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二十年後

 


 尊に別れを告げたあの日から、近づくことさえしなかった桜並木。

 あの日と同じように、満開の枝々から花びらがハラハラと零れ落ちている様を見るのは、小晴にとって二十年ぶりのことだった。



 今、小晴の手にあるのは、古い絵葉書。



『少し足を伸ばして、ワシントンD.C.に来てみたよ。桜並木、ただ君を思い出す…』



 別れを選んだ小晴の決意を推し量ったのか、尊からは電話はおろかメールさえもなかったのだが、大学を卒業する頃、尊からこの葉書を受け取った。たった一通、これだけが尊との唯一の通信だった。



 それから、尊の消息は分からなくなったが、また数年前からその名前をテレビや新聞などで目にするようになった。


 尊は夢を叶えた。

 彼の父親の会社を大きくして、今や世界中で知らない人のいないほどの、大実業家になっていた。



 それを知って小晴は、あの日この桜の下で決めた別れは間違いではなかったと、心の荷が下りた。

 あの時、尊を引き止めていたなら、どんな人生を送っていただろう……。そう思わなくはないけれど、これで良かったと心から思えた。



 ……だから、今日はこの絵葉書をこの場所に還しに来た。



 小晴は手ごろな棒切れを見つけてきて、いつも尊とキスしていた大きな木の陰を掘り始めた。

 小さな穴を掘ると絵葉書を手に取り、綺麗な桜並木の写真と尊の直筆をじっと見つめる……。そして、思い切ってそれを穴に入れると、土を被せて埋めてしまった。


 本当に、心から尊のことを愛していた。あの時の真剣でひたむきで強い気持ちは、今でもはっきりと思い出せる。

 だけど、小晴はこれで、気持ちの整理をすることができた。いちばん大事な場所に、いちばん大切な想い出をしまいこむことができた。



 ホッと息をついて、桜を見上げる。春のまばゆい光に目を細め、歩き出した時だった――。



 同じように、並木が作る桜の天井を見上げている人がいた……。

 あまりの非現実さに、小晴は夢を見ているのではと、自分の目を疑った。



 そこにいたのは、たった今も思いを馳せていた尊だった。時折テレビで見かける芝原尊、その人がそこに立っていた。


 尊も小晴の気配に気づいて、桜から視線を移す。そして、思いもよらなかったことに、目を見張っている。



「……尊くん。……どうしてここに?」



 思わず声をかけたのは、小晴の方だった。

 尊は、二十年の年月を感じさせない可憐な小晴の姿にじっと見入る間、しばらく言葉が出てこなかった。



 それから眼差しをしみじみと愛おしむものに変えて、尊は口を開いた。



「去年、母親が病気で死んだんだ。それで、この街にある家を処分しにね」



「……そう。寂しくなったのね……」



 少ししんみりして、会話が続かなくなる。

 もし会えたら、話したいと思っていたことはたくさんあったはずなのに……。


 ここに咲く桜は、二人が出会ったあの頃とまるで変わらないのに……。


 二十年前、ここにいた尊は普通の高校生だったけれども、今は世界で活躍するにふさわしい堂々とした風貌を兼ね備えていて、小晴には彼が偉大すぎて眩しかった。



 不意に一陣の風が吹いて、桜の花びらを空に舞い上げていく。その風の中で、尊が口を開いた。



「……小晴?……今、幸せか?」



 尋ねられて、小晴は花吹雪から尊へと視線を合わせる。

 その眼差しと、空気を伝って感じ取れる尊の息吹は、小晴のあの日の記憶と少しも変わっていなかった。



「ママ――っ!」



 その時、小さな子どもの声が響いた。小晴が振り向くと、その男の子は駆け寄ってきて小晴の足に抱きついた。



「どうしたの?一人で来たの?」



 小晴がその男の子に、優しく問いかける。



「ううん。パパと来たの」



 と、その子が指差した先、桜のトンネルの向こうに尊も目を遣ると、そこに一人の男性が立っている。



「パパがね。タコ買ってくれたの」


「タコ?」


「あのね。お空を飛ぶんだって。川のところでパパが飛ばしてくれるって!ママも、ほら、来てごらん!」



 と言いながら、小晴の息子は彼女の手を引いて連れて行こうとする。


 小晴は我が子に引っ張られながら、尊へと振り向いた。そして、見つめ合うことで、言葉にならない想いを交わす。


 たった一瞬、たったそれだけで十分だった。

 最後に見た微笑みが、お互いの心にずっと残り続けた。




 春の淡く青い空に、小晴の夫の手により凧が高く揚がっていく。


 小晴は河原で我が子と手を繋いで、尊は一人遠く桜並木の下から、それぞれに空を見上げた。



 ――尊くん……。あなたと離れて、私はずっと人を好きになれないでいたけど、やっと幸せを見つけたよ……。



 心の中でそう語りかけながら、小晴がふと桜並木の方へと目をやると――、


 そこには満開の桜から、はらはらと花びらが落ちるばかりで、もう尊の姿は見えなくなっていた……。













 ― 完 ―



「あの日、あの桜の下で」


  2017.4.6









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