(1話)子守歌
暗闇の底を漂うような意識を目覚めさせたのは、焼け付くような痛みと喉の奥から突き上げてくるような吐き気だった。
食いしばった奥歯の隙間から、う゛と低い呻きがもれる。朦朧として焦点の合わない瞳は、ぼんやりとした蝋燭の光を滲ませるだけだった。
「ここ、は…?」
誰ともなく呟いた声に答える声があった。
「東の台地に立つ塔の中でございますよ。」
驚いた男は声のした方に寝返りをうとうとしたが、その瞬間先ほど襲ってきた痛みの数倍はあるだろう激痛が男の身体を稲妻のように走り抜けていった。
「ぐっっ」
くぐもった声が漏れると、男は苦しげに短い呼吸を繰り返すことしかできなかった。
「無理はなさいますな。落馬して全身を地面に打ちつけたのでしょう。」
淡々とした声が響く。老いた女の声だった。
「落馬?俺が?」
「薬を塗ります。どうぞそのままで。」
そうだ、とは答えず老女は手際よく作業を進めていった。
「落馬…思い出せない…。」
「目覚めたばかりで朦朧としているのでしょう。」
そうなのだろうか。思いながら男は夢の中に半分足をつっ込んだ気分だった。
自分がここにいることも、老女の存在も、未だ現実感をもって感じられないのだ。
視界の端で蝋燭の灯りがぼんやりと揺れていた。歪んだ光輪が燃え立つ炎のようだと思った。
「眠りなさい。すべてはそれからです。」
労る言葉さえどこか冷たく響く声。
結局この老女は何者で、なぜ自分を助けたのか、問うべきことは多くあったはずなのだが身体の疲労がその全ての力を奪っていった。
鼻腔をほのかに薬草の匂いが掠める。老女が持ってきた薬だろうか。
重い瞼が瞳を覆う。
そして驚くほど簡単に、意識は再び暗闇へと滑り落ちて行った。
長い長い夢を見ていた。
暗闇という名の深淵をあてどなくさ迷う夢。
目を閉じていても見える景色は同じで、死者の眠りのように深い闇の中では、自分の存在さえ虚ろになっていった。
時間の感覚も薄れ、もう何十年も自分はこうしてさ迷っている気がした。
疲労も、空腹も感じない。
ただ漠然とした恐怖だけが、心に重くのしかかってくるだけだった。
そしていつか歩くことをやめた。
その場でうずくまるようにして座った。まるで自分の存在を必死で確かめるように、その両腕で自分の身体をきつく抱きしめていた。
手を放したらそのまま闇に溶けていきそうなほど、もはや自分が自分でわからなくなっていた。
消えたくないと思いつつも、もうどうなってもいいと思っていた。
あの歌が、聞こえてくるまでは。
はじめは、風の鳴くような小さな声だった。
次第に大きくなっていくその音がはっきり耳に届くようになっても、幻聴だと思い込んでいた。
──いや、確かに聞こえているじゃないか。
それは、澄んだ少女の歌声だった。凍てついた冬の森に春を運ぶような優しく穏やかな歌声でありながら、死者を送るような悲しい響きでもあった。
“金の乙女と銀の鳥
黄色い三日月 夜の星
詩人の奏でるヴィオロンに
今宵は何を歌おうか
静める絃に躍るのは
金の乙女と銀の鳥
金の歌声 銀の翼”
少女の歌声が胸に響く度に、自分の身体が中心から温まってゆくのを感じた。胸に仄かな灯りがともるように、虚ろだった自分の存在を取り戻していく。そしてその段になってはじめて、自分が一羽の鳥であることに気が付いたのだ。
自分は深い深い森の中をさ迷う一羽の鳥であったのだ。そしてもう飛べないと羽を縮こませている迷い鳥が最後に見つけた宿り木が、少女の歌う歌だった。
──自分は、救われたのかもしれない。
噛み締めるように感じながら静かに目を閉じる。徐々に白濁していく意識の遠くで、少女の澄んだ歌声が響いていた。
──そうかこの歌は、子守歌だったのか…。
はじめて聞くはずの歌がひどく懐かしく感じた。
まだまだこれからーってかんじですね。タイトルに“princess”が入るのに主人公は男の子です。