受験勉強
二人で過ごす甘い時間はあっという間に過ぎていき、高校三年生になっていた私たちは、夏休みを過ぎたころからゆっくり会うこともできなくなった。
特に、異質なほどに成績優秀な彼への周囲の期待は大きく、彼もこれに応えなければならないようだった。
あの桜並木のベンチに座って抱き寄せてくれても、言葉が少なくなった。時には憂いを含んだ表情で、考え込んでいることもあった。
何か悩んでいたり、困ったりしていることがあれば、彼の力になりたいとも思ったけれども……、何事も完璧な彼に解決できないことを、私が解決できるわけがない。
私が心配そうな顔をすると、彼は心配させまいと笑顔を返してくれる。そして、抱きしめてキスをしてくれる。
だけど、その中に潜む〝哀しさ〟のようなものを感じ取って、私の心はいつもキュッときしんで痛みが走った。
そして、ようやく彼が重そうに口を開いて、その心にあることを打ち明けてくれたのは、秋が深まりゆく頃だった。
「……俺、アメリカのアイビーリーグに挑戦してみようと思ってるんだ」
その時、私は初めてアイビーリーグという言葉を聞いた。なんでも、アメリカ東海岸にある超一流の名門私立大学8校のことを言うらしい。
「……アメリカの?」
彼は〝東大〟を受験するものと、私は当然のように思っていたので、この時受けた衝撃は大きかった。
優秀な彼だけが受けていた特別な〝模試〟……私がそう思い込んでいた試験は、アメリカの大学に入学するために必要なSATというものだったと、後になって知った。
「もちろん、今のところ日本の大学に行くことも考えてるけど、……同時進行でね」
彼の小さい頃から慣れ親しんだアメリカ。そこの大学に行くことは、彼にとって私が考えているほど大変なことではないのかもしれない。
…でも、この数ヶ月の間思い悩んでいたのは、きっとこのことだったんだと思った。その悩んでいる原因の大きな部分を占めているのが、私のことだとしたら……。
「……アメリカの大学なんて、すごいね!挑戦しようと思ったんなら、頑張ってほしい!」
私も頑張って、私の中にあるすべての勇気をかき集めて笑顔を作った。彼には、迷うことなく自分の力を発揮して、前に進んでほしかった。
私がそう言って励ましても、彼はまだ思いつめた顔をして、確認する。
「本当に?小晴はそう思う?」
「うん」
と、私ははっきりと頷いてみせたけれども、心の中では動揺して震えていた。
彼に嫌われたり、『別れよう』と言われたわけではないのに、家に帰ると涙が溢れて止まらなかった。
――私のことが好きで大切なら、ずっと私の側にいてほしい……。
そんな我が儘で浅ましい思いが、心の中に充満してくる。
あんなに近くにいて、一つになった彼が、遠く離れて行ってしまうなんて……。その現実がなかなか受け入れられずに、このころの私はいつも一人になると泣いていた。
『日本の大学にも』と彼は言っていたが、本当に望んでいるのはアメリカの大学に行くことに違いない。そうでなければ、その選択肢が浮かんでくるはずがない。
『世界中を舞台にして…』そう言っていた彼の夢を思い出した。彼の夢のためには、やはりアメリカの大学に行く方が近道なんだと思う……。
私は、何にも増して彼のことが大切だった。彼のためなら、この私のすべてを捧げてもいいと思っていた。
たとえそれが、〝彼と一緒にいられる〟というかけがえのないことであっても、私の彼を恋い慕う心であっても、彼のためならすべてを犠牲にしてもいいと思った。
彼が私のことを気にかけなくて済むように、自分の進むべき道を邁進できるように……、私も私の進むべき道を決めて、それに向かって頑張っている姿を見せなければならない。
「尊くんが頑張ってるから、私も頑張る」
彼にそう宣言して、私も脇目を振らずに自分の受験勉強に打ち込んだ。
本当は、一緒に勉強したいところだったけれど、彼と私はレベルが違いすぎるし、勉強の内容も違うので、放課後もそれぞれに勉強に勤しんだ。
あの桜並木に立ち寄ることもなくなったけれど、メッセージや電話で短いやり取りをして励まし合ったり、何度か校舎の陰に隠れてキスをしたこともあった。
大変な日々だったけれど、一瞬一瞬がかけがえのない時間だった。こうやって、彼と同じ空気を吸っていられる今を、大事にしようと記憶に刻み付けた。
そうして一瞬一瞬が過ぎていき……、離れ離れになる〝その時〟がやってくる……。