旅立ちの春
私は三年生になった当初、彼が東大に行くと信じていたので、東京にある大学を志望していた。少しでも近くにいたいと思っていたけれど、さすがにアメリカの大学にまでは付いて行くことは出来ない。
それに、『地元の大学に行ってほしい』という両親の希望もあって、結局は地元の大学を受験して、そこに合格した。
彼も、アメリカに行く準備をしつつ日本の大学も受験し、難なく東大へ合格していた。
「一応、プリンストン大学に願書を出してるけど、合格するかどうかは分からないよ」
アイビーリーグの中でも一番上位の大学。合否が判るのは、四月に入ってからになるらしい。
「……でも、わざわざ東京にアパート借りるくらいなら、いっそのこと四月からアメリカに来いって、父さんが言ってるんだ」
彼のお父さんは、アメリカで会社を経営している。どんな会社かは聞いたことはなかったけど、きっと後継ぎとして彼に期待しているのだろう。
「じゃ、もう東大には行かないの?」
「東大には一応入学手続きはしてるんだ。だから、休学届けを出して、アメリカに行くことになるかな」
きっと、四月になれば、彼は合格通知を受け取るだろう。成功できる見込みがないことには、初めから手出しはしない。彼は自分に対しての分析も、かなり正確に行える人だった。
こんなにも正確無比の人なのに、ただ一つだけ解らないことはやっぱり、こんな私を好きでいてくれることだった。
三月も半ばになったその日、半年振りくらいに、彼の家へ行った。
彼の部屋に入るなり、彼はずっと我慢していたものを解き放つように、私を抱きしめてキスをした。
抱き合ってしまうと離れられなくなる……とは思ったけれど、やっぱり想いを抑えられなかった。
静まり返った家の中、ひんやりとした部屋の中で、私と彼の息遣いだけが響く。
一緒にいられる時間を惜しむかのように、私たちは肌を重ねて、お互いの存在を確かめ合った。何も言葉を交わさなくても、お互いの張り裂けそうな気持ちは、響き合うようによく解った。
彼はその日もいつものように、あの桜並木のところまで送ってくれた。
手を繋いで歩きながら、お互いにその手を離せないでいた。離れ離れになる…その現実が目の前に迫って来ているのに、二人のこれからのことは、言い出せなかった。
〝別れ〟を切り出されるのも、『行かないで』と泣いて追い縋りそうになるのも、どちらもとても怖くて、自分を見失ってしまいそうだった。だから私は必死で、現実を直視しないようにした。
「アメリカに行っても、頑張ってね!応援してるから!」
私は敢えて明るい表情を作り、わざと明るい声色を出して、励ましの言葉を贈った。
「……うん。頑張るよ」
彼もそう言って、自分を奮い立たせて笑おうとした。だけど、結局うまくいかず、少し寂しそうな雰囲気を漂わせたまま私を見つめるばかりだった。
時は、刻一刻と過ぎていき、彼が日本を発つ日程も決まった。彼がこの街を離れるその前日は、私の大学の入学式があり、私は見送れないということも分かった。
でも、それでいいと思った。彼が去っていく、決定的な場面は見たくない。このまま、また明日会えるような感覚で遠くに行ってくれる方が、心に受けるダメージが少なくて済む。
そんなふうに、心の中に潜在する痛みを抱えながら過ごしていた時……、桜が開花した。
この桜が散りゆくころには、彼はここを旅立っていく……。あの川土手の桜並木を、こんな気持ちで眺めることになるなんて思ってもみなかった。
そして、四月に入って桜も満開になった麗らかな日、彼からあの桜並木に呼び出された。
彼に会うのは怖かったけど、これから長い時間会えないのならば、やっぱりきちんと別れを惜しんでおくことも必要だと思った。
私が桜並木に行くと、彼は桜の花びらが舞い落ちる中、ベンチに座って待っていてくれた。私がそっとその隣に腰を下ろすと、それに気づいた彼は、ほんのりと表情を緩ませて私の手を取った。
それからしばらく私たちは、まるで老夫婦のように、すべての命が光り輝いている春の陽射しの中、手をつないで満開の桜にただただ見入っていた。
そしてふいに、彼が口を開く。
「ちょうど一年前、この桜に誓ったこと、覚えてる?」
「……うん」
私は頷いた。あの日のことを思い出すと、今でも胸がキュンとする。
彼は私を、『一生大事にする』と誓ってくれていた。
「その気持ちは今も変わってないし……君と離れたくない。だから……、実はまだ迷ってるんだ……」
それを聞いて、私の心がドキンとさざ波を打った。
「『迷ってる』って……、どういうこと?」
「アメリカに行くこと。君がもし俺に、日本にいてほしいって思ってるなら、俺は行かないつもりだ」
彼の言葉が、大きな楔となって私の胸を貫いた。彼がこんなことを言い出すなんて、とても信じられず、私は自分の耳を疑った。
私が混乱して何も発せられずにいると、彼は真剣な目をして私に問いかけた。
「……君に決めてほしい。君はどう思ってる?」
その目を見て、私は思った。彼は本当に心から、私のことを愛してくれているのだと。
〝私のため〟ではなく彼自身の〝想い〟のため、彼だからこそ手に入れられたチャンスを手離そうとしている。
今ここで、私の心のすべてを吐露して『行かないで』と言えば、きっと彼は行かないでくれるだろう。
……だけど。……だけど。
彼はとても頭がいいのに、こんなに簡単な問題に間違った答えを出そうとしている。その判断を歪ませているのは、私。
私は、彼の側にいてはいけない――。
切なさのあまり、心が悲鳴を上げていた。目の奥から涙が湧き出してきそうになる。でも私は、その涙を必死で堪えて、覚悟を決めた。
「私は尊くんの夢を知ってるから、引き止めることなんてできないよ。世界で活躍する人になりたいと思ってて、尊くんはそれを実現できる力のある人なんだから、日本に帰ってきたいなんて思っちゃダメ。尊くんの夢は私の夢でもあるから、叶えてほしい」
私は彼の目をまっすぐ見つめて、しっかりとした口調で、努めて冷静に私の考えを彼に伝えた。それも、私の中にずっと存在していたもう一つの信念だった。
「ずっとずっと、私が生きてる限り、尊くんを応援してるから……」
その言葉の中に〝別れ〟を読み取って、私を見つめる彼の目が哀しみで満ちて揺れている。でも、私はにっこりと笑って立ち上がった。
「尊くんも笑って?……そんな顔、思い出してもらいたいの?」
私がそう言うと、彼は唇を震わせながら笑顔を作ってくれた。
それを見て、彼も正しい答えを見つけてくれたと思い……、私は一つ頷くと彼に背を向けた。
涙が目の中でいっぱいになって、輝く陽射しの中で咲き誇る桜の花々も、風に乱れ舞う花吹雪も、なにも見えなくなった。
何度も振り返って、彼に駆け寄って抱きしめてもらいたくなる。だけど、私は家に帰るまで一度も振り向かなかった。
彼の立ち姿。彼の眼差し。彼のかけてくれた言葉。抱きしめてくれる腕の力。私の唇に肌に感じた彼の感触。彼のくれた真心。
彼のすべてを忘れない――。
……でも、もうあの桜並木には行かない。そう、心に決めた――。