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「茶ぁ飲んだらちょっと涼しくなるな」

 嬉しそうに声を弾ませた坂口は、またごろんと床に寝そべる。今度はうつ伏せの姿勢で、頬までぴったりと床につけている。

「やっぱフローリングは冷たくていいわ」

 すりすりと手のひらで床を撫でながら、坂口は満足そうにそう言った。

「お前んちは畳だろ? 畳のほうが涼しいんじゃねーの」

 ソファー代わりにもなる敷きっぱなしの布団と古びた押し入れが印象的な坂口の部屋を思い浮かべながら尋ねる。初めて訪ねたときに、押し入れの襖に浮かび上がるシミが猫の顔に見える、と自慢げに話していた坂口の声が脳裏に蘇った。もう二年も前の話だ。

「まあ涼しいっちゃ涼しいけど、寝転がったら体のあちこちに跡ができるしで大変なんだよ」

「あー、それもそうだな」

「それに汗かいてるときは肌にくっついて鬱陶しいし」

「それはフローリングも同じだろ」

「まあそうだけどさ」

 どっ、とひときわ大きなバカ笑いの声が響いた。さっきつけたばかりのテレビが発した音だ。半分バラエティーのような朝の情報番組では、司会の中年男がゲストの若手芸人をいじって遊んでいる。なんとなく冷めた気持ちでそれを眺めていると、突然そのやかましい笑い声がプツリと途切れた。

 驚いて坂口の方へと顔を向ける。するといつの間にやらリモコンを引き寄せていた彼は小さく首を傾げた。

「あれ、テレビ見てた?」

「……いや」

「だったら静かなほうがいいじゃん、せっかくだし」

 そう言って坂口は笑った。けれど、しんと静まりかえった空気は、なんだか心許なさを感じてしまう。じーわじーわとどこか焦燥感を掻き立てるような蝉の声と、いつもより荒いふたりぶんの呼吸の音。狭くて薄暗い部屋の中を満たすものはたったそれだけだ。

 額から流れた汗の滴が、こめかみを通って顎の先からぽつりと落ちた。グレーの短パンに丸く滲む。

「お前も寝れば?」

 床の上から坂口が見上げてくる。ぽんぽんと自分の隣を叩く姿に小さく溜め息をこぼしながら「ここは俺の家だぞ」と今更な文句をぶつける。

 素直に横になるのも癪だとは思ったものの、頬杖をつきながらじっと見つめてくる視線に毒気を抜かれてしまう。土屋は大人しく隣に寝転んだ。

「おー、珍しく素直じゃん」

「うるせぇ」

 にやにや笑う顔を軽く睨みつける。

 寝間着のままの、半袖のTシャツに短パンというラフな格好だから、素肌の手足に感じる床の冷たさが気持ちいい。

「こんなの、マメに掃除してある部屋だからこそできることだよな」

 人差し指で床の上をつつ、となぞった坂口が感心したように言う。まるで嫁をいびる姑のような仕草に、思わず笑ってしまう。

「感謝しろよ」

「ありがてぇありがてぇ、ついでに俺の部屋も掃除してくれるともっとありがてぇ」

「自分でしろ」

「ばか、俺が掃除しようとしたって綺麗になるはずがないだろ? 途中で面倒くさくなって投げ出すのが目に見えてる」

 確かにそうだろう、と思った。彼は好きなことにはとことん集中できるが、興味のないものには一切頓着しない。彼の部屋の、乱雑に積まれた本の山を思い出す。本棚にすら入れられていないのになぜか傷んだり汚れたりしている様子のないそれは、彼の性質をよく表しているようだった。

「威張って言うことかよ」

「お前みたいな気真面目さと神経質さが無けりゃ掃除なんてやってられないね」

「じゃあそのモップみてーな頭を有効活用しながら掃除しろ」

 からかうように、坂口のくるくると跳ね回る癖っ毛を少しだけ引っ張った。細い髪の毛がミョンッと伸びる。

「誰の頭がモップだって? ちょっとストレートヘアーだからって調子に乗るなよ」

 隣からにゅっと二本の腕が伸びてきた。そのまま、ぐしゃぐしゃと頭をかき回される。手のひらの熱さが直に伝わってくる。

「わっ、何しやがる!」

「生意気なこと言う子にはお仕置きですー」

 髪についていた小さな汗の滴がフローリングの上に散らばった。近くに寄ったぶんだけ、ふたりの汗の匂いが入り混じる。

「やめろやこのくるくるパーマ!」

「いーじゃん、お前もいつもやってるじゃん」

 さらりと告げられた言葉に、土屋はうっと言葉を詰まらせた。たしかに、ふわふわの感触が新鮮で、事あるごとに坂口の髪を触っている自覚はある。

「……こんなぐしゃぐしゃにはしてねーし」

 なんだか負けを認めるようでひどく癪である。消え入りそうな小さな声で反駁すると、坂口はハハッと笑った。

「お前、なんだかんだ言って俺の髪好きだもんな」

「黙れ、お前こそ調子乗ってんじゃねーよ」

 土屋はガツンと強めに坂口の脛を蹴った。ぐおお、と唸り声を上げてごろんごろんと転げ回る姿を眺め、ふんと鼻を鳴らす。

 坂口との遠慮のいらないやりとりはひどく楽しいし、心地よい。

 坂口と知り合ったのは大学の入学式であったから、それから現在まで約二年半。そう考えると、いつの間にやら結構長い付き合いになっている。

 性格はまるで正反対なのに、なぜか妙に息が合ってしまうのだ。反りも馬も合わないはずなのに、である。

 おかげでこんなにも遠慮のないやりとりができるまでになってしまった。土屋にはもともと人見知りするところがあったのだが、なぜか坂口に対しては初めからその性質が発揮されることはなかった。

 知らぬ間にするりと人の間合いに入るのが得意な男だから、警戒心を抱かせないのかもしれない。いや、むしろある程度の距離を保つことができる男だからだろうか。

 どちらにせよ、今の距離感はとても居心地がいいのだ。

「なあ、蝉の鳴き声のなかで一番好きなのってどれ?」

「あ?」

 考え事をしていたせいで土屋は一瞬なにを言われたのか分からなかった。蝉の鳴き声のなかでどれが一番好きか。一拍おいてから脳に伝達してきた言葉について、暑さで溶けそうな思考のなかでなんとか考えてみる。坂口はときどき、こういった突拍子もない質問をすることがあったが、その掴み所のなさは嫌いではなかった。

「あー……、ミンミン蝉かな。いかにも夏って感じで」

 現に今もミンミンとうるさい声が聞こえている。さっきよりも声が近いから、窓の桟にでもへばりついて鳴いているのだろう。

「あー、たしかに。あの声聞くと夏が来たって思うよな」

「お前はどれが好きなんだ?」

「俺はツクツクボウシ。普通にツクツクボーシって鳴いてたのが途中でウィヨースウィヨースにテンポを変えて、最後にジーーッでフィニッシュ。パフェにも似た構成美だろ」

「はあ、全然分からん」

 土屋はぴしゃりと切り捨てた。

 甘党である坂口の大好物はパフェであり、三食すべてパフェでも構わないと豪語するほどである。甘いものがそれほど得意ではない土屋にとって、その感覚は逆立ちしても理解しがたいものであった。

 それにしても、彼の言う好きな理由とやらは分かりにくい。蝉の声とパフェにどんな共通点があるというのだ。暑さで頭がやられたのだろうか、と半分本気で心配になる。しかしそんな心配をよそに、坂口はのんきに「パフェの話をしたらパフェが食べたくなるな」などとのたまっている。本当に読めない男である。土屋は小さく溜め息をついた。

「あっ、そうだ今日はアイスある日?」

 声を弾ませた坂口から期待のこもった眼差しを向けられて、思わず苦笑がこぼれる。パフェからアイスを連想したのだろう。坂口はいつだって変なところで分かりやすく、変なところで分かりにくい。

 基本的に甘いものを好まない土屋ではあるが、夏になるとときどき思い出したようにアイスを買い溜めする習性があった。何度もその恩恵に預かってきた坂口だから、土屋のその習性については熟知しているのだ。

「残念ながら今日は無い日だ」

「えーなんでだよ。ちゃんと買っとけよ俺が来るんだから」

「連絡もしないで急に来たやつが何言ってんだよ。つーか来るときにお前が買ってきたらよかったじゃねーか」

「そこまで頭回んなかったんだよ、暑かったし」

「さすが頭パーだな」

「頭パーとか言うんじゃねーよ悲しくなるだろ」

「どうせ昼飯買いに外に出なきゃなんねーんだから、そんときに買えばいいだろ」

「りょーかい。昼飯何にする?」

「涼しいところで食えりゃ何でもいい」

「……それもそうだな」

 げんなりとした表情で頷いた坂口は、突然はっとしたように顔を上げる。

「そう言えば、もう大家さんに電話できる時間じゃね?」

「え?」

「あれ、もう電話してた?」

 ごそごそと短パンのポケットからスマホを取り出していた坂口が首を傾げる。

 そうだ、エアコンの故障について大家に連絡しなければならなかった。すっかり忘れていた土屋は、「いや」と言葉を濁す。

 テレビボードの上に置いてある時計を見れば、針はちょうど朝と昼の真ん中あたりの時刻を示している。たしかにもう電話をしてもいい頃合いだろう。土屋もベッドの上に置きっ放しにしていたスマホに手を伸ばした。

「じゃあ俺はベランダでかけようかな」

 そう言って肘をつきのろのろと体を起こす坂口に、土屋は軽く頭を振ってみせた。

「いや、煙草吸いてぇから俺が外行くわ」

「そう?」

 土屋は重い腰を上げて立ち上がった。キッチンに置いてある煙草を取ってから、閉め切っていたカーテンを開ける。まばゆいばかりの日射しが容赦なく目を焼く。

「すげ、暑そう」

 その暑さの中をわざわざここまでやって来たくせに、坂口は眩しそうに目を細めている。

「どうせ外も中も変わんねーよ」

「それもそうだな」

 黙ったままのエアコンを睨みながらそう言うと、坂口はけらけらと笑った。



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