正岡子規について考へる
明治維新の訪れは、時に伝統文化への断絶を意味した。
しかし、成功することは無く、伝統文化は残ることになる。文化を考える時、とにかく新しいものを作ろうと伝統は攻撃されるものである。
その攻撃に耐え、かえって強くなったものに『俳句』がある。
正岡子規。
彼ほど明治という時代人を体現した者はないという。
正岡は総理大臣になるべく、勉強をして伊予松山(現代では愛媛)から上京した。
この一文は、明治という時代がどういう時代だったのかを非常に表現できていると思う。
どの社会の階層であろうと、勉強すれば、何者にでもなれる。
『総理大臣』というのは、その役職を指すよりかは、
『無限の可能性』
というふうに、解釈をした方が明治を理解できる。
勉強することが立身出生に繋がる。
現代だと、理解できないような気がします。
むしろ、
「何で勉強しなければならないのか?」
という問いが出てくる。
さらには、明確な答えが出せる者がいようか。
明治の面白さは、個人の立身出世が、そのまま国家繁栄に繋がったところにあります。
正岡子規、正岡 常規、 升。
私は、「のぼさん」と呼びたい。
のぼさん が、子規という風に名乗るのは
『血を吐いた自分』
『血を吐くように鳴くホトトギス』
を、重ねたからだという。
これだけ見れば、非常に自虐思考のある人間に思えるが、違う。
のぼさん は、客観的に己を見て、「こういう状況だろう」と無邪気に説明している。
夏目漱石は、それを指して、
「そんなことをやるから、君は女々しいのだ」
と、評したらしい。
明治期の人間は、非常に楽天的であり、上質なユーモアを持っていたのが、このやりとりで分かる。
病気の自分を無邪気に説明し、
それを、あっさりと『女々しい』と言ってやれる。
非常に、羨ましく感じます。
現代で、このやりとりが出来ましょうか。
やれ不謹慎だ、やれ男女差別だ、と口やかましく非難されるでしょう。
これのどこに、言論の自由があるのか。表現の自由があるのか。
単に、難癖つけて八つ当たりしているだけではないか。そう思えるのが現代の、非常に思想が貧しいとこではないでしょうか。
話は戻って、のぼさん。
のぼさん の面白みは、『俳句の写生』が永続性を持ってしまったところにありましょう。
柿くへば
鐘が鳴るなり
法隆寺
ただの写生ですが、現代だと一層の風流を感じるようになっている気はする。
小説などの写生主義や自然主義は、現代だと読むのが苦痛だったりします。田山花袋の蒲団みたいなやつです。私は、何が面白いのかさっぱり分からなかった。
一時代の客観描写は、あっという間に滑稽となる。そういうことでしょう。
ところが、『俳句』になると、妙な味わいが出てくるのです。
のぼさん が詠んだ時の、法隆寺はどうだったのかを考えると、その当時では出ない味が出てくる。
春や昔
十五万石の
城下かな
この句を知って、愛媛旅行に行けば、なんと優雅なことか。
現代の観光旅行だけでなく、タイムスリップのような時間旅行すら味わえそうな気がするではありませんか。明治日本と現代日本を比べることが出来るのは、今しか出来ません。
のぼさん を論ずるに、どうしても『病気』というのはあるでしょう。
「病牀六尺という宇宙が、正岡子規の全てだった」
とも言われます。
のぼさん は、『俳句』や『和歌』が死んでいく文化と思っていたそうですが、現代でも詠まれています。サラリーマン川柳をはじめ、ちょっとしたことのおかしみを伝えるのは、かえって都合が良い。
正岡子規の命をかけた事業は、現代や未来の人間の方が知っている。
そういうことでは、ないでしょうか。
死んでいくかもしれない文化が、死と隣り合わせにいる人間によって延命した。
そう思うと、どんなに感謝しても感謝しきれない。
外国人も『俳句』を詠むと聞いたときは、正岡子規は何と偉大だったのか。
それを知らぬは本人ばかりなり。なんということか。
文化というのは、金儲けが全てでは無い。
その実例が正岡子規だと思います。
もし、正岡子規が存在しないのであれば、『俳句』や『和歌』は明治維新の混迷期と共に消えていたでしょう。仮に、消えなくても、万民に開かれることはなかった。
正岡子規の良さは、伝統を現代や未来に通用させた。
ひょっとすると、彼自身は、そうなるとは思ってなかったかもしれない。
自分の命数の近似値を探し、たまたま探し当てたのが『俳句』や『和歌』だった。
正岡子規は、『俳句』や『和歌』の中興の祖となったがために、歴史に名を刻んだ。『俳句』や『和歌』は、正岡のおかげで少なくとも現代でも詠まれるようになった。
生きている時だけが全てでは無い。
歴史は、それを伝えているのやもしれない。
では、私も一句つくる。
朝焼けを
拝んで食べる
オムライス
コンビニ弁当を食べる朝食事情ですが、なにやら風情というものが出た気にもなる。
人の運命どころか、文化や文明もどう進んでいくかは、実に分からない。