第85話 遡上
王立魔法技術研究所では、今まさに、長距離転移陣の稼働実験が行われようとしていた。
この転移陣は、アルヴィーと第一二一魔法騎士小隊が《魔の大森林》から回収して来たものを解析し、さらにレクレウスから戦後賠償の一部として手に入れた、対の陣と術具も徹底的に解析して創り上げたものだ。元の陣をそのまま流用しなかったのは、それ自体が貴重な魔法遺産であるため学術的・歴史的価値が付随するのと、解析による知識及び技術の蓄積を目指したためである。オリジナルの陣と術具は王城において厳重に管理され、今回使用されるのは陣と術具共に、研究所が復元したものだ。
目的地である島への対の陣の設置が完了した旨の連絡は、すでにこちらに届いている。後は、こちらで陣を起動させるだけだった。
「――始めます」
緊張を帯びた声を合図に、起動のための詠唱が始まる。魔石から供給された魔力が陣を輝かせ、場をわずかに明るくした。
陣が設置されているのは、薬学部の傍に急遽造られた小さな建物、その中央に据えられた大きな水盤の底だ。水盤のすぐ外に置かれた魔石からの魔力を糧に、陣はますます光を強め、そして――。
「……おおっ……!」
「み、水だ!」
陣の辺りから広がり始めた清らかな水に、固唾を呑んで見守っていた研究員たちの口から歓声があがった。
島の方の陣は、水竜の地底湖のすぐ傍、地精霊が道を通したその最終地点に、地面を少し掘り下げて設置されている(アルヴィーの口添えで地精霊にも許可は取った)。そして地底湖の水がそこへ流れ込むように水路を造り、陣が発動すれば自動的に水が王都側の陣に転移するようにしたのだ。
そして今、水盤の中にはみるみる水が溜まろうとしている。
「ほらほら、騒いでないで水の分析を急ぎな! 転移できても魔力が変に作用してたら、ポーションに使えないかもしれないからね!」
「は、はい!」
薬学部責任者であるスーザン・キルドナにどやされ、研究員たちが慌てて水のサンプルを採取すると、分析のために薬学部の建物へと戻って行く。
どんどん水盤を満たしていく水を眺めるスーザンに、研究所所長であるサミュエル・ヴァン・グエンは声をかけた。
「やあ、女史。上手くいったね」
「この水がちゃんとポーションに使えりゃ、の話ですがね」
「それは大丈夫だろう。仮にも水竜の魔力を帯びた水だ。そう変質などしやしないさ」
サミュエルは楽天的にそう言って小さく笑った。
――そして、最優先で(それでも小一時間ほど掛かったが)行われた分析の結果、転移で運ばれた水は陣の魔力の影響などもなく、ほぼそのままの水質であると判明した。この結果に、特に薬学部が大歓喜したのは言うまでもない。
「よし、そうと分かれば早速、ポーションの試作に取り掛かるよ!」
スーザンの号令一下、薬学部の研究員たちは次々と水を汲み出し、研究室へと運び始める。すでにいくつかのレシピの原案はできているので、今後はこの水を使って実際にポーションを試作、効能や副作用を検証してレシピの改良を図る段階となるのだ。
「では、第一回の実験が成功したことを、陛下にご報告しなければね」
サミュエルは張り切るスーザンと別れ、報告のために登城した。
「――おお、では、転移実験には成功したのだな!」
「はい。水質にも目立った変化はなく、これよりポーションの試作及び効能等の検証に入る予定でございます。それが終われば、いよいよ量産体制に移行できるかと」
「うむ、よくやってくれた、グエン所長」
サミュエルの報告に、宰相ヒューバート・ヴァン・ディルアーグは声を弾ませ、満足げに頷いた。
「サングリアム製のポーションが出回らぬ今、ポーションの自国生産は重要な課題であるからな。ポーションの在庫が騎士団の作戦行動にも関わってくる以上、事は我が国の安全保障をも左右するのだ。グエン所長、出来うる限り早期に量産体制を確立して貰いたい」
「はっ」
もとより、一番の課題がポーションの材料として満足しうる水の入手であったのだから、それが達成できた今、量産もそう遠い話ではないだろう。サミュエルは一礼してそれを請け負った。
そんな彼に、女王アレクサンドラも労いの言葉をかける。
「大儀でした、グエン伯。この実験成功は、我が国に多大なる益をもたらすでしょう」
「勿体無いお言葉にございます」
再び頭を垂れるサミュエルに、アレクサンドラは小さく頷く。
「これを皮切りに、ゆくゆくは王都と各領都との往来に、この転移技術を使うことができれば……と。ただ、消費魔力の削減が条件となって参りますが」
「おお、そうなれば領地と王都の行き来もずいぶん楽になる。期待しておるぞ、グエン所長」
「は。最善を尽くします」
女王と宰相の期待を背に、サミュエルは謁見の間を後にした。
(とりあえず、一つ山は越えた……後はいかに消費魔力を抑えて、転移可能な距離を伸ばすかだ。――転移魔法の使い手にも、意見を聞いた方が良いか)
これからの計画に思いを馳せつつ、サミュエルは自らの城である研究所へと戻るべく、心持ち足を早めるのだった。
◇◇◇◇◇
遠い喚声に、少年はびくりと身を竦ませる。それを見て、青年は小さく笑った。
「――そう怯えることはないさ。この《薔薇宮》の守りは、その辺の軍に破れるようなものじゃない」
「で、ですが……あんなにたくさん、兵が」
塔の上から一望できる帝都クレメティーラは、今や陥落寸前に見える。各所から立ち昇る煙はもはや数える気にもならないほど多く、それらが空に蟠って日射しさえ遮っているようだった。建物の合間には火の手も見える。風に乗り遠く聞こえてくるのは爆音と怒号、それに悲鳴。
戦いの経験が浅い年若い少年は、それにすっかり怯えているようだったが、青年にとっては単に耳障りな雑音に過ぎなかった。
「そうだな……うるさいし、少し片付けるか。ちょっと出て来るよ」
「あっ、なら俺も……!」
慌てて続こうとした少年を、青年はそっと制する。
「いや、“大技”を使うからね。巻き込んでも面倒だし、そこから見ていると良い」
そう言い置いて、青年はアイテムを使って転移した。
――次の瞬間彼の姿は、戦場の真ん中に出現する。周囲の兵たちがぎょっと後ずさった。
「な、何だこいつ……!?」
「帝国の騎士か――」
そう言いかけた兵士の首が、次の瞬間呆気なく飛ぶ。
「――《シルフォニア》」
相棒たる魔剣の銘を謡うように呼び、青年は兵士たちの間に躍り込む。その両足はダンスのステップでも踏むように軽やかに舞い、だが右手に握られた魔剣は冷たい銀色の刃をきらめかせて、過たず敵の急所を斬り裂いた。迸る紅い飛沫が地を染め、兵たちの恐怖心を掻き立てる。
「き、貴様、まさか――!」
何かに思い当たったかのように顔を引きつらせる兵士を一瞥し、青年は大きく剣を振りかぶった。
一閃。
「……多少は静かになったかな」
そう嘯いて剣身を拭う青年の眼前。そこには、人体と瓦礫が等しく砕かれて転がる、悪夢のごとき光景が広がっていた。見えざる巨大な刃に蹂躙され破壊され尽くした、兵士と建造物のなれの果て。
「――なっ、こ、これはっ……!」
酸鼻を極める光景に、少しだけ距離があったおかげで惨劇を免れた兵たちが、棒立ちになって見る間に顔を青ざめさせる。だが彼らは、そんなことをしている間に、全速力で逃げ出すべきだったのだ。
青年は再び、魔剣を携えて地を蹴った。
『――ダンテ』
耳に心地良い涼やかな声に、彼の意識は現実に引き戻された。
「――はい、我が君」
『どうかして?』
「いえ……申し訳ありません。少し、昔のことを思い出していました」
緩くかぶりを振り、ぼんやりした頭を引き締める。
ダンテは今、クレメティーラを離れ、何もない荒野を訪れていた。クレメンタイン帝国とレクレウス王国の国境たる大山脈・アルタール山脈からやや北北東――主たるレティーシャが示したまさにその場所の上空、自身の使い魔である翼を持った大蛇の背から、ダンテは眼下の光景を眺める。
そこには、巨大な魔法陣が描かれていた。
上空からでなければその全容を目にすることも叶わない、とてつもなく巨大な魔法陣だ。ダンテ自身、これほどの規模のものを目にするのは初めてだった。地上からでは、ただ地面に線が縦横無尽に描かれているだけにしか見えないだろう。
人の手では不可能にしか思えないそれを、ダンテは感嘆と共に見やった。
「凄いものですね……」
『大まかな線は魔動巨人に、細かい部分は人造人間にやらせましたの。陣を頭に取り込ませてしまいさえすれば、後は余計な疑念も差し挟まず働いてくれますものね』
通信機能を持つピアスから、レティーシャがくすくすと笑う声が聞こえる。現代の研究者が聞けば目を剥くような言葉は、しかし聞く者がダンテしかいなかったため、魔法史に残ることもなくそのまま消えていった。
『では、ダンテ。その陣の“動力源”の確保をお願い致しますわ』
「畏まりました、我が君」
主の要望に応えるため、彼は使い魔の鱗を軽く叩いて合図を送る。利口な使い魔は心得たように首を巡らせ、陣の上空を離れてとある場所に向かった。
――やがて見えてきたのは、荒野にそびえる岩山だった。塔のように細長い巨岩がいくつも連なっているが、おそらくそれは長い間の風化によるものだろう。堅い部分だけが風化に耐え抜いて残ったのだ。
ダンテはその内の一つに下り立った。
「《シルフォニア》」
銘を呼び剣を目覚めさせると――彼はそれを大きく、鋭く振り抜く。
――ズズン、と。
辺りを揺るがすような轟音と共に、岩山の一つが半ばから斬り落とされ砕けた。
そして、待つことしばし。
『いきなり我が住処を壊すとは、無礼な人間もいたものだな』
声と共に、ダンテの足下が波打つ。そして彼を押し包むように、鋭く尖った石の刃が伸びて襲い掛かった。しかしダンテは、わずかな隙を見逃さず飛び退き、刃の包囲を逃れる。
『おのれ……非力な人間風情が、生意気に』
大地から光が滲み出し、寄り集まって人の形を取る。敵意もあらわにこちらを睨む地精霊を、ダンテは悠然と見返した。
(人型を取れるということは、中位以上か……まずまずの相手が引っ掛かったな。正確な強さは、もう少し戦ってみないと分からないけど)
その口元を、楽しげな笑みが彩る。
戦いは好きだ。
剣を振るい、死地に踏み込み、命を削り合うように刃を交わす、その瞬間がたまらない。
『何を笑っている、人間……!』
精霊に対しての恐れなどまったく感じさせないその態度に、精霊はますます不快感を募らせ、右手を打ち振る。精霊の足下から生まれた無数の石飛礫が、弾丸となってダンテを襲った。対するダンテは《シルフォニア》を振り抜き、不可視の刃でその大部分を吹き飛ばす。相殺しきれなかった分は、自分に当たる軌道のものだけを瞬時に見極め、剣でわずかにいなしてその軌道を変えた。逸らされた弾丸は、空しく背後の地面を穿つ。
『何だと……!』
人間らしからぬ離れ業に、精霊が表情を変えた。驚愕によって生まれた隙――それを見逃すダンテではない。即座に地を蹴り、精霊に肉薄した。
「――まずは、おとなしくして貰おうか」
刃のきらめきが奔る。
ダンテの斬撃が、精霊の右脇腹から左肩に掛けてを深々と抉った。
『ぐっ……! ば、馬鹿な、たかが人間にこのような……!』
さすがに人型が取れるレベルの精霊は、剣で真っ二つにされたところで死にはしないが、ダンテが振るうのは魔剣だ。そのダメージは大きく、精霊は傷を押さえて呻いた。ダンテは感心しつつ、その強さを推し測る。
「ふうん……あれで消し飛ばないってことは、そこそこ強いな。高位寄りの中位辺りか。それくらいなら、我が君のお眼鏡にも適いそうだ」
『貴様、何をわけの分からぬことを――』
精霊が動けない内に、ダンテは予想外の行動に出た。《シルフォニア》を一振りし、鞘に納めたのだ。そして魔法式収納庫から、別の剣を抜き出した。
それはサーベルである《シルフォニア》とは違い、両刃の直剣だ。儀礼用のものか、柄には宝玉が嵌め込まれ、剣身にも呪句が彫り込まれていた。ダンテはそれを何度か振って手に馴染ませると、精霊に向き直る。
『おのれっ』
本能的に危険を感じたか、精霊は地面を操ってダンテを攻撃しようとした。だがその時には、彼の姿はすでにそこにはない。精霊が戸惑った一瞬。
精霊の胸から、一振りの剣が生えた。
『な……に……!』
呻く精霊の顔が歪み、その姿が指先から見る間に薄れていく。ほんの数瞬で精霊の姿は完全に掻き消え、後には輝きを帯びた剣と、それを持つダンテだけが残された。
彼は手にした剣を満足げに見やり、ピアスを弾いてレティーシャに通信を開く。
「我が君、手筈通り地精霊を手に入れました。それなりに力のある精霊です」
『素晴らしいですわ。良くやってくれました、ダンテ』
「恐縮です。――では、剣を魔法陣に設置した後、僕もお側に戻ります」
『ええ、お待ちしておりますわ。こちらももう少しで、すべての準備が整います』
「それはおめでとうございます。それでは、後ほど」
そう言い置いて、ダンテは通信を切り上げると、使い魔を呼んだ。その背に乗り、再びあの魔法陣のところに向かう。
舞い戻った魔法陣上空で、彼は使い魔の鱗をコツンと叩いた。
「――《トニトゥルス》、あの陣の真ん中に下りてくれ。陣を消してしまわないように、そっとだよ」
賢い使い魔は、それを聞いて優雅に身を捻り、地上へと舞い下りていった。言われた通り、地表から数メイルほどの空中で滞空し、どうかと伺うように首を巡らせて主を見る。ダンテはその鼻先を撫でてやった。
「よし、良い子だ」
褒められて嬉しげに喉を鳴らす使い魔の背から、ダンテはひょいと飛び下りる。だがその身体は、地上に下り立つ寸前でぴたりと止まった。そのカラクリは彼の靴の踵に着けられた拍車。そう、メリエがレティーシャから貸与されているものと同じ、空中での行動を可能にするマジックアイテムだった。
もとよりレティーシャは強力な魔法士であると同時に、比類ない才を持つ錬金術師でもあるのだ。材料さえあれば、マジックアイテムを作り出すことは彼女にとっては容易いことだった。
ダンテはその拍車の力を借りて空中を進むと、陣の中心点で足を止めた。そこには他の場所にもまして複雑な紋様が描かれていたが、中心だけは数セトメルほどの円が一つ描かれているのみ。彼は先ほど手に入れた剣――精霊を取り込んだ魔剣を高く掲げ、そして円の中央に正確に突き刺した。
――ざわり、と空気が変わる。
ダンテが上方へと飛び退き、使い魔の背に乗ってさらに上空へと退避したのとほぼ同時――地上の魔法陣を描く線に光が走り、大地がわずかに揺れた。
「……起動したか」
見下ろす先、魔法陣の中心で輝きを放つのは、ダンテが突き刺した魔剣だ。取り込んだ地精霊の力を稼働のための動力源とし、魔法陣はゆったりと稼働を始めた。
それを見届け、ダンテは使い魔を促してそこを離れる。帝都クレメティーラに向かいながら、ふと思い当たった。
今頃になって、昔のことなど思い出した理由に。
「ああ……そういえば。――あの時の剣士、あの頃の従騎士の子に何となく似てたなあ」
ラフトの街で少しだけ剣を交わしたあの青年。
彼は、かつて自分に仕えていた従騎士の少年と良く似た、金茶の髪をしていた。
◇◇◇◇◇
「――よし、香辛料も買えたし、後は帰りの食料でもちょっと買っとくか」
「そうですね」
ミトレアの街の一角、商家や屋台のような店が軒を連ねる市場に、アルヴィーとシャーロットはいた。シャーロットがナンパ男に絡まれた一件を受け、再発防止のために市場まで彼女に同行したアルヴィーだったが、今度は商品を普通に店側の言い値でホイホイ買おうとする彼にシャーロットが危機感を覚え、結局連れ立って市場を回ることとなったのである。
「シャーロットのおかげで大分安く上がったしな」
「こういうところでは多少値切るのが常識ですよ。言い値で買おうなんて良いカモです」
「へー……」
「そもそも、相手は海千山千の商売人。多少値切り合うのは挨拶代わりです」
値切るのが挨拶かどうかはともかく、彼女曰く、こういった大都市の市場は余所から来た人々に対する観光地も兼ねており、値段はやや高めに設定されていることが多いらしい。多少値切ったところで利益は出るのだから、遠慮せずに値切れば良いというのが彼女の言い分だった。
生憎そんな駆け引きができる気がしないアルヴィーは、乾いた笑いを浮かべつつ沈黙するしかない。
ともあれ、それぞれ必要な買い物を済ませた二人は、市場をぶらついて食料など細々したものを購入する。もちろん購入の際には、シャーロットがしっかり値切った。
市場は港の近くまで伸びており、その辺りでは新鮮な魚介類を扱う店が多い。潮と魚臭さが混ざった独特な匂いが漂い、店先から脱走したと思しき脚の多い大きな生物(近くの店の人間に聞いたところ蟹という生き物らしい)がのそのそ道を歩く。内陸で生まれ育った二人が見たことも聞いたこともないようなものばかりで、彼らは物珍しさに周囲を見回した。
「こんなとこもあるんだな」
「港近くだと、獲った魚をすぐに運んで来れるんでしょうし、理には適っていますね。――あら、可愛い」
この辺りを縄張りにしているのだろう、いつの間にか猫がシャーロットの足下にじゃれついている。人慣れしているところを見ると、どうやら店の人間に愛想を振り撒いて、何かしらお零れを貰っているのだろう。試しにアルヴィーが近くの店で小さな魚を一尾買って鼻先にぶら下げてみると、すぐにくわえて持って行ってしまった。
ほのぼのとそれを見送っていると、
「――よお兄ちゃん! 久しぶりだなあ!」
「え?――あ」
威勢の良い声に振り向き、アルヴィーは目を見張った。
「あの時の貨物船の――」
「おお、覚えててくれたか!」
そこにいたのは、クラーケンに船ごと襲われていたところをアルヴィーが助けた、あの貨物船の船長だった。彼はバシバシとアルヴィーの肩を叩き、
「あん時兄ちゃんが魔石の儲けを山分けにしてくれたおかげで、俺の船もあちこち新しくできてよ。これでまた、商売も捗るってもんだぜ。――にしても」
そこでにやりとして、船長はシャーロットに目をやった。
「そっちの娘は、兄ちゃんの“女”か? いやはや、隅に置けねえなあ」
間。
「――いやいやいや、違うからな!?」
「わたしたちはあくまでも、騎士団での同僚ですので!」
「はっはっは、別に照れるこたぁねえだろうよ!」
二人が否定するも何のその、船長はおかしそうに高笑い。
「……きゅ?」
その声に、アルヴィーが胸元に下げた袋がもそもそと揺れ、まだ少し眠たげな目のフラムが顔を出した。市場の人込みで逸れないよう、いつもの運搬袋に入れていたのだが、どうやらそのまま寝ていたらしい。道理でおとなしいと思った。
「へえ……カーバンクルか。こいつぁ珍しい」
「きゅ?」
船長にまじまじと見つめられ、フラムはきょるんと小首を傾げた。アルヴィーもそれに倣ったわけではないが心持ち首を傾げる。
「よく言われるんだけど、こいつそんな珍しいの?」
「ああ、カーバンクルは生息地が限られてるってぇ話だから、こんな街中じゃあまず見ねえな。デカくて深い森に住むんだが、それも昔人間が乱獲してどんどん減っちまったらしいし……今じゃほれ、あれだ、大陸のど真ん中の」
「……《神樹の森》ですか?」
シャーロットの補足に、船長はぽんと手を打った。
「そうそう、それだ! その《神樹の森》くらいにしか生き残りはいねえだろうって話だぜ」
「《神樹の森》か……」
かの森は《虚無領域》、クレメンタイン帝国領の中にある。そしてフラムを差し向けてきたのはレティーシャだ。
「……おまえ、そっから来たのか?」
「きゅ?」
アルヴィーはフラムの頭をそっと撫でたが、無論フラムが明確な答えなど返すわけはなく、心地良さげに目を細めるだけだった。
「……あら」
と、ふとシャーロットが空中に手を差し伸べる。その細い指先に、白い鳥が舞い下りた。
「お? ずいぶん人慣れした鳥だなあ」
「いや、あれは……」
もちろんそれは本物の鳥ではなく、《伝令》の魔法だ。一応騎士団内の情報を漏らすわけにもいかないので、シャーロットはさり気なく離れて内容を聞く。白い鳥は転移魔法陣の稼働実験成功の連絡が王都から来た旨を伝え、役目を果たして空中に溶け消えた。
「――アルヴィーさん、連絡が来ました。戻りましょう」
「ああ」
アルヴィーも仕事の方に頭を切り替え、船長に手を振る。
「俺ら、そろそろ戻んなきゃ」
「おう、そうか。まあ、仕事は大事だからな。できりゃ俺の新しい船を見せたかったんだが」
「それはまた今度にしとくよ。じゃ!」
気の良い船長と別れ、アルヴィーたちはミトレア支部に戻ることにした。
「――それで、連絡どうだって?」
「実験は成功したそうですよ」
「そっか、じゃあ俺たちは、このまま王都に戻んのかな」
「おそらくは。――例の財宝の件もありますし」
「……忘れてた……」
できれば忘れていたかったことを思い出させられ、アルヴィーはげんなりと呻く。もしかしたら、また財務副大臣から呼び出しでも食らうかもしれない。
憂鬱な気分になりながら、彼はとにかくミトレア支部に戻ることにした。
◇◇◇◇◇
アルヴィーたちが支部に戻ると、他の面々はもう揃っていた。
「悪い、待たせたか?」
「いや、僕たちもさっき戻って来たところだよ。それにどの道、例の財宝の梱包や船の手配で、もう一日くらいは掛かるはずだし」
「船の手配?」
なぜここで船が出て来るのか分からず、アルヴィーが問うと、ルシエルは自分の魔法式収納庫の中から地図を取り出して広げる。それはファルレアン王国の地図だった。さすがに伯爵家子息かつ魔法騎士団小隊長の彼が持つだけあって、主要な街はもちろん山や河川まで書き込まれたなかなか詳細なものだ。
ルシエルは地図の下方、陸地に大きく切れ込んだ入り江の最奥を指した。
「ここがミトレア。で、すぐ近くにルルナ川があるだろう? だから、ミトレア支部から小型で速度の速い船を借りて、ルルナ川を遡上して王都に戻ろうって話になったんだよ。――何せ、あの財宝は結構量があって、馬で運ぶのは大変だし、時間も掛かるからね」
確かに今回の任務では、研究所の研究員たちも含めて全員が馬を操れたため、騎乗での旅となった。しかし島でアルヴィーが発見した財宝はいくつかの木箱に分けられていたほどで、つまりそれなりの量だ。しかも大きさの割に重い貴金属がほとんどで、馬で運ぶとそれだけ馬の負担も大きくなる。
何より、それだけの価値がある財宝ならばできる限り早く王都に持ち帰るようにと、王都側からの指示があったのだという。確かに陸路では、ミトレアからカタフニア街道に戻るまでですら三日掛かるのだ。そこからさらに王都までとなると、三倍ではきかない日数が掛かる。ならば飛竜は、となるが、生憎そちらもスケジュールが空かず、結局は陸路か川かの二択しかないとのことだった。
「街道は整備されてるけど、さすがに夜通し走るわけにはいかないからね。その点船だと、交代で操船すれば日が落ちた後も多少は進める。ルルナ川は流れが緩やかだし、航路も確立されてるから、危険もあまりない」
ルルナ川はいわば水上の街道のようなもので、昔から航路が定められ水上貿易が盛んだったのだ。もちろん地形やその他の要因によっていくつかの危険箇所はあるが、そこさえ気を付ければ陸路より早く王都に着ける。
「へえ、面白そうだな」
川を遡上する、というのが新鮮で、アルヴィーも目を輝かせた。
来る時に使った馬は、後からやはり船で送り届けてくれるということになり、船の準備のためアルヴィーたちはミトレアでもう一泊、翌朝船で出発することとなった。
そして、翌朝。
「――うわ、すっげえ……!」
出発の支度を整え、港に着いたアルヴィーたちは、用意された船に感嘆の声をあげた。
《アンバー号》などの戦艦や貨物船と比べれば確かに小型だが、それでも全長が四十メイルはあるだろう。マストは二本で、その内の一本は縦帆が張られている。横帆よりも逆風時の取り回しが良いらしい。
川にこんな大きな船が入れるのかと思ったが、聞くところによるとルルナ川は国有数の大河の名に相応しい川幅と水深を誇り、イル=シュメイラ街道と交差する辺りまでは、かなりの大型船でも遡上できるのだそうだ。ただし、街道のために大きな橋が架かっていて、大型船ではマストが支えてしまうため、それ以上の遡上はできないという。そのためそこからは陸路となる予定だそうだ。
荷はすでに積み込まれ、後は乗客を待つばかりとなっている。アルヴィーたちは早速乗り込んだ。唯一船酔いするクロリッドだけは浮かない顔だったが、これも任務の一環なので諦めて貰うしかない。
そして晴れ渡った空の下、船は港を出港した。
「おお、速いな!」
波を蹴立てて見る間に港から遠ざかる船に、一同はまたしても感嘆する。船は器用に方向を変え、海からの風に乗ってルルナ川河口へと入って行った。河口といっても広く、流れも緩やかなため、どこからが川なのかは一見して分かり辛い。陸の風景を見て見当を付けるくらいだ。
この日は風が良かったのか、船は快調に進み、どんどんと距離を稼いでいく。ルルナ川は途中大きく西に湾曲し、少し回り道となってはしまうのだが、それでもこの調子なら陸路よりよほど早く王都に着けるはずだ。
「やっぱ船にして正解だったな!」
幾分潮の匂いの薄くなった風に髪をなびかせながら、アルヴィーは声を弾ませる。ルシエルはそれに頷きながらも、何かを気に掛けるような面持ちになった。
「そうだね。でもここからいくつか少し危ない場所があるから、そこはきちんと避けて通らないと」
「危ない場所?」
「ああ。川底が浅くなってて座礁しやすかったり、魔物が出る場所がいくつかあるそうなんだ。もちろん、船員はそれもよく知ってるから、極力避けてくれるけど」
「そっか……けど地形はともかく、魔物なら俺がどうにかするよ」
「それもそうだね。――けど、勢い余って地形まで変えないでね」
「…………」
「……ちょっと、何で黙るのさ、アル」
勢い余って地形まで変えてしまったことがないとは口が裂けても言えないアルヴィーとしては、そっと口を噤むしかない。
その沈黙に不穏なものを感じたルシエルだったが、船員に呼ばれてそちらを優先することにした。
「どうした?」
「それが、さっき上流から来た船が教えてくれたんですが……この先でそこそこ大型の船が転覆して、航路が塞がれているそうです」
「何だって?」
船員の報告に、ルシエルは眉を寄せた。
「避けられないのか?」
「水深自体は、その船を避けても充分余裕があるんですが、そうなるとケルピーという魔物の縄張りに入ってしまうので……」
「ケルピー? 初めて聞くな」
「自分も実際に見たことはありませんが、何でも身体の前半分は馬、後ろ半分は魚という姿の魔物だそうです。馬の頭をしているくせに肉食だそうですが。人間を水の中に引きずり込んで食い殺すこともあるそうで」
「そうか……厄介だな」
「ただまあ、絶対に出くわすと決まったわけでもありませんが」
「そうだな。だが僕たちは船のことにはさほど詳しくないし、ここはやはり船長の指示を仰いでくれ」
「はい、分かりました」
船員はほっとしたように、船長に報告に行く。何が何でも進めと言われなくてほっとしているのだろう。
――だが、船長はどうやらルシエルたち以上に、“王都からの命令”を重く見ていたようだった。多少の危険は冒してでも、このまま遡上を続けると決定したのだ。
「幸いこの船には《擬竜騎士》、それに魔法騎士小隊も乗っている。ケルピーを撃退するには充分な戦力だ」
船長は船の乗客たちの実力を鑑み、万一魔物が出没した際の対応を丸投げすることにしたのだった。
といっても、近接戦闘が得意な者たちは実質出番はなく、魔法による遠隔攻撃が得意な隊員がメインとなる。そういうわけで、該当する隊員は準戦闘態勢ともいえる状態に置かれることとなった。
ただし、
「……うう……やっぱ気持ち悪い……」
「クロリッド、大丈夫?」
「無理はしなくていい。そんな状態で船から落ちたら、そっちの方が大変だ」
そんな感じで、やはり船に酔ったクロリッドは満場一致で参戦が免除される。攻撃魔法はジーンも使えるし、何よりアルヴィーがいるのだから、具合が悪いのを押してまで参加する必要はないのだ。
そのアルヴィーは、率先して船の舳先に立ち、川面に目を凝らしていた。
(――アルマヴルカン、どうだ? いそうか?)
『さてな。今のところはそれらしい気配もないが……水竜であれば、水中の気配も探れようがな』
攻撃する気満々で待ち構えていればともかく、水中でじっと息を潜められれば、さすがにアルマヴルカンでも探知は難しいのだそうだ。
(そっか。まあ、しょうがないよな)
何しろ水である。火竜のアルマヴルカンとは対極にある属性だ。
いっそアルマヴルカンの気配全開で威圧すれば、ケルピーも近寄って来ないのかもしれないが、それをやってしまうと人間の方も萎縮して動けなくなってしまうので却下。地道に目を凝らすしかない。
そうして、しばらく経った頃。
「……あの船か」
この船と並ぶくらいの大型船が、見事に横倒しになって水面に浮いていた。よく見れば速度を上げるためか、船体の幅がこの船よりさらに狭いようだ。船体が細長ければそれだけ速度は上がるが、引き換えに転覆しやすくなるという欠点があった。運悪く横風にでも煽られて転覆したのだろう。船員らしい男たちが立ち泳ぎをしながら、器用に帆を畳んでいる。救助のためか、小舟が近付いているのも見えた。
下手に近寄って邪魔になるのも良くないと、船は転覆船を避け、大きく迂回してそこを通り過ぎた。
「そろそろ、ケルピーってのが出て来る辺りみたいだけど……あの船の人、大丈夫なのか?」
自分たちは船に乗っているからまだ大丈夫だが、水中で作業する船員たちは、よく考えれば危険なのではないだろうか。そう思い当たった時だった。
「――うわあああ!!」
後方から悲鳴が聞こえ、アルヴィーははっと振り返った。
「出たのか!?」
『そのようだな。これならわたしにも分かる。――ふむ、一匹ではないな』
「何だと!?」
「アル、何かあった!?」
同じく悲鳴を聞いたのか、ルシエルたちも駆け付けて来る。
「ケルピーが出た! こっちじゃない、転覆した船の方だ!」
「何だって!?」
ルシエルたちもはっとした。確かにケルピーの方からすれば、船に乗っている自分たちより、転覆した船の乗員の方が狙いやすいだろうと、彼らも気付いたのである。
「とにかく、俺ちょっと行って来る! 後で追い付くから、船は止めなくていい!」
「あ、ちょっと、アル――」
ルシエルが止める暇もあらばこそ、アルヴィーは右腕を戦闘形態に変えると、魔法障壁の足場を創り出し、通り過ぎた転覆船を目指して空中を駆け出した。




