人気者
二人でいる時間は、あの桜の下に漂う空気のように、とても穏やかだった。
少しずつお互いのことを話して、少しずつお互いのことを知っていって……。
彼のアメリカで過ごした幼いころの話は、私にとってはとても新鮮で楽しかった。それに引き換え、私の生い立ちは本当に平凡で、取るに足らないようなものだったけれど、彼はいつも微笑みながら聞いてくれたし、私のことは何でも知りたがった。
二年生になって、彼とは同じクラスになれた。少しでも彼の近くにいることができて、私はもちろん嬉しかったし、彼もとても喜んでくれた。それどころか、彼は私と付き合っていることを、周りに隠すことはしなかった。
そして、私たちが付き合っていることが次第に周囲に知られるにつれて、異変が起こり始めた。
「なに、あの子。全然芝原くんと釣り合いがとれてないじゃない」
「身の程を知るべきよね」
やはり人気者だった彼には、密かに想いをかけていた子がたくさんいたらしい。そんな陰口を言われていることは、私の耳にも、そして彼の耳にも届いていた。
言うなれば彼は、崇高すぎて〝誰も手を出してはいけない存在〟だったらしい。
その彼の彼女になった私は、机に心無い言葉を落書きされたり、提出したはずの課題がなくなってたり、何気なく陰湿で幼稚な嫌がらせをされるようになった。
理不尽なことだと思う気持ちもあったけれど、
やっぱり〝分不相応〟なことなんだと、私自身が一番よく分かっていた。
……そして、夏休みに入る直前、学校を上げてのクラスマッチが行われる日のことだった。決定的な出来事が起こってしまう。
これからグラウンドに集合するというとき、私が着替えようとしたら、体育着がなくなっていることに気がついた。
親しい友達も一緒に探してくれたが、見つからない……。着替えをすることができず、一人だけ制服姿で途方に暮れていたら、
「……どうした?体調でも悪いの?」
と、彼が声をかけてきてくれた。
「今日の朝、持って来て、ロッカーの中に置いてた体育着が見当たらないの……」
私が打ち明けると、彼は思考を巡らせる少しの間黙っていたが、意を決するように自分の体育着をその場で脱ぎ始めた。
「小晴は、これを着てな」
体育着の上下を渡されて、私は赤くなりながら目を丸くした。
「…でも、それじゃ、尊くんが……」
ボクサーパンツ一枚だけの姿になってしまった彼を、私が心配すると、
「俺は、男だからコレで大丈夫!」
と、彼はそのままの姿でグラウンドへ走って行ってしまった。
その後、グラウンドは大騒ぎになった。
下着一枚でサッカーをする彼の姿に、生徒たちはもちろん先生までもが唖然となった。
「おい!二年の芝原がターザンみたいな格好で、走り回ってるぜ!」
それでなくても有名な彼は、全校生徒の注目の的になり、彼が出場する試合には人だかりができた。
ようやくこの騒ぎのことが生活指導の先生の耳にも入ったらしく、血相を変えてやって来た。他のTシャツやジャージを着るように言われたけれども、彼は頑としてそれを受け入れなかった。
本当に、まるでターザンのような彼に鼓舞されて、私たちのクラスは総合優勝をした。表彰式の賞状を受け取りに出た彼の姿に、校長先生も驚いて目を丸くする。
「どうして君は、そんな姿をしてるのかね?」
訳を訊いた校長先生に、彼は向き直って一礼した。
「お見苦しい姿を見せてしまって、申し訳ありません。実は、俺の彼女の体育着が、何者かによって隠されたんです。俺のこの姿は、そんな卑劣なことをする奴らに対しての、抗議行動です。もしまた俺の彼女に対して、どんな些細なことであっても嫌がらせや陰口があったら、今度は俺の能力のすべてを駆使して報復するつもりです」
壇上に立った彼はマイクを通し、全校生徒に向かってそう宣言した。同時に、彼の体育着を着ていた私にも注目が集まっていることを、私は気づいていたけれど、そんなことは気にはならなかった。
私は脇目も振らず、壇上にいる彼を見つめ続けた。私にできたことは、ただそれだけだった――。
その頃、彼は下校時にたびたび、私に付き添って少し遠回りをして帰っていた。私も回り道をして、あの桜並木に立ち寄る。遊歩道沿いに置かれているベンチに並んで座って、しばらくおしゃべりをするのが、私たちのささやかな楽しみだった。
「尊くん。今日は本当にありがとう…」
蝉しぐれと桜の緑のシャワーの中で、この日の私は改めて彼にお礼を言った。
すると、彼はジッと私を見つめて唇を噛む。彼が何を考えているのか、気になった私が眼差しにその疑問を映すと、彼は口元を緩めた。
「君は俺の彼女で、…なによりも大切な存在だから…、命を懸けて守るのは当たり前だ」
彼のその言葉を聞いて、私は初めて彼の前で泣いた。決して悲しくはないのに、かと言って嬉しいだけでもなく、ただ心が震えて涙が零れた。
私のその想いが彼に伝わったのだろうか…。彼が腕を伸ばして、私を抱き寄せてくれる。
「俺のせいで、君にも辛い思いをさせてただろ?」
私が首を横に振ると、頬を伝っていた涙が雫になって落ちる。その涙を拭うように彼の手が私の頬をすくって、私の涙が溢れる瞳を覗き込む。
……それから、私たちは初めて唇を重ねた。
大好きな人に〝好きだ〟と思ってもらえることが、こんなにも切ない感情を伴うものだったなんて……、この時まで私は知らなかった。
次の日には、私のロッカーの中に体育着は戻されていた。
そんなことがあってからは、私に対する嫌がらせもなくなって、私の高校生活の中でいちばん平穏な時間を過ごした。
「俺、アメリカや日本だけじゃなく、世界を見てみたいんだ。そして、できたら世界中で活躍できるような人間になりたいって思ってる。……高校生にもなって、夢みたいなこと言ってるって言われそうだけど、まだ自分自身の可能性を狭めたくないんだ」
穏やかな日々の中で、そんなふうに将来の夢を語ってくれたことがある。彼になら、どんなことでもできると思った。そして、そんな彼の未来予想図を私も一緒に想像して、私の未来も明るく拓けていくような気持ちになった。
その時はただ、いつも彼が側にいてくれて、本当に幸せだと思っていた。