第81話 新生活
「――ふ、ふふふふ……」
外はすでに夜の帳に包まれる中、そこだけは光が灯された室内。
その一角に佇む男は、半身をぼんやりと光に照らし出されながら、不気味な笑い声をあげた。
「ついに……ついに研究は成った……!」
「我らの悲願がついに……!」
「……おお、おおお……」
佇む男だけでなく、床に伏していた人影も打ち震え出し、まるで亡者が地の底から蘇るがごとく、最後の力を振り絞りのろのろと起き上がり始める。おお、おお、と呻き声をあげる様は、まさしくこの世に舞い戻った死者のそれであった。
自らも彼らと大差ないほどにやつれ果てながら、唯一佇んでいた男はその双眸に凄絶なまでのぎらぎらとした光を宿し、彼ら自身が成したその成果を見つめる。
「これさえ……これさえあれば……!」
と。
「――あー、先生方、やっと仕事が片付きなさったかね。んじゃ、ちょっと掃除しますんで、先生方は仮眠室で少しお眠んなさい。相変わらずひでえ有様ですよ」
がちゃりと扉を開けて入って来た男女が、慣れた様子で室内の亡者もどきたちを手際良く撤去し始めた。
「まーた晩飯抜きなさったかね。もういい年なんですから、研究よりご自分の身体の方に気を付けちゃどうです」
「あ、あああ! せめて、せめてもう少しこの余韻を味わわせてくれぇ!!」
「そんなこと言われましてもねえ、こっちも仕事ですんで。――あーあー、白衣にも垢がこびり付いちまってるじゃないですか。ほれ、脱いで脱いで。洗濯に回しますんで」
「あああああ!?」
「おーい、そっちの先生多分、腹減って動けねえだろうから、ちょっくら食堂まで担いで行ってやんな。今の時間でもスープくらいは残ってるだろ」
「よしきた!」
「うう……ううう……」
薄汚れた白衣をひん剥かれ、荷物よろしく肩に担がれて、亡者もどき――もとい、ファルレアン王国王立魔法技術研究所の研究員たちは、研究所の雑務を担う下働きのおっさんおっかさんたちにより室内から駆逐された。
何しろ、ひとたび研究に没頭すれば文字通り寝食も忘れきってしまう、問題児というか問題オヤジたちである。そんな彼らの健全かつ文化的な生活を何とか維持するため、日々奮闘するのが雑務担当職員だった。
ちょっと目を離すとすぐに亡者もどきになる研究員たちの尻を蹴っ飛ばして、せめてもの必要最低限の食事と睡眠を取らせ、垢に塗れる服や白衣を洗濯して本人は浴室に叩き込み、研究員たちが取っ散らかして異界と化した研究室を掃除する。彼ら雑務担当職員がいなければ、ファルレアンが誇る王立魔法技術研究所は、ものの数日で人外魔境に成り果てるだろう。
彼らは亡者もどきが撤去された後の室内をささっと掃除すると、速やかに引き揚げていく。一番の大仕事であるこの研究室の掃除を終わらせて、彼らはやっと退勤となるのだ。
――そうして、研究所のいつもの夜が更け、翌日。
研究員たちの首魁たる研究所所長、サミュエル・ヴァン・グエン伯爵は、謁見の間で居並ぶ閣僚、そして女王アレクサンドラを前に跪いていた。
「――《魔の大森林》より発見された長距離転移の術式の解析が叶ったというのはまことか、グエン所長」
宰相たるヒューバート・ヴァン・ディルアーグ公爵の確認にも似た質問に、サミュエルは頭を垂れたまま答えた。
「はい、事実でございます。術式の解析自体はすでに完了し、昨日短距離での転移実験にも成功致しました」
「おお……」
「これで我が国は、輸送の面で他国を大きく引き離せるわけですな」
閣僚たちの間からも、興奮を滲ませた声が漏れ聞こえる。ヒューバートも満足げに頷いた。
「うむ、かの転移術式を我が国のものとできたとなれば、その利は莫大なものとなろう」
「では、早速各領地に配備を?」
期待のこもった声で、閣僚の一人が尋ねた。しかしそれには、サミュエルが懸念を口にする。
「残念ながら、現時点ではごく短距離での転移実験の成功のみに留まっております。まずは長距離でも問題なく稼働することを確認してからでなければ、正式に運用することはできません。何しろこの術式では、生命体の転移も視野に入れておりますので」
「なるほど、確かに」
「宮廷魔導師の方々にもご協力いただいておりますので、検証そのものはさほど難しくはないかと。ただ……」
「ただ?」
わずかに言い淀むサミュエルに、ヒューバートが尋ねる。
「何か問題があるのかね?」
「検証のための候補地を、どこにしたものかと」
「ふむ、確かにな」
ヒューバートも、サミュエルが迷うところを正確に理解したようだった。
「どこで試すにしても、選ばれなかった領主が煩いか」
「それもありますが……実はひとところ試してみたい地が、あるにはあるのですが。そちらも別の意味で難しく、難儀しております」
「ほう?」
ヒューバートも興味を惹かれたが、どうやらもっと興味を惹かれた人物が、玲瓏たる声でサミュエルに問うた。
「――それはどこなの?」
女王アレクサンドラの問いとあれば、答えないわけにはいかない。サミュエルは慇懃に答えを口に乗せた。
「恐れながら申し上げます。実は――」
◇◇◇◇◇
王都ソーマでは、身分によって住む場所が違う。王城に程近い区域には貴族が住み、その周囲を取り囲むように平民が暮らす市街地が広がっているのだ。そしてその中でも、さらに細分化された身分や職業によって住み分けがなされている。王都の人口は数万を数え、その内貴族の人数は一割にも到底届かないのだが、王都全体の面積の半分以上が貴族の所有する土地だ。
貴族が住む貴族街区では、高位の貴族の館ほど敷地が王城に近く、また面積も大きい。どの家も壮麗な館と見事に手入れされた庭を持ち、中には大きなガラス窓を持つ温室がある館も少なくなかった。そうした温室では珍しい植物や花が栽培され、奥方や令嬢たちがティータイムを楽しむ場として利用される。
一方、そうした貴族街区のほぼ外縁部に当たる下級貴族の邸宅は、中心部の大貴族のそれに比べれば小ぢんまりとしたものだ。もちろん、庶民の家に比べればそれでも大層な“お屋敷”ではあるのだが。
そんな下級貴族の館が集まる一角に、アルヴィーは現在進行形で立っていた。
「――ここがアルヴィーさんの新しいお宅、ですか」
「へえ、さっすが貴族のお屋敷って感じだなー」
……第一二一魔法騎士小隊の面々と共に。
そもそものきっかけは、アルヴィーに下賜される屋敷が決まったことだった。王都には下級貴族が主に経済的理由で手放した屋敷が少なくなく、それらは名目上国の管理下にあったのだが、その内の一つをアルヴィーが受領することとなったのだ。それを聞いた小隊の面々が、一度貴族の屋敷を見てみたいと言い出したため、隊の非番の日を選んでお宅訪問と相成ったわけである。
空き物件を一通り見て回り、アルヴィーが選んだのは、さほど大きくはないがしっかりした石造りの館だった。王都周辺で採れる石材は白いものが多いが、この館に使われているものは黄色みの混ざった灰色で、おそらくどこか別の地方から仕入れたのだろう。庭は貴族の邸宅には珍しく、芝生と低木がある程度の植生だ。ただ、岩と木を使って自然を模した小山を設えた一角があり、フラムの運動に良さそうだとちらりと思った。
館は母屋と、二階部分に使用人部屋を備えた厩舎からなる。母屋は二階建てだが地下に厨房や使用人用食堂があるので、実質三階分といっても良いだろう。意外と部屋数はある……が、地下にも使用人用の居室はあるし、そもそもそんなに大勢の使用人を雇う予定もないので、厩舎の方の部屋を使うかどうかは疑問だ。
玄関から中に入れば、玄関ホールから二階まで吹き抜けの広間に出る。ある意味館の“顔”であるため、貴族たちはこの広間を競って飾り立てるのだが、ここに関しては前の住人が調度品を軒並み引き揚げてしまっているため、何とも寂しい状態となっていた。
「広いだけに、がらんどうだと寂しいね。何か絵でも飾るかい、アル?」
「あー、いいよそういうのは。どうせ客なんてそうそう来ないだろうし。――それよか、やっぱり長く放っといたせいで、埃が凄かったんだよなあ。掃除しねーと」
そもそも、物欲に乏しいアルヴィーだ。ルシエルの勧めも一蹴し、各部屋の惨状を思い出してため息をついた。
国の管理下といっても名前だけで、その実態はほぼ放ったらかし。幸い、地魔法併用で見た目に違わずしっかりと建ててくれていたようで、雨漏りや崩落といった洒落にならない損傷はないが、部屋は軒並み堆く埃が積もり、どこか黴臭い匂いが漂っていた。玄関と広間は昨日入口を開けて換気したのでまだマシだが、各部屋はそんな気力すら失せるほど酷い。当然そんなところで寝泊りなどできないので、現在アルヴィーは未だ宿舎住まいである。
「家具とかも、前の持ち主が粗方持ってくか、処分しちまってるみたいでさ。とりあえず、ベッドとチェストだけは買って、後で持って来て貰うことになってんだけど」
そう言いながら、アルヴィーは寝室予定の部屋の扉を開け――そして目を瞬いた。
「……あれ?」
彼がぽかんと見やる先――誰も立ち入っていないはずなのに、埃一つなく綺麗に磨き上げられた室内を目にして。
「あら、もう掃除してあるじゃないですか」
「いやだって、まだ人とか雇えてねーから、今ここ俺一人しかいねーんだけど……? 昨日までこの部屋、間違いなく埃まみれだったぞ……?」
「……えっ」
そこはかとなくホラーな展開に、全員が絶句する。と、アルマヴルカンの声が聞こえた。
『主殿、後ろの柱の陰だ。いるぞ』
(いるって何が!?)
怖い想像をしながらも、アルヴィーは振り向きざまに《竜の障壁》を発動した。
『――ひいっ!?』
するとちょうど障壁が発動した辺りで、短い悲鳴があがった。
「誰だ!?」
もしかして不審者が勝手に住み着きでもしていたのかと、アルヴィーは鋭い誰何の声をあげてそこに駆け付ける。だが、障壁と壁に挟まれる形でじたばたしているその人影に、彼は目をぱちくりさせた。
「……何こいつ」
それは身長一メイル強というところ、体格は子供のそれだった。が、ぼうぼうに伸び放題の髪や髭、ぎょろぎょろした両目はどこか老人を思わせる。長い鷲鼻と細長い耳をし、くたびれた茶色の服を纏うその人影は、どやどやと大人数が駆け付けて来たことにまたしても悲鳴をあげた。
『ひいい、勘弁してくれよぅ! おいら、何にも悪さなんてしてねえよぅ!』
「……えーと……」
まるで子供を虐めているような、何ともいえないいたたまれなさに、アルヴィーはとりあえず障壁を消した。ただし、その途端に脱兎の勢いで逃げ出そうとした人影の襟首を掴むのは忘れない。
と、ユフィオが思い出したというように、ああ、と短い声をあげた。
「それもしかして、“家妖精”じゃないかな?」
「何だそれ?」
首を傾げるアルヴィーに、ユフィオ曰く。
「家妖精は、たまに人家に住み着く妖精だよ。家の住人が寝てる間に、家の中を掃除してくれたり、物を片付けたりしてくれるんだ」
「何だそれ、良い奴じゃん」
アルヴィーはまじまじと、自分が猫の仔のように襟首掴んで捕獲している家妖精とやらを眺める。だがその家妖精が、ぎょろりとした両目にうるうると涙を溜めているのに気付いて慌てた。
「あああ、泣くなって! えーと、とりあえず手ぇ放すけど逃げんなよ!」
『……怒ってねえかい?』
「ないけど、逃げたらまた捕まえるぞ」
『うう……分かったよぅ』
まだめそめそしながらも、家妖精は話し始めた。
『……おいら、この家ができてすぐの頃からここに住んでたんだ。だけど、部屋を片付けたら気味悪いって言われるし、夜中に働いてたら泥棒と間違われて追いかけられるし、終いにはだーれもいなくなっちまうし……』
しょぼんと肩を落とす家妖精が何だか不憫だ。
『おいらただ、ここに新しく人が住むっていうから、嬉しくて部屋を掃除したんだよぅ……』
「……っていうか、他の家には人がいるとこもあると思うんだけど、そっち行こうとは思わなかったのか?」
『他の家にはその家の家妖精がいることもあるし、最近の家は魔法防御があったりして入れないんだよぅ……おいらたち家妖精は、家事に関わる魔法は得意だけど、そんなに強い妖精じゃないんだよぅ』
「ああ……確かに、貴族の家はそういう防犯対策をしているところもあるね。うちもそうだ」
ルシエルが納得したように頷いた。
「へ? そうなのか?」
「屋敷を建てる時に、一緒に術式も仕込むんだよ。高位貴族の家は、大体やってるんじゃないかな。貴族は資産を自宅で管理するところも多いから、そうしないと危ないしね」
『けど、そういう魔法防御の術式があると、おいらみたいな家妖精も弾かれちまうんだよぅ……』
「……ん? 待てよ。じゃあここって、そういうのないのか?」
アルヴィーがふと気付いた。家妖精が入り込めているということは、つまりそういうことではないのか。
すると家妖精が頷く。
『そうだよぅ。ここには魔法防御の術式はねえよぅ』
「費用が掛かるからね。下級貴族はそこまで経済的な余裕のない家も多いし。僕は知らなかったけど、アルみたいに資産を金融ギルドに預けておけば、わざわざ大金を掛けて術式を仕込む必要もないよ」
ルシエルからの身も蓋もない補足も入り、アルヴィーは納得せざるを得なかった。
「そっか……家妖精も大変だな」
「昔は家妖精を家に住まわせてるのは自慢だったんだけど、今は使用人を多く雇ってる方が財力があるってことで自慢になるんだよね……」
「世知辛ぇ世の中だなー……」
ユフィオの説明にカイルが慨嘆し、一同も心から同意した。
「……それで、その家妖精どうするんですか、アルヴィーさん」
シャーロットが尋ねる。アルヴィーはきょとんと、
「え? だって家事やってくれるんだろ、だったらこのままいて貰うけど。――そういや、部屋掃除してくれて助かったよ。さっきは脅かしてごめんな」
途端に、家妖精は躍り上がって喜んだ。
『良いのかい!? おいらここにいて良いのかい!? やったあ!』
ぴょんぴょんと跳びはねながら、家妖精はあっという間に姿を消してしまう。アルヴィーが再び捕まえる間もない素早さだった。
「あ、消えた……」
「家妖精は、家の人間が寝てる夜に働くから。昼間に人前に出て来ることって、基本的にないんだよ」
「ふーん……ていうかユフィオ、やけに家妖精に詳しいな」
「あ、うん。僕の実家にもいるから」
「……え、ユフィオん家ってもしかして、結構金持ちだったりすんの?」
「ユフィオの実家は、王都でもそこそこ有名な商会だよ。確か前にも言ったでしょ?」
クロリッドが少々呆れたように教えてくれる。何でも、《メイスン商会》といえば主に食料品を扱っており、王都の商会の中では五指に入る規模だそうだ。そういえば前にそんな話を聞いたような気がしないでもない。
「……何でそんなとこの坊ちゃんが騎士とかやってんの?」
「実家は上の兄さんたちが継ぐし、そもそも僕商売とか向いてないから」
「基本的にユフィオって人見知りだからね。商売とか無理無理」
ひらひら手を振るクロリッドに、ユフィオがじとりとした目を向けた。
「……魔動機器弄りに熱中し過ぎて食事も睡眠も忘れて、僕が現実に引き戻さなきゃどっかで死んでたような人に言われたくないなあ」
「うっ……」
反撃にクロリッドも言葉に詰まった。
「ま、騎士団に入れば、運次第でとびっきりの人脈掴めるしねー。平民が貴族サマとお近付きになろうとするんなら、騎士団が一番現実的なのよ。もっとも、その分平民にとっては騎士学校の入学試験は狭き門なんだけど」
「後はぶっちゃけ給金だな。下っ端の五級騎士でもそこそこ貰えるし」
ジーンとカイルがとっても現実的かつ生臭い理由も述べてくれる。ディラークが苦笑した。
「おまえたち、いくら何でももう少し言葉を飾れ」
「だって事実だろ。オッサンだって給金は少ないより多い方が良いだろうに」
「それはそうだが」
小隊の良心もあっさり頷いた。ちなみにさっきから無言を貫くユナは、ひたすらフラムを構って遊んでいた。
「……とにかく、まずは使用人を雇わないと格好が付かないんじゃないですか? いくら家妖精がいるといっても、仮にも貴族の家に使用人なしなんてあり得ませんし」
シャーロットのもっとも過ぎる忠告に、アルヴィーも頷いた。
「ああ、だからこれから探そうと思って。大隊長にも言われたしな」
「……当てはあるの?」
ルシエルが意外に思ってそう問うと、アルヴィーはきょとんと、
「え、街で募集でも掛けりゃ一発じゃね?」
「……隊長」
「ああ、僕はうちの執事の伝手で執事の方を当たってみる」
もはや沈痛な面持ちのディラークに促され、何だか痛み始めたように思うこめかみを指で揉みつつ、ルシエルは深く嘆息した。
「え、そんな大事にしなくていいって、ルシィ」
「アル、貴族の家の使用人っていうのは、身元がしっかりしてなきゃいけないんだよ。知り合いの貴族の紹介とか、そういう身元の保証がある人間じゃないと、安心して家のことを任せられないだろう?」
「貴族っつっても、俺そもそも平民だし、」
「アル?」
にっこりとルシエルに微笑まれ、アルヴィーは慌てて首を縦に振った。
「う、うん、じゃあよろしく……」
「じゃあ後は、最低限女中頭と料理人……それと、馬車を持つなら御者も要るね」
「え、でもぶっちゃけ馬車より俺が自力で走った方が速、」
「アル。何度も言うけど」
ぽんとルシエルの手が肩に置かれる。だがなぜだろう、次第にぎりぎりと力がこもってくるような。
「貴族社会じゃそういうのは通用しないんだ。――それに貴族が使用人を雇うのは、何も見栄だけじゃないんだよ。領地の方でもそうだけど、貴族が平民を使用人として雇うのは、一種の雇用対策でもあるわけ。そりゃ、男爵家ならあんまり大人数は必要ないけど、それでも本来なら執事、女中頭、料理人、御者、それにメイドや従僕の何人かは欲しいところだね」
聞いているだけで、アルヴィーは気が遠くなりそうだった。世界が違い過ぎる。
「とりあえず、父にも相談してみよう。そこそこ顔は利くから」
すっかりその気のルシエルは、おそらくもう止まらない。アルヴィーはすべてを諦め、遠い目でため息をついた。
◇◇◇◇◇
アルヴィーの家の使用人選びは、途中少し揉めはしたものの、何とか納得のいく人選ができた。
執事はクローネル家の執事・セドリックの執事人脈経由で、以前別の男爵家に仕えていたという三十代後半の男性を確保。何でも、貴族社会の常識や仕来りに詳しく仕事もできるのだが、優秀かつ真面目過ぎて主家の放蕩息子に煙たがられ、息子に甘い両親によって暇を出されたという。貴族社会の諸々に疎いアルヴィーにとって、心強い存在になってくれそうだった。
ルシエルも色々と教えてくれるが、家のランクが違うのでそのまま適用できない場合もあり、何より彼自身も次期伯爵家当主となるべく忙しい身だ。あまり手を煩わせることはしたくなかった。
女中頭はこれも、四十がらみの女性だ。貴族の家の女中頭というよりは大家族の肝っ玉母さんという雰囲気の女性で、どこか亡き母を思い出すが、その分すぐに打ち解けられたのは有難い。以前働いていた家にも家妖精がおり、その対応も知っているということで、家妖精については彼女に任せることにした。上手く付き合ってくれるだろう。
そして料理人はまだ若く――それでもアルヴィーよりは年上だが――二十代半ばの青年だった。寡黙で顔に目立つ火傷痕があるため、一見近寄り難い印象だが、腕は確かだ。火傷は以前、火事に巻き込まれた時のものだそうで、以来、見栄えが悪いと勤めていた屋敷を追い出され、その家の縁者がさすがに哀れに思って新たな奉公先を探してやっていたらしい。だが別に料理は顔でするわけではないので、アルヴィーは躊躇なく彼を採用した。そもそも、村の猟師には熊に襲われて顔面に盛大な向こう傷を作られた者もいたのだ(その雪辱は後日、仲間の猟師と共にきっちり晴らしたと聞いた)。多少の傷跡など、アルヴィーにとってはないも同然である。
ともあれ、必要最低限の使用人を揃えることができたのは有難かった……のだが。
「……何か、やたら若いメイドとか、そういう人ばっか勧めてこられたんだよなあ……紹介してきた貴族にもしつこいのがいて揉めかけたし。断んの疲れた」
本部に出て来るなり、はああ、と盛大なため息をついたアルヴィーに、第一二一魔法騎士小隊の面々は顔を見合わせた。否、約一名カイルだけは、羨望の眼差しでアルヴィーを見やったものだが。
「何だそれ、いいじゃないか、若い美人が目白押しってことだろ? 一人くらい雇えば良かったのに」
「だって、顔で仕事するわけじゃないだろ。だったら俺と同い年くらいの若いメイドより、多少年が上でも色々知ってる人の方が良いよ。俺、貴族の間の仕来りとか全然知らないし」
自給自足の小村で育ったアルヴィーにとっては、容貌は二の次だった。村でモテたのはただ美人なだけではなく、働き者の娘だ。そんな村基準の実利的きわまる彼の台詞に、だが周囲の面々は何となく悟ってしまってこっそりと目を見交わす。
おそらくそれは、遅まきながら《擬竜騎士》と誼を結びたい貴族たちが送り込んだ、色仕掛け要員だったのだろう。もっとも、アルヴィーはまったく気付くことなくその思惑を粉砕したようだが。無欲の勝利、というべきか。
「……雇ってたらあれですかね、朝起きたらそのメイドがいつの間にか同じベッドで寝てた、なんつーことになったんすかね……」
「あり得るな。まあ、アルがまとめて不採用にした以上、その手の工作は無駄だと分かっただろうし。同じ轍は踏まないだろう」
「だと良いのですが」
ぼそぼそ囁き合う男性陣。世の男なら羨みそうなところだが、アルヴィーの場合加護の件もあって色々と洒落にならないので、囁く声音も真剣だ。
「? 何の話だ?」
「とりあえずアルは身辺に気を付けないとねって話だよ」
「ああ……そうだな、シアんとこの連中がまた来るかもしれないし」
何せホイホイと転移を使いまくり、一国の王城にまで堂々と侵入した前科持ちである。それも複数回。ましてやメリエ辺りにそれをやられた日には、下手をしたら王都がレドナの二の舞になりかねない。そうなれば一大事だと気を引き締めたアルヴィーは、男性陣の生温い眼差しには気付かなかった。
「――そういやさ、例の魔剣の一件でこないだ、公爵家に家宅捜索入ったって聞いたけど」
ふと思い出したようなアルヴィーの一言に、ルシエルは頷いた。
「僕は一応関係者になるから、捜索にはうちの隊は参加しなかったけど。――でもあの捜索とこれまでの捜査で、あの剣が異母兄上に渡った経緯なんかも大体分かったし、クローネル家が一方的に汚名を被せられることはなくなったと思う。ただその分、あの使用人の罪は重くなるだろうね」
「そうなのか……」
あの呪いの剣により、セルジウィック侯爵邸で起きた殺傷事件は、できる限り外に漏れないよう両家の当主が尽力したが、それでも人の口に戸は立てられないもの。事件は密やかに、噂として主に貴族たちの間で囁かれていた。剣そのものが強力な呪いの力を持ち、持ち主はその力に操られただけとはいえ、犠牲者の数が数だ。どうしても、両家の名が出るのは避けられなかった。
そこへ、ギルモーア公爵家の使用人と、剣を盗んだ盗賊が検挙され、事件が“使用人によって仕組まれた”ものであることが発表されたことで、人々の興味はそちらへと移り始めたのだ。ギルモーア公爵家は使用人の一存ということで事件への関与を頑なに否定しているが、それさえも噂好きな貴族たちの興味を掻き立てる役にしか立っていない。噂が沈静化するまでには、今しばらく時間が掛かるだろう。
もっとも、当事者であるクローネル家長男・ディオニスは、剣の力の影響を多分に受けたようで、未だに領地の中でも辺鄙きわまる地で“療養中”。その母ドロシアも精神的に不安定で、未だ人前に出られるような状態ではないと聞く。ゆえに王都の噂に直接さらされることはないのだが、それが当人たちにとって幸せなことかどうかは分からない。
ともあれ、ルシエルの身辺がこれで落ち着き始めたのは確かだった。
「すべて平民の使用人に押し付けて幕引き……というのは、虫が良過ぎるとは思うけどね。でも、公爵家の家宅捜索や盗賊の家から出て来た証拠物件だけじゃ、公爵家の関与は証明できなかったらしいんだ。盗賊は使用人としかやり取りしていないし、使用人本人は口を噤んでだんまり。――それだけ公爵家に忠誠を尽くしているのか、それとも他に理由があるのかは分からないけど」
本人が固く口を閉ざしているため、彼を主犯として罪を問うしかないのが現状だ。素性を偽って侯爵邸に入り込み、危険を承知しつつ伯爵家子息に呪われた剣を渡したとなれば、まず処刑は免れまい。
「……何か、後味悪いな。まあ、ルシィんとこは直接巻き込まれたし、そんなこと言ってらんないかもしれないけど」
「いや、僕も似たような感じだよ」
それに、とルシエルは思う。
(……《女王派》の中でもクローネル伯爵家が狙われたのは……きっと僕のせいだ)
――『一番強固にアルヴィー・ロイを《女王派》陣営に繋ぎ止めてる君は、《保守派》としては邪魔だよねえ』
かつて、もう一人の異母兄であるクリストウェルから受けた忠告が、改めて脳裏に響く。
おそらく公爵としては、ルシエルが死ねばそれで良し、生き残ればそれはそれで、取り込んでしまおうと思っていたのだろう。異母兄たちとその母を利用したのは、ルシエルが生き残った場合に取り込みやすくするため、憎しみを煽っておこうと考えたのかもしれない。確かに世間一般の常識で考えれば、彼は異母兄たちを疎ましく思ってもおかしくない立場だったのだ。
……まさか、ルシエルが彼らのことをほぼ何とも思っていなかったとは、さすがに予想外だっただろうが。
(傭兵をけしかけられた一件を差し引いても、異母兄上たちは僕を狙った陰謀に利用されたようなものだしな。――表立っては向こうが嫌がりそうだけど、何か援助でも考えるべきか)
あの一件で死傷した侯爵邸の使用人たちにも申し訳なく思うが、そちらはセルジウィック侯爵が対処してくれている。だが彼は、クローネル家の領内に引き取られた娘と孫には、直接の関与ができない。それを自分が担っても良いかもしれないと、ルシエルは思い始めていた。無論、父は良い顔をしないだろうが。
そんなことを考えていると、
「――失礼します! 《擬竜騎士》にカルヴァート一級魔法騎士より言伝がございます!」
本部内で雑務を担当する下働きの少年が、溌剌とした声で話しかけてきた。
「言伝?」
「はい! こちらに!」
折り畳まれた一枚の紙を、少年はアルヴィーに差し出してくる。受け取り開いてみると、本部に来たらすぐに大隊長執務室に出頭するようにとのことだ。頷いてそれを仕舞った。
「分かった。すぐに向かう」
「はい! では失礼します!」
ぺこんと勢い良く一礼し、仔犬のように駆け出して行く少年を、アルヴィーはほのぼのと見送った。
「元気が良いのが入って来たなー」
「というか、単に張り切ってたんじゃないですか? アルヴィーさんは今や有名人ですから。まあ、今までも有名といえば有名でしたけど」
「平民から“本当に”貴族になるなんて、滅多にあることじゃないしね。お近付きになりたかったんじゃない?」
「印象に残ってあわよくば側付きに、なんて考えるのもいるかもねえ」
……ほのぼのとした気分は一気に萎えた。
「……とりあえず、呼び出し食らったから行って来るわ……」
「僕たちもそろそろ巡回に出るよ。それじゃ」
「ああ」
ルシエルたちと別れ、アルヴィーはジェラルドの執務室へと向かう。それを見送っていたシャーロットの肩を、ジーンとユナがそれぞれぽんと叩いた。
「……ま、何ていうか……あんまり落ち込まない方が良いわよ?」
「大丈夫。ロットならまた良い人が出て来ると思うし……」
「……何の話ですか」
じとりと二人を見やると、ジーンはどこか慈しむような目で、
「平民同士ならともかく、向こうが貴族になっちゃったんじゃ、そのまま結婚なんてわけにいかないものね」
「ちょっ……! 何でそこまで話が飛ぶんですか!?」
「わたしはロットのこと応援してるけど、見込みがないならいっそ他を当たっても良いと思うの」
普段寡黙なユナが、恐ろしいほど真剣に力説してきた。
「だからっ! わたしたちは別に、そういう関係じゃないですから!!」
普段の冷静さをかなぐり捨てる勢いでそう言い切り、シャーロットは大きく息をついた。
「……本当に、そういうんじゃないんですよ」
彼にはきっと、大切なものがたくさんある。
自分も“仲間”としてその中に数えられてはいるのかもしれないけれど――それだけなのだ。
ぽつりと漏れた一言に、どこか寂しげな色がよぎったことに、彼女は気付かなかった。
◇◇◇◇◇
ファルレアン王国の北東に位置する小国、サングリアム公国――その首都サングリアムにベアトリス・ルーシェ・ギズレが下り立ったのは、そろそろ日も落ちようかという頃だった。
「……首都だっていうのに、静かだこと」
そう呟き、彼女は乗騎たるヒポグリフの背から街を眺める。主たるレティーシャから、足と護衛を兼ねて与えられたヒポグリフは、小さく鳴いてベアトリスを振り返った。最初はその異形の姿になかなか近寄れなかったベアトリスも、もう慣れたもので首筋を撫でてその労をねぎらってやる。
「いい子ね。――さ、まずは《エレメントジャマー》の確認かしら」
彼女はレティーシャの命により、三公国の視察に赴いていた。すでにモルニェッツ公国とロワーナ公国を回り、残るはここサングリアム公国のみだ。ここはクレメンタイン帝国にとっても重要な地であるため、少し長めに時間を取るために一番最後に回した。
ヒポグリフに乗ったまま進み始める彼女に、だが道行く人々はさして興味を示すこともない。街中にはかすかに、だが確かに薔薇の甘い香りが漂い、人々はそれに酔うように、茫洋とした眼差しで行き交っている。
それを当然とばかりに一瞥し、ベアトリスはサングリアムの中心である大公の居城へと向かった。
――サングリアム大公の居城は、高い城壁と尖塔を持つ優美な城だ。だが本来は石造りであるはずの城は、今や茨に包み込まれ薔薇に彩られて、その面影も見えなかった。
「まあ……薔薇のお城なんて、初めて見たわ」
感嘆の声をあげ、ベアトリスはその光景を眺めたが、いつまでもそうしているわけにもいかない。ヒポグリフに合図を送ると、心得たようにその翼が広げられ、引き締まった体躯がふわりと空に浮いた。その手綱を取り、ベアトリスはヒポグリフと共に、一息に城壁を飛び越える。
城の庭に下り立ち、ヒポグリフの背から下りると、ベアトリスはヒポグリフの嘴を撫で、噛んで含めるように言い聞かせた。
「いいこと、あなたはここでおとなしくしていてちょうだい。すぐに戻って来るわ」
分かったとでも言うように一声鳴いた乗騎の嘴をもう一度撫で、ベアトリスは城内に足を踏み入れる。街中よりも数段濃い薔薇の香りが、彼女を取り巻くように包み込んだ。そんな空間で時折すれ違う侍女や文官たちは、いずれも思考を奪われたかのように虚ろな表情で、ベアトリスの姿を認識することもできずに歩いて行く。
(……事前に陛下から薬をいただいてなければ、わたしもああなっていたのね。凄いけれど、恐ろしいわ……)
彼らの表情に、《薔薇宮》の使用人たちにも通じる薄気味悪さを感じながら、彼女はわずかに足を早めた。
「……ここも、《エレメントジャマー》は問題なく稼働しているわね」
かつて惨劇の舞台となった大公の執務室。さすがに今は後始末も済み、壁にわずかに残った血痕のみが当時の凄惨な現場を物語る。だが見た目にはあまり目立たず、立ち込めていた血臭すらも薔薇の香りに押し流されて欠片すらない。
そこに据え付けられた魔動機器を確認し、ベアトリスは小さく頷く。これが稼働している限り、風の下位精霊はこの首都一帯には立ち入れないと、彼女は主から聞き及んでいた。嘲るような笑みが、その顔を彩る。
「“風の女王”なんて呼ばれていても、やっぱり陛下には敵わないのね。いい気味だわ……」
歪んだ優越感をしばし楽しむ。ベアトリスの家族は国家反逆罪に問われ、他ならぬ女王アレクサンドラの名において処刑された。その恨みと憎しみは、未だこの胸の中で炎となって燃え続けている。それを確かめるように、彼女はしばしそこで立ち尽くした。
だが、あまり時間を掛けるわけにもいかない。心を静めると、左腕にはめた腕輪の宝石部分に右手を翳した。一瞬の後、その手には一本の長杖が握られる。頭部に宝玉を戴き、石突き部分が二股に分かれた奇妙な形状の長杖だ。
ベアトリスは杖を掲げ持つように、ゆっくりと室内を巡った。と、本棚の一つがカチリと音を立てて、まるで扉のように開き始める。その向こうには両開きの扉。取っ手も何もなかったが、その扉もひとりでに両側に吸い込まれて、その内部をベアトリスの前に曝け出した。
「まあ……」
ベアトリスは絶句して、“それ”を眺める。扉の向こうには小さな部屋――だが、彼女は主から聞き知っていた。これは魔力で上下に動き、人間を階段より数段早く上下の階に運ぶための、昇降機と呼ばれる設備だという。
恐る恐る乗り込むと、両側に開いていた扉が閉じ、一瞬だけふわりと浮くような感覚。だがすぐに、今度はわずかに沈むような感覚を覚えたかと思うと、扉が開いた。
そこから一歩踏み出し、ベアトリスは息を呑む。
――そこは、広大な空間。
そしてそれを埋め尽くすかのように、巨大な魔動機器がいくつも並んでいた。
(凄い……)
半ば呆然と、ベアトリスはそれらを見上げる。ものによっては家ほどの大きさのあるそれらの魔動機器は、未だ現役のようで、低い唸りをあげながら稼働している。どうやら区画によって機器の種類が違うようだったが、どちらにしろ彼女には分からないので関係のない話だ。
「……そうだわ。この“鍵”を認証させてしまわないと」
はっと我に返ったベアトリスは、急いでそれらの機器の中心に向かった。
「――ここね」
やがて発見したのは、機器の群れの中央部に位置する台座だった。魔法陣ともわずかに違う、直線を多用した精緻な紋様が台座の中心、二つの穴を中心に四方に向けて広がっている。ベアトリスは慎重に長杖――否、“鍵”の二股部分を、その二つの穴に合わせて挿し込んだ。
次の瞬間――杖の頭にあしらわれた宝玉が、眩い光を放った。
「きゃっ……!?」
思わず目を瞑って顔を背けるベアトリスの足下を、“鍵”から流れ込んだ光が紋様に沿って駆け抜けていく。それは見る間に、この巨大空間の床全体に広がって、空間をほんの一瞬明るく輝かせた。
「……な、何だったの……今のは」
ぽかんと呟いたベアトリスだったが、とりあえず認証は上手く行ったようだ。“鍵”を台座から引き抜き、やや急ぎ足で元来た道を戻り始めた。
――大公の執務室に戻り、扉を元通り閉じてしまうと、ベアトリスは“鍵”を腕輪型魔法式収納庫に仕舞い、部屋を後にする。そして建物を出ると、庭の乗騎のもとに舞い戻った。
「さ、《薔薇宮》に戻りましょう」
ベアトリスが声をかけると、ヒポグリフは甘えるように喉を鳴らして彼女に嘴を寄せる。だが、彼女がその背に乗ろうと鐙に足を乗せかけた瞬間、風を切って飛んできた細い刃物が、ヒポグリフの尻を掠めた。
「――きゃあっ!?」
驚いて暴れ出したヒポグリフに弾き飛ばされ、ベアトリスは地面に投げ出される。身を起こそうとしたその首筋に、だが次の瞬間、ひたりと冷たいものが押し当てられた。
「……娘、何者だ。稀少な幻獣を乗騎に使っているところを見ると、ただの密偵ではあるまい」
「――っ……!?」
息を呑むベアトリスを、刃物を突き付けた人影が左腕を掴んで引きずるように立たせる。覆面をしているため顔立ちなどは分からないが、声からして男ではあるようだった。
「……そちらこそ……っ、何者なの……!」
「状況が分かっていないのか? 質問しているのはこちらだ」
刃物を突き付けた優位のためか、男の声は落ち着いていた。ファルレアンにいた頃の、貴族令嬢だった彼女ならば、恐ろしさのあまり意識でも飛ばしていたかもしれない。
だが――今の彼女には、主たるレティーシャから与えられた力があるのだ。
そしてそれを自衛のために揮うことも許されている。
す、と男に気付かれないよう静かに、ベアトリスは左手首の腕輪に手を翳した。呼び出したのは一本の扇。だがただの扇ではない。彼女がレティーシャから賜った魔法武器だ。
「……うん? 娘、何を――」
男の疑問を皆まで言わせず、彼女はその扇を開くが早いか、地面に向けて鋭く打ち振った。
「――何っ!?」
いきなり足元の地面が弾け、男は驚きのあまりベアトリスの腕を掴んだ手を緩めてしまう。その機を逃さず、彼女は男の手を振り解くと、飛び退って距離を取りつつ再び扇を打ち振った。
「ぐあっ」
放たれた不可視の刃が、男を斬り伏せる。しかしベアトリスは気を緩めることなく、もう一度扇を打ち振った。地面に伏した男の背中がばっさりと切り裂かれ、血飛沫が飛び散る。それを確かめ、ようやく彼女は扇を下ろした。
「……っ、はぁっ……!」
荒い息をつき、震える腕を叱咤しながらも、彼女は男から目を逸らすことはなかった。
(……そうだわ。素性を確かめないと……)
恐る恐る近付き、男の生死を確かめる。覆面を剥がし、首筋を指で探ったが、脈は感じられなかった。息を呑みながらも、震える指先で男の服を探る。残念ながら身元を証すようなものは身に着けていなかったが、それでも所持品を片っ端から魔法式収納庫に詰め込んだ。後で調べる役くらいには立つだろう。
(……顔を隠していたし、多分他国の密偵か何かなんだわ……きっとサングリアムの様子を探りに来たのね。薔薇の香りを嗅いでも正気を保っていたようだけど、薬の類に耐性があったのかしら。――ともあれ、陛下にご報告しないと)
集めるべきものはすべて集め、ベアトリスは立ち上がった。暴れていたヒポグリフも、ようやく落ち着いたのか戻って来る。その背に今度こそよじ登ると、ベアトリスはヒポグリフを空に舞わせた。
「早く……早く帰らなきゃ。《薔薇宮》に……」
うわごとのようにそう呟きながら、ベアトリスはひたすらに乗騎を駆り、日没後の空を翔け抜けていく。
手綱を握ったその手が震えていることに、彼女は気付かないふりをした。




