第96話 月下に剣はひらめく
ぎぃん、と鋭い音と共に、黒の刃が銀の刃に弾かれる。
「つっ……さすがに、一筋縄じゃいかないか!」
危うく弾き飛ばされかけた愛剣《オプシディア》の柄を握り直し、ジェラルドは半ば自棄に近い気分で唇を歪ませた。
ジェラルドとフィランが組む形でダンテと刃を交えていたが、二対一でもダンテは崩れない。二人分の攻撃を的確にいなし、弾き、その口元には未だ余裕の笑みがある。
「まあ、そりゃね……あっちは本家本元の《剣聖》だし」
仕切り直しとばかりに跳び退って距離を取ったフィランが、やれやれとばかりにため息をついた。それをジェラルドは聞きとがめる。
「ちょっと待て、《剣聖》は一人だろう? サイフォス家の血に連なる人間が、戦い合うことで称号を受け継いでいくと聞いたことがあるが」
《剣聖》が受け継がれる方法は、至極簡単だ。その時点で《剣聖》の称号を持つ者を剣で倒す、ただそれだけ。ついでに先代《剣聖》の生死は特に問わないという、恐ろしい話もセットである。
「別に、ウチの一族限定ってわけじゃないけどね」
フィランは肩を竦めた。《剣聖》継承については、本来はサイフォス家に限られた話ですらないのだが、何しろサイフォスの一族が剣に入れ込んできた時間は桁が違うので、一族の者ではない人間がそこに割り込もうとしても、なかなか容易ではない。結果、同じ血を継ぐ血族内での継承が定着している。
さらに言えば、これは別に一族の秘伝でも何でもなく、剣で身を立てようという人種の間では割と知られている話でもあった。
「ぶっちゃけて言っちゃえば、そもそも《剣聖》って称号自体、サイフォス家が最初じゃなくて、その前にそう呼ばれてた相手がいたんだよ。ウチはその相手と関わりがあったから、いつの間にか周りからそう呼ばれるようになっただけ。――だよね?」
フィランはその茶色の瞳を猫のように細め、言葉を継ぐ。
「帝国の《剣聖》――ダンテ・ケイヒル」
そう名指しされて、息を呑んだのはむしろジェラルドの方だった。当の本人は、ちょっとしたいたずらを指摘された少年のように、悪びれない笑みを浮かべる。
「参ったなあ。まさかそこまで詳しく、子孫に話が伝わってたなんて。従騎士として忠実なのも考え物だね」
「主の教育の賜物なんじゃない?」
「はは、違いない」
ダンテは軽く笑い飛ばしたが、ジェラルドにしてみれば笑うどころではなかった。
「おい、待て。まさかこいつが、クレメンタイン帝国時代の人間だっていうのか」
「そりゃまあ、百年前の人間が目の前でへらへらしてるなんて、にわかには信じらんないだろうけどさ。でも、少なくとも名前と剣の銘は同じなんだよ。それに――強い」
確かに、ダンテは強かった。しかしだからといって、百年前の人間が――。
そこまで考え、ジェラルドは気付いた。
「……ああ、そうか。あの《擬竜兵》の小娘と似たようなもんか」
「さすが、魔法騎士団の大隊長。良い線行ってますよ」
笑みのまま、ダンテは《シルフォニア》を大きく引く。はっとして、ジェラルドは《オプシディア》を地に刺した。
「――食い破れ、《大地餓牙》!!」
「《シルフォニア》!」
地面を奔るように生まれ出た大地の牙は、ダンテを食い千切らんと迫る。それを吹き飛ばす、見えざる刃。
互いを喰い合うようにぶつかり合い、そして牙は砕かれて弾け飛ぶ。それを《ディルヴァレア》で斬り払いながら、フィランは見た。
夜空の彼方から滑り降りてくる、細長く巨大な影。それは見る間に地上に迫り、そして地面を削り取る勢いで地上すれすれを滑空し始める。
「――《トニトゥルス》!」
それが自身の使い魔だと気付き、ダンテはその名を呼んだ。
速度を重視してか、翼を半ば畳んで突き進んできた大蛇は、三人の間にためらうことなく突っ込んで来る。それにジェラルドとフィランが気を取られた一瞬、ダンテの姿が掻き消えた。巨躯が二人の間を翔け抜け、再び空に舞い上がったその背には、あの一瞬に跳んで使い魔に飛び乗ったダンテの姿がある。
「ちっ――!」
ジェラルドが魔法で追撃するが、それは空中で何かにぶつかったように弾けて霧散した。ダンテが《シルフォニア》の能力で迎撃したのだろう。
そのまま飛び去って行く影を、二人はもはや為す術なく見送るしかなかった。
「……やれやれ。してやられたな。あの使い魔、存外頭が良いらしい。大分長生きしてやがるな」
《オプシディア》を鞘に納めながら、ジェラルドが嘆息した。フィランもそれに倣う。
「まあ、あの手の生き物って結構長生きだしなー。生きてる間中でかくなり続けるって話も聞くけど」
「じゃああれ以上でかくなるってか。想像したくねえな」
かぶりを振り、ジェラルドは王城の方を振り仰ぐ。
「……ひとまず、王城に行ってみるか。部下とも合流しなきゃならんし……それはそうと、このデカブツはどうする?」
「さあ、その辺のレクレウス軍捕まえて、見張り頼めばいいんじゃね?」
フィランとしては、魔動巨人よりも先行させたユフレイアの方が気になるところだった。どの道、彼女によって半分地面に埋められている魔動巨人は、おいそれと掘り出せるものでもない。
「じゃあ俺、姫様心配だし先に王城行ってるわ。後よろしく!」
「ちっ、仕方ないか……」
さっさと王城に向かってしまったフィランを少々恨みがましく見やるが、そもそも彼は《剣聖》と呼ばれてはいても、立場的には民間人なのである(その辺の騎士や軍属など束になっても敵わない民間人だが)。つまり、こういった事後処理についてはあまり役に立たない。
結局自分が引き受けるしかないと観念し、ジェラルドはレクレウス兵の姿を探し始めた。
◇◇◇◇◇
びりびりと空気が震えるような威圧感。その中心には、焦がれてやまないアルヴィーの姿がある。
そのことに、メリエは眉をひそめた。
(……あれが、火竜)
彼女が持つ火竜の記憶は曖昧だ。メリエにとっては、火竜の魂の欠片は自分を狂わせた挙句に魂ごと喰らった、お世辞にも良いとは言えない因縁の相手だが、そもそもそれを認識する以前の問題だった――何しろほぼ正気を失っていたので。
つまり、メリエはほぼ初めて、火竜そのものと対峙しているのだ。
彼女の中に、火竜の魂の欠片はほとんどない。“最初”の時にいくらかは“混ざった”のかもしれないが、ほとんど誤差のようなものだろう。肉体の方は何とか《上位竜》の血肉に適合したが、魂の方が追い付かなかった。
だから、分かる。
二度も竜の魂の欠片を受け入れ得た、アルヴィーという存在の特異さが。
――異なる種が一個体として共存し、新たな能力を獲得する……これも、一種の進化といえるのかもしれませんわね――。
いつかのレティーシャの言葉を、ふと思い出した。
『ふむ……あの小娘が相手となると、どうしても派手な戦いになるな。ここでは少々手狭か』
アルヴィーの姿をした火竜はそう呟き、やおら両足を軽くたわめる。
『そこのパズズは“相応しき者”に任せるとしよう』
そう言い置き、次の瞬間、その姿は遥か上空を舞っていた。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
メリエも慌てて地を蹴る。マジックアイテムの拍車の力を借りて上空へと駆け上がり、アルマヴルカンを正面から見据えるのも一瞬、左腕を振り抜いた。
「《竜の咆哮》!!」
撃ち放たれた一撃は、しかしアルマヴルカンの張った魔法障壁で弾き散らされる。さすがに竜というところか。
「――んもう、シアからの連絡まだなの!?」
思わずそうぼやく。一度“途中退場”した彼女がこうして再び舞い戻ってきたのも、連絡があるまで王都レクレガンを引っ掻き回すようにという、レティーシャの指示のためだ。
と――アルマヴルカンが金の双眸をメリエに向けた。
『……おまえたちは何が目的だ? あのような旧き術式まで引っ張り出して、何を企んでいる』
「そんなの、あたしの知ったことじゃないわよ!」
再び《竜の咆哮》。軽く躱される。苛ついて、思わず尖った声が漏れた。
「大体、あたしが相手したいのはアルヴィーで、火竜じゃないんだけど!」
すると。
『だそうだぞ、主殿』
面白がるような声音でそう言い、アルマヴルカンはその目を閉じた。
「――だあっ、ここで代わんのかよ!」
次の瞬間開かれた目は、彼本来のものである朱金。それを見た途端、メリエの背にぞくりと甘い戦慄が走る。
昂る気持ちのまま、左腕の《竜爪》を振りかぶった。
「やった! ねえ、さっきの続きしようよ!」
「ちっ――!」
メリエの《竜の咆哮》が夜の虚空を貫く。アルヴィーは空を駆けてそれを躱すと、右腕の《竜爪》でメリエに斬り掛かった。打ち合わされた二振りの《竜爪》がりん、と哭く。
「わっ……!」
以前よりも重くなったような一撃。押し負けた勢いも利用し、メリエは後方に飛び退った。
「……なあ、メリエ」
ふと、アルヴィーが呼び掛けてきた。
「おまえ、ほんとに何も知らないのか。シアが何しようとしてるか」
「だってあたし、そんなの興味ないもん。――だから、言ってるでしょ。こっちに来れば、シアも色々教えてくれるって」
「それはダメだ」
一考の余地すらない即答に、メリエはため息をついた。やはり彼は、そう簡単にはなびいてくれない。
(……やっぱ、強引にでも連れてかなきゃダメだよね。でも、あたしじゃアルヴィーには勝てないしなあ……)
そう考えた時、彼女の耳元で囀るような声が聞こえた。
『――メリエ』
「シア!? おっそーい!」
やっと来た連絡に、メリエは思わず不満を漏らす。
『“実験”は成功しましたわ。もうそこに用はありません。戻っていらっしゃい』
「それはいいけどさ、魔動巨人とかどうすんの?」
『魔動巨人と人造人間部隊はこちらで回収します。心配はありませんわ』
「そ。分かった」
レティーシャとの通信を終え、メリエはアルヴィーに向けて手を振った。
「やっとシアから連絡来たから、あたし帰るね。――次はアルヴィーも一緒だといいんだけど」
「おい、待て――!」
アルヴィーがはっとして駆け寄るより早く、メリエの姿は光に呑まれて消えていた。転移用のアイテムを使ったのだろう。
一つ息をついて、彼は《竜爪》を仕舞った。
「……結局、何しに来たんだ、あいつら」
『さて。あの陣で“何か”をしようとしていたのは確かであろうがな。この街を襲ったのは、おそらくこちらに衆目を引き付け、陣を発見されるのを防ぐためだろう。人の多い場所の近くであれだけの規模の陣を敷けば、どうしても人目に付きやすくなるからな』
「……そんなことで、こんな……」
眼下の光景を見下ろし、アルヴィーは怒りを抑えるように拳を握り締めた。
満月の光の下、彼の視力はよりはっきりと、王都レクレガンの惨状を映し出す。全半壊した家屋や屋敷、時折上がる火の手。舗装されていたのであろう道は大きく波打ちひび割れ、場所によっては無残に破壊された馬車が置き去りにされていた。そして、未だに何体か闊歩する魔動巨人。どうやら、レティーシャは今回の件に、相当数の魔動巨人を投入したらしい。その辺りで強い光が瞬くのは、レクレウス軍が魔動巨人と交戦しているのだろう。
それに、王城に残して来たあのパズズとかいう魔物も気になる。アルマヴルカンは“相応しい人間に任せる”と言い置いていたが、誰のことなのだろうか。
「うー……どこに行きゃいいんだ」
助力に行きたいのはやまやまだが、いかんせん範囲が広過ぎた。それに――。
(……やっぱ、この国にとっちゃ“裏切り者”なんだろうなあ、俺って)
この手で確かに僚友を、レクレウス軍の人間を殺めた。ファルレアンとの紛争では、アルヴィーの離反がレクレウス敗戦の要因の一つといっても、過言ではないだろう。
自分の選択の、その結果。それを逃げることなく見つめなければならない。
すべてを呑み込み、それでも自身の足で立つために。
心を決めたアルヴィーの目に、王城に向かって駆ける一団が飛び込んでくる。月明かりにもはっきりと分かる、ダークグレイの制服姿の一団。
(ルシィたちか)
彼らもまた、問題なく王城に向かっているようだ。ならば王城の方の心配はないか――そう思ったところで、その周囲の光景が目に入った。
ルシエルたちに並走するように、建物の陰を縫って移動する一団。時折月明かりを弾くのは、彼らが揃って銀の髪をしているからだろう。
(レクレウス軍か……? 俺がいた頃には、あんな奴ら見たことなかったけど)
ともあれ、注意を促すに越したことはないだろう。アルヴィーは念のために《伝令》をルシエルに向けて飛ばすと、地上に下りるべく宙を蹴った。
◇◇◇◇◇
王城に向かって急ぐルシエル目掛けて飛んで来る白い鳥に、最初に気付いたのは後方を固めつつ走るディラークだった。
「隊長、《伝令》です」
「ああ」
鳥はつい、と飛んでルシエルの肩に止まると、アルヴィーの声を吐き出す。
『周りに妙な連中がいる。気を付けろ』
「――全員、止まれ!」
ルシエルは隊を止めると、《イグネイア》を抜く。隊員たちもそれに倣った。
「……確かに、あそこの建物の陰、いますね」
身体強化魔法で視覚を強化したシャーロットが、アルヴィーの警告を肯定する。
「……仕掛けてこねえな。バレたことくらい分かるだろうに」
「気が緩んだところを狙ってるのかもしれないわよ」
死角がなくなるよう全員が互いに背を預け合い、全方位を警戒する。だが仕掛けてくる様子はない。
と、
「――戒めろ、《雷痺縛鎖》!」
聞こえた声と共に、すぐ傍の建物の陰から、人影が転がり出て来た。
「あっ……!」
ニーナが思わず声をあげる。その人影は武装し、ハーフパイクを手にしていた。
「――あなたたちも無事だったみたいね、良かったわ」
その後ろから姿を現したのは、パトリシアとセリオだ。不審人物を仕留めた(殺してはいないが)のはセリオだろう。彼は、自分と良く似た色の髪と瞳を持つ不審人物を、どことなく嫌そうな顔で見やった。
「……周りで様子を窺ってはいたけど、多分戦い慣れてないな、この連中。仕掛け時が分からないみたいだ。それに、周りへの注意も甘い」
おそらくパトリシアとセリオは、別ルートから大通りへ出ようとしていたのだろう。そこでこの銀髪金目の連中に出くわしたというところか。
さすがに一人倒されては隠れてもいられなくなったのか、同じように武装した人影が次々と姿を現す。奇妙なことに、彼らはすべて銀髪金目で、男女の別こそあれど、顔立ちもひどく似通っていた。
「何だ、こいつらは……」
それを認めたウィリアムが、薄気味悪そうに呟く。すると、それを聞き咎めたわけでもなかろうが、彼らはハーフパイクを握り締め、示し合わせたかのように一斉に襲い掛かって来た。
「――はぁぁっ!」
最初に迎え撃ったのはニーナだ。彼女は愛剣たるレイピアで、突き込まれたハーフパイクを受け流し、弾き飛ばすことに成功した。相手は武器を失ったが、まだ隠した武器がないとも限らない。念のため、右手に斬り付けておいた。
(……なに、こいつ。一言も喋らないなんて、気味が悪い……)
斬り付けられても苦悶の声一つ漏らさない相手に、ニーナはぞくりとする。よほど訓練された人間ならともかく、こんな稚拙な戦術を見せる相手が完全に声を殺すことができるとは、彼女には思えなかった。
同じ疑問は、全員が共有するところだった。
「斬り裂け、《風刃》!」
ウィリアムが放った攻撃魔法が、別の襲撃者の足を掠める。襲撃者はバランスを崩して転倒したが、やはり呻き声一つあげなかった。
「……何だ、この連中……」
その形容しようもない不気味さに、ルシエルは思わず呟く。と、
「――うわあっ!?」
襲撃者たちを牽制していたウィリアムが短い悲鳴をあげる。
「どうした!?」
「そ、それが――!」
ウィリアムが指し示した先、今しがたウィリアムが倒した襲撃者が再び立ち上がっていた。先ほど攻撃魔法で斬り裂かれた足を、しっかりと踏み締めて。
「どういうことだ……!?」
「こっちもです!」
ニーナが斬り結びながら声をあげる。彼女が相対しているのは、ハーフパイクを失って予備武装であろう短剣を振るう襲撃者だった。ニーナが最初に迎え撃った相手だろう。斬り付けられて血に染まった右手を、問題なく動かしている。
「どういうこと、傷が消えてる……!」
彼女の鋭い声に、ルシエルは眉をひそめた。
「回復が異常に早い、ということか……?」
「ポーションなんかを飲んだ様子はありませんし、やはり体質――というか、能力でしょうか。アルヴィーさんのような」
バルディッシュで敵を牽制しながら、シャーロット。その指摘は、確かに的を射ているように思えた。
「撃ち果たせ、《雷撃瞬波》!!」
そこでクロリッドの魔法が、襲撃者たちを纏めて打ち据える。対レクレウス軍の時にも散々使った広範囲攻撃魔法だが、クロリッド一人の詠唱なのでしばらく動きを封じる程度だろう。だが、ルシエルたちが相手を取り押さえるには充分過ぎる隙を作り出した。
「とりあえず、身柄を確保しよう。――といってもあの様子じゃ、情報を得られるかどうかも分からないが……」
何しろここに至るまで、一言も口を利いていない襲撃者たちである。だが試してみる価値はあるだろう。
しかし――彼らが近付いたその時、倒れていた襲撃者たちががばりと起き上がった。
「うわあああ!?」
しばらくは動けないはずの襲撃者たちが無表情で一斉に起き上がった様子に、ユフィオが悲鳴をあげる。何と言うか、アンデッドじみた不気味さを感じたのだ。しかも舞台は満月とはいえ夜の街。誰もがその気持ちは理解できた。
そして騎士たちが警戒――というか正直ドン引き――している間に、襲撃者たちはとてもダメージを受けたとは思えない身のこなしで、全員が街の外に向かって脱出を始めたのだ。
「っ、待て!」
ウィリアムがそれを追おうとした瞬間――その頭上に影が差した。
小さな破砕音がして、彼の眼前の石畳が突如砕ける。まるで、見えない“何か”に打ち据えられたように。
「ランドグレン、下がれ!――薙ぎ払え、《炎風鎌刃》!」
ルシエルが頭上の巨大な影に向けて放った魔法は、しかし影に届く前に空中で弾けて消えた。おそらくは魔法か何かで相殺されたのだろう。
頭上からの攻撃を警戒したが、影はそれ以上何をするでもなく、大きく身をくねらせて夜空の果てへと消えていった。
「……逃がした」
ユナがぽつりと呟く。その言葉の通り、逃走した襲撃者たちはまんまと逃げおおせたようだった。
「失敗したわね。足を氷漬けにでもしておくべきだったわ」
「パトリシアさん、それは冗談でも怖いですよ。まああの連中、その時は足を切り落としてでも逃げそうですけど」
恐ろしいことを呟くパトリシアに、セリオがやはり恐ろしい台詞のおまけつきで突っ込む。第一二一魔法騎士小隊その他の面々は何も言わなかった。お世辞にも冗談には聞こえなかったからだ。
ため息をつき、それでも剣は納めないまま、ルシエルは一同に指示を出す。
「おそらく逃げたとは思うが、各自警戒は怠るな。このまま王城に向かう」
「はい」
「了解しました!」
「わたしたちもこのまま同行するわ。急ぎましょう」
パトリシアとセリオを加えた一行は、警戒態勢は崩さないままに王城に向かって急ぐ。だがその場を後にする際、セリオが背後を鋭い視線で一瞥したことに、誰も気付かなかった。
「――やれやれ。何とか離脱はできそうかな」
騎士たちを妨害し、人造人間たちの離脱支援を完了させると、ダンテは使い魔の背で小さく息をつく。《トニトゥルス》は優雅に空を泳ぎ、王都レクレガン上空を周遊していた。もうしばらくすれば、レティーシャに指定された待機地点に向かうつもりだ。
だが、彼には最後に一つ、務めなければならない役目があった。
《トニトゥルス》に指示を出し、到着したのは先ほど彼自身が戦っていた場所の上空だ。魔動巨人が地面に半ば埋められた状態で横たわり、周囲はレクレウス軍と思しき兵士たちに警備されていた。ファルレアンの騎士の方は、その場をレクレウス軍に引き継いだのか、もう姿は見えない。
魔動巨人は頭部を完膚なきまでに破壊され、完全に機能を停止しているように見えた。そのせいか、レクレウス兵たちもさほど魔動巨人を警戒してはいないようだ。彼らの常識では、魔動巨人は頭部に搭載された動作補助の術式を破壊されれば、指一本動かすことはできないはずなのだから。
だが――。
「我が君のお造りになった最新の魔動巨人を、その辺の旧式と一緒にされちゃ困るなあ」
ダンテは柔らかく嘲笑し、懐から時計を取り出す。
「……機能停止から約三十分か。もうそろそろ、非常用動作術式が稼働しても良い頃だけど……」
彼がそう呟いた、まさにその時。魔動巨人が身じろぎし、その巨体が震えた。
「――魔動巨人が!?」
「馬鹿な、頭部を壊したのに何で動ける……!?」
レクレウス兵の悲鳴のような驚愕の声を心地良く聞きながら、ダンテは愛剣を抜き、振った。
「――《シルフォニア》」
一瞬の後。
魔動巨人をもろともに巻き込み、見えざる刃が降り注いだ。
「……さすがに、魔動巨人は無傷か。駆動系にも異常はなさそうだな」
兵士たちが吹き飛ばされ、魔動巨人を埋めた地面も、爆弾でも炸裂したような有様で消し飛んだ中、魔動巨人はほぼ無傷で立ち上がる。ダンテが上空から見守る中、魔動巨人は片方の足先を失ったせいかやや覚束ない足どりで、それでも何とか王都郊外へと向かい始めた。
それはこの一体だけではない。他の場所で擱座していた魔動巨人たちも、それに前後して再起動し、撤退を始める。
――レティーシャが設計・建造したこの新型魔動巨人には、従来のものにはない機能が搭載されていた。経験を学習・蓄積するための中枢結晶などその最たるものだが、他にも追加機能はいくつかある。その中の一つが、非常用動作術式だ。
魔動巨人を動かすための動作補助術式は従来通り頭部にあるが、この新型魔動巨人にはもう一つ、中枢結晶近くに非常時のため、もう一つ動作補助術式が組み込まれていた。頭部のメイン術式が破壊された時のための補助機能で、本来の動作補助術式の破壊から三十分ほどで稼働が始まる。奇しくもそれは、ファルレアン対レクレウスの国境紛争時において勃発した、旧ギズレ領での防衛戦の情報を基に、レティーシャが考案した機能だった。
魔動巨人の離脱を確かめ、ダンテも《トニトゥルス》を促してそこを離れる。先ほどの戦闘で転移のためのアイテムを失った彼は、魔動巨人や人造人間の回収に便乗する必要があるのだ。
翼ある大蛇は緩やかに身をくねらせつつ、月明かりの先の闇へと消えていった。
◇◇◇◇◇
光がおさまり、目を開いた時にはもう、見慣れた《薔薇宮》の一角だった。そのことに小さく安堵の息をつき、ゼーヴハヤルは手にした大剣を魔法式収納庫に仕舞う。
「……あれが竜か。初めて見た」
そう独りごちると、傍らに立つレティーシャが小さく笑った。
「彼らはあまり人間の世界には干渉しませんものね。手出しをするのは大抵、人間ですわ。――それにしても、珍しいこと。子連れの《上位竜》なんて」
「そうなのか?」
「彼らは子供をとても大事にしますの。普通は連れ歩かず、その竜に相応しい力に満ちた場所で、子供がある程度大きくなるまで暮らします。あの竜も、おそらくそうしていたはずですけれど……今回のことが、よほど気になったのかしら」
後半はほぼ独り言のようで、ゼーヴハヤルもさほど気に留めず聞き流した。代わりに、疑問に思っていたことを尋ねる。
「……結局、あの魔法は何だったんだ? 満月の日にやったのも関係あるのか?」
「ええ、その通りですわ」
レティーシャはにこりと、満足げな微笑を浮かべた。
「“この世界”において満月の夜というのは、特別な時間ですのよ。その間は、自然界の力が最も活性化するのです。地脈の力を流用するのには、満月の今夜が最も適していた――“実験”を今日行ったのは、そういう理由ですわ」
「ふーん」
ゼーヴハヤルはことんと首を傾げたが、いまいち良く分からなかったので深く考えるのは止めにした。どうせ自分にはさほど関わりもないことだ。
「ま、いいか。――んで、あの魔法で何するつもりだったんだ?」
その問いに、レティーシャの笑みが深まった。
「ごく単純なことですわ。――“神”の存在確認です」
ゼーヴハヤルの首が、ますます角度を深めて傾げられた。
「……何だ、それ?」
「かつてこの世界に存在していた、力あるものたちの総称ですわ。彼らがこの世界を創ったのか、それとも世界が彼らを創ったのか、それはわたくしも存じませんけれど……彼らがある時期にこの世界を捨て去ったのは、紛れもない事実です。ただ、彼らが今も存在しているのか否か、わたくしはそれを確かめたかったものですから」
「ふーん……?」
よく分からないまま、ゼーヴハヤルは唸った。元来、彼はこういう小難しそうな話は苦手な部類に入る。なので、感じた疑問点をするりと口に出すのに何のためらいもなかった。
「けど、そんなの確かめて、どうするんだ?」
すると。
「――だって、存在が確認できない相手を、殺すも殺さないもないでしょう?」
微笑みながら、双眸を柔らかく細めながら。
だがその瞳の群青は、どこまでも冷徹に澄んでいた。
「……え」
ゼーヴハヤルの困惑にも構わず、レティーシャは夢見るような表情で続ける。
「あの“実験”で、世界結界が未だに稼働中であることも、一定以上の力があればそれを破れることも確認できました。結界が稼働中ということは、それを構築した神々はまだ存在している可能性が高いということ。そして、その結界に地脈の力で干渉できたということは、この世界において存在する力でも、神々に通用する可能性があるということですわ」
まるで歌い出しそうな声音で、レティーシャはゼーヴハヤルには理解できない話を止めない。
「あの程度の力では、結界に微々たる穴を開けたに過ぎないでしょうけれど……“蟻の一穴”とも申しますものね。成果としては充分過ぎるほどです」
彼女はそこまで話すと、何かを思い出したようにああ、と小さな声を漏らした。
「そういえば、ダンテたちに連絡を入れなければいけませんわね。良く働いてくれましたわ」
レティーシャは耳に着けたピアスを弾き、レクレガンで暴れているであろう面々に帰還するよう連絡を入れる。程なく、その場に光が生まれてその中からメリエが姿を現した。
「お帰りなさい、メリエ」
だがメリエは、労いの言葉も無視してレティーシャを見据える。そして言った。
「シア。――あたし、アルヴィーに勝てるくらい強くなりたい。何か良い方法ない?」
「あら、まあ」
微笑ましげなレティーシャの態度が癇に障ったのか、メリエは苛立たしげに床をブーツの踵で蹴り付ける。
「だから! 今のあたしはアルヴィーより弱いじゃない。これじゃいつまで経っても、アルヴィーをあの国から引き離せない」
「そうですわね。彼をこちらへ引き込むには、力尽くでもないと無理ですわね」
「じゃあ――」
「ですが、メリエ。あなたでは、火竜の魂を受け入れられないでしょう。竜の血肉をさらに植え込んだところで、アルヴィーほどの力は得られませんわ」
顔を輝かせたところを制され、メリエの表情があっという間に不機嫌に染まった。
「……何よそれ! 大体、アルヴィーが強くなったのって、シアが施術したからでしょ!? あれがなかったら、あたしの方が――」
「メリエ」
激昂しかけたメリエを、レティーシャは一言で止めた。
「あの施術は、わたくしの“目的”のためのものです。必要だったから施したまでのこと。それについての意見は聞きません」
「でも!」
「ですが。――追加の施術をしたいというのであれば、反対は致しませんわ。準備がありますから、今すぐにとは参りませんけれど。あなたの身体とのバランスもあります。適切な移植量を割り出すまで、少しお待ちくださいな」
「……分かったわよ」
まだ不満は残るようだが、少なくとも今以上の力は約束されたと踏んで、メリエの不機嫌はやや和らぐ。それににこりと微笑み、レティーシャはゼーヴハヤルに向き直った。
「申し訳ありませんけれど、ゼーヴハヤル。もう一度レクレガンの方に向かっていただけますかしら。ダンテを迎えに行っていただきたいのですけれど」
「何で? あのヒトも転移アイテム持ってるよな」
「それが、ファルレアンの騎士団と戦闘になった際に、壊されてしまったようですの」
「ふーん……まあいいや。どーせ暇だしな。他になんかやることある?」
「では、魔動巨人と人造人間の回収もお願いしてよろしいかしら? そちらには予め、こちらから撤退の指示を出せば指定の場所に戻るよう、命令を組み込んであります。あなたはダンテと合流後、そこで転移陣を敷いてくだされば結構ですわ。アイテムはお渡しします」
「分かった」
そんな会話を聞き流しつつ、メリエはその場を後にした。そして気付く。
(……そういえば、“アレ”は回収しないんだ)
密かに魔物を体内に仕込まれたという、運のない男。レティーシャが回収すると言った中に、彼の名は含まれていなかった。
だが、メリエにとっては関係のない話だ。彼女はためらうことなく、その存在を忘却の彼方に押しやることにした。
「ま、いっか」
◇◇◇◇◇
ライネリオ――否、もはや魔物パズズとなった男は、突然眼前に舞い下り突然空に舞い戻った火竜に唖然としていたが、はっと我に返った。
「ふはっ、はははは! 邪魔な火竜がいなくなればこちらのものだ! 死ね――!」
愉悦に顔を歪ませながら、その背の翼を羽ばたかせる。飛び散った羽が再び虫に変わり、周囲の人々を襲う――。
その時。
笛の音が、聞こえた。
「何っ……!?」
パズズの顔が、今度は驚愕に歪む。
雲霞のように湧いた虫たちは、笛の音に導かれるように空へと舞い上がっていった。それがパズズの本意でないことは、その驚愕の表情で分かる。
「どういうことだ……このっ」
パズズは焦って四枚の翼をばたつかせるが、生まれる虫は人々を襲う前に、ことごとく空へと昇って行った。
「――よし、上手いこと空に誘導できてるな。魔物が生み出した虫はやっぱり魔物扱いってことか」
物陰からその様子を確かめ、イグナシオは頷く。その傍らでは、クリフがどこか恨みがましげな目で彼を小さく睨んだ。睨むだけなのは、彼が現在笛を吹いていて喋れないからだ。
クリフは《魔獣操士》。その笛の音を使い、獣や魔物を操る能力を持つ。かつては裏の世界で《魔物使い》とも呼ばれたその能力を存分に発揮し、彼はパズズの生み出した虫を誘導して避難民たちを守っていた。先ほどはファルレアン女王アレクサンドラの操る風が凄まじ過ぎて手が出せなかったが、彼女がいなくなった今、彼の能力は非常に有用だ。
クリフが虫たちを避難民たちから引き離し、イグナシオはその護衛である。万が一パズズがクリフの存在に気付けば、邪魔者である彼を放ってはおかないだろう。
「しかし、一旦湧いた虫をどうにかせんことには、その内誘導しきれなくなるな」
イグナシオがそう呟いた時。
上空に蟠っていた虫たちが、突如爆発するかのような勢いで燃えた。
「……おい、ありゃあ」
呆然と呟いたイグナシオの背後、とん、と音がする。慌てて振り返り、そして目を見張った。
「――おまえは!」
「げっ、あんた確か!」
双方、相手を指差さんばかりに驚愕の声をあげる。
「《擬竜兵》か……まずい相手に見つかっちまったなあ」
「レクレウスの暗殺者だったよな……何でこんなとこにいやがる!」
かつて命を狙い狙われた者同士の、予期せぬ邂逅であった。
イグナシオは構えていたククリナイフを納め、両手を上げる。今はもう、暗殺者ではないのだ。
「あー、気持ちは分かるが、今は取り込み中でな。――こう見えても、暗殺者はとっくに廃業済みだ。だからまあ前のことはこう、一旦余所に置いておいてだな」
「廃業だあ……?」
眉をひそめつつも、相手――アルヴィーはひとまず話を聞くことにした。胡散臭げな顔は変わらないが。
――アルヴィーがこの場に現れたのは、アルマヴルカンがクリフの笛の音に気付いたからだった。音の源を辿り下り立ったら、何とかつて自分を襲撃した暗殺者がいたというわけである。といっても、相手は顔の特徴が非常に乏しく、正直顔は良く覚えていなかったのだが、その武器であるククリナイフは特徴があり過ぎたので覚えていた。何しろ竜素材のナイフだ。
「……んで? 元暗殺者が何やってんだよ」
「主の命令でな。あの虫どもが貴族の方々を襲わんように、上空へ誘導してるんだ。――で、ものは相談なんだが」
にやりと笑い、イグナシオはアルヴィーに持ち掛けた。
「ここは一つ、共同戦線を張らないか」
アルヴィーはじろりと、イグナシオを睨む。
「……共同戦線?」
「こいつが誘導した虫どもを、焼き払ってくれりゃいいんだ。火竜の力を持ってるんなら、それくらいは朝飯前だろう」
クリフを親指で指し示し、そしてイグナシオは表情を改めた。
「おまえさんが俺たちやこの国に、色々思うところがあるのは分かってるがな。――俺たちとしてもあそこには、死なせるわけにはいかん方がいるんだよ」
「…………」
しばしそれを探るように見据え、そしてアルヴィーは膝をたわめて地を蹴った。
「――燃やせばいいんだな?」
「ああ、恩に着るぜ」
「別にいらねーよ」
あっという間に上空まで駆け上がったアルヴィーは、再び空に集まりつつある虫の群れを見据えた。
『あの言葉を信じるか、主殿』
「ああ言ってた時は真面目な顔してたしな。嘘じゃないだろ」
それに――と、アルヴィーは月光の底に沈む王都を見渡す。ほとんど見たことはなかったが、かつて過ごした街。
――思えば、アルマヴルカンの欠片を植え付けられたのも、ここだった。
いわばここは、アルヴィーたちにとっての始まりの地だ。
「……そもそも、ここには俺らの護衛対象もいんだよ。あんなわけの分からんの、放っとけるか」
アルヴィーは右肩の翼に魔力を集める。翼に宿った朱金の光はさらに輝きを増し、やがて溢れたのは炎。それは同じく朱金の輝きを放ちながら、アルヴィーを守るようにその周囲を巡る。
「てなわけで――とりあえず燃やすっ!」
解き放たれた炎は黒い雲のような虫の群れに襲い掛かり、瞬く間にすべてを焼き尽くした。
◇◇◇◇◇
「――なぜだ! なぜ虫どもが従わん!」
自らの意に反し、生まれた傍から空に昇ってしまう虫たちに、パズズは金の髪を振り乱して喚いた。かつての王の変わり果てた姿に、周囲の貴族たちから悲鳴があがる。
「おのれ――!」
歯ぎしりしたパズズは、さっきから邪魔をする笛の音の源を探して首を巡らせる。その顔が、にやりと歪められた。
「……見つけたぞ」
そちらへ向かって、パズズは相手を直接仕留めるべく翼を翻す。
「――行くよっ、ブラン!」
「せーのっ!」
だが、少女たちの掛け声と共に、その身体は引っ張られた。下へ。
「何っ――!」
思いがけない事態に、驚愕は一瞬。次の瞬間、パズズの身体は地面に叩き付けられる。
「ぐはっ」
思わず呻いた彼は、自身の足に絡まるものを見た。それは細い細い、魔力の糸。幾重にも重なり合ったそれは、地表を経由し、銀髪の少女たちの手元まで伸びていた。
彼が狂乱している間に、魔力の糸を操る少女たちは、こっそりその糸をパズズの足に巻き付けていたのだ。そしてその一部を地面に引っ掛け、糸を“巻き戻した”。結果、パズズは地上まで引き摺り下ろされたのである。
「おのれ……人間風情がァ!!」
怒り狂ったパズズが身を起こし、少女たちに右手を向ける。その指先に稲妻が生まれ、彼女たちを貫こうと――。
「――させるか!」
しかしその寸前、少女たちの眼前に土の壁がそそり立ち、稲妻を遮った。
『……ユフィ、まにあったよ!』
『地脈が元に戻り始めておる。これで少しは、我らも力を揮えようぞ』
「《擬竜騎士》が陣とやらを壊したからか……? 何はともあれ、有難い」
杖を地面に突き立て、ユフレイアは異母兄の姿をした魔物を、鋭い瞳で見据える。
「……ひとまず取り押さえる。力を貸してくれるか」
『言われるまでもない、我が友よ』
ユフレイアの頼みに応え、地の妖精族たちが大地を操る。石畳を突き破って溢れた土が、パズズの両手足を捉えた。
「くそっ、妖精どもめ――!」
パズズが吼えて翼を滅茶苦茶に振り回したが、生まれる虫は片っ端から笛の音に乗って上空へと流れていく。時折弾ける朱金の炎が、地上を月明かりより明るく照らし出した。
「衛兵!――あの“魔物”を捕らえよ!」
ユフレイアの命令に、兵士たちは一瞬息を呑み、そして意を決したように槍を構えてパズズに突き付ける。パズズの顔が醜く歪んだ。
「馬鹿な……人間どもなどに、このわたしが!」
その時。
ズン、と音がした。
「何だ?」
「あ、あれを……魔動巨人がっ」
「壊したんじゃないのか!?」
人々が逃げ惑う中、頭部に矢を突き刺したままの魔動巨人が起き上がる。
「おお、魔動巨人――!」
パズズが顔を輝かせるが、魔動巨人は彼に見向きもしないどころか、王城や避難した人々にも攻撃を加えることはなく、自分が壊した城壁から外に出て行く。
「術式は頭にあるんじゃないのか!?」
シルヴィオが毒づきながら矢を射ち放ち、狙い違わず魔動巨人の後頭部を貫いたが、魔動巨人の動きはいささかも鈍ることなく、街へと消えていった。
「――馬鹿な……」
パズズはいよいよ孤立無援になったことを理解し、呻く。
「……どうやら、魔動巨人にも見限られたようだな?」
散々暴れてくれた魔物に、ユフレイアはそう吐き捨てた。せめて、そう言わずにはおれなかったのだ。
だがそれは、魔物の神経を盛大に逆撫でした。
「――貴様らぁぁぁっ! 一人残らず殺してくれるわ!!」
咆哮。ビキビキと、全身の筋肉が軋む音がして、パズズの手足がさらに膨れ上がった。もはや腕も人のそれではなく、獣のような逞しく異形のものに変化する。そして手足を戒める妖精族の束縛を引き千切った。
「何っ――!」
「まずは貴様だ、女ァ!」
止めようとする兵士たちを撥ね飛ばし、パズズは一直線にユフレイアに向かって来る。
「……っ!」
妖精たちに頼む間もなく、ユフレイアは杖を地面に突き立てた。しかし蠢く地面がパズズを捕らえようにも、パズズは翼を使って滑空するため捕らえられない。
「――いかんっ、間に合わん――!」
悲壮な兵の声が、響く――。
「……斬れ。《ディルヴァレア》」
悲鳴と喚声の間を縫うように、静かな声が、落ちる。
立ち竦むユフレイアの脇を、誰かが一陣の風のように走り抜け。
次の瞬間、金を帯びた銀の光が奔った。
ぱん、と音でも立ちそうなほどに小気味良く、パズズの四枚の翼が半ばから断ち切られる。
「がっ――!」
翼を失ったパズズは地面に墜落し、地妖精たちの戒めに再び捕らわれた。
呆然とそれを見つめるユフレイアの前で、剣を一振りする背中。
「……フィラン……」
ほとんど吐息のような呼び声に、彼は振り返った。
「悪り、姫様。遅くなった」
「……まったくだ……!」
安堵のあまり、ユフレイアはぎこちなく笑う。見たところ、彼は怪我らしい怪我もしていない。思わず、大きく息をついた。
「――ああ゛ぁぁアアァァァ!!」
強められた戒めから逃れられず、パズズが獣のような咆哮をあげる。もはや人間らしい面影すら残していなかった。
『……友よ。“これ”はもはや人ではない』
『もうだめだよ』
『終わらせてやるのが、せめてもの慈悲だ』
妖精たちの言葉に、ユフレイアは瞑目した。そして、開く。
「……フィラン。その剣を貸してくれ」
乞われて、フィランは首を傾げた。
「……一応訊くけど、何で?」
「妖精たちが言っている。もう“あれ”は人には戻れないと。――終わらせてやることが慈悲だとな」
「あー……もうそういう段階なのね」
周囲が息を呑む中、フィランはさして驚いた様子もなく頷く。
「だが、曲がりなりにもかつては玉座に座り、わたしとも父を同じくする者だ。――せめて、わたしの手で終わらせてやる」
「公、それは――!」
さすがにナイジェルが顔色を変えて諌めた。いくら何でも、かつて王族であり現在は公爵の位を戴くやんごとない身分の貴婦人に、手を汚させるわけにはいかない。他の貴族たちも同意見のようで、縋るような目がフィランに向けられる。
それを理解し、フィランはため息をついた。かぶりを振る。
「悪いけど姫様、それは無理。貸すのはいいけど、多分姫様の力じゃ斬れないよ」
「だが――!」
「それに姫様、一つ忘れてる」
抜身の剣をぶら下げたまま、フィランはユフレイアの前まで歩く。微笑んだ。
「現時点で、姫様の護衛は継続中だからね。今んとこまだ俺は、姫様の剣だよ」
ユフレイアは色違いの瞳を見開いた。
「おまえ……」
「騎士にはならない。この国にも仕えない。――でも今は、剣は姫様の手の中にある。好きに使いなよ」
フィランの言葉に、ユフレイアは唇を引き結ぶ。そして、顔を上げた。
「すべての責は、わたしが負う。――だから、異母兄を……終わらせてくれ。わたしの剣」
「了解、姫様」
フィランは気負いもなくそう頷き、ユフレイアとすれ違う。パズズの前に立ち、剣を振り翳した。
「この場のすべての者に申し渡す! この者を訴追することは許さない。――その剣を振るうのは、わたしだ!」
ユフレイアの宣言が響く、その最中で。
フィランはわずかの無駄もない美しい太刀筋で、剣を振り下ろした。
◇◇◇◇◇
「――終わったな」
眼下の光景に、アルヴィーはぽつりと呟く。その視線の先では、魔物と化した男の骸が運び出されようとしていた。
「……アルマヴルカンが言ってた“相応しき者”って、フィランのことだったのか?」
見覚えのある金茶色の髪の剣士の姿に、アルヴィーは眉を下げた。知った相手が人を――少なくともその形をしたものを斬るのを見るのは、やはり気が滅入る。
『そういうわけではないがな。ただ、主殿やわたしが手を下すべきではなかったというだけのことだ』
確かに、その気になればあの時、アルマヴルカンが炎で焼き尽くしてしまえば済んだことだ。だがアルマヴルカンは、それを選ばなかった。
「……そうだな。決着は多分、この国の人が付けなきゃいけなかったんだ」
直接手を下した者こそフィランではあったが、それをすべて背負うと叫んだ女性がいる。フィランと共に、その手を汚すと決めた彼女――ならば、この国の人間が始末を付けたとして良いのだろう。
アルヴィーは改めて眼下の景色を見渡す。魔動巨人はなぜか撤退し、戦闘もほぼ終了したようだった。王城やその周辺に避難して来た人々のざわめきだけが、ここを満たす音のすべてだ。
「――静かになったな……」
『夜はかくあるべきものだな』
そうだ。夜は静かで、穏やかなものであるべきだった。
空から見下ろすアルヴィーの前で、夜の王都レクレガンは再び、本来の静けさを取り戻そうとしている。もちろん、本当に静かな夜が訪れるまでには、今しばらく時間が掛かるだろうが。
――自分も一時期過ごした、故国の都。
次に訪れる保証もないその地を、月明かりを頼りに、目に焼き付けた。
「……戻るか」
ここではない、ファルレアンからやって来た仲間たちのところへ。
アルヴィーはかつての始まりの地に背を向け、宙に身を躍らせた。




