万華鏡
自動販売機に入れようとした彼女の手から、10円玉が零れ落ちたとき、正直言うとどきりとした。
彼女の方は、「あっ、いけない」と大して驚いた様子も見せず、ワンテンポ遅れて空をつかんだだけだった。わたしは、転がっていく10円玉を拾った。なんてことないように。当たり前みたいに。最近は、こういうことがとても増えた。
「コーンスープがないや」
何がおかしいのか、くすくす笑いながら、彼女はボタンを押した。
「飲みたかったの」
わたしが尋ねると、彼女は小刻みに首を横に振った。マフラーがゆるみ、細く青白い首が見えた。
「そういうわけじゃないけれど。もう、冬の飲み物がなくなってる。
まだ少しさむいのにね」
買ったばかりの缶コーヒーを持つと、空いた手で私の手を握った。彼女の手は、冬のどまんなかに置きざりにされたみたいに、冷たかった。
違う、彼女はずっと、置きざりにされている。世界から、季節から、世間から。そう思うとたまらなくなって、わたしはその折れてしまいそうな体を抱きしめた。
「ねぇ、もう病院に戻ろうよ」
わたしは言った。通りの向こう側にあるパン屋の電気が点くのが見えた。遠くで、早起きな新聞配達が自転車をこいでいくのが見えた。真っ暗だった夜空が気づけば柔らかな色が混ざっていくのが見えた。
昨日の夕方、彼女が言った、「朝が来る前に散歩するのが夢だったの」という些細なお願いを思い出した。知り合って二年間、彼女がわたしにお願い事をするのは初めてのことだった。
「ねぇ、わたしね……」
彼女は口を開いた。彼女の大きな瞳に、自動販売機のカラフルな色彩や、じきに白んでいく空の色や、わたしの泣きそうな顔が、入り交ざって淡く映る。万華鏡のようだった。この目に光が失ったら。考えるだけで、恐ろしくなる。
「今日、手術を受けるから、これで最後になると思うから」
何が、手術が? それなら、いいじゃないか。もう痛い思いも苦しい思いもしなくていいじゃない。これ以上、喜ぶべきことはないよ。
それとも、何が最後なの。
「ありがとうね。毎週プリント持ってきてくれたり、おしゃべりしたり、こうして散歩したり。ねぇ、麻紀」
これからも、たくさんすればいい、いくらでも付き合うよ。
なのに、わたしは、わたしが一番わかりたくない部分は、彼女の言葉を遮ることができなかった。
「大好きよ。これからもずーっと。
だから、幸せになってね。高校でも頑張ってね。きっと、麻紀ならたくさん友だちできるから。彼氏だってできるよ。」
怖いのは彼女のはずなのに、何故か震えているのはわたしだった。そんなわたしの背中をあやすようにポンポンと叩く。
「そんなの、いらないよ……」
「大丈夫、時間が薬になってくれるから」
抱きしめたままの彼女の体からは、とても大きく強い音がする。生きている音がする。それを聴いているだけで、もう胸がいっぱいになってしまう。もう聴けなくなってしまうのではないか、そう思うと体が硬直して、動けない。一生このまま離れることなく、一人の人間になってしまいたい。そうすれば、もう彼女を失うことはないだろう。そんな馬鹿げた願いを、わたしは真剣に信じている。
「わたし、そんなの許さないから……」
わたしがそんなことを言うと思っていなかったみたいで、彼女は少し驚いた顔を見せた。
「そんなこと、簡単に許せるような気持ちじゃないから」
彼女はまじまじとわたしの顔を見つめる。まさか、そんな返事をされるとは思わなかったんだろう。
そして間を空けると、またくすくすと声をあげて笑い出した。
「ねぇ、麻紀。あなたが好きよ」
わたしだって。
そう言いたいのに、胸が詰まったみたいで、うまく声が出ない。
あぁ、神様。この際、悪魔でもなんでもいい。
彼女がこの先わたし以外を選んだとしても、構わない。もちろん、できることなら選んでほしいけれど。
彼女の瞳にこれからも万華鏡のように美しい世界が映しだされますように。そのためなら、わたしは、なんだって差し出せる。
せめて、今だけでも、彼女と過ごせるこの時間が止まってくれたら。
ゆっくりと染まっていく空の下で、わたしはただ、今この瞬間に胸の中で鳴り続ける彼女の鼓動を感じていた。