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 あつい。あつすぎる。土屋は微かにうなり声を上げながら目を覚ました。額にじっとりと滲んだ汗を手のひらで拭う。朝の目覚めとしては最低の気分だ。

 ぼんやりとした覚醒しきらない頭のまま、薄暗い部屋を見回す。深い青色のカーテンの隙間からは、既に灼けるような日光が射し込んでいた。さすが、八月半ばの太陽は容赦がない。最近は朝といえども気温が高い日が続いていた。あまりに寝苦しくて夜中に目が覚めてしまうことが続いたので、今では夜の間もずっとエアコンを付けっ放しにしている。

 それなのに、なんだこの暑さは。土屋はイライラとしながら首筋に流れる汗をTシャツの襟ぐりで拭った。やかましく鳴く蝉の声とともに、まとわりつくような不快な暑さが部屋を満たしている。

 そこでふと、エアコンの稼働音が聞こえないことに気付いた。部屋の隅に取り付けられているエアコンを見遣ると、稼働中であることを示す緑のランプが消えている。もちろん、消した覚えなどない。土屋は怪訝そうに眉を寄せた。一抹の不安がちらりと胸をよぎる。まさか、と思いつつも、寝ている間にうっかり消してしまったのだろうと無理やり自分を納得させた。

 うっかり消してしまったのなら仕方ないし、もう一度エアコンをつければいい話だ。土屋は枕元に置いてあるリモコンに手を伸ばした。これで快適空間を取り戻せるのだし、あとはゆっくり二度寝を決め込んでやろう。

 そう思いつつ電源ボタンを押す。けれどもエアコンは何の反応も示さない。背中を冷たい汗が流れる。冗談よせよ、などと胸の内でごちながらボタンを連打してみても、やはりエアコンは重い沈黙を貫いている。タオルケットをはね飛ばながら慌ててベッドから飛び降りて、小さなローテーブルの上に立ってエアコン本体についている電源ボタンを押してみる。しかし、無情にも結果は変わらない。

「嘘だろ、おい」

 思わず独り言がこぼれていた。けれど当たり前のように嘘ではないし、エアコンは動かない。

 故障確定。つまり灼熱地獄の継続の確定である。

 土屋はくらりと目眩を覚えた。心なしか、さらに部屋の中の熱が上がった気がする。

 よろよろとベッドまで引き返し、枕元に置いてあったスマホで時刻を確認する。まだまだ朝も早い時間である。今日はバイトもなければ遊びの予定もなく、なんだかんだと忙しい大学生の夏休みにおける貴重な休日であった。自堕落だとは自覚しているが、昼前くらいまで寝ているつもりであったのに、こんな部屋ではおちおち寝てもいられない。下手をすると、次に目覚めることすらなくなってしまいそうだ。

 何にせよ、早く修理をしてもらわなければならない。土屋はスマホを開いた。賃貸だから取り敢えず大家に電話しなければ、いやでもこんな朝早くにかけるのは申し訳ない。それに夏真っ只中のこの時期だ、電器屋だってすでに修理の予約はいっぱいに埋まっているかもしれない。どうしたものかと悩みながら、検索アプリに「エアコン 修理」と打ち込む。

 と、そのときスマホがけたたましい音をたてた。目覚ましのアラームではなく、妙に陽気なリズムの着信音。驚いて思わず取り落としそうになったスマホをなんとか握りなおし、画面に表示された名前を確認する。そこに示されている「坂口智樹」という名前を見て、土屋は眉を寄せた。

 この男が電話をかけてくるのは特に珍しいことではない。むしろくだらないことでもしょっちゅう電話をかけてくるような相手だ。だからこそ、今はそんなくだらない電話に付き合ってやる暇などないというのに。

 こんなときに、一体何の用だ。

 うんざりと溜め息をつきつつ、「応答」のボタンをタップする。

「……朝っぱらから何の用だよ」

 不機嫌を隠しもしない低い声で尋ねる。どうせこの男には暖簾に腕押しなのだと理解しながら。

「あ、寝てた? メンゴメンゴ~」

 相変わらずの軽薄な声音に、土屋は思わずこめかみにピシリと青筋を立てる。もともと短気な気質であるし、そのうえこの蒸し器の中のような暑さでは彼のへらへらとした言葉を受け流す余裕など溶けてなくなってしまっている。

「切るぞ」

「あっ待って待ってゴメンって! つーか切ってもいいんだけど、その前にドアだけ開けてくんない?」

「ドア? まさかお前……」

「うん、もう来ちゃってるんだよね」

 思いがけない台詞にまたもや大きな溜め息が溢れた。こんな朝早くに、連絡もせずに何をしに来たのだろう。呆れつつも、けれど何か事情があるのかもしれないと考え直す。この、いつも人を食ったような態度をしていて何でものらりくらりと躱してしまう男に限ってまさか、とは思うものの、よほど切迫つまった状況なのかもしれない。とにかく、このまま捨て置くのはなんだかしのびない。

 土屋はベッドから重い腰を上げると、のろのろとドアの前まで行きガチャリと鍵を開けた。

「オハヨ、土屋くん」

 ドアを開けると、目を刺すようなまばゆい日光とともに、見慣れたふわふわの天パ頭と死んだ目をした締まりのない顔がひょっこりと覗いた。顔や首筋にはいくつも玉のような汗がぽろぽろと浮かんでいる。着ている白いTシャツもところどころ汗で色が変わっていた。

「……何の用だよ、坂口」

 こんなクソ暑い中をわざわざやってきた理由を尋ねるも、彼は「その前に部屋に入れろ、めちゃくちゃ暑いんだよ」などと言いながら勝手に玄関に滑り込む。そのままぽいっとサンダルを脱ぎ捨てると、簡素な造りのキッチンを通り抜け、その先のワンルームへと行ってしまった。相変わらず身のこなしと逃げ足だけは速い男である。何度目かの溜め息をつきながら土屋は彼の後へと続く。

「やっほーいオアシスへ突撃ー」

 頭の悪さを思う存分に露呈させた掛け声とともにワンルームのドアを勢いよく開けた坂口は、それからピシリと固まった。もちろん彼の望んだ涼しいオアシスなんてものはなく、あるのはただの地獄のような灼熱である。

「なにこれ、何でこんな暑いの」

「エアコン壊れたんだよ」

 振り返った坂口のさもうんざりといった顔に向けて、ぴしゃりと言い放つ。

「はぁ~~? せっかく来たのにここもエアコン壊れてるとかほんと意味分かんねーんだけど」

 眉をぎゅっと寄せてしかめっ面になった彼は、理解不能といった表情で頭を振った。そんな顔をしてみせたところで、部屋が暑いことは変わらない。土屋はプイとそっぽを向いた。

 「マジ最悪なんですけどォ」とか「どこまで行っても南国気分かよ」とかわけの分からない叫び声を上げる後頭部を「うるせェ」と叩く。喚かれると余計に暑くなるのだ。とは言え、叩いたところで坂口が静かになるわけもなく、「いてーよばか」だの「暴力はんたーい!」だのと余計に騒ぎたてだしてしまった。土屋はこれ見よがしに両耳を手のひらで塞いだ。

「ていうかもしかしてお前の家もエアコン壊れてんのか」

 さっき、坂口は「ここもエアコン壊れてる」と言っていた。土屋が勝手にフローリングに寝転んでいる坂口に尋ねると、彼は「んんー」と不鮮明な返事を寄越してきた。

「明け方頃に暑くて目ぇ覚めて、ふとエアコン見たらなんか水が滴ってんの。すっごくびっくりした」

「それは災難だったな」

「お前もな」

 坂口がニヤッと笑う。土屋は目を逸らしながらポリポリと頭の後ろを掻いた。

「……どこもかしこも壊れやがって、どうしたんだ最近のエアコンは」

 土屋はぼやきながら麻のラグの上に座り込んだ。隣で寝そべっていた坂口がゴロンと寝返りをうち、土屋のほうを向く。

「ストライキじゃね? こんな朝夕問わず休む暇なく稼働させられたんじゃ堪ったもんじゃない、地球環境のためにも、ここらで一斉に休暇をとってやれ! って」

「エアコンが地球温暖化を憂うか? 悪化させてる張本人だろ」

「ばっか、張本人は人間だろ? 人間どもに無理やり使役させられてるだけだぜ、アイツらは」

「お前はエアコンか人間かどっちの味方なんだよ」

 呆れて目を細める。坂口はへへっと軽い笑い声を上げた。開いた口から白い八重歯がちらりと覗く。

 こうした、特に意味のない会話は二人のルーティーンみたいなものであった。頭で考えるより先に口から突いてでる言葉を交わし合う。中身がない、と言われれば否定できないが、けれどポンポンと飛び出る軽口の応酬はけっこう楽しいものである。

 くだらない会話を繰り広げている最中も、進行形で室温は上がり続けている。閉めきったカーテンの微かな隙間から射し込む光も、だんだんと強さと激しさを増していく。電気をつけていない部屋のなかでは、その金色の光だけがひどく鮮烈だ。

「なんで電気つけてねーの」

 坂口が天井にぶら下がる丸い電球を指差した。

「ちょうど起きたところだったんだよ」

「おー、グッドタイミングだったってわけだ」

「なにがグッドタイミングだよ」

 土屋は隣に転がっている坂口の丸出しになったおでこをぺしりと叩いてやった。痛え、と喚く声が上がる。

「カーテン閉めてんのになんでこんな日射しつえーの」

 坂口が眩しげに目を細めながら、寝転んだまま窓を見上げた。つられるように窓に視線をやった土屋も、坂口と同じような顔になった。ギラギラと差し込む光は、残像すら残しそうなほどに強烈だ。薄暗い部屋の中ではその強烈な光が目に痛い。土屋は慌てて目を背けた。

「夏なんだから仕方ないだろ」

「夏だからって太陽が頑張りすぎてるだろ、いい加減お休みしてろバカヤロー」

「去年も同じこと言ってたぞお前」

「まじか……進歩がねぇな」

「同感だ」

 いつの間にやら鳴き出していた蝉の声がいくつか重なり合いながら聞こえてくる。おそらく窓のすぐそばに生えている木にとまっているのだろう。随分と近くから聞こえてきている。

「あー、すっげェ夏って感じ」

 大の字になった坂口が呟く。

「そりゃ夏だからな」

「ちょっと麦茶ついできて」

「自分でいけよ」

 短パンの裾から伸びる剥き出しの脚を蹴ってやる。汗ですこしベタついていた。

「ケチくせーなぁ。俺は客人だぞ、ちゃんともてなせ」

 ぶつぶつと文句を言いながらも坂口は素直に立ち上がった。ペタペタとキッチンのほうへ歩いていく背中に向かって言い返す。

「なんで朝っぱらから急に押しかけてくる迷惑な奴をもてなさなきゃならねーんだよ」

「いいじゃん。暑い中わざわざ来てやったんだぜ」

 ワンルームとキッチンを隔てるドアの向こうから、思いのほか真剣な声音が届いた。思わず土屋はキッチンへと目をやる。ドアの向こうにいるから、そう言った坂口の表情は分からなかった。

 バタン、と冷蔵庫の扉を開ける音がする。勝手知ったる、といった様子で麦茶のポットを取り出してトポトポとコップに注いでいる様子が伝わってくる。

 坂口が家に押しかけてくるのは、そう珍しいことではない。二年と半年の付き合いの中で、お互いの家を行き来した回数は両手両足を使っても数えきれないだろう。我が家の勝手はもう充分に熟知されている。

 ペタペタと足音を立てながら部屋に戻ってきた坂口は、また床の上にどかりと座り込んだ。その手のなかにあるものを見て、土屋は小さく眉を寄せる。

「おい、それじゃなくて透明なやつがあっただろ、ガラスのやつ」

 土屋はキッチンの食器棚を指差した。指の先を振り返ったあと、坂口はへらりと笑った。

「ああ、目についたのがコレだったから」

 飄々と言い放ちながら、手の中にある、猫の絵が描かれた青いマグカップを小さく持ち上げる。そのマグカップは、冬になるとコタツ目当てでこの家に入り浸るようになる坂口が自分用にと置きっ放しにしていたものである。

「ガラスのコップのほうが前に置いてあっただろ」

「いいじゃん、これが俺のなんだし」

「けど、夏にマグカップってなんか気持ち悪くねぇか」

「変なとこでこだわるよな、お前」

「変じゃねーだろ。夏に麦茶いれるのは透明なコップって決まってるだろうよ」

「でもデカい方がいっぱい入るじゃん」

「人んちの麦茶をどんだけ飲むつもりでいるんだよ」

「うーわ、せっかくお前にも分けてやろうと思ってたのにもう分けてやんねー」

「ガキかよ」

 土屋は思わずふっと吹き出した。図々しく茶を催促するのに、そのわりに人に分けてやろうとするなんて。相変わらずどこか読めない男である。

 拗ねたように頬を膨らませながら、坂口はマグカップに口をつけた。ゴクゴクと喉が鳴り、小気味よい音が聞こえてくる。大きく上下する少し尖った喉仏の横を、透明な汗がゆっくりと流れる。白いTシャツに吸い込まれたそれは、途端に小さなシミをつくった。ぼんやりとその様子を眺めていると、ふいに坂口と目が合った。

「ああー生き返るわー」

 大げさな溜め息をついた坂口は、それからずいとマグカップを土屋へと差し出す。

「やっぱお前も飲みたいんだろ」

 ずっと見てたもんな、と坂口が屈託なく笑う。土屋は慌てて頭を振った。

「いや、べつにそんなんじゃ……」

 お前の汗を見てました、なんてことを言えるはずもない。いや、べつに汗を見てたくらいどうってことなかっただろう。慌ててしまった自分にじわじわと気恥ずかしさが込み上げてくる。くそ、素直に受け取っておけばよかった。土屋は内心で歯噛みした。

 そんな様子に「そう?」と首を傾げた坂口は、またマグカップに口をつける。再び鳴り出した喉の音に、なんだか居た堪れないような気分になる。その音をかき消すように、土屋はリモコンを手繰り寄せてテレビの電源をつけた。ぱっと溢れだした賑やかな音に、なぜか少しだけ救われたような気になる。


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