[追憶] : 母と子
◇◇◇◇◇
「だってジェンキンス、二人が帰ってきたらいっぱい遊んでくれるって約束してるんだ。」
「ルーク様、お父様お母様は大切なお仕事の帰りです。あまり無理を言って困らせるといけませんよ。」
ルークは、初老の執事ジェンキンスと、両親の帰りを待ちわびていた。
うとうとしながらも眠気を堪えて待っていると、大きな音を立てて家の扉が開け放たれた。
ごうと強く吹雪く風が家に舞い込み、戸に立つ人物を包む。ルークはよろけて転びそうになりながら駆け寄った。
「母さん!おかえりなさ・・・」
喜んだのも束の間、幼いルークはその場に凍りつく。
「母さ・・・血が・・・」
母の白い肌と清楚な衣服は、血でべっとりと汚れていた。
「ルーク・・・!」
母が少年を抱きしめる。
懐かしいーー母の匂いとーー血の匂い。
二つの匂いが混じり合う・・・。
片方は、これが最後となった。
もう片方はーーこれから幾度となく嗅ぐことになる忌々しい匂い・・・。
いつの間にか側に立ったジェンキンスに、母が何か耳打ちする。
「承知いたしました奥様、後は私めにお任せください・・・!」
ジェンキンスが深々と頭を下げる。
抱きつくルークを引き離し、母は再び扉に手をかけた。ルークを見つめる目は、状況にそぐわないほど優しさに満ちていて
「ルーク、あなたは・・・幸せに・・・」
後悔からか、今でも夢に見る。あのとき、母を引き止めていれば、未来は変わっていたのかもしれない。
ガタン
ルークとジェンキンスを残し、扉は固く閉じられた。
ジェンキンスは手早く暖炉とランプの明かりを消すと、ルークを奥の部屋へと連れて行った。
「ルーク様、衣装箱の中にお隠れください。何があっても決して出て来ぬこと。」
ルークは衣装箱の中で一人震えて泣いた。両親のことが心配で仕方なかったのだ。
後から知ったのだが、母が浴びた血は父親が最期の抵抗で流したものだった。
・・・
何も、音がしない。
ただ、ただ風の吹雪く音が、遠くに。
ジェンキンスは先ほどから一言も喋らない。ルークは世界にただ一人取り残されたのではないか・・・そんな気さえした。
突如、キーンと耳を突く高音が聞こえたかと思うと、ドスンと衝撃を感じた。ドスドスと、誰かが家に侵入する気配がある。
「魔術師がいますな、それに軽鎧(注1)を纏った傭兵くずれが一人。」
ジェンキンスが呟いた。
そっと外の様子を伺う。暗い部屋で、身動き一つしないジェンキンスが扉の横に立っていた。手には・・・二本の・・・ペティナイフ・・・?
侵入者の気配が近づいてくる。
「この部屋か?」
「ああ、俺の感知魔法(注2)に狂いはない。」
扉が静かに開き始めたと思うと、ロングソードを構えた男が扉を蹴破った。
(注1): 軽鎧、ライトアーマーとも。帷子と薄い板金で急所のみを守る鎧。現代で言うと防刃ベスト程度の防御力しかなく、機動力を重視した装備と言える。
(注2): 感知魔法とは生物や貴金属など、特定の物質を感知する初歩的な魔法。範囲と精度は術者の熟練度に依存する。対魔術隠蔽の心得の無い人間を見逃すのは魔術師として非常に恥ずかしい。