第87話 任務を終えて
アルヴィーと第一二一魔法騎士小隊が王都ソーマに帰り着いたのは、日が昇り人々がようやく起き出し始める時間帯だった。これはわざと時間調整をして、明るく人通りの多い昼間の到着を避けたためだ。何しろ運んでいるモノがモノなので。
王城に入ると、ひとまず荷を騎士団本部に運び込む。予めミトレア支部の方から報告を入れておいたので、保管のための部屋や警備の人員などがすでに用意されていた。そしてアルヴィーたちはしばしの休憩の後、報告のためジェラルドの執務室に向かう。
自身も出勤したばかりであろう彼は、アルヴィーとルシエルを迎え入れると面白がるように、
「相変わらず任務に出ただけで何かしら騒動を起こして来るな。特にアルヴィー」
「俺もできれば穏便に終わらせたかった……」
がくりと項垂れるアルヴィー。まあ、たまたま見つけて引き揚げた船にあんな財宝が眠っていようとは、普通思わない。
「そもそもの目的の転移陣稼働実験の成功が、あの財宝の一件で大分霞んだぞ。何分昔のことだから俺も詳しくは知らんが、結構な規模の海賊団の船だったらしいな」
「ああ、ミトレア支部で遭難報告を調べたけど、結構あちこち荒らし回ってた船みたいで……けど、あれ結局、どういう扱いになるんだ? 俺としては、できれば元の持ち主に返したいんだけど。海賊に奪られて、困った人も多かっただろうし」
するとジェラルド曰く、
「とは言ってもな。沈んでから時間が経ち過ぎてるし、今はあの一帯はファルレアン(うち)の領海だ。まずは上層部の判断を仰いでからって形になるだろうな。国内の貴族の所有物だった分は、さすがに返還になるだろうが……」
「え、じゃあ国外からの分は?」
「そもそも、沈んでから七十年も経ってりゃ、持ち主も軒並み死んでるだろうし、当時だって相手が海賊じゃ返還要求も実質無駄だから、奪られた方もその時点で諦めてることが多い。こういう場合は、一定年数が経過した時点で、引き揚げた人間に所有権が移る。ただ、稀少価値のあるものなんかが混ざってた場合は、王家の方で買い上げることもあるそうだぞ」
「……それって、また財務とかから呼び出し食らうやつ?」
「来るだろうな」
ジェラルドが重々しく頷き、アルヴィーは遠い目になった。
「……俺、もうちょい平穏に生きたい……」
切実に零された愚痴には同情するが、厄介事に好かれるのは彼の個人特性である(であろう)ため、どうにもなるまい。
「……まあ、何だ。諦めろ」
「諦められるかっ!」
アルヴィーが吠えたが、こればかりはどうしようもないことなので、ジェラルドは早々に匙を放り投げることにした。
「まあそれはともかくだ。――財宝の一件はひとまず置いといて、本題に戻るぞ」
やや強引に話を切り換えると、アルヴィーも居住まいを正す。ルシエルが口を開いた。
「ご報告が遅れまして申し訳ありません。転移陣の稼働実験に際しての護衛任務を完了致しました」
「確認した。――とりあえず、水の方の安定供給に目途が立ったからな。研究所の方でも本格的に、ポーションの試作を始めた。それで効能や問題点を洗い出して完成品ができれば、いよいよ国産ポーションの量産化だ」
「何か、結構手間掛かるんだな」
「そこはしょうがない話だな。検証をおろそかにされて副作用でも出たら堪ったもんじゃないし、相応に手間は掛けて貰いたいもんだ。何しろ、そのポーションが今後の俺たちの命綱だからな」
もっともな言葉に、アルヴィーもそれもそうかと頷いた。
「サングリアム……いえ、クレメンタイン帝国というべきかもしれませんが。あちらはまだ、ポーションの減産体制を続ける気でしょうか」
疑問を呈したのはルシエルだ。元はといえば、今回の転移陣稼働実験はそこに端を発したようなものである。
「ああ、市場でも順調に値上がりしてるな。国としても購入費が嵩んで頭が痛いところだが、より割を食ってるのは民間だ。特に傭兵団なんかはな。何せああいう連中は、命張っての荒事が飯の種だ。そこへポーションの減産・値上げと来れば、商売上がったりだろうぜ」
「それでも命綱として、ある程度のポーションは備蓄しておかざるを得ない……ということですね」
「なまじ、今まで当たり前に流通してたものだからな。良くも悪くも、人間は便利さに慣れ過ぎた。だが今さらそれを捨てられんだろう。命に関わるものなら余計にな」
ジェラルドの言葉がすべてだった。ポーションというものはある意味、自然の摂理を無視した代物だ。本来、傷を癒すのに必要とされる時間を、ほんの一瞬に圧縮してしまうのだから。だが、一度その便利さを知ってしまった以上、人はもう過去には戻れない。ポーションがなかった頃の不便さは、今の人間には耐え難いものだ。
「ま、そうは言ってもファルレアンはまだマシだ。多少効能が落ちるとはいえ、代替品が手に入る。それも今度は、材料や原理がきちんと分かる代物がな。――今までのポーションは、効果は抜群だったが材料からレシピ、製造過程に至るまで不明箇所が多過ぎたからな」
「……それ、改めて聞いたらよく今までそんなの使ってたな、って思うけど」
「何しろ、実績があったからな。昔から今まで、特に副作用もなくきちんと効いてきたって事実の積み重ねだ。一旦それを確立すれば、その効果だけが重要視されて、次第に“それが何でどうやってできてるか”なんてのは二の次になる。よくよく考えりゃ、不気味なことだがな」
ジェラルドの言葉が、アルヴィーたちにはどこか薄ら寒く聞こえた。
「……そうなると、今回の件は必ずしも、悪い面ばかりではないのかもしれませんね。少なくとも、ポーションの不自然さを改めて認識するきっかけにはなった」
「ああ、ついでに、そんな代物を一国が握ってたって事実の異常さにもな。――だが、ファルレアンみたいに楽観してられるのは、むしろ少数だ。というかこっちだって、ポーションの自国生産が可能になったって事実は、まだ公表してないからな。流通に乗せてからも、特に発表はせずに、次第にサングリアム産と入れ替えていく」
「え、何で?」
きょとんとするアルヴィーに、ジェラルドは呆れたと言わんばかりにため息をつく。
「阿呆か。今の段階でそんなことを発表してみろ、ソーマは大陸各国の諜報員で溢れ返るぞ。それで材料について探り当てられでもしてみろ、おまえも無関係ではいられんからな。メインの材料がどこから来るのか、よく考えてみろ」
「……うん、分かった……」
メイン材料となる水の出所は、アルヴィー所有の(ということになっている)島だ。彼にもようやく、徹底した情報統制の意味が理解できた。まあ、よしんば出所を突き止めて島に向かったところで、例の物騒な防衛機能で船ごと沈められる未来しか見えないが。
「とはいっても、ファルレアンでだけポーションが手に入りやすくなれば、遅かれ早かれ他国も自国生産の可能性には気付くだろうがな。だがそれをできるだけ遅らせたいのが上層部の意向だ。切り札を伏せておくに越したことはない。今回の件も陛下や主立った閣僚の他は、実際に製造を担当する研究所と、材料の入手に関わってくるアルヴィー、それに護衛を担当した一部の小隊しか知らないことだ。もちろん、おまえたちには緘口令が敷かれる」
情報の秘匿もまた、情報戦において重要な手段の一つである。今は特に、効能や副作用の検証の段階であり、どうしても情報が錯綜しやすい。そんな時に、他国の諜報員に入り込まれたくはなかった。無論、元から幾許かの諜報員は潜入しているし、それは各国お互い様でもあるのだが、ことポーションの件については、秘中の秘としなければならないのだ。
「……何か、面倒なんだな。サングリアムは堂々と生産してたのに」
「前にも言ったが、サングリアムはポーションの生産を握ることで国を守ってたからな。それにあの国も、製造工程や材料は徹底して秘匿してきた。それが自分の身を守ると分かってたからだ」
「ですが、クレメンタイン帝国はあえて、それを捨てさせた……」
ルシエルの言葉に、ジェラルドも頷いた。
「その通りだ。――まあ、何か思惑があると考える方が当然だろうな。それが何なのかまでは分からんが」
「……つーか、シアの考えることは俺もよく分かんねーよ」
そもそも、各国の重鎮が集まっていたとはいえ他国の城で再興を宣言してみたり、なぜかアルヴィーに竜の血肉を追加で植え込んで強化してみたりと、彼女の行動には謎が多過ぎるのだ。もういっそ愉快犯なのではないかと思えるほどに。
ジェラルドも本気で彼女の思惑を探りたいというわけでもなく、軽く肩を竦めるに留める。
「……ともあれ、今回の実験成功で転移陣の実用性もある程度は証明されたからな。そっちもこれから、実績の積み重ねの段階に入る。生命体の転移に踏み出せるまでには、どれだけ時間が掛かるか分からんが。――それを考えれば、確かにクレメンタイン帝国の魔法技術は凄まじかったもんだな」
手軽にひょいひょいと王城の中にまで転移して来てくれたクレメンタイン帝国の面々を思い出し、ジェラルドの表情にも苦さが混ざる。だが、これでファルレアンもその技術の一端は手に入れた。後はそれをいかに咀嚼し、取り込むかだ。
「まあ、とりあえずおまえたちは良くやった。例の財宝の一件も、使いようによっては良い手札になるかもしれんしな」
「……それって、財務の呼び出し確定ってことじゃねーか……」
アルヴィーは肩を落としたが、事が事だけに致し方あるまい。
――そんな一幕がありつつも報告を終え、彼らは執務室を後にした。今日この後、そして明日は一日非番となっているので、何事もなければゆっくり休めるだろう。というか休みたい。
待っていた小隊員たちと合流し、休日明けの勤務のことについていくつか確認した後、今日はこれで解散となる。アルヴィーも預けていたフラムを返して貰い、肩に乗っけて帰宅することにした。自宅が貴族街区となったので、ここからしばらく歩かなければならない。もちろん、アルヴィーはたとえ王都を横断したところで疲れはしないが、以前の職住近接にも程があるような宿舎住まいが少し懐かしくなった。
唯一帰路がほぼ同じとなるルシエルとも、彼が少し用を済ませて行くということで途中で別れ(婚約者に送る手紙を出すという用に付き合うほど、彼も野暮ではなかった)、ようやく慣れてきた家路を一人辿る。
歩きながら思い出すのは、先ほど話に出て来たクレメンタイン帝国陣営のことだ。
(そういえば、あいつら最近仕掛けて来ないけど……またどっか余所で、何か企んでんじゃねーだろうな)
レティーシャがアルヴィーを強化したのは、ただの気紛れや酔狂でないだろう。メリエもアルヴィーに執着を見せている。今は不気味なほどに何の動きもないが、彼女たちがこのまま自分を放っておくとは、アルヴィーも思わなかった。
といっても、王城には転移への対策がなされたが、王都にまではまだ及んでいない。彼女たちが王都でまた騒ぎなど起こさないよう、願うしかないのが現状だ。
「……きゅ?」
「何でもねーよ」
アルヴィーの憂いに気付いたのか、フラムが窺うように小首を傾げた。指先でくりくりとその小さい頭を撫でてやると、心地良さげに目を細める。この愛くるしい小動物を使い魔(“元”が付くが)として寄越してくれたことだけは有難いが、それを差し引いても彼女たちへの心証はお世辞にも良いとはいえない。
そんな彼女たちが、ただクレメティーラでおとなしくしているとは、アルヴィーには思えなかった。
漠然とながら胸騒ぎを覚え、アルヴィーはふと空を見上げる。
見上げた空は、しかし当然のことながら、彼の疑問に答えてはくれなかった。
◇◇◇◇◇
「――つっまんないのー」
城壁に腰掛けて両足をぶらつかせ、メリエ・グランは空を見上げてぼやいた。
「モルニェッツって兵が腰抜け過ぎ! つまんない!」
そうむくれる彼女の足下、城壁周辺は炎の海だ。無論、彼女自身の仕業である。
メリエが腰掛けた城壁――まだしも無事といえるのはその周辺だけで、城砦そのものはすでに原型をあらかた失い、ただの瓦礫の山と化していた。さほど規模の大きい砦ではなかったとはいえ、貴族の邸宅ほどはあったそこを、メリエは一人で壊滅せしめたのだ。もっとも、彼女にとっては歯応えのなさ過ぎる仕事ではあったのだが。
メリエは噴き上がる熱風に長い髪を躍らせながら、苛々と空を蹴った。ブーツの踵に装着した拍車が無駄に発動するが、左肩の魔力集積器官のおかげでその程度はロスにもならない。
「……大体、こーんな端っこで何するつもりなんだろ、シアってば」
メリエがそうぼやくのもまあ無理からぬことではあって、ここはモルニェッツ公国の首都ドミニエ――というには少々寂しい風景の首都外縁部。めぼしい建造物といえば、首都への門を兼ねたこの小ぶりな城砦くらいのものだ。一応事前に砦を接収する旨を、帝国側から伝えてはいたのだが、一部の兵士たちが反発して砦に立てこもり、メリエが派遣されることとなったのだった。
もっとも、立てこもった兵士たちはメリエの《竜の咆哮》の一撃に肝を潰し、一発目にして蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまったのだが。現在の惨憺たる状況は、砦の破却命令が出ていたこともあるが、大部分は苛ついたメリエの盛大な八つ当たりである。
(……ていうか)
メリエはふと城壁の上で立ち上がると、首都の方向に目をやる。きゅっと目をすがめた。
(仮にも首都の近くでこれだけ景気良く砦が燃えてるのに、様子見もなし? 何これ?)
他にめぼしい建造物のない寂しさゆえに、この砦は天気さえ良ければ街の方からも見える。そこが全壊し炎に包まれているというのに、首都の方から応援どころか、様子見にすら来ないのだ、誰一人として。
少々薄気味悪いものを感じたメリエだったが、その時半分以上聞き流していたレティーシャの注意をやっと思い出した。
(……あ、そっか。城で繁殖させてる薔薇のせいで、城の近くにいる人間ほど思考能力が落ちてるとか何とかって、言ってたっけ)
公国の元首である大公を排除し、城ごと国の実権を手に入れるため、レティーシャは三公国の大公の居城を自らが開発・改良した薔薇で包み込んだ。魔力を取り込んで通常の数十倍もの速度で成長するこの薔薇は、匂いと共に特殊な成分を散布し人間の思考能力を徐々に奪っていくという、何とも物騒な性質を持っている。そのせいで城を中心に、首都の住民たちは軒並み思考力・判断力が低下するという弊害が出ているのだ。
もっとも、それはレティーシャにとっては別段弊害でも何でもなかった。なまじ頭の回る人間がクレメンタイン帝国の支配に反感を覚え、反乱でも起こす方が面倒だというのが、彼女の考えだ。現在、三公国の政務はレティーシャが基本方針を定め、実務はそれぞれの国の文官が担当する形となっていた。傍から見れば立派に傀儡国家、内政干渉もいいところだが、クレメンタイン帝国側から見れば三公国は“併合した”という扱いなので、レティーシャが決定権を持つのは当然のことだ。そして一部の高位貴族以外が政治に参加する手段のないこの時代、公国の民がいくら騒いだところで、すでに定まった体制を引っ繰り返せはしない。
とはいえ、政治には疎い――というか興味もない――メリエにとっては、公国の政治体制などどうでも良かった。
(ま、あたしがここに住んでるわけじゃないんだし、別にいいけど。――それより)
彼女はわずかに眉をひそめ、くるりと振り返った。
「――ねえ、あんたは聞いてんの?」
それに応えるように、ふわりと下り立った人影が一つ。
「何をだい?」
いつの間にか頭上に滞空していた使い魔の背から飛び降りたダンテは、内心を窺わせない穏やかな笑みを浮かべた。
「決まってんでしょ。シアが何考えてるのか、よ」
「それを僕たちが伺う必要があるのかい? 僕は我が君の剣で在れれば、それで良い。我が君が剣をどうお使いになろうと、それはあの方の自由だ。剣が主の意向に異を差し挟むわけがないだろう?」
「は? 何それ、気持ち悪いんだけど。自分の行動くらい自分で決めれば?」
メリエが顔をしかめて吐き捨てるも、ダンテはその笑みを崩さなかった。
「自分で決めた結果がそれだよ。僕は僕自身の意思で、我が君の剣として在ることを決めた」
「……余計タチ悪いわ、それ」
メリエの眉間にさらに皺が寄る。城壁の内側に左腕を伸ばすと、その手から眩い光芒が撃ち放たれた。それは瓦礫の一角に突き刺さり、新たな爆炎を噴き上げる。その熱風を横顔で浴びながら、彼女はダンテに鋭い一瞥を向けた。
「自分から道具になりにいくとか、意味分かんない。あたしは絶対にごめんだわ」
そのまま転移アイテムを使って光の中に消えていく彼女を見送り、ダンテは肩を竦める。
自分たちの在り方を他人に理解される必要を、彼は感じていない。それは自分と、そして主たるレティーシャのみが共有していれば良いことだからだ。
ずっと昔から、自分たちはそう在ってきた。そうして、ダンテは彼女の選ぶ道を、その正しさを見続けてきたのだ。
――彼女がダンテを見出し、自らの騎士と呼んだ、あの時から。
「……さて、と。昔を思い出すのも程々にしないと」
遠く慕わしい追憶を断ち切り、ここに来た本来の目的を果たすため、ダンテは動くことにした。
愛剣たる《シルフォニア》を抜き放つと、彼は使い魔の《トニトゥルス》を呼び寄せ、城壁から下りた。そして少し離れた地面に下り立つと、城壁を隔て未だ猛り狂う炎に向けて、溜めに溜めた一撃を放つ。轟音、そして大量の土埃。だがそれにより、燃え盛っていた炎は吹っ飛んだ。ついでに地面もそこそこ吹っ飛んだが、まあ許容範囲内だろう。地面の起伏もなだらかになって良い。それを数度ほど繰り返すと、瓦礫も何もかも吹っ飛び、土が剥き出しになった地面が残る。
豪快過ぎる消火と地均しを終えると、彼は左耳のピアスを弾いた。
「我が君、場所は確保できました。これより魔動巨人の転移準備に掛かります」
『ご苦労様、ダンテ。メリエはもう戻りまして?』
「はい、先ほど。彼女があらかた吹き飛ばしておいてくれたので、後は楽なものですよ」
そう軽口を叩きながら、ダンテは《シルフォニア》を鞘に納め、魔法式収納庫から布の塊を取り出す。広げると、それは魔法陣が縫い取られた巨大なタペストリーとなった。青地に銀糸の刺繍が施されたタペストリーは、それだけで美術品としての高い価値があろうと思われるほどの出来栄えだ。
だが、それをよくよく見てダンテは眉を寄せる。一見豪華絢爛に見えるタペストリーは、目を凝らすと銀糸がほつれ、地の布にも細かい穴や傷が目立った。
(劣化が酷いな……せいぜい、あと一、二度も使えれば良いところか。やっぱり、こんな略式だと陣の方に負担が掛かるんだな)
ともあれ、彼はそれを地面に広げると、周囲に術具を置いていく。すべて並べ終えると、今度は大きな魔石を取り出して、やはり所定の場所に置いた。
すべての準備を終えると、再びピアスを弾く。
「我が君、転移の準備が整いました。いつでもどうぞ」
『分かりましたわ。少し離れていてくださいませね』
「心得ました」
通信を終えると、ダンテは言われた通り少し離れる。そして、しばしの後。
魔法陣の周囲に並べた術具の水晶が、光を放ち始めた。それに触発されたかのように、魔法陣も輝き始める。光は次第に強くなり、やがてその中から“それ”は現れた。
高さ十メイル近くはありそうな、巨大な人型。まるで全身鎧を身に着けた騎士のようなそれは、レティーシャが送り込んできた魔動巨人だ。だが、それは現在大陸の各国が運用しているものとは、明らかな違いがあった。
ガシャ、という足音と共に、魔動巨人は一歩を踏み出す。その足どりは、巨大な体躯に比して驚くほど軽やかだった。鈍重な各国の魔動巨人とは一線を画すその動きは、ややぎこちないながらも、人のそれに非常に近い。辺りを睥睨するように兜を模した頭部が巡らされ、その目の部分がぼんやりと光ったように見えた。
魔動巨人は杖のようなものを手に、陣を後にして歩き始める。ダンテはそれを見送り、主へと声を飛ばした。
「……あれが“新型”ですか」
『ええ。手始めに陣を描く作業で、精密な動作を学習させておりますの。ですが、それもある程度形になって参りましたので――次は実戦で使おうかと思っておりますわ』
ふふ、とレティーシャは淑やかに笑う。内容はとても笑えるようなものではなかったが、そこは感性がほぼ同じなダンテである。こちらも穏やかな微笑みを浮かべた。
「ではその時は、僕も出していただきたいものですね」
『構いませんわ。あなたが望むなら』
「勿体無いお言葉です、我が君」
要望を容れられ、彼の笑みが深くなる。
『それでは、あなたは魔動巨人が陣を完成させるまで、監視をお願い致しますわ。ロワーナでの件もありますし、魔動巨人や転移陣を放置しておくのは少し不安ですから』
「承りました、我が君。――ですが、転移陣の方がそろそろ限界のようです。あと一度くらいは持ち堪えると思いますが」
ダンテは陣が描かれたタペストリーを見やった。先ほどの使用で、また劣化が進んだようだ。だがレティーシャにとっては、それも織り込み済みの事態のようだった。
『心配は要りませんわ。今、新しいものを作らせています。それは使い潰して構いません』
「では、そのように」
レティーシャからの許可も下りたので、ダンテは遠慮なくタペストリーを使い潰すことにした。
「それでは我が君、後ほどそちらに戻ります」
『ええ、そちらはお願い致しますわ』
主との会話を終え、ダンテは大分遠くなった魔動巨人の姿を眺める。風に乗って届いた、かすかな焦げ臭さに目を細めながら、転移陣一式を一旦片付けると、上空の《トニトゥルス》を呼び寄せた。文字通り飛んで来たその背に飛び乗り、鱗をこつりと叩く。
「――さて、じゃあもう少し仕事と行こうか、《トニトゥルス》」
甘えるように喉を鳴らした《トニトゥルス》が、両翼を力強く羽ばたかせる。ぐんぐんと上空に舞い上がった翼ある大蛇を追いかけるように、もう大分薄れた煙が空へと伸びていった。
◇◇◇◇◇
その話がフィランのもとに来たのは、日課である朝の鍛錬を終え、使用人に伝言を渡されて朝食の席に顔を出した時のことだった。
「――へ? 俺が王都に? 何で?」
「クィンラム公が、この間の話についておまえにもっと詳しいことを訊きたいそうだ。それにわたしも、ちょうど王都に用がある。なら、護衛におまえを連れて行けば手間も省けるだろう」
面食らったフィランに、ユフレイアはメイドからバターを塗ったパンを手渡されながら、あっさりと言い放った。
彼女曰く、レクレウスの前王ライネリオは、捜索にも関わらず未だ見つかっていないという。手掛かりもほとんどなく、そのため捜索の指揮を執る立場のナイジェル・アラド・クィンラム公爵としては、ほとんど与太話のようなフィランの話でも詳しく知りたいのだとのことだった。
「わたしも、サイフォス家の成り立ちには興味があるしな」
「……そんな面白いもんじゃないよ」
フィランは壁に背を預け、ため息をついた。一応客分とはいえ平民である彼は、さすがに公爵でありこの地の領主でもあるユフレイアと、朝食を共にするわけにはいかないのだ。それを言うならこの食堂に出入りすること自体、本来は不可能なのだが、《剣聖》の名声とユフレイアその人の許しを得ているという事実が、フィランがここに足を踏み入れる免罪符となっている。
気乗りがしない、と全身で語る彼に、ユフレイアは小首を傾げた。
「……何か支障があるのか?」
「いや、そうじゃないんだけどさ。わざわざ公爵様に話すような、面白味のある話じゃないってことだよ。――ただ、百年前のあの大戦を偶然生き残っちゃった従騎士が、仕えてた騎士様を偲びながら修行の旅を続けて、子供や孫も何となく連れ歩いてたら、いつの間にか《剣聖》なんて呼ばれて孤高の剣士扱いされちゃってただけだから」
「そ、そうなのか……」
知られざる――というか知らない方が夢があったかもしれない――《剣聖》の実像に、ユフレイアは何とも言えず目を逸らした。傍らのメイドも同じくあらぬ方に目を逸らしている。
「だが、初代《剣聖》はよく、あの大戦を生き残ったものだな。激しい戦いだったと聞いているが。やはり後に《剣聖》と呼ばれるだけあって、その剣を恃みに生き抜いたのか」
「いや。俺はもちろん会ったこともないんだけど、祖父さんだか曽祖父さんだかの話じゃ、“子供だったから置いてかれただけだ”って言ってたらしい。――帝都が陥落する前に、主人だった騎士が脱出させてくれたんだってさ。その人も元は平民出で、皇女様に取り立てられて騎士になれたって人だったから、最後までその皇女様に殉じる気だったけど。ご先祖様の方は、その時まだ十五になるかどうかってところだったから、帝都が落ちる寸前に、転移魔法で遠くへ飛ばされたって話だった。何とか帝都に戻ってみれば、もうすっからかんに吹っ飛んじゃった後だった……ってことらしいよ。まあ又聞きだから、多少は違ってるかもしれないけど」
「そうなのか……」
ユフレイアはこの館を襲撃してきた、あの優しげな面立ちの青年のことを思い出した。クレメンタイン帝国最後の皇女の騎士と同じ名を持つという彼は、だが穏やかな表情の下に狂気じみたものを持っていたように、彼女は思う。フィランの話とは、微妙に噛み合わなかった。
(百年も前の人間が、まだ生きているわけもないし……別人だろう)
そう結論付けて、ユフレイアは朝食を咀嚼する。お忍びで街に下りて平民たちと触れ合い、とても深窓の姫とはいえない言葉遣いまで身に着けてしまった彼女だったが、食事の作法は元王族らしく、極めて楚々としたものだ。見苦しくない程度に早めに朝食を終え、食後の紅茶で喉を潤す。
「……とにかく、おまえにはわたしの護衛として、王都に来て貰う。せっかくだ、王都見物でもすると良い。王都はわたしを狙っていた連中の根城でもあるが、クィンラム公が目を光らせている。滅多なことはないだろう」
「王都には別に興味ないけど……まあ一応、食わせて貰ってる分は働くよ」
フィランは肩を竦める。見聞を広めるために、国一番の大都市に行くというのは悪い話ではなかった。
「そうか。助かる」
「で、いつから?」
「そうだな、わたしがこちらで片付けなければならない仕事が五日後には一段落するから、そこから準備をして……おそらく十日は掛からないと思うが」
「分かった、準備しとく」
そう言って、フィランは食堂を後にする。廊下を歩きながら、腰に佩いた愛剣《ディルヴァレア》に手をやった。
(……《シルフォニア》か……)
おそらく、あの青年が振るう魔剣の銘であろうそれを、胸中で呟く。はあ、と大きく息を吐き出した。
「……それこそ、与太話だよなあ」
あり得ないとかぶりを振り、部屋に戻るべく、つい止まってしまった足を再び動かし始める。
――そう。常識で考えればあり得ないこと。
だからフィランは、一族に伝わってきたある逸話を、ユフレイアに話さず胸に収めておくことにした。
魔剣《シルフォニア》。
かつて《剣聖》と呼ばれた騎士が主君と仰ぐ皇女より賜り、帝都陥落のその時まで振るい続けた剣が、まさにその名で呼ばれていたという逸話を――。
◇◇◇◇◇
自分の屋敷に帰宅したアルヴィーは、使用人たち総出で出迎えられた。
「まあまあ旦那様、お帰りなさいまし!」
「あ、ああ、――ただいま」
まだ少し慣れない“ただいま”に、女中頭のホリーは目を細める。
「お帰りなさいませ、旦那様。朝食をご用意しておりますが、お召し上がりになりますか」
朝から見本のように執事服を着こなし、慇懃に尋ねてくる執事のルーカスの言葉に、アルヴィーは自分が空腹だったことを思い出した。何しろ今日は日が昇るかどうかという頃から出発したので、軽く携帯食を腹に入れた程度なのだ。
「うん、食べる」
「では、すぐにお持ち致します。ホリー」
「はいよ!」
ルーカスがホリーに目配せすると、彼女はすぐさま地階の厨房に下りて行った。料理人のネイトに伝えに行ったのだろう。
食堂のテーブルに座を占めれば、ルーカスが食器類を並べてくれるのも久しぶりだ。そして程なく、何とも食欲をそそる匂いを漂わせた朝食が運ばれてくる。メニューは肉と野菜を詰めたパイ、スープにサラダ、茹でた卵と果物。朝なので軽めのメニューだ。
ルーカスがパイを切り分けるためにナイフを入れれば、さくりと軽い音。だが口に入れれば中は肉汁と野菜の旨味を閉じ込めてしっとりとしており、具の味にパイのほのかな甘みが加わる。
「あー、幸せ……」
言葉通り幸せそのものという顔であっという間に皿を空にする主人を、使用人たちは微笑ましく見守る。もっとも、ルーカスは所作の細かい粗を見つけては突っ込んでいたが。
「――あ、そうだ、ネイト」
食事を終え、皿も下げられたところで、アルヴィーはふと思い出してネイトを呼び止めた。魔法式収納庫を探り、ミトレアで買い込んで来た塩や香辛料の類を渡す。
「こ、これは……」
「何か、ミトレアで買ったら安く手に入るって聞いたからさ。別に、みんなの方の食事にも使って貰って良いし」
「そんな、勿体無い……」
恐縮しながらも、ネイトはどこか嬉しげに、それらの品を受け取った。
「あとさ、これ土産な」
続いてアルヴィーが魔法式収納庫から取り出したのは、ワインのボトルと白蝶貝のブローチ、そしてネクタイと呼ばれるスカーフのような白い布。ワインはルーカスに、ブローチはホリーに、ネクタイはネイトにと買ったものだ。
「このワインは……」
ワインの銘柄に、ルーカスは衝撃を覚える。ヴィペルラート産のそれは、ワインに詳しい者の間では有名だった。王都で買い求めれば軽く十万ディーナほど吹っ飛ぶそれは、間違っても使用人への土産に買って来るランクのものではない。
「このような高価なものを頂戴するわけには……」
「え、何で? ルーカス、ワイン好きだって前に聞いたけど」
「左様でございますが……」
「ああ、輸入物だからかな。けど、ミトレアで買ったらそれほどでもないぞ? 王都まで運ばれてる内に間に商人入って、値上がりするんじゃないか?」
ついこの間仕入れた知識を得意げに披露するアルヴィーに、ルーカスは返答に困った。
「それはそうかもしれませんが」
「ていうか俺、酒あんまり飲まないから、ルーカスが受け取り拒否なら行き先ないぞ、これ?」
ルーカスを見上げるアルヴィーの肩で、フラムもきょるりと小首を傾げる。何となく動作が同調している辺り、飼い主とペットの絆だろうか。
悪意はないが断り辛いゴリ押しに、ルーカスは肚を括る。そもそもこれは、ワイン通なら一度は楽しみたい銘酒なのだ。
「では――有難く頂戴致します」
慎重にワインを受け取り、ルーカスは動揺を押し隠すように眼鏡を直した。そんな彼の後ろで、ホリーはブローチに目を輝かせる。
「まあ、綺麗だこと」
「それ、貝なんだってさ。小さいから、出掛ける時にケープとか留めるのにいいかと思って」
「あらまあ、ありがとうございます」
いかにも港町産らしいブローチは、だがやはり王都では手に入り難いものであることに変わりはない。
残るネイトが受け取ったネクタイは、調理の際に汗などを拭くために、料理人が首に巻く布のことだ。アルヴィーがネイトのために買って来たそれは程良く柔らかで肌触りが良く、仕事の際に重宝しそうだった。
「ありがとうございます、旦那様」
今まで使っていたものより数段質が良いそれを、ネイトは嬉しげに早速首に巻く。
それぞれに土産に喜んでいるらしい様子に、アルヴィーもほっとした。土産というのは意外に気を遣うものだ。
(せっかくミトレアまで行ったんだし、土産が塩と香辛料だけじゃなあ)
ほのぼのと使用人たちを見やるアルヴィーは、ミトレアで買える輸入品が王都では下手をすれば何倍にも値が跳ね上がることを、まだ良く知らなかった。
ちなみにそのワインは、ルーカスの部屋にて厳重に仕舞われ、特別な日にだけ開けられることとなるのだった。




