第80話 叙爵
“彼”は、一人の女と対峙していた。
風になびく長い黒髪が印象的な、若い女だ。彼女は乱れる髪を片手で押さえながら、恐れる様子もなく“彼”を見ていた。
『――何用だ、人間』
「別に用というほどのものはないけど……噂を聞いたから、ちょっと立ち寄ってみただけよ。竜を見るのは初めてなの」
髪と同じく黒い瞳を細め、彼女はわずかに笑ったように見えた。
『“ちょっと立ち寄ってみた”か。――その程度の軽い気分で立ち寄れるほど、ここは人里には近くないのだがな』
「言葉の綾というものよ」
そうはぐらかす彼女を、一際強い風が撫でていく。黒髪と対照的な、白い上着が大きくはためいた。
ここは高山、それも頂上近くだというのに、彼女はその辺に散歩にでも出るかというような軽装で、傷一つなくそこに立っている。ともすれば強風に吹き飛ばされるのではないかと思うほど華奢な身体は、だが地に根を張る若木のごとくにしっかりと地面を踏み締めていた。
『人の身で転移を操るか。人間の間で、そこまで魔法技術が進んでいようとはな』
「ここまで使えるのはまだわたしくらいのものよ。これから広めるの」
彼女は小さく笑う。だがその笑みはどこか、暗さを帯びたものだった。
「世界一つだなんて、面倒なものを丸投げしていってくれたけど。いつか、後悔させてやるの。“神様”とやらをね。だから、――」
ざあ、と風が吹いた。
彼女の言葉の最後は、山の頂を翔け抜けていった冷涼な風に掻き消される。
奇妙にぎらぎらと光る黒い双眸だけが、やけに印象的だった。
「――……」
ふっ、と意識が浮上する。
アルヴィーはぼんやりと、投宿している部屋の天井を見上げていた。
(あれ? ここ……そっか、リシュアーヌか。――今日ファルレアンに戻るんだっけ……)
何とか記憶を掘り起こしながら、もそもそと起き出す。そうすればだんだんと頭も目覚めてきたようだった。枕元ですぴすぴ寝ているフラムを起こさないように気を付けつつ、ベッドを下りて最低限の身繕いを始める。
「……なあ、アルマヴルカン」
『何だ』
さすがに竜の魂というところか、こちらは寝惚けるなどということには縁がないようで、いつも通りはっきりした声が返ってきた。そんなアルマヴルカンに、アルヴィーは先ほどの夢について尋ねてみる。
「さっきの夢だけど。――あれってさ、前にシルフィアが言ってた、《黒白の魔女》ってやつじゃねーの」
黒い髪を持ち、白い衣に身を包み、白の善良と黒の悪逆を併せ持つという魔女。遥かな昔、この世界にいたという神々が、力を与えて地上に遣わしたという彼女を、アルヴィーはもちろん知らない。だが先ほどの夢の彼女が“そう”だと、なぜか直感した。
「つーか、あれアルマヴルカンの記憶だろ? ってことは、前に会ったことあるんじゃねーか……あの時は知らないっぽいこと言ってたのに」
そう突っ込むと、アルマヴルカンはしれっと、
『なにせわたしは長く生きていた。些細なことは忘れもする。――大体、あの者がそう呼ばれていたこと自体、わたしは知らなかったからな。嘘はついていない』
「そりゃそうかもしんねーけど」
まあそもそも、あれは単にアルマヴルカンの記憶を夢として覗き見てしまっただけのことだ。魔法技術研究所にでも話せば小躍りして喜ばれそうだが、とりあえず何かの役に立つことはなさそうだと結論付け、アルヴィーは追及をやめた。
「ま、いっか。――にしても、今日もいい天気になりそうだな」
その予測は当たり、その日は気持ち良い青空が広がる晴天となった。
爽やかな空気を胸一杯に吸い込み、出立の支度を終えたアルヴィーはもう一度自身の装備を確かめる。
(忘れ物はないな。報告書も全部、魔法式収納庫に入れたし……あと勲章も)
ポルトーア砦のアンデッドを一掃し、リシュアーヌ軍の被害を抑えた功績として、アルヴィーには勲章が授与された。貰った勲章の第一号が他国のそれとは皮肉なものだが。とりあえず大仰な式典などがなかったのは、アルヴィーを安心させた。
……ただし、その勲章が他国の人間に与えられるものとしてはほぼ最高に近いランクであることは、努めて考えないようにしたが。アルヴィーにしてみればただ単に《竜の咆哮》をぶっ放しただけな上に、メリエとの戦闘で砦を丸焼けにしてしまっているので、どうにもいたたまれない気分になるのだった。
ファルレアンへは、リシュアーヌ側の飛竜で送って貰えることになっている。城内に設けられている乗り場へと向かうべく、アルヴィーはここ数日使っていた部屋を後にした。
「――おはようございます、《擬竜騎士》殿」
建物を出ると、外で待っていたのか、ベルナールが声をかけてくる。
「あ、おはよーございます……」
出待ちとか何これ怖い、と思いつつ会釈。ベルナールは朝の空気にも負けない爽やかな笑みを浮かべ、
「あれだけの大仕事をしていただいたのに、式典の一つもなく申し訳ありません。何分、事が国防に関するもので、あまり派手なことをして他国に感付かれたくない――というのが、上層部の意向でして」
「や、むしろその方が有難いです……」
アルヴィーは心の底からそう言った。一応歓迎の意を表した晩餐会が開かれ、勲章の授与もそこで行われるというひっそりっぷりだったのだが、下手に城を挙げての式典など大々的にぶちかまされるよりは、アルヴィー的によっぽど気が楽だったので。
ひょっとすると、自分が単騎でリシュアーヌに派遣されたのも、できる限り他国に感付かれないようにとの配慮だったのかもしれないと、アルヴィーはふと思った。ぞろぞろと人員を引き連れて行けばどうしても目立つ。国家間同士で諜報合戦の様相を呈している昨今、それはいかにもまずいだろう。実際はどうであれ、立場上は一介の騎士団員でしかないアルヴィーだけならば、しばらく国を空けても何とか誤魔化しが効く。
(……これでファルレアンは、リシュアーヌに“貸し一つ”ってことか)
そう思ってしまう程度には、アルヴィーも国際情勢というものが分かりつつあった。
「そう言っていただけると助かりますよ。――飛竜はこちらに用意してありますので、どうぞ」
「ありがとうございます」
案内されて向かった飛竜の乗り場には、すでに一騎の飛竜が待機していた。アルヴィーの方で気配を抑えているので、特に怯えたりしている気配もない。
搭乗用の装備を装着していると、なぜか兵たちから次々に握手を求められる。どうやら、ポルトーア砦の一件は表沙汰にはされていないながら、兵たちの間ではしっかり広まっているようだった。どう足掻いても人間離れした肌をしている右手は、一応外出用の長手袋で隠していたが、それにも構わず右手で握手を求める人間が多いのには驚いた。話には聞いていても、実際に戦闘形態を見ていない分、実感が薄いのかもしれない。
ともあれ、騎乗の支度を整えて、アルヴィーは飛竜に跨った。胸元のフラム運搬袋が飛行中に落ちたりしないよう、もう一度確認する。
「――落ちたら死ぬからな。暴れんなよ」
「きゅっ」
袋から顔だけ出したフラムは、だがアルヴィーの胸元に抱えられてご満悦なので、当分はおとなしくしているだろう。
そのことに安心し、アルヴィーはベルナールに向き直った。といっても、飛竜の高さ分アルヴィーの方が見下ろすことになるが。
「お世話になりました」
「こちらこそ。何でしたら、またいらしてください。歓迎しますよ」
冗談なのか否かいまいち分からない勧誘を曖昧な笑みで流す。そこで飛竜が離陸態勢に入ったので、ベルナールは少し離れた。飛竜の巨体が、その厳つさに似合わぬ繊細さでふわりと浮き上がり、翼を羽ばたかせるごとにぐんぐん上空へと舞い上がっていく。
近頃は飛竜での移動にも慣れてきて、周囲や眼下を眺める余裕もできてきたアルヴィーだったが、ふと、遠くの塔の一つで動くものを見つけた。
「……あれ」
アルヴィーの視力は、それが塔の窓から身を乗り出さんばかりにして、懸命に手を振っている子供だということを、はっきりと見て取っていた。
「おいおい、危ねーな」
まあ、周囲にお付きの侍女たちがいるので、転落するようなことはあるまい。アルヴィーはそちらに向けて大きく手を振ってやる。しかしそれも束の間、飛竜が大きく羽ばたいて風に乗り、王城はあっという間に遥か後方に遠ざかって、程なくアルヴィーの視界からも消えてしまった。
「――わあっ、見た!? こっちに手を振ってくれたよ!」
目をきらきらと輝かせ、セルジュは窓から身を乗り出そうとする。傍ではらはらしながら見ていた侍女が慌てて止めた。何しろこの塔は高いが、テラスなどというものはなく、窓から落ちればそのまま地上まで一直線だったので。
「ええ、拝見致しましたよ」
「よろしゅうございましたね、殿下」
見送る先、飛竜はどんどん遠ざかり、すぐに見えなくなってしまう。それを見届け、セルジュはしょんぼりと眉を下げた。
「本当なら、ぼくもお見送りに行きたかったんだけどな……」
「なりませんよ、殿下。ファルレアンの上級騎士といえど、彼は平民なのですから。国王陛下のご嫡孫たる殿下が、みだりにお会いになって良い相手ではございません」
侍女が諫めるようにそう言った。彼女たちはいずれも、王子の侍女として選び抜かれた名家の娘たちだ。ゆえに、身分や家柄については特にこだわる傾向があった。そんな彼女たちからは当然、セルジュが他国の騎士を見送りに出るなどという許可など出るはずもなく、こうして塔の窓からの見送りに留まったのである。
むう、と口を尖らせ、セルジュはぴょんと踏み台から下りた。彼の身長では、窓から顔を出すには少々不足気味だったので、仕方なく使っていたのだ。
「――さ、殿下。お見送りも叶いましたし、次は座学のお時間ですよ」
「えーっ、つまんない」
「ですが殿下、陛下のような良き君主になられるためには、必要なことでございますよ」
「むー……」
侍女たちに急かされ、セルジュは不満ながらも、窓辺を離れて歩き始めた。
◇◇◇◇◇
騎士団によってギルモーア公爵家の使用人と、彼の息が掛かった盗賊が捕縛された翌日。
中央魔法騎士団第二大隊長――つまりジェラルドの執務室には、彼とその部下たち、そしてルシエルとシャーロットが集まっていた。クローネル家を巻き込んだ魔剣騒ぎが大きく進展しそうだということで、ルシエルは任務完了の報告ついでに引き留められたのだ。シャーロットは事情を呑み込んでいることもあり、動きがあった場合は小隊への連絡役を担う。
「司法大臣閣下には話を通してある。捜査令状も問題なく下りるはずだ。さすがに相手が公爵ともなると、多少時間は掛かるがな。――セリオ、現場は間違いなく封鎖してあるな?」
「はい、問題ありません。転移で直接現地に飛びましたから、公爵家に連絡が行く前に手を打てたはずですし。多分使用人の方は盗賊の家から何かの証拠物件でも持ち出そうとしたんでしょうけど、暗殺未遂の現場ともども、ひとまず全部まとめて封鎖してきました」
セリオが請け負い、ジェラルドは頷いた。
「よし、上出来だ」
「ですが隊長。ギルモーア公爵家側がどう出て来るか……」
パトリシアが眉をひそめる。だが、ジェラルドはニヤリと笑った。
「それを待ってるんだよ」
「けどこれ以上、公爵家に何かできることありますかね?」
セリオが首を捻る。
「だって、現場押さえられてるのに、誤魔化しようないんじゃないですか、これ」
「そうとも限らない。すべて使用人に押し付けて、自分は逃れる算段を立てていないとも限らないだろう?」
ルシエルがさらりと、えげつないことを口にした。しかし実際、貴族社会ではそういったことは珍しくもない。何しろ貴族は、家の名や体面に傷が付くことを殊の外嫌うのだ。特に高位の貴族であれば、家の名誉を守るために使用人一人切り捨てる程度はためらいもないだろう。
「まあ、もうそれくらいしか逃げ道ありませんしね、実際」
シャーロットがさっぱりとそう締め括った。
「使用人がやらかしたとなれば、公爵家も多少の痛手は被るでしょうけど、ご当主その人が仕組んだと知られるよりは、格段に傷が浅いですし」
「そういうことだ。――貴族の家の悪評は、なかなか消えないからな。使用人一人を盾にそれを軽減できるなら、やらない手はないということさ」
ルシエルがため息と共にそう漏らす。彼もまた、異母兄の一件でそれをまざまざと見せ付けられた。セルジウィック侯爵邸で起きたあの刃傷沙汰を外に漏らさないために、事件で命を落とした使用人たちは事実上、闇に葬られる形となったのだ。その一件は、彼を何とも暗澹たる気分にさせた。
「うわあ……高位貴族っておっかない」
「おい、一応目の前にも高位貴族の縁者がいるんだが」
棒読みで慨嘆したセリオに半眼でそう突っ込んだ侯爵家出身であるジェラルドは、だがすぐに話を変える。
「……まあいい。――公爵側がそう動くなら、こっちとしてもやりやすいってことだ」
彼がそう言った、まさにその時だった。
「――失礼致します、大隊長はご在室でしょうか」
執務室の扉をノックする音と尋ねる声。パトリシアが立って行き扉を開ける。
「どうぞ」
「は。お話し中のところ失礼致します」
入口で一礼したのは王城に仕えると思しき文官だった。こうした呼び出しは普通、本部で雑用を担う少年たちの仕事だが、珍しい――と思うパトリシアを余所に、彼はきびきびと用件を伝え述べる。
「司法大臣閣下より、魔法騎士団第二大隊長及び、ルシエル・ヴァン・クローネル二級魔法騎士に出頭のご指示がございます。出来うる限りお早く、閣下のもとにお出ましくださいますようお願い申し上げます」
その言葉に、ジェラルドは得たりとばかりに唇を吊り上げ、立ち上がった。
「了解した。すぐに伺おう」
そして彼はパトリシアたちに指示を出す。
「おまえたちはひとまず、ここで待機だ。おそらくそう時間は掛からん」
「了解しました。では、公爵邸へと派遣する人員の取りまとめをしておきます。――“家宅捜索”規模でよろしいですか」
彼女の確認にも近い問いに、ジェラルドは満足げに頷いた。
「ああ、それで良いだろう。副官が優秀だと仕事が早くて良いな」
「恐縮です。では、行ってらっしゃいませ」
パトリシアの一礼に送られ、ジェラルドとルシエルは文官を伴うと、司法大臣執務室へと向かった。
「――失礼致します。魔法騎士団第二大隊長及び、ルシエル・ヴァン・クローネル二級魔法騎士をお連れ致しました」
「ご苦労。入りたまえ」
文官が扉を叩くと、労いの言葉と共にすぐさま扉が開かれる。室内は広い窓から射し込む光に照らし出されつつも、落ち着いた暗めの青系の色合いで統一されていた。壁を埋める書架には本がずらりと並び、暖炉の上には流れ落ちる滝を描いた風景画。重厚な執務机の上には法律関係の本が積み上げられ、その中に埋もれるようにして、壮年の男性が書面にペンを走らせていた。司法大臣にしてジェラルドの父でもある、エルドレッド・ヴァン・カルヴァート侯爵だ。
彼は顔を上げ、息子にも受け継がれたその黒の双眸で来客を見やった。
「……思ったより早かったな」
「たまたま、クローネルも同席しておりましたもので。呼び出す手間が省けました」
「そうか」
素っ気なくそう言い、エルドレッドはペンを置いて席を立つ。冷たいようにも聞こえる声音だが、これが父の通常運転であることを、ジェラルドは知っていた。何しろ生まれてこの方三十年近い付き合いだ。
彼は執務室の一隅に設えた応接用スペースに向かいながら、ちらりとルシエルに目をやった。
「君とは初めて会うな。噂は聞いている」
「……恐れ入ります」
一礼するルシエルに頷き、エルドレッドはソファに座した。そして時計を見、時刻を確認する。
「……そろそろか」
彼がそう呟いてすぐ、執務室の扉がノックされた。
「失礼致します、閣下。お客人がお見えでございます」
「うむ、お通ししてくれ」
エルドレッドの許可を得て、扉が開かれる。文官によって丁重に室内に招じ入れられたその人物に、エルドレッドの後ろに控えたルシエルが目を見開き、ジェラルドはわずかながら笑みをひらめかせた。
その人物は促されるまま、エルドレッドの対面に座す。文官によって紅茶が供され、その後はエルドレッドがすべての文官を下がらせた。人払いを済ませ、余計な耳がなくなったことを確かめると、エルドレッドは口を開いた。
「さて。――わざわざのお運び、恐縮に存じます。ギルモーア公」
客人――グレアム・ヴァン・ギルモーア公爵は、その言葉にかぶりを振る。
「良い。この席を所望したのは儂の方だからな」
そう言って彼は、ルシエルを見やった。ふんと鼻を鳴らす。
「……まったく、貴殿にはしてやられたわ」
その声は、何度となく会合を持ったあのローブの人物のそれだった。
ローブの下に隠されていたのは、白髪交じりの波打つ金髪と口髭、そして灰色にも見える薄蒼の瞳だ。その鋭い視線を受け止めつつ、ルシエルは会釈する。
「……その節は、何度もお招きいただきまして」
「それよ。騎士団の捜査情報を漏らしてきた時は、ようやくと思ったのだが」
ルシエルと同じく、公爵側も探りを入れていたのだろう。ルシエルが本当に、自分たちに恭順しようとしているのかを。そして、彼が本来は外部に漏らしてはならない捜査情報を公爵側に漏らしたことで、ルシエルの寝返りを確信したのだ。
――それが罠だと思い至ることなく。
「他人を謀ろうとしている者は、ついつい忘れがちになるものですな。他人もまた、自分を謀ろうとしているのかもしれぬということを」
エルドレッドのその言葉に、グレアムは眉をひそめたが、何も言うことはなかった。
「……では、そろそろご用向きの方をお伺い致しましょうか、ギルモーア公」
促され、彼は口を開く。
「此度の一件はすべて、使用人のラービンがやったことだ。我が公爵家は何も与り知らぬこと。その点、良く含み置いて貰いたい」
「――では、会合で僕に話したことはどうご説明なさるおつもりで?」
ルシエルの声が皮肉げに響くのも、致し方ない。だがさすがに長年権力闘争の中に身を置いていただけあって、グレアムは小揺るぎもしなかった。
「はて、何のことかな。将来有望な若者に一声かけるのは、別段珍しいことでもあるまい。――それにその件については、“証拠など何もない”」
にやりと、その口元が笑みの形に歪む。ジェラルドが察したように眉をひそめた。
「……なるほど。そういえば、会合に使われたという空き家は手付かずだったな」
その囁きにも近い声に、ルシエルもはっとする。
(そうだ。あの屋敷にはもしかしたら、公爵家に繋がる何かが残っていたかも……!)
しかし、今となってはもう手遅れだった。グレアムがここまで強気なのは、すでに屋敷の方の処分を済ませたからなのだろう。
だが、騎士団は使用人と盗賊の身柄を押さえ、現場や盗賊宅に残った様々な証拠も手にしているも同然だ。いかに公爵といえども、すでに騎士団の手にあるものを始末するわけにはいくまい。
「こちらの手持ちの証拠だけでも、閣下の使用人と盗賊を罪に問うには充分ですが……公爵家が完全に無傷とは参りますまい?」
と、ジェラルドが問う。グレアムは小さく肩を竦めた。
「無論、そのような者を召し抱えていた点については、儂の手落ちであろうな。だが――それだけだ」
相対する三人を見据えながら、その薄蒼の双眸にはぎらついた光がちらつく。
「――それに今、儂を政治の舞台から引きずり下ろせば、宮廷も穏やかには済むまいよ」
「…………!」
囁くような一言には、だがねっとりと絡み付くような“澱み”が詰まっているようで、ルシエルは思わず声を失う。隣のジェラルドやその父はそういった方面にも免疫があるのか、顔色一つ変えなかったが。
「儂の妻は王家の出だ。いわば儂は王家の縁戚。《保守派》は儂が纏めておるゆえ、ギズレに続くような愚か者を出しておらんのだ」
「なるほど」
頷き、エルドレッドはカップを取り上げて、紅茶で喉を潤した。
「……では、“オークションから魔剣が盗まれ、伯爵家の子息に渡って被害をもたらした”一件については、その使用人の一存によるものである、と?」
「その通りだ」
「それでは、“その通りに”発表させていただきましょう」
エルドレッドが立ち上がり、机から一枚の書面を取り上げる。
「カルヴァート大隊長、公爵邸への家宅捜索を許可する令状だ。すぐに準備に取り掛かりたまえ」
「は、そうさせていただきます」
ジェラルドが恭しく、その書面を受け取った。
「閣下、“ご当家の使用人”の犯した犯罪についての捜査のため、邸内に立ち入らせていただきます。無論、ご協力いただけますな?」
「……致し方あるまい」
グレアムは先ほどとは一転、渋い顔になったが、頷かざるを得なかった。今しがた“使用人の一存であり、公爵家は無関係”と明言した以上、彼はその家宅捜索を拒めないのだ。拒めば“使用人を庇う意思あり”と看做され、無関係だという主張が通らなくなる。
「ご協力、感謝致します。では早速準備に掛かりますので、失礼ながらすぐに任務の方に戻りたく」
「うむ、そうしたまえ」
敬礼したジェラルドに頷き、エルドレッドは彼と部下の退室を許す。もっとも、準備の大半はパトリシアがやってくれているはずなので、準備云々というのは表向きの理由でしかないが。
ジェラルドに続いてルシエルが執務室を退室しようとした時、グレアムが独り言のように言った。
「――分からんな。日陰の身に生まれ、親の都合で引き取られ、異母兄に命を狙われるほど疎まれながら、なぜまだ家のために動こうとする」
ああ、とルシエルは思った。傍目からはそういう風に見えるのか、と。
「……閣下にはご理解いただけないでしょうが」
足を止め、ルシエルは挑みかかるように微笑う。
「僕にとってそれは割と、どうでも良いことですので」
「何……?」
「それでは、失礼致します」
グレアムの訝しげな声には答えず、ルシエルは今度こそ、司法大臣執務室を後にした。
――そう、日陰の身に生まれたことも、異母兄や父の本妻に疎まれていたことも、ルシエルには些末事でしかない。
ルシエルにとって大切なことは、ずっと昔からたった一つだけだ。
「……ああ、そうだ」
自身に執務室に戻りながら、ジェラルドがふと思い出したように言った。
「アルヴィーが今日辺り、こっちに戻って来る」
「本当ですか!?」
「ああ。先方が飛竜を出してくれるそうだから、遅くとも夕方までには着くだろう」
「ありがとうございます」
第一二一魔法騎士小隊は、今日の任務を終えているので、身体は空いている。公爵邸への家宅捜索はすでにパトリシアが部隊を編成しているだろう。ルシエルはある意味関係者に含まれるため、家宅捜索に赴く人員には選ばれない。つまり、親友を迎えに出る時間はたっぷりあるのだ。ジェラルドが帰還予定を教えてくれたのも、それを踏まえた上での気遣いだろう。
ルシエルは逸る気持ちを抑えながら、自隊の隊員たちにもアルヴィーの帰還を告げるため、心持ち足どりを早めるのだった。
◇◇◇◇◇
アルヴィーがファルレアンに帰還して数日後。
王家より、国に対して貢献が大きかった者を叙爵した旨と、その名簿の発表が行われた。名簿とはいっても、その人数はごくわずかなものだったが。
今回叙爵されたのは彼と、もう一人。旧ギズレ領防衛戦における指揮官として現地で指揮を執り、また領主を失ったかの地を領主代行として仕切っていた、グラディス・ヴァン・アークランド一級騎士――彼女もまた、辺境伯位を授けられ、断絶したギズレ家に代わり正式に領地を継承することが決まったのだ。それに伴い、旧ギズレ領はアークランド辺境伯領と名を改めることとなる。
アルヴィーは言うまでもないが、グラディスもまた、領地の防衛成功とそれに伴う領地運営を高く評価されたのだ。彼女は前領主が密かに領内で運用していた不当なほどの高い税率を下げるという改革を敢行し、また前領主の陰に隠れて甘い汁を吸っていた者たちを摘発。結果、税率を下げたにも関わらず税収は増えたというから、いかに中抜きされていたか分かろうというものだ。そしてその改革が、国への貢献と認められたのである。
今回の叙爵は、いずれもあまり例のない類のものであり、対象となった二人は注目を集めることとなった。
「――うう……視線が痛い……」
何だか物理的な力すら感じそうな視線の嵐に、アルヴィーはげんなりと呻く。隣を歩くルシエルは、困ったように笑いつつ親友を宥めた。
「仕方ないね、あまり例がないことだから。一代だけの爵位の文官貴族とは違って、栄誉爵は子孫に継承できる“本物の”爵位だし」
文官貴族とは、その当人一代だけという縛りのもと男爵位を与えられた、大臣や副大臣の秘書官を務めるような高級文官だ。仮にも国の閣僚の秘書官であるならば、男爵位程度の爵位は持っていないと見栄えが悪い、ということで、現在まで続いている慣例である。出身の縛りはなく、例え平民出身でも爵位が与えられる。なので、一代限りであれば平民が爵位を授かるのもなくはない話なのだ。
だがアルヴィーが賜ったのは栄誉爵の男爵位。これは領地を持たないこと以外は、通常の貴族と同様に扱われる。つまり子孫に継承できる爵位だ。
男爵位を賜ったことで、アルヴィーは公的には“アルヴィー・ヴァン・ロイ”と名を改め、“初代ロイ男爵”として扱われることとなったのである。
「つーか、名前も何か語呂悪くなったしさ……」
「その内慣れるよ」
経験者は語る。ルシエルも通った道である。クローネル家に引き取られた当初は、名前の違和感が半端なかった。名乗り続けている内に慣れたが。
二人――というかアルヴィーはこの日、叙爵に関する手続きのため、王城を訪れていた。ルシエルは、まだまだ勝手が分からないアルヴィーの付き添いだ。
爵位を得るというのは、割と色々面倒臭い。栄誉爵は領地がない分まだマシだが、それでも王都での屋敷の受領手続きや紋章の登録、貴族年金受給手続きなど、煩雑な手続きが群れを成して襲い掛かってくるのである。アルヴィーが親友を頼ったのも無理からぬところではあった。
「……そういえば、アルの紋章決まった?」
「ああ、何か色々揉めたらしいけどな」
紋章は貴族の家門を示す重要なものだが、様々な制約があってこれまた面倒臭い。爵位によって使用できる図柄が決まっており、好き勝手に決めることはできないのだ。紋章は紋章官と呼ばれる官吏が記録・管理し、場合によっては作成もしてくれる。というわけで、アルヴィーは粛々と彼らに紋章の件を丸投げした。もっとも紋章官たちも、話題の《擬竜騎士》の紋章を作成できるとあって乗り気だったのだが。むしろ乗り気過ぎて各々の“自信作”を競い合い、白熱した争いとなっていたらしい。
そんな話をしながら、二人は王城の担当部署を回り、手続きをこなしていった。さすがに屋敷の方はその場で“これ”と決めるわけにもいかず、現物を見てからということになったが。正直騎士団の宿舎の方が良い、とアルヴィーは思ったが、一応空気を読んで口には出さなかった。
「――あら」
そこへカツン、と硬質な足音と共に、声。振り向いたアルヴィーは目を瞬いた。
「あ、確か……」
「アークランド一級騎士。ご無沙汰しています」
ルシエルがそつなく一礼する。アルヴィーも慌ててそれに倣った。
「それと、この度はおめでとうございます」
「ありがとう」
微笑んだのはアルヴィー同様叙爵されたグラディス・ヴァン・アークランド“辺境伯”だ。以前に見た騎士団の制服ではなく、華やかな意匠の貴族用式典服に身を包んでいた。ちなみにアルヴィーは騎士団に籍を置いたままなので、普通に騎士団の制服が正装となる。
「とはいっても、もう“一級騎士”ではないわね。ついさっき、騎士団に退団の届け出をして来たところよ」
「退団、ですか……」
「さすがに、領地を賜ってしまうとね。騎士との掛け持ちというのは無理よ。――そもそも、元辺境伯の捕縛からこちら、わたしはあの領地の方に掛かりきりで、騎士団の任務は受けられなかったから……まあ、良いきっかけにはなったわ」
肩を竦め、そして彼女は本部のある方角を少しだけ振り返った。
貴族出身とはいえ、女性が一級騎士にまで昇り詰めるというのは、並大抵の努力ではなかっただろう。それを退団して来たというのだから、やはり相応の感傷はあるのだろうと、少年二人は礼儀正しく口出しは控えた。
「……そういえば、あなたも叙爵されたのだそうね。今までにも噂は色々と聞いたから、まあ順当なところでしょうけど」
「噂……ですか」
「そう、噂よ」
つまりは、アレコレと誇張されているということだろうか。アルヴィーの顔も引きつる。
「さすがにあなたは、騎士団を退団するわけにはいかないわね。団内にも爵位持ちの騎士はいないこともないけれど。――まあ、これであの坊やとも対等以上の立場になれたことだし、遠慮なくタメ口の一つも利いておやりなさい」
「……坊や?」
「あなたのところの大隊長よ」
大隊長――つまりジェラルドのことだと思い至り、二人は危うく噴き出すところだった。さすがにそんな不作法は根性で堪えたが、そろそろ三十路も近い彼を捕まえて“坊や”呼ばわりとは、彼女もなかなかの女傑であったようだ。
「……い、いや……今までも結構敬語取れてたんで……」
「あら、意外と大物ね、あなた。――では、わたしはそろそろ失礼するわ。次に会う時は社交の場かしらね。貴族ともなればダンスの一つも身に付けておかないと、恥を掻くわよ? それではね」
「えっ」
衝撃発言に挨拶も忘れて凍り付くアルヴィーを尻目に、グラディスはさっさと行ってしまう。アルヴィーはぎぎぎ、とぎこちなく親友を振り返った。
「……なあ。マジでダンスなんて要るのか……?」
「まあ、舞踏会に出れば必須だね。ちなみに僕もいくらかは踊れるよ」
「えええええ……」
踊りなど村の祭りくらいでしか経験のないアルヴィーは、がっくりと項垂れた。貴族社会には疎いを通り越して無知な彼でも、祭りの踊りと舞踏会のダンスが別物であることくらいは分かる。加えて祭りの踊りもサボりまくっていたため、もはや記憶もおぼろげだ。
「……なあ、ルシィ」
「ダンスの教師なら紹介するよ」
「…………騎士団の任務あるし、俺そういう舞踏会とか出られねーんじゃねーかな」
「その辺は上層部の匙加減になるし、ちょっと分からないね。他国の貴族向けにお披露目されることはあるかも」
「ううううう……」
どんより落ち込む親友に苦笑しつつ、その肩をぽんと叩いてやるルシエルだった。
――ちなみにその後、下手にダンスなど踊って令嬢の足でも踏んだ日には大惨事になるということで、アルヴィーは基本、舞踏会の類は出席見送りと通達された。
理由が理由なだけに、喜ぶべきか落ち込むべきか彼がしばし悩んだのは、ちょっとした余談である。




