秋雨と春とお酒の魔力と
居酒屋という場所はいい。
僕の場合は、大手の、人が多い居酒屋の方が好みだ。いや、お酒が呑みたいわけじゃない。お酒は、人の理性という皮を剥き、その内側にある何かを表舞台に引き出す事が出来る。普通では観察することの難しいそれを、ここでは簡単に観ることが出来る。おまけに気が緩んでいるから、素面の人より観察しやすい。人物を描く上での人間観察の場には絶好の場所だ。だから、僕は居酒屋をよく利用する。
「いらっしゃいませ、何名様ですか?」
「ひと」
「二人です」
店員にいつも通りの受け答えをしようとすると、背後からの声が僕の声を上書きする。振り返ると、春里陽菜がいつの間にか僕の後ろに居た。何故だ、今日は場所が場所だから感づかれないように動いたのに。
「私に隠しごとをしても無駄です。雨夜先輩の事はもう何でもお見通しですよ」
彼女は得意げに答えた。ああ、最近は普通にしていたから忘れていた。彼女はストーカー気質だという事を。高校時代と、こっちに引っ越してから僕を付け回した実績があることを。一体どんな手を使って彼女は僕の行動を―
「そんな疑った顔しないで下さいよ。出かけた帰りに、たまたま見つけただけです」
……どうやら顔に出ていたらしい。諦めて、二人で隅の席に座る。
店員さんに料理を何品かと、日本酒を注文する。
「あ、私の飲み物も同じ物を」
……もちろん、止めた。大学一年、つまり十九歳が、しかも見た目中学生の合法ロリータがお酒なんて頼んだらどうなるか。何より僕も巻き添えだ。絶対にごめんだ。
彼女はちょっとしょんぼりしたが、せめて色だけでも先輩に合わせると言って、水を頼んだ。少しして、二人分のグラスが運ばれて来る。
「じゃあ、雨夜先輩。乾杯です」
「うん」
僕は少し不器用に、グラスを合わせた。それからしばらく、二人で料理をつまみながら、他愛もない話をする。もっとも、僕はその片手間に店内を見渡しながら、今日の本題にとりかかっていたけど。
話し始めてしばらく経った頃。気分が良さそうに話していた彼女が、いきなり僕の顔を両手で挟んだかと思うと、無理矢理目線が合うように、顔の角度を固定した。
「いきなりどうしたのさ、春里さん」
「どうしたの、じゃないです。なんで私と話しているのに、私の方を見ないんですか」
「話はちゃんと聞いているよ。それに春里さん、最初に僕がここにきた理由は話したじゃないか。流石に横を見ないと周りの観察が」
「観察? それだったら目の前にいい観察対象がいるじゃないですか」
「いや、色んな人を観察したいからここに来たわけだし。それに春里さんの事は普段から見て」
「普段から? よく言いますね。雨夜先輩見えているようで、わたしの事全然見えてないくせに」
僕が言葉を言い終わらないうちに、彼女は次の言葉を被せてくる。声は少し威圧的で目も据わっている。もしかしたら何か彼女を怒らせるような事をしたのかもしれない。
「見えてない? 僕から言わせたら、春里さんは分かりやすい人間の部類に入るよ」
「分かりやすい? わたしの事、何にも見破れてないくせに」
彼女は少し挑戦的な笑顔を浮かべて、そう言い放った。……僕は温厚な方だと自負しているけど、流石にこの一言にはムッとくる。少しだけ声のトーンを上げて、彼女への質問を放つ。
「へえ、なら僕が何を見破れてないのか、教えてくれないかな。どうせ、そんなものないだろうけど」
「あれ? わたしが仕掛けた盗聴器と監視カメラ、まだ気づいてないんですか?」
「はいぃ?」
思わず妙な声が出た。監視カメラ? 盗聴器? おかしい、そんなものを仕掛けられた様子はなかった。なら嘘か? でもおかしい。彼女の声は自信に満ち溢れている。性格的に、こんなハッタリを言える様な性格じゃないはずだ。なにより、今までの彼女は嘘がつけるタイプじゃなかった。とても嘘とは思えない。
「……どこに仕掛けているんだい?」
「やっぱり気づいてないんですね。でも、素直に教えると思いますか?」
「しょうがないじゃないか。場所が分からないと、間違えて壊しでもしたら大変だし」
「……そこなんですか? やっぱり雨夜先輩は、優しいですね。でも大丈夫ですよ、うそですから」
「……え? やっぱり嘘だったの?」
「でも、雨夜先輩、わたしのうそ、見抜けなかったですよね?」
「うっ……」
得意気に笑うと、彼女は席から身を乗り出して、僕の顔に自分の顔を思いっきり寄せる。少し動いたら額がぶつかりそうなくらいに。
「見抜けなかったんだから、先輩はわたしの事を観察しきれていないってことですよ」
「それは……」
否定は出来ない。実際に、一度嘘を疑いながら結局は信じてしまったのだから。
「だから、雨夜先輩まだ観察しきれてないわたしの事をもっと観るべきなんです。じっくり、じっくり。雨夜先輩が望むのなら、今日はわたし、今までの雨夜先輩にも、誰にも見せてないわたしを、一日中見せちゃいますよ?」
その赤らめた顔での一言は、その声は。今までの彼女が発した言葉よりもずっと甘く、ずっと妖艶な響きだった。僕の鼓動が、急激に高まる。まずは心を落ち着かせようと、グラスを口に運ぼうとする。……軽い?
僕は手に持っているグラスを見た。ほとんど飲んでなかったはずの日本酒が、明らかに減っている。というかなくなっている。そして、僕とは反対側のフチに、口をつけた跡が残っていた。
「どこ見ているんですか? 雨夜先輩?」
彼女に視線を戻す。顔が紅潮しているし、さっきは気づかなかったけど、息からは仄かにアルコールの匂いが漂っている。
「ねえ、春里さん」
「なんですか?」
「これ、飲んだ?」
僕は、自分が持っていたグラスを指差した。
「飲んだもなにも、それわたしのグラスじゃないですか。あ、でも、ここの水変な味がしますよ? でもそれがくせになって……」
ああ、やっぱりか。僕は慌てて残った料理を片付けると、彼女を連れて急いで店から出た。未成年の飲酒、万が一にもバレるわけにはいかない。それにしても、この様子を見る限り、彼女はお酒を飲んでもいけない。飲ませてもいけない。飲めば、確実に呑まれる。彼女と接する上での注意事項が、一つ書き足された瞬間だった。
フラフラの彼女を支えながら、なんとかバレずに部屋の前まで戻って来る。
「ほら、春里さん。鍵貸して」
「雨夜先輩がわたしのへやにー? 恥ずかしいです」
「いいから、貸して」
鍵を開け、なんとか彼女を部屋の中に入れる。
「じゃあ、僕は戻るよ」
「えー、泊まっていってくださいよ」
「バカを言うな。それじゃ、また明日」
「あ、まってください、雨夜先輩」
振り向きざまに、なに? という質問の言葉を発しようとしたのに、発することが出来なかった。言葉を発する前に、僕の口が、彼女の口で塞がれたからだ。柔らかい唇の感触が、そっと離れていく。
「わたしのこと、ちゃんと観察できました?」
「……うん、たっぷりと」
「じゃあ、またあした」
扉が閉まると同時に、僕はその場にへたり込んだ。彼女は明日、この事を覚えているだろうか? 覚えていない気がする。だけど、僕の記憶から離れるわけじゃない。明日、僕はどういう表情で彼女に会えばいい?
「……ほとんど飲んでないはずなのに、僕まで酔った気分だ」
安堵のような、不安のようなため息が口から漏れ出す。唇には、仄かなアルコールが残っていた。