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クリクリクリクリ

作者: 勇純

昇ちゃんは、私が生まれた時からの友達。

40歳も年が離れてるけど、恋人になってあげてもいいと思うことがある。

昇ちゃんがいなかったら、私はきっと死んでいた。

命の恩人。

その恩人と、今は二人で暮らしてる。

毎日が幸せだ。

昇ちゃんがいなくなると、私は時々発作を起こす。

一人になってしまうかもしれないと思うだけで

頭の中がクリクリして何が何だかわからなくなる。

そんな私をいつも守ってくれる、昇ちゃんと、昇ちゃんの仲間に感謝です。

    

 バイ ちいこ

 お風呂からあがると、パンツ一枚でベッドの下のフローリングに大の字になって寝転んで目をつむってじっとしていることが昇ちゃんの習慣だ。壁一面がガラスの大きな窓を少し開けたままで、一時間くらいじっとしていることで、一日の疲れが取れるんだ、って教えてくれた。私がこの家に来た頃には、その言葉を本気で信じてた。

 「のびのびのびのび、こうやって硬い床の上で寝転ぶと、背筋がピンピンピンピンって伸びて気持ちがいいんだ。現代人のストレスを取り除くには最高さ」

 私は慌ててお風呂に入り、髪をさっと洗って、濡れた髪にタオルを巻いて昇ちゃんの横に同じように寝転ぶけど、百七十六センチ七十五キロの昇ちゃんが場所をとりすぎてて、私は小さくなって寝転ぶしかない。

 寝転ぶと、窓から緑の匂いが入ってくる。私はその匂いが好きだ。昇ちゃんの所に来るまでは東京に住んでた。東京には公園も多く、緑は多かったのに、こんな匂いはしていなかった。もっと砂っぽい乾いた匂いしかしなかった。

 「ちいこはベッドにしなよ」って言うけど、私は昇ちゃんにくっついていたい。昇ちゃんがいないと不安になって、頭の中がクリクリして涙が出てしまう。腕と腕、足と足、時には体も触れる。そんな時、私はすごく安心感に浸ることができる。昇ちゃんが家に帰らない日は、昇ちゃんの書斎に置いてあるガジュマルの植木を、二階の私の部屋に運んで私の横に置いて寝ることにしている。

 ガジュマル君を昇ちゃんにたとえて、大きな声で話しかける。時々は歌も歌ってあげる。

 昇ちゃんは死んでしまったのかと思うような静かな呼吸をしている。そっと横を向くと、そこには生きてる昇ちゃんが目をつむっていてホッとする。

 今夜は何考えてるの、と昇ちゃんが聞いた。

 「将来設計」

 いい加減に言ったのに、昇ちゃんは真面目にうなづく。そして、ちいこも大人になったなぁ、なんて返事が来る。融通がきかないというか、なんでも本気にしてしまうのが、昇ちゃんが私をまだ子供と考えてる証拠なんだ。

 うそだよ、って言ったら、なんだ嘘なのか、って言うだけ。なんの追求もない。こんな時私は妙に悲しくなる。じゃぁ、本当は何考えてたの、とか聞きそうなものなのに、昇ちゃんは私の言うことには興味を示さない。だから頭の中がクリクリしてきて、また泣きそうになる。そんな時、私はわざと、昇ちゃんが気になることを言うことにしてる。

 「本当は、彰子先生のプレゼント何がいいかなぁって考えてたの」

 案の定、昇ちゃんは体を起こして、誕生日だったっけ、って聞くの。忘れてたの、ひどいなぁ昇ちゃんって、と言っていじめる。

 昇ちゃんは起き上がってシャツとジーンズを着る。

 「彰子先生のプレゼントなら少しは真面目に考えないとな。そんな格好だと風邪引くから、ちいこも暖かい格好しなさい」

 私は慌てて起き上がり、二階の自分の部屋に走って行き、昇ちゃんからかっぱらったぶかんぶかんのガウンを羽織って走って下りてくる。真っ赤なタオル地のバスローブで今、私のお気に入りだ。大きすぎて、足首もかくれてしまうけどとっても暖かい。今は暖かいからいいけれど、季節によっては床に寝転んでると寒くなってしまうが、これ一枚でとっても暖かい。だけど、もう一度お風呂に入ることもしょっちゅうだ。

 彰子先生というのは昇ちゃんの大学の後輩でもあり、ふたりは同じ大学で先生をしていた同僚でもあるんだ。私が生まれた時のころから知ってる人だ。私には千沙子という立派な名前があるのだけれど、昇ちゃんにも彰子先生にも、千沙子なんて呼ばれた記憶はない。物心ついた頃にはちいこと呼ばれていた。

 これは昇ちゃんも同じことで、本当は昇一郎といういかめしい名前がある。昇ちゃんは、私のパパの従兄弟で、パパがいつも昇ちゃんと呼んでいたから、私もそう呼んでいる。

 私たち家族はパパとママと私の3人で、東京に住んでいた。その頃は昇ちゃんも彰子先生も東京で、しょっちゅう家に来て遊んでいった。昇ちゃんと彰子先生はいつも一緒にいたから、私は恋人だと思っていた。でもよく考えてみると、昇ちゃんには奥さんがいたし、娘もいた。

 昇ちゃんが名古屋に引っ越したのは、昇ちゃんが手術をしたときだ。私が五歳くらいの時で、何度も見舞いに行った。昇ちゃんのベッドに上がり込んで一緒に寝たりもした。そのくらい私は昔から昇ちゃんが好きだったし、仲良しだった。昇ちゃんの病状は芳しくなかったらしく、先生をやめて名古屋に引っ越した。奥さんの実家が名古屋ということもあり、万が一の時には奥さんが心細くなるといけないということだったらしいが、それは表向きの理由だったらしい。別居するために引っこしたのだと、パパが教えてくれたことがあった。

考えてみると、私は昇ちゃんと生まれたころから仲良しなのに、奥さんという人を見たことはない。娘もいるはずなのに、見たことはない。東京にいるときにはすでに別居していたのかもしれない。

彰子先生もあとを追うように学校を辞め、名古屋に引っ越した。

 それからも昇ちゃんは何度か手術を受け、その都度、私たち家族は名古屋の病院に見舞いに行き、両親は、昇ちゃんが退院の時まで私を置いて帰っていった。私が帰らないと言ってダダをこねたからだ。彰子先生もずっと病室に一緒だった。

 でも奥さんや娘の姿はなかった。

 昇ちゃんの代用品みたいになっているガジュマルの植木は、彰子先生が昇ちゃんの誕生日にくれたものだ。

 あとで知ったのだけれど、昇ちゃんは多発性骨髄腫という血液のガンで、体のあちらこちらが痛くなるらしい。床で寝転ぶのも、痛みを和らげるためで、のびのびのびのびをするためなんかじゃなかった。手術の時は足の骨が溶解し始めていたらしく、そんな足の状態が少しでも良くなるようにって、彰子先生がガジュマルの木を贈ったんだとか。

 ガジュマルの根っこは、太くて三つ股に分かれていて、どっしりと腰を据えている。その容貌は確かに昇ちゃんに似ていなくもない。

 「私はマッサージ券にするけどね」というと、昇ちゃんはにっこり笑った。

 私はいつもこの手を使う。一時間のマッサージをしてあげる、というサービス券を作って、それを三枚あげる。あとは髪留めをあげようと思ってる、と言うと、なんだちいこはもう決まってるのか、と言って少しふくれっ面になる。

 五七歳の昇ちゃんは時々可愛い表情を見せる。昔っからそうだ。私と40歳も年が違うのに、恋人になってあげてもいい、って思う瞬間でもあるんだ。

 そうか、なんて言いながら、昇ちゃんはベッドの上に置いてあるタバコをとって火をつける。私はすぐにそばにある灰皿を手にし、さぁどうぞーっ、といって差し出してあげるのだ。

 私にとって、とっても大切で楽しいひと時でもある。

 私がこの家に来たのは中学の一年生の時で、ちょうど5年前だ。そのことについて説明するのは、すごく厄介だ。思い出したくないことでもあるからだ。それでも今が幸せならばそれだけでいい。

 私は嬉しくなると、ずっとこのままでいようね、って言う。すると昇ちゃんは笑ってることが多いけど、時々、結婚するまではね、と言う。私はそれを聞くとすごく悲しくなって、また頭の中がクリクリクリクリしてきてしまう。そして泣きたくなってしまう。

 ずっとこのままでいたいのに。



 週に2囘、僕は、月曜日と木曜日に車で30分くらいのところにある大学で非常勤講師をやっている。だいたい午後2時くらいに帰って来てシャワーを浴びる。それから近くの喫茶店でコーヒーを飲み、家に帰ってパソコンに向かって原稿を書く。そのうち、ちいこが学校から帰ってきて、お茶とお菓子を持ってきてくれる。大学の講義がない日は昼まで寝てることが多い。

 最近、ちいこは機嫌がいい。体調も悪くなさそうだ。

 名古屋に連れてきた頃は、毎日のように突然泣き出したり、大きな声で歌を歌い出したり、興奮すると声が出なくなったりした。最近はそれがないから安心だ。病院の心療内科の先生も、最近は大丈夫だと言ってくれる。中学校の時は、学校で時々発作が出て、体中が痙攣し、声が出なくなったりした。その都度僕は学校にちいこを引き取りに行った。

 ちいこは震えて僕にしがみついて泣いた。そんなことが何十回もあった。

 ちいこの住んでいる東京の警察から電話がかかってきたのは、五年前の六月だった。妙に蒸し暑い日で、その時僕は背中が痛くて、床に寝転がっていた。携帯電話ではなく、家の固定電話が鳴った時、きっと間違い電話だろうと思った。滅多に固定電話にかかってくることなどないからだ。

 「平和島警察署ですが、原田千沙子さんという十二歳の女の子をご存知ですか」と言われて何を聞かれているのか最初は全くわからなかった。

 自宅のマンションで意識をなくして倒れているちいこを、管理会社の人が発見し、警察に通報し、現在、病院にいるということだった。僕は慌てて車を走らせて東京に向かった。

 ちいこがマンションで意識を失っていた? 父親は、母親はどこにいるのだろう。一体何があったのか、頭の中で不吉なことばかりが浮かんでしまう。

病院に着いたのは午後8時を回っていた。

警察官に促され、ちいこに会った。ガリガリに痩せ、目が飛び出し、これがちいこか、と思うほど悲惨な姿だった。

 中学の入学式の日に両親が失踪し、ちいこは電気も食べ物もないところで水道の水だけを飲みながら、死の恐怖で泣きながらひっそりと生きていたのだ。そして、二ヶ月後には意識がなくなり、倒れているところを発見された、発見があと一週間遅ければ死んでいたと言われた。

 僕はちいこを名古屋に連れて行くことを決めた。警察が親を探して説得したが、まったく埒があかなかったそうだ。病院で回復を待ち、名古屋に連れて帰った。地元の中学に転校手続きをとり、一緒に暮らし始めた。

 小さい頃からずっと一緒のようなものだったが、やはり女の子と一緒に住むということが、これほど大変だとは思わなかった。

 そこは実の娘とわけが違った。風呂もトイレも、着替えも、娘の時は何も気がつかなかったことが、無性に気になってしまう。何も持たずにやって来たから、下着はもちろんのこと、タオルや歯ブラシに至るまで、二人で買いに回った。僕は付いて回るしかなかった。女の子のものは何ひとつとして分からなかった。小さな手鏡やポーチや化粧品が必要なことくらいは分かっているつもりだったが、髪を巻くナントカとか、ナントカの機能が付いたドライヤーだの、ナントカのために使うカラーペンだとか、とにかくナントカナントカ、ナントカばかりで到底女の子の世界は、僕が理解することなどできなかった。

 パンツが干してあっても、寝転がってる時にパンツが丸見えになってても、パジャマがわりのTシャツから見て取れる突起した乳首などなんとも感じないのだが、下着を入れた引き出しの中を見るのはすごく抵抗がある。小さなタンスを買って、ちい子が小さな下着をきれいに折りたたんで引き出しにしまっているとき、昇ちゃんも手伝ってよ、と言われ慌ててしまった。

 一人では広すぎるほどの一軒家では、風呂から出ると僕は完全無欠の裸でいるのが好きだった。それはやめた。パンツだけは履くことにした。

 それほど気を使っているにもかかわらず、ちいこはかなり無神経で、トイレはドアを開けたままで用を足すし、着替えも平気だし、寒いからといって僕のベッドに入り込んでくることも珍しくない。

 少しは、隠したほうがいい、と言ってみるのだが、ちいこには通じない。二階の自分の部屋にいるより、僕の寝室兼パソコン部屋にいるほうがずっと多い。勉強するのも、わざわざ教科書を持ってきて、僕の机を横から半分使って勉強する。夜食用のインスタントラーメンも、僕の部屋まで持って来ては音を立てて食べ始める。僕のプライバシーなんか完全に無視されている。

 「家族なんだから、いいじゃないか」なんて平気で言ってのける。

 実はちいこなりの理由もある。

 「昇ちゃんはちい子がうんこまみれの姿を見たんだもの」とよく口にする。東京のマンションで発見されたときのことだ。ちいこには記憶があるのだろう。立ち上がることもできず、最後は垂れ流しだったのだろう。僕はそんな姿など見ていないし、病院で体も洗ってもらったはずなのに、何度言ってもちいこは信じない。

 昇ちゃんはちいこの恥ずかしい姿を全部見たんだから、今更何言ってるのさ。

 それでもだんだん慣れてきて、なんとか和気あいあいに暮らしている。

 僕にはなんとなく、わかる。ちいこは一人になるのが怖いのだと。誰にも助けを求めることもできず、親に捨てられた恐怖心がずっと巣食っているのだ。誰かと一緒にいないと不安なんだろう。少なくとも、血のつながっている僕のことを一番頼ってる。

 しかしその反面、ちょっとした言葉にも敏感で、無意識に放った言葉が、すごくちいこを傷つけてしまうことがある。小さい頃から京都大学に行きたいと言っていたから、大学生になったら一人で暮らす事になるのだから、ひとりでいることに慣れないとダメだよ、なんて一言が、ちいこには捨てられるほどショックなことなのだ。

 そんな時ちいこは急に言葉を無くし、涙目になってしまう。時には二階の部屋にこもってしまう。心配になって見に行くと、俯いて、枕に顔をうずめて嗚咽している。ウオッ、ウグッ、ウオッ、ウグッといつまでも泣いている。慰めようと肩に手を置くと、頭の中がクリクリクリクリしてる、と言う。一度塞ぎ込むと、一日中、ちいこは泣いている。



 私には友達がいない。いや、作りたくないのだ。血のつながった両親でさえ、私を裏切ったのだから、いつ裏切られるかわからない友達なんか作ろうなんて思わない。そりゃ、クラスメイトとおしゃべりしたり、日曜日にショッピングに行ったりするけれど、正直言って上っ面な付き合いしかしていない。彼女たちを信じていないってわけじゃないけど、信じられるほどいい人たちでもない。

 大学行っても、お嫁に行っても仲良くしていたいね、なんて言ってるそばから、好きな男の子に声をかけられるとヒョコヒョコついて行ってしまう。放課後にファミレスで食べようって話してたフレッシュパインのポップオーバーのことも、食べ放題のパンケーキのことも、一瞬で忘れてしまっている。信じろっていう方が無理って言うもんだ。

 告ってくる男の子達もいる。これは全く信じない。

 好きだから付き合って欲しい、なんて言われても、今までにまともな恋愛経験もない奴らに「好きだよ」、なんて言われても何にも嬉しくない。だいいち、私がこんな奴を好きになれないんだから、付き合えるはずもない。

 ちょっとだけ気になる男の子もいた。彼も私のことが気になってたみたいで、文化祭の準備の時に、今度の日曜日にデートしてくれないか、って頼まれた。結局OKして、名古屋駅のデパートの入口で待ち合わせた。名古屋駅というので、てっきり映画でも見に行くのかと思ったし、もしかしたら、大人っぽいレストランにでも連れて行ってくれるのかと少しは期待していたのに、二時間以上もフラフラ歩きっぱなし。手をつなぐわけでもなく、会話が弾むわけでもなく、つまらない時間だと思った。そしてやっと休めたのが、スタバコーヒー。もう少し下調べくらいしてきて欲しいって本気で思った。待ち合わせてから四時間が過ぎていた。ずっと我慢していたのも、ついに限界が来て、クリクリクリクリしてきて、涙が出てきて、何も言わず帰ってきた。翌日彼は、どうしたの、なにか悲しいことでもあったの、なんて聞きに来た。自分のせいだなんて全く考えていない。四時間も街の中を引き釣り回して、喜ぶ女の子がいるとでも思ってるのだろうか。男って、こんなものなんだって思ったら、もう付き合う気も起きなくなってしまった。

 私にはものすごく信頼できる人が三人いる。

 もちろん昇ちゃんが一番。いくら血が繋がってるといっても、引き取って一緒に住まわせてくれて、ご飯にも、学費にも、何の不安もなく生きていけるって、昇ちゃんがいたからこそ。学校で何かあっても、すぐに飛んできてくれる。

 「どうしてそんなにやさしいの」って聞いたことがある。拾ってきた子猫をすぐに捨てる奴っているか?、なんて言う。どこまでマジかわからないようなことを飄々と口にするのも、昇ちゃんらしい。

 もうひとりは彰子先生だ。この人は絶対に私を裏切らないと思う。私といるとき、彰子先生はよく笑う。ニコニコというのではない。もちろんニンマリでもない。ケラケラ笑う。お腹をかかえて、涙を浮かべて笑う。昇ちゃんがいない時、彰子先生のマンションに泊まりに行ったりするけれど、もう二人で笑いっぱなしだ。一緒にお風呂に入ったりしても、私のおっぱいを突然つかんで、かわいい、と言いながらケラケラ笑う。ご飯を一緒に作ってる時も、私の包丁さばきを見てお腹を抱えて笑う。決して馬鹿にしてるんじゃないんだ。それはわかる。すごく親しみを持ってくれてるのが分かる。

お弁当もよく作ってくれる。海苔やカマボコやブロッコリーでご飯の上に顔を書いてくれたりするのだけれど、自分で作りながらケラケラ笑ってる。

 私は、自分でもわからないけれど、突然頭の中がくりくりクリクリしてきて、泣きたくなってしまうことがある。パパとママに捨てられてからだ。

 コメカミから後頭部に向かって、数十個の鉄の小さな球体が走り回り、目の前が真っ暗になり、頭が痛くてたまらなくなり、大声で叫び続けてしまうようになった。

 私はこの状態を『クリクリクリクリ』と呼んでいるんだ。

 ところが彰子先生といるときは、一度もクリクリしたことがない。ほかの人がいると、クリクリが出てしまうことはあるけど、彰子先生とふたりっきりの時は決して出ない。それだけ私は彰子先生とウマが合うのだ。

 「彰子先生の養女になろうかな」なんて昇ちゃんの前でつぶやいたことがあった。本気じゃないことはわかってるはずなのに、昇ちゃんは、それもイイかも知れないね、なんて言うから、私は悲しくなってクリクリクリクリしてきて、大声で泣き出してしまった。

一度、クリクリしてしまうと、もう自分の感情はコントロールできなくなってしまう。悲しくて悲しくて、何もできなくなってしまうのだ。

 私の病気は、本当に厄介だ。一人になってしまうことが頭に浮かぶと、涙が出て止まらなくなる。だって本当に怖かったんだ。真っ暗なマンションで、食べるものもなく、きっとこのまま死んでしまうに違いないって考えながら、ずっと泣いてた。あの時の恐怖が蘇ってきてしまう。

 私は月に一度、心療内科に通っている。石井先生という医者が私の担当医だけど、私は、石井さん、と呼ぶ。昇ちゃんの友達でもあるんだ。ちっこくて、まるまる太って、お腹が異様なほどプクンと出ている。

 『情緒不安定であるが、日常生活に大きな支障はないと考えられる』という診断書を書いてくれた人だ。

 私が何か質問したり、不安な事を話すと、腕を組んで首をかしげ、ウ~ン、とうなるような声を上げるが、それは単なるポーズだということを私は知っている。考えてるようなふりだけで、答えはいつも決まってるんだ。

 「問題ないですね。そんなことは誰だってあることなんです。今日も異常なしですね」

 眠れない、と言っても、不安で涙が出て止まらない、と言っても、自殺したくなった、と言っても、いつも同じポーズと同じ答しかない。

 そして最後に「今夜、ちいこちゃんは何が食べたいですか?」と聞いてくる。

 私は決まって、石井さんが腕をふるえる自慢の料理がいい、と答える。

 すると石井さんは嬉しそうに、「じゃあ、6時過ぎにちいこちゃんの家に行きますからね」と笑顔で言う。

 石井さんは、週に3~4回は家に来て、料理を作ってくれる。そのときは昇ちゃんだけでなく、彰子先生もやってくる。石井さんの目的は、きっと彰子先生なのだろう。いつも料理の説明を、彰子先生に向かって熱っぽく語るから。こんな石井さんを私は信頼してる。医師としては多少頼りないけれど、私は好きだ。昇ちゃんがいない時なんかは、病院に遊びに行ったりする。一応は、診察の形は取るけれど、真っ白な飾り気もない無機質な診察室でたわいもないおしゃべりをして帰る。嫌な顔ひとつ見せずに付き合ってくれるから、私の精神安定剤みたいな人だ。

 昇ちゃんと同い年なのに、独身。確かにこの容貌では女には無縁であることは容易に想像できる。それでも、金曜日に泊まっていくことがあるけど、そのときはいつも自分の大恋愛の話をしてくれる。作り話かもしれないけれど、私は、へぇ~、とか、スゴ~イ、なんて奇声をあげてあげる。石井さんは嬉しそうに笑う。

 こうして私は、素敵な人に囲まれて暮らしている。

 本当はそれだけじゃない。

 朝ごはんや晩ご飯、私のお弁当、家の掃除などをしてくれる人がいる。裕子さんだ。簡単に言うと、昇ちゃんの恋人だ。私がこの家に来るまでは、昇ちゃんは裕子さんと暮らしていたんだと思う。

その名残は至るところに残っている。ドレッサーの中には女性物の服がたくさんあり、下着もある。歯ブラシや、タオル。茶碗の数や、化粧品など、独り住まいには不自然なものがたくさんある。昇ちゃんがコスプレーヤーでない限り、これは女が一緒に住んでいた証拠以外に考えられない。きっと、私が追い出してしまったんだ。時々昇ちゃんが『取材旅行』を理由に帰ってこないときは、きっと裕子さんのところに行ってると思う。もっと堂々としてくれてもいいと思うのだけれど、そうなると私は昇ちゃんとの楽しい時間が減ってしまうことになる。きっと我慢できない。本当に私は昇ちゃんに迷惑をかけていると思う。



 ちいこがこの家に住むようになる時、一番不安だったのは、食事とセックスだ。一人ならキュウリをかじって済ませられるものが、健康体の食べ盛りに、どう対応すればいいのか、不安だった。もちろん部屋の掃除も、洗濯も。多少のことは担当を決めればいいけれど、勉強もしてもらわなくてはならないし、強制的にはさせられない。中学のうちは給食があるけれど、高校に行くようになったら弁当が必要になるし、とても男の僕には出来そうにない。

 朝ごはんは、裕子さんという人が作ってくれていた。大学時代の同級生なのだが、東京で再会してからはなんとなく一緒にいる。彰子先生は大学の後輩でもあり、ふたりは仲良しだ。裕子さんが都合が付かないときは、彰子先生が作ってくれたりするし、二人の都合が付かなくても、僕ひとりなら、それこそキュウリをかじって、コーヒーか牛乳を飲んでおけばそれで済んできた。これからはそうはいかない。特に僕の病気は、血液の免疫障害である多発性骨髄腫という難病だから、血液を汚すものは口に入れたくない。漂白料や砂糖やバターがたっぷり入ったパン食は避けたいものでもある。だからトーストを朝から食べるなんて、まさに想定外だし、自殺行為のようなものだ。天日干しのお米と、化学調味料が入っていない自然の味噌と無農薬野菜の味噌汁が一番いいと僕は信じている。

 夜ご飯だって、裕子さんが作ってくれたり、寿司やそばを食べに行ったりしているが、ちいこは若いから昔っからハンバーグや焼肉が大好きなのはよく知っている。僕は脂っこいものや肉はとても苦手で、ちいこと一緒に住む上で大きなハードルであることは間違いない。

 何よりも一番困ったのは、セックスだ。12歳の女の子がいる家に、裕子さんを泊めるなんてことは、さすがに抵抗がある。裕子さんに話すと、裕子さんは笑っていた。別に結婚してるわけじゃないから私たちが一緒に住む必要なんかないじゃない。今までだって、3日に一度くらいしか泊まってないんだから、会いたくなったら私のところに来ればいいじゃない、なんてのんきな事を言ってくれる。その通りだ。女房と別居中の男が、ほかの女を家に連れ込んでいたら、12歳の女の子に対してあまりにも不道徳だ。

 しかし、一緒に暮らし始めると、ちいこが気を使ってくれているせいもあるけれど、意外にスムースに事が運んでいった。学校の帰りに、和菓子を買ってきてくれたり、お茶を入れてくれたり、自分でハンバーグを作ったり、僕のためにざるそばを作ってくれたりしてくれる。

 ハンバーグがうまく作れると、彰子先生に電話をして呼び出したり、持って行ったりする。ちいこは彰子先生が大好きなようだ。東京にいた頃からの知り合いだけど、その時以上に仲良くなっている。僕としては大きな安心材料だ。洗濯だって僕のパンツも洗ってくれる。全自動だから簡単だもん、と言ってくれる。それに、ちいこの担当医でもある石井は、僕と高校時代の同級生でもあり、古い付き合いなのだが、えらくちいこを気に入ってくれて、週に数回は夜ご飯をつくりに来てくれる。石井がこんなに器用に料理を作るなんて本当に意外だった。嬉しそうな表情で、食材をいっぱいかかえてやって来て、脇目も振らずにキッチンにまっしぐらだ。

 石井がやってくるときには、必ず僕にメールがある。彰子先生にも食べさせたいから呼んでおいてくれ、という内容だ。結局石井は、ちいこをダシに使って彰子先生と仲良くなりたいようだ。余りにもストレートに下心が見えてしまっているので、かえって滑稽だ。彰子先生もその辺は心得ていて、うまくあしらっている。彰子先生のほうが一枚も二枚も上だ。それでも石井はそれに気がつかず、あの手この手でアタックするのだが、それを見ていて、ちいこさえも吹き出してしまうことがある。

 「患者さんが、奥さんに使ってもらってください、なんて言ってスカーフをくれたんだけど、僕が独身だってこと、患者さんは知らないようなんだけど、せっかくの厚意だから無下に断ることもできなくて、ありがとうございます、女房も喜びます、なんて言っちゃってさ。それでも僕が使えるはずもないから、彰子先生なら似合うと思って持ってきたんだ。使ってもらえないかなぁ。ピンクとグレーを基調にした上品な柄だから、きっと彰子先生には似合うはずだと思ったんですよ」

 僕もちいこも、そのうえ彰子先生まで吹き出してしまった。彰子先生とちいこはお腹をかかえて笑っている。そりゃそうだ。プレゼント用のリボンの包装紙に包まれた中身なんて知る由もないのに、石井はスラスラと説明してしまう。自分が彰子先生に気に入られようと買ってきたことを暴露しているようなものなのだが、石井には全く、なぜみんなが笑っているのかさえ理解できないようだ。みんなの笑いにつられて、石井も笑ってしまう。

 石井や彰子先生がいるときは、ちいこは楽しそうだ。とても病気だなんて思えないほど普通の女の子だ。

 いつまでもこうしていたいと思う。



 昨日から一日中雨が降っている。あすは土曜日だから、昇ちゃんにドライブに連れて行ってもらおう。雨の日は大好きだ。昇ちゃんも外に出かけないし、ずっと二人でおしゃべりできる。雨の日のドライブはもっと好きだ。行き先を尋ねられると、私は、古墳、と答える。三重県の亀山というところにあるヤマトタケルノミコトの古墳だ。名阪高速を使うと、一時間くらいで行ける。でも雨の日は車が渋滞していて二時間以上かかることも少なくない。車の中で、私はナビとCDの担当だ。渋滞で少しイライラしている昇ちゃんの口にお菓子を運んだり、首をもんであげたり、雨の日のドライブはとっても楽しい。もちろん古墳に行くのは、その古墳がある『のぼの神社』が好きだということも理由の一つだ。ここは本当に別世界だ。鳥居をくぐった途端、真夏の日差しなんか全て遮ってしまい、ひんやりとした涼しい風が出迎えてくれる。東京にも神社はたくさんあるけれど、こんなに雄大な神社はない。緑の香りを浴びるってことがどういうことか、今ならわかる。夏はクマゼミが耳をつんざくくらいに大きな声で鳴いている。

 シャァシャァシャァシャァシャァシャァ。

 私には『さあ、さあ、さあ、どうぞ」という、出迎えの声に聞こえる。

 いつ行っても、人影はほとんどない。ヤマトタケルノミコトの人生を物語るかのように、人に見放されてひっそりとしているように思える。雨の日はなおさらだ。でも、大きな木の枝や葉っぱに雨は遮られ、やはり別世界になっている。社殿でお参りを済ますと、また鳥居をくぐって今度は山の茂みの中に入っていく。そこにタケルノミコトの古墳がある。宮内庁の看板が立っている。古墳に行き着くまでに急な石の階段があり、昇ちゃんは脚が痛むので、私は先頭に立って昇ちゃんの手を上から引っ張ってあげる。昇ちゃんはいつも、いいよ、だいじょうぶだから、と照れくさそうに笑う。古墳の横には小川が流れ、水の流れる音が聞こえる。、そして、羽黒トンボがたくさん飛んでいる。真っ黒な羽のトンボは初めて見た。絶対に東京にはいない。私はそう確信している。

 「きれいだね、黒いトンボって」

 私が言うと昇ちゃんは「タケルノミコトの守り神かもしれないね」って教えてくれた。

 「ロマンだねぇ」って言うと、昇ちゃんは「ヒマンはいやだけどね」なんてダジャレを言う。本当は面白くないけれど、かわいそうだから少し笑ってあげる。

 『のぼの神社』の次のお決まりは、『忍山神社』だ。ここから車で10分位のところにある。亀山市の中心に位置するらしい。ヤマトタケルノミコトの奥さんでオトタチバナヒメが産まれた地に建てられたという延喜式の古い神社だ。『オシヤマジンジャ』と読むらしい。タケルノミコトにお参りするなら、奥さんのタチバナのところも来てあげないとね、というのが昇ちゃんの説だ。

 「タケルノミコとが昇ちゃんなら、タチバナはちいこだね」っていうと、昇ちゃんは笑ってた。お参りが済むと私は昇ちゃんの腕と脇腹の間に、私の腕を滑り込ませ、他人から見たらきっとぶら下がっているのかと思われてしまうような格好で昇ちゃんと腕を組んで歩く。名古屋の街中で腕を組もうとすると、援助交際みたいに思われちまうよ、なんて言うけれど、ここでは昇ちゃんは何も言わない。これもドライブの醍醐味だ。

 朝七時前には出てくるのだけれど、忍山神社を出る頃にはお昼を過ぎてしまってることが多く、雨の日なんかは二時を過ぎてることもある。そこから30分くらい、国道一号線を走って、四日市を過ぎたところにある『トミスミート』という肉屋さんが経営している松阪牛の炭焼きの店に入って、遅いランチを食べる。私は上ロースを二人前と、上カルピとキムチとご飯と味噌汁をペロッと食べ、最後にアイスクリームを注文する。昇ちゃんは肉はほとんど食べない。松阪牛のローストビーフとサラダ、それにテールスープを食べる。ここのテールスープは絶品で、昇ちゃんのスープを私は半分は食べてしまう。

 「彰子先生と、裕子さんにもおみやげを買っていこうか?」と昇ちゃんはいつも言う。そして、きっと明日の夜はみんなでバーベキューをして食べることになる。

 名古屋に着くのはいつも七時過ぎになる。名古屋に着くと、昇ちゃんの行きつけの寿司屋に少し寄って軽くお寿司を食べる。本当は昇ちゃんの診断書には生ものは食べないようにって書いてある。免疫障害だから、感染症が怖いらしい。寄生虫などに感染したら昇ちゃんは死んでしまうかもしれないらしいけれど、昇ちゃんは全然気にしない。美味しいと思って食べないと栄養にならないから、とわけのわからないことを言う。私はお肉でお腹がいっぱいなのに、お寿司もどんどん入っていく。回らない寿司屋に入るのは、昇ちゃんが連れてきてくれなかったら、私は一生知らなかったかもしれない。感謝してる。

 家に戻ってお風呂に入って、彰子先生と裕子さんに電話をしてバーベキューのお誘いをして、昇ちゃんと一緒に床に寝転がってのびのびのびのびをする。疲れた?って聞くと、全然、と返事が返ってくる。二人とも疲れてウトウトしてしまう。

 ずっとこのままでいたいと思う。



 月に一度は僕は病院に行く、。検査の時もあるけれど、放射線治療や抗がん剤のためだ。3ヶ月に一度は一週間ほど入院をする。簡単な手術の時もある。

 そんな時、ちいこは病院に来てくれて、ずっとそばにいてくれる。彰子先生も来てくれるし、裕子さんも着替えなどを持って、身の回りの世話をしてくれる。

 裕子さんは朝早くから来てくれるし、ちいこは病院に内緒で泊まり込んでいく。学校が休みの時はいいけれど、僕が入院すると、ちい子は平気で学校を休んでしまう。僕はそのことがいつも気になって、彰子先生や裕子さんに説得してもらうように頼むけれど、ちいこにはのれんに腕押しというか、糠に釘というか、全く効果がない。

 前回の長い入院の時は、七月の終わりでちょうどちいこは夏休みだったので、何も言わずにおいた。今から六年ほど前、骨髄の手術をした。半年の入院生活を送った。その時、ちいこは東京にいたけれど、僕の見舞いに来た従弟の夫婦は、ちいこを置いて帰っていった。まだ小学生だったからよかったけれど、今は高校生だ。11月の28日がまた大きな手術をする予定になっている。ちいこが学校を休むのではないかと心配している。どうやってちいこを説得するか、どうやってちいこを騙すかが現在の僕の課題だ。

 僕が手術をするというだけで、ちいこはすごく不安になるようだ。もしも僕が死ぬようなことがあったら、ちいこは生きていけないと思い込むらしい。住むところも学校も、みんな無くなってしまうくらいに考えている。決してそんなことはないし、万が一の時のために、裕子さんにも彰子先生にもちいこのことはお願いしてある。お金も大学を出るまでくらいのものはちいこの口座を作っていれてある。遺言書も司法書士に頼んで正規のものを作ってある。裕子さんは万が一の時は、ちいこを養女にするとまで約束してくれている。しかし、そんなことをちいこに言えばなおさら心配し、すぐにクリクリクリクリが顔を出して、ちいこを錯乱状態にしてしまう。今のところ安定しているのに、そんなことが言えるはずがない。なんとかひとりで生きていくくらいに強くなって欲しいものだ。もっと強くなって、パパとママを見返してやるくらいになって欲しい。12歳で両親に捨てられ、ひとりで生きていかなくてはならないことは十分にわかっていると思うのだが、やっぱり一人になるのが怖いようだ。僕に隠れて彼氏を作るくらいになると思ってたのに、5年たってもまだひとりの恐怖からは卒業できないでいる。

 修学旅行の時、一時間おきくらいに電話がかかってきた。楽しんでいるような感じだったけれど、夜になると送られてくる川柳のようなメールの内容はとても楽しんでいるとは思えないものだった。

 

 昇ちゃんと 一緒に行きたい 修学旅行


 普通名詞の 友達というのは 心通じず


 昇ちゃんと のびのびのびのび なつかしい


 新幹線 おりたら昇ちゃん 来てるかな


 僕も返信した。


 戻ったら 二人で行こう ヒッコリー


 ちいこの好きなハンバーグの店の名前を出した。喜んでくれるような気がした。

 ちいこの存在は予想以上に大きくなっていたことを知った。たった一週間のことだけど、家の中にちいこがいないことは、昨日までかけてあった柱時計が突然なくなってしまったようなさみしさがあった。

 そして帰ってくる日、ちいこはメールをくれた。


 今日帰る うんこまみれの ちいこです


 わすれるな ちいこの帰りの おむかえを


 今日の夜 お寿司がいいな 昇ちゃんと


 妙に泣けてきた。一人は辛かったんだなって思った。

 ちいこが置いていった『修学旅行のしおり』をさがした。たしか、ベッドのところで渡されたはずだ。ベッドの上にはない。周りをみわたした。あった。デスクトップのパソコンのディスクにテープで貼ってあった。すぐに帰りの時間を確認した。家族が待つ場所が指定されていた。団体の改札口の前だ。家族が迎えに来ている生徒は、そこで解散。その他の生徒は、学校までバスが出るという。まだまだ時間はあるが、僕は車で名古屋駅に向かった。少しでも早く顔を見たかった。早く着きすぎたら、喫茶店で時間を潰せばいい。まるで十年ぶりに昔の恋人に会いにいくような気分だ。自分で口元が緩むのがわかった。

 案の定、喫茶店で時間を潰した。同じような親は結構いるようだ。喫茶店の中は、明らかに修学旅行からの子供の帰りを待っている親たちだ。

 高校生になった時、ちいこの母親が学校の帰りに待ち伏せしていたことがあった。ちいこに戻っておいで、一緒に暮らそう、と言った。ちいこは走って逃げた。そして家に駆け上がり、追いかけて家に上がってきた母親を迎えることになった。

 「昇ちゃん、助けて。私は嫌だ。嫌だ。男と逃げるために私を捨てた奴が、男に捨てられたからといって私に言い寄ってくるやつなんか会いたくない。帰れ、かえれ、昇ちゃん、助けて。この女を追い返して」

 涙をいっぱい浮かべて、ちいこは叫び続けた。驚いた。ちいこは全部知っていた。父親は女のところに行き、母親は男と逃げた。ちいこだけが捨てられた。実の娘だけが捨てられた。事実は僕の口からは言えなかった。それでもちいこは知っていた。ちいこはもう、親の元には帰らないと決めていたのだ。母親が帰ったあと、ちいこは抱きついて泣いた。泣けばいいと思った。おもいきり泣かしてやりたかった。。

 ちいこはもう誰にも渡せない。僕もそう思ったはずだ。ちいこは、もう元には戻れないし、ちいこ自身が親を捨てた。

 改札口に父兄達が集まってきた。

 僕も改札口に近づいた。どちらかというと、僕はこういう場面では、慌てずに、一番後にいる性分なのだが、今回に限っては、一番先にちいこを迎えてやりたかった。

 子供たちがおりてくる。ちいこの姿を探してしまう。そして見つけた。キョロキョロしてる姿はきっと僕を探しているはずだ。ちいこ! 呼んでみた。ちいこが声に反応して、僕を探す。目が合う。ちいこが走ってきた。誘導の先生を無視して飛んできた。帰ってきたゾーっ、ちいこが荷物を投げ出して僕にしがみつく。嬉しかった。みんなが僕たちを見ている。構わない。見たい奴は見ればいい。僕だってちいこに会いたかったんだから。お腹に顔をうずめてしがみつくちいこをしっかりと抱き返した。

 いつまでもこうしていたい。そう思った。



 最近昇ちゃんの体調は芳しくないようだ。歩くときも少し痛そうだし、絶えず背筋を伸ばそうとする。

手術が近いのかな、と思う。でも、明日から取材旅行で十日ほど帰ってこないというから、すごく心配だ。取材先で倒れたらどうするんだろう。しばらくは、電話もメールもできないって言ってる。

彰子先生も年末に向けて忙しいらしいから、あまり遊んではくれそうにないし、裕子さんも最近顔を出さないというのは、忙しいに違いない。

裕子さんは心理カウンセラーをやっていて、いろんな施設に行ってカウンセリングをするのが仕事らしい。

10日間のことだけど、何をして過ごそうか迷ってる。一人じゃつまらない。勉強だって、昇ちゃんの横でやれるから楽しいんだ。わからないことはすぐに聞けるし。ご飯は、石井さんができる限り来てくれると言うけど、朝ごはんは自分で作らないといけないし、お弁当はコンビニで済ましてもいいし、売店でおにぎりを食べても構わない。それより、昇ちゃんは仕事中に何を食べるんだろう。厄介な病気だからそのほうが心配だ。

今夜は出かける前に、思いっきり甘えてやる。ケーキと和菓子を今から買いに行こう。昇ちゃんは和菓子が大好きだから。



 手術の時間が近づいている。造血幹細胞移植という手術だ。

 やはりちいこのことが心配になる。約10日間、一人で大丈夫だろうか。クリクリが起こらないだろうか。

 裕子さんが付き添いで来てくれているけれど、一日に一度は家に顔を出してくれるというし、石井も夜は顔を出すといってくれている。

 彰子先生には手術のことだけ伝えておいたが、忙しいことは分かっているので、とりたててちいこのことは頼むのをやめた。

 わずか10日間のことだ。何とか頑張ってくれることを信じたい。

 手術室に入ると、きっとマスクを当てられ、僕の意識はなくなってしまう。

 目が覚めたら、メールしなくっちゃぁ。ちいこが寂しがってるだろうから。

 ちいこ、がんばれよ。僕も頑張るから。



 もう5日目になる。一人は寂しい。裕子さんが夜に来て、朝ごはんの準備と、お弁当の準備をしてくれてるし、石井さんもとるご飯を作りに来てくれてちいこと一緒に食べてくれる。でも深夜に一人でいると、パパやママに捨てられた時の恐怖感がよみがえってしまう。哀しくって、大声を出してみたり、大きな声で泣いてしまったりする。このまま死んでしまうんじゃないかと思うこともある。

一人じゃいやだ。

メールも何通か送ったけど、返事はない。きっと忙しいのだろうけれで、昇ちゃんって薄情な奴だ、なんて思ってしまう。

時々、ガジュマル君の前で歌を歌ってあげる。童謡だったり、西野カナだったり、時には君が代だったりすることもある。今日学校であったことも、ガジュマル君に話してあげる。でも返事はしてくれない。

メールくらいよこしても良さそうなものなのに。



「ちいこちゃん元気だったよ」

裕子さんの言葉に少し安心。

まだまだ体は重く、動ける状況ではないけれど、あと2日もすればちいこに連絡してやれるだろう。寂しがってるに違いない。ちいこがそばにいないと僕も寂しくなる。

いつの間にか、家族になってしまっている。

体がもう少し動くようなら、メールを送ってやらないと。

「ちいこちゃんに、昇ちゃん頑張ってるからって、伝えとくね」

裕子さんの笑顔に感謝。

早く歩けるようになって、ちいこの顔を見たい。

喜んでくれるに違いない。待ってろよ、ちいこ。



 彰子先生には昇ちゃんから連絡が行ってるかもしれない。

彰子先生は昇ちゃんにとって一番仲良しだし、私もヤキモチを焼きたくなることさえある。でも忙しいこともわかってる。彰子先生は、大手進学塾の運営の指導をする会社を経営している。だから年末に向けてすごく忙しくなり、全国の塾を駆けずり回るそうだ。

もしかしたら会えるかもしれない。

だから学校の帰りに彰子先生の会社に向かった。

今までに数回連れてきてもらったことがあるので、すぐに分かった。

長居しては迷惑だけど、少しだけならお話しできるかもしれない。

自社ビルという少し小さな3階建てのビルだ。

 受付にいって彰子先生を呼んでもらった。

 「ちいこちゃん、ひとりなの?」

 突然後ろから声をかけられた。

 彰子先生は、黒のスーツに身を包んでいた。格好良かった。きれいだった。彰子先生、きれい、って思わず言ってしまった。彰子先生はいつものようにお腹を抱えて笑う。

 「昇ちゃんから連絡ないですか?」

 彰子先生はキョトンとして、私に言った。

 「聞いてないの?病院だよ。手術してるよ。もうすぐ退院するんじゃないのかな。裕子さん言ってなかった?」

 もう何も聞こえない。頭の中がクリクリクリクリしてきた。涙が溢れてきた。大声で泣いた。みんながこちらを見ている。もうどうにもならない。昇ちゃんは何も言ってくれなかった。嘘ついて手術に行った。裕子さんも石井さんもちいこを騙してた。

 捨てちゃいやだよ。ちいこを捨てちゃいやだよ。一人はいやだよ。

言葉が出てこない。立っていられない。彰子先生が私を支えるけど、私はもう立っていることもできない。何も考えられなかった。力の限り大きな声で泣いた。目の前が真っ暗になってどこにいるのかもわからない。意識が遠い所に行ってしまう。昇ちゃんに会いたい。彰子先生に抱き抱えられてる感触は覚えている。それと救急車のサイレンの音。私はこのまま死んでいくのだろうか。昇ちゃんに会いたい。怒らないから、昇ちゃんに会いたい。彰子先生がわたしを抱きしめて何か大きな声で話しかけてくれている。



 やっと自力で起き上れるようになった。そんな時、石井から電話が病院にあった。看護師が至急ここに電話をしてくれ、と電話番号を書いたメモを渡してくれた。裕子さんに頼んで、携帯の電源を入れて、渡してもらった。明らかに石井の電話番号だった。

電話の向こう側の石井は、いつになく慌てていた。

「彰子先生から電話があり、ちいこを救急車で連れて行くからすぐに診て欲しいと連絡があり、ちいこちゃんが運ばれてきて、体中が痙攣し、泣き続けている」という。

「タクシーを待たせるから、すぐに行ってあげて。あとはごまかすから」

裕子さんに促されたとき、僕はすでに服を着替えていた。

そして裕子さんに後を任せて病院の入口で待たせてあるタクシーに誘導してもらった。フラフラする。体中が痛い。手術の傷が疼く。それでも構わない。ちいこの所に行って

やらないと。ちいこの発作は僕でなくては治せない。

 タクシーが揺れるたび激痛が走った。時間が止まってしまってるような気がした。

病院に着いた時、彰子先生が待っていてくれた。すぐに病室に行った。

ちいこは大声で泣きながら体中を痙攣させていた。ベッドに上がってちい子を抱きしめた。ちいこは僕の顔を見てまた泣いた。しがみついてまた泣いた。言葉が出てこない。クリクリする、クリクリする、ちいこはそう言って泣いた。

 しっかりと抱きしめてやった。少しづつちいこは冷静になってくる。

 「ひとりはいや。ひとりは怖い。昇ちゃんが死んだらちいこも死ぬ。昇ちゃんしかいないんだよ。ちいこには昇ちゃんしかいないんだよ、血の繋がってる人は」

 その通りだ。ちいこには僕しかいない。大丈夫だ。もうちいこにクリクリさせることなんかしない。僕が守ってやらないといけないんだ。このままでいよう。ずっとこのままでいよう。パパやママを見返すなんて必要ない。頑張って生きていくことも必要ない。ずっとこのままでいよう。

 ちいこはずっと泣いていた。そして安心したのか、僕に抱かれながら眠っていった。

 「ずっとこのままでいような」僕はちいこにそう呟いた。


                                                    完



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― 新着の感想 ―
[一言] イイね。 ホロっと来たね。 頑張れ!って感じ。 続編は出ないのかなぁ。
[一言] 私も、ちいこだよ。 昇ちゃんみたいな人、欲しいな。 キュンときました。
[一言] 勇純先生って、キュンッとさせるのが上手ですね。 やられました。 他の作品も読んでみます。
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