第86話
【アイギス】総司令グランザル・タボフははっきり『地球侵攻は無い』と宣言した。
総司令が言ったということは旗艦【グローリー】だけでなく艦隊、ひいては【アイギス】全体の決定である。
演説では艦隊中に根も葉もない噂が流れていることに触れ、一部ではそうした噂を信じた者達が過激な行動を望み始めているのを確認したという。
こうした混乱を収める必要性を感じ、総司令の演説に至ったようだ。
演説は最後にこう締めくくられた。
『我々は地球に従い武装解除して【アイギス】へ向かうつもりだ。【アイギス】は元々地球軍の配下であり、昔も今もそれは変わらない』
セシオラは演説の内容に安堵した。
地球侵攻が否定されたことよりも、もう悩まなくて済むということに。
何故地球侵攻を止めたいのか分からなくなってきていたし、そこから派生して地球で人生をやり直さなくても宇宙でやり直すという選択肢だってあるんじゃないのかと思い始めていた。
だが深く考えるのは苦手だ。
悩んでいると辛いし、頭が痛くなる。
それが解消されたのが良かった。
戦うのでも、そうでなくても、はっきり決めてくれさえすればそれで良かったのだ。
いや、でも、任務からすればこれが喜ばしかったのかもしれない。
当初の予定通りだ。
七星は画面を消すと得意な顔になった。
「こういうことだ。俺は総司令に会見を開くよう働きかけに行ってたんだよ。本来であれば艦内に流れている噂に対していちいち反応することはないんだが……このまま上層部がはっきりしない態度でいると本当に戦おうぜって空気になられても困るからな。ここらで事態の収拾を図ったというわけさ」
どうやら七星や行方不明の間、このために動き回っていたらしい。
それを『言えない』なんて言っていたが、単にもったいつけていただけだったようだ。
休憩室に映し出されている波の映像とその音に、心配や不安も洗い流されていく。
ジェシカが溜息をついた。
お腹の中に溜めていた色々な感情を一気に解放させるように。
「…………ホシさん、そういうことはちゃんと言って下さいよ!」
一日中走り回ったくらいのくたびれた声だ。
心配や不安による緊張とは、それだけくたびれてしまうものなのである。
しかしそんな彼女を見て七星は楽しそうにしていた。
「噂を信じることなかれ」
「わたしだって最初は信じていなかったです! でも……色々状況証拠が出てくるにつれて信憑性が出てきちゃったから……」
「流石に戦力差が10倍とかの相手と戦う気はしないさ……まあ、腹は立つけどな」
「いまだに……地球軍の『配下』ですもんね、今の演説で言ってましたけど。配下だから従えって論理で地球は今頃になって言ってきていますけど、確かに横暴だと思います」
「地球からのメッセージは正直、怒りを覚えたね。俺達の家族を人質にするとはな」
そんな二人のやりとりにセシオラは同情した。家族を人質に取られたら動きようがないよね……
【アイギス】には地球から上っていった者と【アイギス】で生まれた者がいる。
前者には家族がまだ地球にいるのだ。
そして地球にまだ家族がいる者ほど年長者であり、【アイギス】の上層部を占めている。
地球はこの事情を利用した。
家族を人質にしてしまえば【アイギス】は従うしかなくなる。
人質を救出しようにも【アイギス】艦隊は宇宙、人質は地球……絶対に不可能。
野蛮な方法だ。
だが宇宙に進出できるようになっても人間は賢くなれなかったのである。
メルグロイはぼうっとしていた。
エミリーはまだ帰ってきておらず、彼女のことをベッドに腰かけて待っている。
部屋の中は綺麗に整頓されていた。
もしメルグロイが一人で暮らしていたら一週間で散らかす自信がある。
その時使いたい物を引っ張り出してきてはそこら辺に置き、また別の物を引っ張り出してきてはそこら辺に置き……これを繰り返すと自然に汚い部屋になっていくのだ。
腰を落ち着ける場所には頻繁に使う物が並び、あまり使わない物は奥へ積んでいく。
すると生活の動線も可視化されていくので、いざ大掃除が必要になった時は見てみると面白いだろう。
しかしこの部屋はいくら見回してもそんなことはない。
しっかり者がいると助かるものだ。
妹と暮らしていた時もたまに……半ば強制的に片付けをしてもらっていたのを思い出す。
それから、音楽を思い出した。
故郷で流行している曲は嫌いだったが、妹が好きな曲は何となく耳に入ってきたのを覚えている。
リズムはどんなだったか……指で膝を叩いてみる。
曲はどんなだったか……鼻歌を歌ってみる。
目を瞑り音楽に神経を向ける。
鼻歌が少しずつ調子が出てくる。
微かに体を揺らしながらリズムに乗った。
これは売れている曲だったのだろうか。
それは分からない。だが俺にとっては、割かし味のある曲なんじゃないかと思う。まあ、こうしたものは自分が気に入ればそれで良い。俺も気に入っているのか正直よく分からないが。それでも何となく聞きたくなるということは、良い方なのだろう。
鼻歌がサビの部分に入る。
そこで思い出した。あれ、この曲は……
エミリーの曲じゃないか。
妹の好きな曲のつもりだったのに、いつの間にかエミリーの曲に切り替わっていたようだ。
もしかしたら似ている部分があったのかもしれない。
「はは、すっかりエミリーの歌に洗脳されてしまったようだね」
誰もいない空間に向かって呟いてしまう。
どうやら記憶が上書きされてしまったようだ。
最近何度も彼女の歌を聴かされていたから。
メルグロイの〈コンクレイヴ・システム〉の個人記録領域にもしっかりと保存されてしまっていて、一人の時によく聴いて覚えておくように言われていた。
実際に一人の時に聴いていたりするので、彼女との約束は破っていない。
ただ、曲そのものを聴いているというより、曲を通して彼女の存在を感じられるのが良いと思っていたから聴いていたのだが。
ベッドに背中を倒した。
天井へ目を向ける。
「これ以上ここにいると未練が残りそうだしなあ。今夜を最後にしてここを去るか?」
しかし、昨日もそんなことを考えていた気がする。
このままずるずるいくわけにはいかない。
「根がだらだらしているからな。踏ん切りがつかないんだろう」
面倒なことはしたくない。これはみんなそうなんじゃないのか?
そうしていると玄関が開く音がした。
よっ……と上体を起こし、メルグロイは笑顔になった。
まあ、なるようにしかならないだろう。




