桜の下の彼
高校の合格発表があって、目の前に開けている希望と新鮮な気持ちで満ち溢れていた春休み。
あの日も、こうやって咲き誇るこの桜並木の枝を見上げていたその時のことだった。
突然の強い衝撃。
その直後、舞い散る桜の花びらのように、私の体がふわりと宙に飛び、真っ暗な宇宙の中を漂っているような気がした。
「…だ、大丈夫?…ごめん、俺。桜見てて、前をよく見てなかったから……!」
焦っている声がして目を開けると、私の目の前には、桜が映える青い空と、心配して覗き込んでくる同年代の男の子の顔。
いつの間にか小径の上に横たわっていた私は、ドキッとして跳ね起きた。
どうやら、彼が走らせていた自転車に、私は跳ね飛ばされたらしく、そうとう痛かったとは思うけれど、その瞬間の感覚は覚えていない。
「いや。私こそ、ボーっとしてたから……」
「ホントに大丈夫?!怪我とかない?」
「大丈夫。ホントに、ご心配なく」
カッコイイ男の子から話しかけられて、私にとってそっちの方が、体が受けた衝撃よりも刺激が強かった。
舞い上がってしまった私は、そのまま名前さえ聞かずに、まるで逃げるように帰ってしまった。
…その数日後、私は高校の入学式を迎えた。
新しく通う学校、新しい制服。新しい友達。そして、あの桜並木の下で会った彼……。
あの時聞けなかった彼の名前は、思いの外すぐに知ることができた。
「新入生・誓いの言葉。新入生代表――、芝原尊」
「はい!」
張りのある声とともに、そのとき壇上に上がったのが彼だった。
彼は、そうやって代表になるくらいだから、もちろん成績優秀。それも、私の想像も及ばないほどに。
彼の両親は海外で仕事をしているらしく、彼も中学二年まではアメリカで生活していた。母親について日本に帰ってきたのは、お祖母さんの介護が必要になったからだった。
飛び抜けた頭脳と、それに見合った整った容姿。スポーツも無難にこなし、それでいて気さくで屈託のなかった彼は、当然のように人気者になった。
あの桜の下での出来事を、彼は覚えてくれているのか……。
その心に引っかかる些細なことが、どんどん大きくなって……。私が彼に恋をするのに、あまり時間はかからなかった。
でも、彼とはクラスも違ったし、話しかける勇気もなく、ただ遠くからあこがれの目で見ているだけの恋……。
「おい、尊?この英語の歌詞、なんて言ってる?訳してみてくれよ!」
「うん?ちょっと聴かせて」
音楽を聴いていた友達から声をかけられて、彼が私の目の前を通り過ぎて行く。それから、彼はイヤホンで歌を聴くと、その歌詞を流暢な英語で再現し、さらに適切な日本語に訳してあげている。でもそんな能力を鼻にかけることはなく、いつも彼は楽しそうに友達と笑い合っていた。
そんなふうに、時折廊下ですれ違う時、彼の日常に触れる時、その度に私の胸はドキドキと高鳴ったけれど、それだけでは想いは伝わらない。
彼に少しでも近い存在になりたくて、一生懸命勉強したし、自分を磨くために毎日いろんなことに努力した。
時間が経つとともに、私の想いは募っていったけれども、どんなに頑張っても接点のない彼とは挨拶さえも交わすことができず、彼はやっぱり遠い人のままだった。
その現実を思い知らされるたびに、唯一言葉を交わせたあの春の出来事を思い出す――。
そしてそれは、私の心の中でキラキラと輝きを放つ大事な大事な宝物になっていった。
一年が経った頃、桜が零れ落ちそうなほど咲き乱れている日のことだった。
その桜に誘われるように、宝物になっているあの日を思い出しながら、私は土手道の桜並木までやって来てみた。……なんとなく、彼がそこにいるような気がして……。
だけど、当然のことながら、彼はそこにはいなかった。彼どころか、この並木道はこんなにも桜が咲き誇っているのに、花見をする人もなく、ひっそりとしていた。
柔らかい陽ざしの中、散っていく桜を見ていると、心が震えて切なくなる。あの花びらにこの想いを乗せて、彼に届けてくれたら……と思う。
散りゆく桜の儚さは彼への恋心と通じ合って、私の心を切ない痛みで侵した。
ひとしきり、時間を忘れて桜に見入って、フッと気配を感じて視線を移した時だった――。
そこに、自転車を押しながらこちらに歩いてくる……彼がいた。
「……やあ、……津村さん、だよね?」
声をかけてきてくれたのは、彼の方からだった。
まさか彼が名前を知ってくれているなんて思わなくて、私は息もできなくなる。
「……ここに来れば、君に会えるんじゃないかと思って来てみたんだ」
まるで夢を見ているみたいだと思った。
桜のトンネル、優しく穏やかな空気の中、ずっと心に描いていた人が立っていて……、
その人が私のことを「好きだ」と言ってくれた……。