、坂口も同じように困ったような顔をしながらぺこぺこと小さく頭を下げていた。思わず口元が緩んでしまった。

 修理まで数日はかかるだろうから、それまでは友達の家に避難するなりして暑さを凌いでくれ、と。そんなことを大家は言っていたが、その友達とやらも同じ不幸に見舞われている。さてどうしたものだろう。何かの奇跡で、坂口の家はすぐにエアコンが修理されたりしないだろうか。そうなれば、今度は逆に坂口の家に転がり込んでやろう。そんなことを考えながら、土屋は電話を切ってスマホをポケットへと仕舞いこんだ。

 さっきは外も中も変わらないだろうと言ったけれど、日射しがあるぶんやはり外の方が暑い。太陽も近ければ蝉の声も近い。より一層、夏が鮮明になったようだ。こんなところでは到底煙草なんか吸う気分になれやしない。

 土屋は忌々しそうな視線を真っ青な空へと投げかける。遠くの方に、もくもくと大きな入道雲が浮かんでいた。三階のベランダからではあまり見通せない、地面と空が接するあたりのその場所は、坂口の家がある辺りだ。

 よくよく考えると、土屋の家から彼の家までの距離は結構遠い。電車とバスを乗り継いで、約一時間かけてようやく辿り着ける距離。こんな暑い中、よくここまでやって来られたものだ。感心半分、呆れ半分で土屋は坂口が通ったであろう道を目で辿った。

 部屋に戻ろうとして踵を返したとき、ガラリと窓を開ける音がした。

「うおー、すげえなこれ。溶けそう」

 窓から上半身を突き出した坂口が、うげぇと顔をしかめている。

「たった五分ここにいただけで汗だくだよ。お前、よく溶けずにここまで来たな」

「いや、来る途中で若干溶けた」

「じゃあどこかにお前の雫が落ちてんのか。気化したらやべーぞ、吸い込んだ人に天パがうつる」

「人をウイルス扱いしてんじゃねェよ」

 ふてくされた顔の坂口が天パ頭をかき回す。

「そんで、エアコンはどうだって?」

 尋ねる坂口に、土屋は首を横に振ってみせた。

「修理までは数日かかるって言われた」

「やっぱりそっちも同じか」

 がっくりと肩を落とした坂口に苦笑をもらす。相手の家に一縷の望みかけていたのは彼も同じだったようだ。

「彼女の家にでも行っててくれって言われちゃってさあ。まったく、デリカシーのないオッちゃんだよな」

 坂口がさもうんざりといったふうにガシガシと頭を掻く。土屋はそっと足元に視線を落とした。サンダルの擦れたような汚れがやけに際立って見えた。

「とりあえず中に入れろ、あちぃ」

「へいへい」

「あと茶ぁついできてくれ」

「お前さっき自分で言ったこと覚えてる?」

 坂口が呆れたように目を細めた。

「いいだろ、部屋の中にいる分お前の方が近いし」

「どんな理屈だよ。横暴にもほどがあんだろ、ジャイアンかお前は」

 ぶつぶつと言いながらも、坂口はマグカップを片手に台所へと歩いていった。サンダルを脱ぎつつその背中を見送る。

 さっきまで寝転がっていた場所に腰を下ろすも、日射しが当たっていたせいで生ぬるくなってしまっていた。カーテンを開けっ放しにしていたことが悔やまれる。土屋は立ち上がり、もう一度ぴっちりとカーテンを閉めた。部屋の中は途端に薄暗さを取り戻す。

 キッチンから麦茶を注ぐ音が微かに聞こえてくる。ガラガラと重い音も聞こえるので、冷凍庫も開けたのだろう。氷を入れてくれるとは、なかなか気が利いている。

 ぱたぱたと戻ってきた坂口の手にはマグカップと、それから小さな保冷剤がひとつ。

「ほい」

 胡座をかいた膝の上にポトンと落とされた保冷剤を手に取る。きん、とした冷たさが、火照る体にはひどく気持ちいい。

「うちに保冷剤なんてあったんだな」

「あるよ。俺の誕生日ケーキ買ってきたときについてたやつ、入れてたから」

「そういえばそんなことあったな」

 自分の誕生日を祝わってもらうためにわざわざケーキを持参してやって来た坂口の姿を思い出す。彼の誕生日は九月だから、もう一年近くも前の話だ。

 一年近く前からあったものに気付かずにいたなんて。土屋は少し信じられない気持ちだった。よほど冷凍庫の奥の方に入れてあったのだろうか。やはり、見えていないものは元から無いものとして認識されてしまうようだ。

「つーか急にこんなもん持ってきて、どうしたんだよ」

 たくさんの滴をまとった保冷剤を手の中で弄びながら、土屋は坂口のほうを見た。

「お前、顔赤くなってるから」

「えっ」

 坂口の言葉に、土屋は思わず頬に手をやった。たしかにさっきから顔のあたりに熱が集まっているような感じはしていたが、この薄暗い部屋でも分かるほどに色が変わっていたとは思わなかった。

「首のあたりに保冷剤当てて、そんで早く茶ぁ飲め」

 だらだらと汗をかいているマグカップが、ずいっと差し出される。

「……おう。悪いな」

 あまりに横暴であった自分の言葉に素直に従ったのは、そのためだったのか。土屋はなんとなく恥ずかしいような、尻の座りが悪いような、むずむずとした気持ちになった。

 なんとなく坂口の顔が見られないまま、マグカップを受け取る。口をつけると、氷がカランと涼やかな音をたてた。喉を通りすぎた冷たさがすっと体中に染みわたっていく。

「いっぱい飲んどけよ。お前、暑いの得意じゃないんだから」

 じっと土屋を見ていた坂口が言う。本当にこの男は、自分のことをよく見ている。土屋はまざまざとそれを感じた。

「そんで、エアコン直るまでどうする?」

 ふう、と土屋が一息ついたタイミングを見計らって坂口が問う。

「んー、……扇風機でも買おうかな」

「おっ、いいねえ。やっぱり何だかんだ言っても夏は扇風機だよな」

 うんうんと頷く坂口に、土屋は小さく頬を緩めた。細かいことなど気にしなさそうな豪快な男だが、存外に情緒や風情といったものを重んじるところがあるのだ。実際、彼の部屋のベランダには、夏になると洗濯物と一緒に風鈴がぶら下げられたりする。おそらく今も彼の部屋のベランダでは、風鈴がじっと風を待っているのだろう。そこに描かれた、涼しげに泳ぐ赤と黒の金魚がひらりと脳裏をよぎった。

「割り勘して、中古の安いやつでも買おうぜ」

 あからさまにわくわくした様子で坂口が提案してくる。割り勘、ということは。土屋は軽く坂口を睨みつけた。

「もしかしてお前、ここに泊まり込むつもりじゃねーだろうな」

「あれ、バレた?」

 呆れた視線を向けると、坂口は少し首を竦めてみせた。

「まったくテメーは」

 ぶつぶつ言いながらも、どこかこの状況を楽しんでいる自分がいることに、土屋は気づいていた。日常の中の非日常は、いつだって心を浮き立たせるものだ。その非日常が、気心の知れた友人と一緒なら尚更だ。

「いいじゃん。たった数日のために金出すんだからちょっとは浮かせられた方が嬉しいだろ」

「それはそうだけど」

「あんまり考えすぎんなよ。こういうときはノリが重要だぜ」

「お前はもっと深く考えろよ」

 まとわりつく暑さに耐えきれず、汗の染みたTシャツの裾をパタパタと扇ぐ。

「でもさ、もしお前が暑さで倒れたりしたら、ひとりだと危ないだろ」

 その言葉に、土屋は坂口を振り返った。

 それまでの軽口とは違う、真面目な口調。急にどうしたんだ。そう聞き返す前に、机の上に置いたままにしていた保冷剤をひょい、と投げて寄越された。受け取りながら、坂口の顔を見る。

 その目が、思いのほか真剣な光を宿しているような気がして。

「お前、ほんと俺のこと──」

 するりと軽口を叩きかけて。

 その瞬間、ピリ、と空気が張り詰めた。

 はっ、と口を噤む。

 思わずこぼしてしまった言葉。それは、言うべきじゃないとわかっていた言葉だった。

 どうしよう。

 取り繕うこともできずに、土屋はうろうろと視線を彷徨わせる。こぼれた言葉はどうしたって取り戻せない。なにか言って誤魔化そうとしても、上手く誤魔化せるような言葉は出てこなくて、金魚みたいに口をぱくぱくとするだけだ。

 そんな土屋の様子に、坂口がふっと小さく笑うのが分かった。

「……そーだよ。ずっと、お前のことが好き」

 あのときと同じ言葉を、坂口はあっけらかんとしたその様子で言ってのける。

 土屋はそっと息を吐き出した。

 息が苦しい。張り詰めた空気が、ぎゅうっと喉をしめるようだ。土屋はわずかに目を伏せる。手の中のマグカップが揺れて、微かに波を立てた。

 麦茶の中に浮かんだ氷が溶けて、カラン、と場違いなほどに軽い音が響いた。保冷剤から滴った水滴がぽつりと脚を濡らす。肌を刺すほどに冷たく、痛かった。



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