第73話 再び、孤島にて
蒼穹に映える《雪華城》の鮮やかな白さを彼方に望み、第一三八魔法騎士小隊長シルヴィオ・ヴァン・イリアルテは、“千里眼”と名高いその双眸をわずかに細めた。
「やっと王都か……まったく、ファレス砦でずいぶん足止めを食ったな」
「正直、最後の方とか俺ら要んのって感じでしたけどねー」
シルヴィオの従者にして小隊の部下でもあるカシム・タヴァルがそうぼやく。確かに、とシルヴィオも苦笑した。
「まあ、中央で“色々”あったんだろうさ」
「権力争いってやつですか。貴族も大変っすねえ」
「何を他人事みたいに言ってるんだ。俺が騎士団引退して領地に戻れば、おまえはその補佐役だぞ」
シルヴィオはイリアルテ伯爵家の嫡子であり、いずれは領主となる人間だ。自分の身を守れる程度の力と、今以上の人脈を手に入れるため騎士となったが、おそらく遅くとも二十代前半には騎士団を退き、領地に戻って父の補佐に納まることになるだろうと、彼は考えていた。そのこと自体に不満はない。同じ道を辿る貴族の子弟は他にも大勢いる。
「俺が次期ご領主様の側近かー。なーんか、ガラじゃないって感じですけどねー」
カシムは器用にも頭の後ろで両手を組み、天高くに目をやる。
「こら、もう人目もあるんだ。だらしない乗り方して落ちるなよ」
「へーい」
実に不真面目な返答だが、幼い頃からの付き合いだ。双方とも気にしない。
――彼ら第一三八魔法騎士小隊を含めたファレス砦への応援部隊は、この日ようやく王都ソーマに帰還したところだった。レクレウス軍との最後の会戦となったファレス砦攻略戦で、彼らは砦の固有兵力とも協力して勝利を収め、そのままレクレウス軍に睨みを利かせるため、砦に留まっていたのだ。だが両国間で講和が成り、不穏分子が再決起する気配もなくなったということで、ようやく王都への帰還が叶ったのである。
時折道行く人々から歓呼の声を浴びせられたりしながら、隊列は王都を目指す。次第に近付く《雪華城》の威容に、騎士たちの間にもどこかほっとしたような空気が漂った。やはり、“帰って来た”という気分になるのだろう。シルヴィオたちも例外ではなかったが。
「やっぱ王都まで戻って来ると、妙に安心しますよねー」
「そうだな。ここ何年かは、領地より王都で過ごした方が長いし」
騎士学校に入学して以来、領地には纏まった休暇の時にしか戻らない二人だ。もはや王都が第二の故郷といっても良かった。
「王都戻ったら割とすぐ、論功行賞あるって話でしょ? 若様結構期待できるんじゃないですか? 何せ今度の戦争で魔動巨人仕留めたし」
「まああれは、《擬竜騎士》に鏃の材料を貰ったからこそだけどな」
それでも、今回のレクレウスとの戦争に参加した騎士たちの中では、武勲と呼ぶに相応しい働きであることは確かだ。シルヴィオは他にも、旧ギズレ領での攻防戦において、第一二一魔法騎士小隊と共同で魔動巨人の進撃を食い止めるという手柄を立てている。カシムが期待を寄せるのも、無理からぬ話だった。
「そういや、例の旧ギズレ領、未だに宙に浮いて女王陛下の預かりになってるって話ですけど。やっぱそれも、褒賞になるんすかねえ」
「だと思うけどな。街道からは離れてるから、旨味はあんまりないと思うけど、それでも自分の領地が欲しいと思う貴族は多いだろうし。今回の戦役で手柄のあった、栄誉爵で伯爵位以上の貴族に領地として下賜される、っていうのが落としどころじゃないかと思うんだが」
そう言って、シルヴィオはふと思案げな顔になった。
「……あるいは、騎士団の中から勲功著しい人間を選んで叙爵する……っていうのも有りかもしれないがな」
「叙爵? 貴族に“する”ってことっすか?」
「いや、さすがにそこまではな。だが、騎士団にも貴族の家の出は多いし、例えば騎士団長閣下も爵位こそないがご実家は確か辺境伯家だ。そういう方なら、勲功さえあれば叙爵されることもあるだろう」
「ふーん……ま、どの道俺には関係ない話か」
カシムもシルヴィオの指揮の下、最前線で戦果を挙げたが、さすがに叙爵されるほどの働きではないことくらいは分かっている。そもそも栄誉爵として爵位を賜るには、国に非常な貢献をしたと閣僚たちに認められねばならないのだ。ゆえに、それを賜った人数も少ない。建国以来現在までに、栄誉爵を賜った貴族家は、伯爵位から男爵位を合わせても二十家に満たないのだ。ちなみに、領地を持たない文官貴族を含めた国内貴族家の総数は約三百家に上る。
それでもファルレアン王国は、嫡子一括相続が基本なので(ただし娘しかいない場合は婿を取る)、これでも貴族の数は他国に比べて少ない方だ。いくら子供がいようとも、領地などを分割して相続することは許されず、よほどの功績を挙げない限り分家も立てられない。そうして貴族の家の数を抑え、その権威を高めると共に、権力構造を確かなものにしているのだ。
そんな話をしながら、彼らは市街地に入る。さすがに街中では馬を下りたが、そうして練り歩く騎士団の隊列に人々が気付かないはずもなく、人々の間から歓声が湧き起こった。
「おおっ、騎士団が戻って来たぞ!」
「騎士様、お役目ご苦労様です!」
「我らが騎士団に栄光あれ!」
「うおっ、そーかーい」
お調子者なカシムは歓声に応えて手など振っている。もっとも、それは彼だけの話ではなかったが。
歓呼の声を浴びながら街中を抜けると、いよいよ《雪華城》だ。騎士たちにとっては見慣れた風景だが、ファレス砦への長い遠征を終えた後ではその風景も格別だった。
場内の広場で解散し――カシム辺りは石畳が妙に新しいのを見咎めたが、さしたる問題でもないので無視した――小隊長は報告のため騎士団本部へ。第一三八魔法騎士小隊もそれに倣ったが、カシムは護衛も兼ねたシルヴィオの従者でもあるので、報告に向かう主にくっついて騎士団本部へと向かった。
といっても、シルヴィオと連れ立って報告をするものでもなく、大隊長の執務室の外で控えているのが彼の役目だ。暇を持て余していると、
「――あれ、一三八小隊も戻って来てたのか」
声をかけてきた相手に、カシムはひらひらと手を振る。
「よおアルヴィー、久しぶりー」
「ファレス砦の方、どうだった?」
「ぶっちゃけ俺らあんまいる意味ない感じ? まあ、頭数ってとこかな。結局、砦に入ったあの時が一番激戦だったぜ」
肩を竦めたカシムに、アルヴィーも乾いた笑いを漏らす。
「そうだな、終わってみりゃあれで勝負決まったみたいなもんだったしな……」
最終的に勝負を決めたのは砦の重装騎馬隊だったが、その前に砦への強襲を跳ね除けたのは他でもない、アルヴィーや中央からの応援部隊が主だった。
「……ま、平和なのが一番だよ」
しみじみとそう言ったアルヴィーに、カシムも頷いた。
「まあな。――で、ここで何してんの? 俺は若様の報告待ちなんだけど」
「あ、ならちょうどいいや」
アルヴィーはごそごそと魔法式収納庫を探る。なぜか念入りに周囲の人目を確認すると、
「はいこれ」
「……何これ?」
手渡されたのは、どうやら何かの爪のようだった。大きさからして、かなり大型の魔物の素材だろう。しかも、触れただけで分かるような力ある素材だ。
カシムの当然の疑問に、アルヴィーはあっさりと、
「ああ、それ《下位竜》の素材」
「……はああああ!?」
思わず絶叫してしまったカシムを、誰も責められまい。並外れた聴力を和らげるために耳当てをしていたにも関わらず、自分があげた大声が耳に突き刺さり、カシムはしばし悶絶する。
と、執務室の扉が開いた。
「……おい、廊下で何喚いてやがる」
「カ、カルヴァート大隊長!」
わざわざ手ずから扉を開けて外を確認しに来た上司に、カシムは今の今まで悶絶していたのも吹っ飛んで姿勢を正し敬礼。それに小さく頷き、そしてジェラルドは胡乱な目でアルヴィーを見た。
「で、おまえは何してるんだ」
「俺がこないだ預けた証拠品が、返って来るって連絡あったから」
「ああ、あれか。――にしてもアルヴィー、おまえまだあればら撒いてやがるのか。まあいい、人に見られても面倒だ。おまえらも入れ」
ジェラルドはカシムが握り締めた物体に、何があったかを悟ったらしい。ぞんざいに二人を執務室へと招き入れる。
室内に足を踏み入れると、シルヴィオが面食らったように二人を見た。
「カシム? それに《擬竜騎士》も。さっき大声が聞こえたけど、何があった?」
「あ、あの、若様。これ……」
恐る恐るカシムが差し出したものに、シルヴィオは首を傾げる。
「……何だ、それ?」
「……《下位竜》の爪、らしいです。アルヴィーに渡されたんすけど……」
返答に、シルヴィオも顔を引きつらせた。
「それは……また。豪気な」
「まだあるぞ? はいこれ」
アルヴィーは再度魔法式収納庫を探り、骨の一部と思しき素材を取り出すとシルヴィオに渡した。
「えっ」
凍り付くシルヴィオに、ジェラルドがどこか諦めの入った顔で、
「イムルーダ山でそいつが倒したやつなんだが、知り合い連中に配り回ってやがるんだ。まあ、滅多に手に入るもんじゃないんだし、受け取っておけ」
「し、しかし……」
「あ、他には内緒でよろしく。いくら何でも騎士団全部に行き渡るような数はないんで」
アルヴィーは話を(主観的に)終わらせると、ジェラルドに向き直った。
「で、俺がこないだ預けたあの水晶、」
「ああ、こいつだな。――どうやら精霊が、おまえに肌身離さず持ってて欲しいらしい。失くすなよ」
「へ?」
内部で金の光が揺れる美しい水晶を、ジェラルドはアルヴィーに返した。地の魔法を得意とするカシムが、その水晶に目を見張る。
「うわ、それすっげえな。俺でも分かる」
「ああ、精霊に貰った」
さらりと言われた一言も世の常識をぶっちぎっていたが、カシムはもう気にするのをやめた。今さらだ。
「ま、ここで会えて良かったよ。どうやって渡そうかと思ってたしさ。じゃ、俺帰るなー」
アルヴィーは水晶を仕舞うと、さっさと執務室を後にした。残されたシルヴィオとカシムの二人は、改めて《下位竜》の素材を見やる。こうして手にしているだけでも、強い力が滲み出ているように感じられる代物に、徐々に気分が高揚してくるのを自覚した。これを使って愛用の武器を強化すれば、どれほど素晴らしいものになるだろうか――それは、武器を取って戦う者ならば、誰しも抱く思いだ。
彼らのそんな思いを感じ取ったのか、ジェラルドは口元に笑みを刻む。
「まああいつも、無分別にばら撒いてるわけじゃない。素材に力負けしないと思った相手にしか渡してないさ。――使いこなしてみせろよ」
「はっ!」
居住まいを正し敬礼すると、二人は《下位竜》の素材を仕舞い、ジェラルドの執務室を辞した。
「……何か、とんでもないもん貰っちゃったっすね」
「だが、武器を強化するには望むべくもないくらいの素材だからな。――俺は今の弓をこれで強化するが、おまえはどうする? 今のアックスを強化するか、それともいっそ新しく仕立てるか?」
「そっすね……ちょっと考えます」
「まあ、戦争も終わったしな。どっちにしても武器を強化するくらいの余裕はあるさ」
「ですよね」
そう、戦争はもう終わったのだ。
改めてその事実を噛み締めながら、カシムはシルヴィオに付き従い歩き出した。
◇◇◇◇◇
夜。
レクレウス王国とヴィペルラート帝国の国境地帯――大陸環状貿易路ほどではないが、山地の切れ目に拓かれたそこそこ大きな街道によって両国が繋がっているその場所に、その男たちはいた。
「――しかし、レクレウス側の警戒も思ったより厳しいな。ファルレアン側からならともかく、ヴィペルラート側からの入国も制限されるとは」
「表向きは治安維持としているようだが、やはりどこからかこちらの情報が漏れているな。まあ、この大陸の国はどこも、互いに諜報員を潜り込ませているんだから、ある程度は仕方ないが」
「おそらく、物資の動きを探られたんだろう。戦争を仕掛けるなら、物資が大きく動くのはどうしても避けられん」
纏まった数の兵員を動かし養うためには、膨大な量の物資が必要だ。無論出来うる限りその動きは隠されているが、それでも多少の漏れが出てしまうのはどうしようもなかった。
「だが、完全に封鎖はされていないからな。潜り込む方法はいくらでもあるさ」
「そうだな。潜り込んでしまえば、後はレクレウス軍のふりをして、ヴィペルラートの国境警備隊に攻撃を仕掛ければ良い。警備隊の方にも話は通っている」
「レクレウス兵の制式装備は持っているな?」
「ここに」
最後にもう一度手順を確認し合い、男たちは軽く頷き合う。
「……良し、では行こうか」
一見どこにでもいる行商人のような格好をした彼らは、夜闇に紛れて歩き出す。基本的に、緊急時以外の夜間の国境越えはどこの国でも禁止されているが、抜け道などいくらでもあるものだ。特に、諜報や裏工作を生業とする彼らのような者にとっては。
見咎められては困るため、明かりなどは持っていないが、身体強化魔法による視力強化があれば、困らない程度に周囲は見える。空にも雲に隠されがちではあるが月が昇り、ぼんやりとした月明かりが地上に降り注いでいるのだ。それらに助けられ、男たちは支障なくレクレウス側へと近付いて行く。
だが急に、先頭を行く男が手振りで後続を制した。
「待て。――妙だぞ」
「どうした?」
「向こうが明るい」
男が指し示した先、確かに月明かりとは比べ物にならない明るさが、周囲を照らし出している。どうやら結構な人数が街道のど真ん中に陣取り、何やら立ち働いているらしい。
「……何だ? 魔物でも狩っているのか」
「よりによって今か」
「いや……それとも様子が違うようだぞ」
念のため街道を外れ、近くの木立に身を潜めて様子を窺う彼ら――しかしわずかばかりの後に、彼らは仰天することとなった。
ズズン、と。
まるで大地が身じろぎでもしているように、地面が揺れる。
そして次の瞬間――街道を遮る形で、巨大な壁が見る間にそそり立った。
「っ、は――?」
さすがに諜報員、驚きのあまり絶叫するような愚は犯さなかったが、それでも小さく声を漏らすことまでは止められなかった。それほどに、たった今目の前で起こった出来事は、にわかには信じ難いものだったのだ。
「な……何が起こった……?」
「壁、だと……? そんなもの、今の今までどこにも――」
歴戦の工作員たちをして、驚愕のあまり見れば分かることを思わず口走ってしまったが、彼らもさるもの。ごくわずかな時間で、落ち着きを取り戻した。
「……地魔法か」
「おそらく。だが、発動範囲と出力が尋常ではない。――間違いなく高位元素魔法士だな」
「! レクレウスの王女か……!」
「今は確か、臣籍に降りているはずだ。だが何にせよ、あれでは我々はともかく、纏まった数の兵は通れまい」
突如として姿を現した壁は、街道を完全に分断し、両脇の山にまで届いている。全長数ケイル、高さも十メイル以上はあろうかという代物だった。しかもその表面がみるみる、艶やかな光沢を帯びていく。表面の材質を変化させているのだろう。
「登って侵入されることを警戒したか。厄介な」
「正面からの突破は難しいな。山からなら行けんこともあるまいが……装備を抱えた部隊ではまず無理だ」
「ひとまず退こう。このことを報告しなければ」
男たちは素早く判断を下すと、見つからないよう細心の注意を払いつつも、急いで元来た道を引き返して行った。
「――ふむ。こんなものか」
一方、その壁の向こう。ユフレイアは小さく呟き、自らが築いた壁を見やった。
「すげえ……あっという間に壁ができたぞ……」
「こんなもん、まともに造れば年単位の時間が掛かるぞ」
「さすがに高位元素魔法士ってことか……」
周囲の兵士たちのどよめきを聞き流しながら、彼女は力を貸してくれた地の妖精族に礼を述べる。
「ありがとう。おかげでこの地も守られるだろう」
『何の。我らが友のためならば、いつでも力を貸そう』
『ユフィはわたしたちのともだち!』
「ああ、わたしも皆と友になれたことを誇りに思っている」
ユフレイアの言葉に、妖精たちが歓声をあげる。もっとも、妖精族たちは地中にいるので、声はすれども姿はどこにも見えないが。
「……さて、ここはこのくらいで良いだろう。後はどこを封鎖すれば良い?」
「は、ここから南に三十ケイルほどの地点に、ヴィペルラートの侵攻ルートとして挙がっていた道がございます。まことに恐れ入りますが、オルロワナ公爵閣下には何卒、そちらの封鎖もお願い致したく……」
「無論だ、国を守るために協力は惜しまない」
「はっ! 有難くあります!」
兵士たちが一斉に、ユフレイアに敬礼する。彼らはユフレイアの護衛として、貴族議会――というかナイジェルから付けられた兵たちだ。国内ではあまり知られていなかった彼女の魔法士としての実力に、最初は半信半疑だったものの、眼前の光景にそれは綺麗に吹き飛んでしまったようである。
ユフレイアは踵を返すと、後方で待つ天馬のもとへと向かった。もちろん、今日の彼女はドレス姿ではない。白を基調とした、軍服に似た意匠の服装に身を包んでいる。これは軍籍ではない貴族が一時的に軍に同行する時に着用する、いわば貴族用の戦装束だ。色が白なのは、戦塵に塗れない――つまり、軍がその身を確実に守り、戦闘に巻き込まれることなどないということを示したものといわれる。それを証明するかのように、ユフレイアが纏うその服は、要所を金糸で装飾された華やかなものだった。
天馬に跨り手綱を握ると、腹を軽くつついて合図を送る。天馬は少し地上を駆けると、すぐに翼を広げてふわりと空に舞い上がった。護衛の兵士たちも、彼女を取り囲む形で飛んでいる。
――その中に、ユフレイアを見つめる者がいることに、彼女はもちろん気付いてはいなかった。
「……姫様が全力で魔法使うとこ、俺初めて見たけど、すげーもんだなあ」
「高位元素魔法士の本領発揮ってとこだね。――ファルレアンとの戦争に参戦してれば、ここまで一方的に負けちゃいなかったかもしれないのにさ。ホント、前の王国首脳部って馬鹿だよ」
天馬の手綱を取りながら、フィランが感心したように小声で漏らすと、その隣でやはり天馬に跨るクリフが辛辣に返す。彼らはナイジェルの手配で、つつがなく護衛の兵士の中に紛れ込んでいた。ユフレイアと面識のあるフィランも、揃いの部分鎧と兜のおかげで、彼女には気付かれていない。
上空は風があり、また天馬同士の間隔を少し取らなければ飛ぶのに邪魔になるので、小声で話す分にはユフレイアに聞こえる心配はない。彼らには特別に、ナイジェルから小型の通信用魔動機器が支給されており、それのおかげで小声でも会話が成り立つのだ。
「……でさ、あと何回やんの、これ」
「とりあえず、侵攻ルート候補の中で、纏まった数の軍勢が通れそうなとこは全部だってさ。魔法あるから壁の構築自体は早いけど、移動でそれなりに時間掛かるから、やっぱ何日かは掛かると思うよ。飛竜使えればもっと早く済むんだけど、あちこちで取られて使えないんだって」
「で……その間にも刺客が来るって、そっちの“上司”は思ってるのか」
「念には念を、ってね。今回のヴィペルラートの侵攻、旧強硬派にとっては最後の好機だからさ。これ潰れたらもう浮き上がれる目はないし、死に物狂いで邪魔しに来る可能性は高い、ってウチの“上司”は踏んでるみたい」
「ふーん」
フィランは気のない様子で鼻を鳴らし、前を行くユフレイアの乗騎を見やる。
(……表舞台に出たら出たで、大変だな、あの姫様も)
だがこれも、彼女が選んだ道の先ならば、フィランが口を出す筋でもないのだが。
(ま、俺は“契約”通り、あの姫様の護衛をすりゃ良いだけだ)
自身に言い聞かせるように胸中で呟いて、フィランは天馬の手綱を握り直した。
◇◇◇◇◇
頬を撫でる潮風ときらめく海に、アルヴィーは目を細めた。
「うわー……やっぱ壮観だよなー」
見渡す限りに広がる蒼い海と空。雲は中天高くに白く彩りを添え、空の蒼さを引き立てる。広い海原を渡る風は心地良い温度で、アルヴィーの髪と制服の裾をはためかせた。
彼は現在、騎士団に籍を置く戦艦《アンバー号》の甲板に立っていた。この艦はランドグレン伯爵領はミトレアの港から一時間ほど前に出航し、現在進行形で地精霊シュリヴや水竜マナンティアルと出会ったあの島に向かっている。つい先日後にした地に再び舞い戻って来たのは、件の島の調査のためであった。
島を新たにファルレアン領として国土に組み込むために、まず島の調査が必要とされたのは当然の成り行きだった。人間が居住した痕跡はないか、どのような地形をしているか、どんな資源が眠っているか。調べることは山積しているが、まずは最低限必要な情報を得るために、調査隊が島に向かうこととなったのだ。
調査隊は国の財務部門に属する専門の調査員で構成されている。鉱山や資源などを管轄するのが財務の役目の一つだからだ。地精霊が宿る島となれば、当然鉱物資源が期待されるため、彼らの意気込みも生半ではない。そんな中に混ざるアルヴィー、そしてもう一人。
「――まったくっ、それにしてもなぜ、僕が貴様と組んで孤島などに向かわねばならんのだ!」
「だって、ミトレアまで飛竜で飛ぶにも、俺飛竜の騎乗訓練なんか受けてないし。それにミトレアは地元だろ? 話通してくれって、大隊長にも言われてたじゃん」
「くっ……! 大体、仮にも騎士を名乗りながら、飛竜の手綱も取れんとは何事だ!」
憤懣やる方ないという風情で腕を組むのは、第二一七魔法騎士小隊を預かるウィリアム・ヴァン・ランドグレン。言わずもがな、ランドグレン伯爵領ミトレアは地元も地元だ。今回は案内役兼、領主である父との折衝役という役目を申し付かっている。ついでにミトレアまで飛竜で飛ぶ際、アルヴィーを乗せて騎手も務めた。
自隊を王都に置いての“里帰り”だが、上からの命令では致し方ない。それに、件の島が“霧の海域”でなくなるならば、海上貿易がより活発になりミトレアにも今以上の利益が転がり込む。ランドグレン家の人間としては歓迎すべきことだ。それは理解できているので、ぶつくさと零しながらもアルヴィー共々、こうして船上の人となっているのである。
彼らが乗り組む《アンバー号》は、南方騎士団が所有する艦の一隻で、平時は近海の警備を任務としている艦だ。ちょうど母港であるミトレアに戻っていたのを、今回の調査のために駆り出されたという。船体には金属板を貼り(おそらく魔法で強化しているだろうが)、両舷には魔動兵装の砲口が並んでいる。この魔動兵装が一斉に稼働する様など、さぞかし壮観だろう。といっても、それを見る時はすなわち戦闘状態にあるということなので、できればない方が良いのだろうが。
甲板には魔法陣が描かれており、有事の際には魔法障壁を張れるらしい。メインマストの帆には、王家と騎士団の紋章が誇らしげに掲げられていた。
「――けどこの艦、風がなくても動けるんだろ? すっげーよなあ」
「ふん、救援要請をされた時に“風がないので出航できません”では話にならんだろう。この艦に限らず、騎士団所属の戦闘艦には魔石を使った駆動機関が搭載されている。風向きに関係なく、しかも一般の帆船より遥かに速い航行が可能だということだぞ。もっとも、普段は魔石の消耗を抑えるため、今のように帆を張って風力で航行するがな」
さすがに地元出身者というべきか、ウィリアムは船舶にも詳しいようで、胸を張って朗々と説明してくれる。
「――やあ、ここにいたのか、君たち」
そこへ歩み寄って来たのは、調査員のリーダーであるダリル・ヴァン・リトラー男爵だ。彼を始めとする調査員の面々は、元々南部に配属されており、今回の調査のために急遽召集された。男爵とはいえダリルはいわゆる文官貴族で、代々王城に仕える高級文官だが、現在は南部で調査隊を取り纏めているという。
「今回の島は鉱脈が期待できそうだと聞いているからな。我々としても腕が鳴るところだ」
「リトラー男爵は鉱物学者としても、いくつか論文を発表しておられると聞き及んでおりますが」
生家の家格は上でも、実際に爵位を持つ相手への礼節を踏まえ、ウィリアムが丁重に尋ねる。アルヴィーは目を瞬いた。
「……何か、別人みたいだな、さっきと」
「喧しい!」
被った猫を即座にかなぐり捨てたウィリアムに、ダリルは楽しげに笑う。
「ははは、若いというのは良いな、身分を超えて忌憚のない付き合いができる」
「お言葉ですが、こいつの場合は単に礼儀を知らないだけです!」
「い、今勉強中なんだよ!」
そんなことを言い合っていると、
「きゅっ」
アルヴィーが首から下げた袋が、もそもそと動いた。
「ああ悪い、フラム。今出してやるからな」
袋の口を緩めてやると、フラムがぴょこんと顔を出す。飛竜での長距離飛行の際に、万が一にも落ちたらいけないので、しっかりと袋の口を閉じていたのだ。
「きゅっ、きゅきゅーっ」
「まったく、貴様は今回の任務を何と心得ているんだ! そんな動物など連れて来て!」
「しょうがないだろ、こいつ意地でも俺から離れなかったんだから……」
前回置いてきぼりを食らったせいか、フラムはアルヴィーから離れようとせず、根負けした飼い主が運搬袋に詰めて連れて来た次第だ。当のフラムは相変わらずのほほんとした顔で、緑の瞳をきらきらさせている。
「ほら、うろちょろすんなよ。下手したら海に落ちるぞ」
「きゅっ!」
袋から出して左肩に乗せてやると、嬉しそうに鳴いて尻尾をゆらゆらさせる。ダリルが興味深げにそれを覗き込んだ。
「それはカーバンクルか? 珍しい幻獣を飼っているな。どこで手に入れたのか訊いても?」
「あ、ええと、国境戦の時にこいつが自分から付いて来て」
さすがに余所から送り込まれた使い魔だとは言えないので、そこは口を濁しておく。まあ、今のフラムは自身の本分を覚えているかも怪しい勢いで、愛玩動物ライフを満喫しまくっているのだが。
「きゅきゅっ」
「おっと」
と、フラムが肩から飛び下りようとしたため、アルヴィーは間一髪でその胴体を鷲掴み。フラムはぱたぱたと暴れるが、勝手の分からない艦内でうろちょろされても困るのだ。何しろ艦の全長は百メイル超え。どこかの隙間にでも入り込まれたら、見つけられる気がしない。
「こら、暴れんな。こんな広い艦ん中で迷子とか、洒落になんねーから」
「きゅーっ!」
まだ駄々をこねるフラムをがっちりホールドしながら、アルヴィーは風を孕んで膨らむ帆を見上げた。
「……追い風のせいもあるだろうけど、こないだの貨物船より速いな、この艦」
「当然だろう。貨物船は幅もあるし、荷もたっぷり積んでいるから喫水も深い。良いか、そもそも戦艦と貨物船とでは設計からして違ってだな――」
ウィリアムがここぞとばかりに胸を張り説明しようとするが、生憎それにはあまり興味がなかったのでスルー、アルヴィーは船縁から海を覗き込む。無論、フラムを落っことさないようにしっかりと抱えてだ。
艦は波を蹴立てて快調に進み、出航から数時間ほどで見覚えのある島影が見えてきた。どうやら水竜マナンティアルはまだ、霧を復活させてはいないらしい。一部が大きく陥没した特徴的な形の山を戴く孤島の姿に、アルヴィーはそっと目を逸らし、甲板にいた騎士や調査員たちの間からどよめきが起こった。
「おお……本当に島だ……」
「まさか、あの“霧の海域”の中に島があろうとはな……」
長らく船の墓場として悪名高かった海域でのまさかの発見に、騎士たちの声にも抑えきれない興奮が滲んでいた。そんな彼らを乗せ、《アンバー号》は着実に島へと近付いていく。
その時、アルヴィーの胸元で小さく光るものがあった。
「……おい、何だそれは?」
ウィリアムに指摘され、アルヴィーは懐中時計よろしく鎖を付けて懐に入れていた“それ”を引っ張り出した。
「あ」
顔を出したそれ――シュリヴがアルヴィーに渡した水晶は、その内部に揺れる金の光を徐々に強めていく。今までにない現象に驚いていると、アルヴィーの耳にアルマヴルカンの声が響いた。
『主殿、下を見ろ』
「下ぁ?」
ひょい、と海面を覗き込み、そしてアルヴィーは目を見張った。
まるで槍の穂先でも並べたように鋭く尖った岩だらけの海底の地面が、ほのかに光を放ちながら、まるで艦の通り道を作るかのように左右に分かれていくのだ。
「何だ、これ……」
『あの地精霊の仕業だな。その水晶を持たぬ者が船で近付けば、ここで沈むようにしてあるのだろう』
「えええ、何それ怖え……!」
確かに、あの鋭さでは船腹くらい簡単に突き破りそうだ。しかも一般的な木造船では、ひとたまりもあるまい。
現に、それらの岩の間に時折、船らしき影が見える。船の墓場といわれるだけあって、その数は一隻や二隻ではない。
「……あれ、今までに沈んだ船かな」
『この辺りはあの水竜が張った霧で、視界が悪かったろうからな。島に近付き過ぎて沈められたのだろう。どちらの仕業かは分からぬが』
「やっぱ、そうだよな……」
だが、マナンティアルやシュリヴを責める気にもなれなかった。彼らと接して交友を持ったこともあるし、それらの船が沈んだのはもうずっと昔の話で、アルヴィーにとってはどこまでも遠い過去のことでしかない。船と運命を共にした乗組員は気の毒だと思うが、船乗りという職を選んだ以上、彼らもそれに殉じる覚悟は決めていただろう。ただ運が悪かったのだ――そう思いながら、それでも垣間見える船影に黙祷を捧げる。
「――入り江があるぞ!」
「ちょうど良い、あそこに停泊しよう」
肉眼でも島の細かい部分まで見えるほどに近付くと、確かに入り江のように深く切れ込んだ地形が見えた。が、アルヴィーは首を傾げる。
「……あんなとこ、あったっけなあ?」
その疑問はすぐに解けた。
『――何だ、また来たの? っていうか、余計な奴多過ぎ!』
覚えのある黄白色の光が島から飛んで来て、見る間に少年の姿を形作ると甲板に下り立つ。小柄ながら態度は尊大な少年に、アルヴィーは軽く手を上げた。
「よ、しばらくぶり」
『しばらくぶり、じゃないよ。何で他の人間まで連れて来たのさ。僕、アルヴィーがここに来るのは良いって言ったけど、他の人間まで連れて来いなんて言ってないよ』
ご機嫌斜めなシュリヴに、アルヴィーは頭を掻く。
「あー……それは悪かった。けど船じゃないと、俺ここに来れないんだよ。――っていうか、あんな入り江俺の記憶にないんだけど、ひょっとして俺が帰ってから地形変えたのか?」
『…………』
どうやら図星だったのか、シュリヴは黙る。と、涼やかな声が聞こえた。
『ふふ、あの後すぐに、船が着けられるようにと地形を変えておったであろ。他の船は入れぬように、海底に仕掛けまでしておったというに』
女性率ゼロの甲板でいきなり響くたおやかな声に、心当たりのあるアルヴィー以外の一同がぎょっとする。シュリヴが明後日の方向に喚いた。
『ちょっと、寝ぼけていい加減なこと言わないでよね!』
『これは心外な。微睡んでおったとて、あんな力が動けばすぐに分かろうというもの』
小さく笑いを含んだ声に、シュリヴはそっぽを向いて黙り込む。
「マナンティアル?」
アルヴィーが呼びかけると、返事をするように海がざわめいた。
『息災なようで何より。――して、此度は何用かの』
その言葉に、ダリルがはっとして進み出た。さすがに竜や精霊と相対するのは初めてと見えて、緊張の色は隠せていないが。
「せ、精霊殿と水竜殿にはお初にお目に掛かる。我々はファルレアン王国財務大臣配下、資源調査団。この度、この島を便宜上我が国の領土に組み込むにあたって、島の調査に参った!」
「便宜上?」
アルヴィーが首を傾げると、ダリルは頷き、
「さすがに、精霊が宿る島を我が物顔で統治なさろうとは、陛下もお考えではない。だが、名目上だけでもこの島を領土に組み込めれば、それだけで国益となるんだ。たとえば、領海が広がるだけでも、そこを通る航路を管理できるようになるからな。ただ、島を正式に領土として宣言するためには、過去に人が上陸した痕跡がないかなど、調査が必要だ」
「へー……」
アルヴィーにはいまいちよく分からないが、とりあえず頷いておく。
だがそういった事情は、シュリヴにはどうでも良いことなのだろう、胡乱な目で人間たちを見やった。
『ふーん……そんなのどうでもいいけど、僕、欲深い奴って嫌いなんだよね。人間って、ちょっと助けてやったらすぐ、もっと寄越せって言うようになるからさ』
過去のことを思い出したのだろう、辛辣ながらもどこか寂しげに、シュリヴはそう言うとふいと視線を逸らす。見た目が十歳そこそこの子供なので、何だか不憫になってアルヴィーはその頭をわしわしと撫でてやった。
『ちょっと、何すんのさ!』
「そんな落ち込むなって。何だかんだ言ったって、生きてりゃ良いことあるもんだしさ」
『別に落ち込んでるわけじゃないし!』
シュリヴが口を尖らせていると、いきなり艦ががくりと揺れた。甲板が騒然となる。
「何だ!? 潮流が変わったのか!?」
「地形からして、そんなに急激に変わるはずは……」
操船する騎士たちが慌てるのを余所に、艦はその潮流に導かれるように、ゆっくりと入り江に向かって進み始める。
『うるさいのは好かぬが、致し方あるまいの。その者との誼もある。だが、手短に済ませて貰おうぞ』
『このまま船を流れに任せておけ。――まあ、多少どこかにぶつけたりはするかもしれんが』
(おい! それってダメなやつ!!)
胸中でアルマヴルカンに突っ込むアルヴィーを乗せて、《アンバー号》は島の入り江へと“入港”していった。
◇◇◇◇◇
何とか艦がぶつかることもなく、島に上陸した一行は、アルヴィーの案内でまず地底湖に向かった。
湖を閉じ込めた山は一部が見事に吹き飛び、そこから射し込む光が水面をきらめかせる。壁には星のように散らばる銀砂、蒼く透き通った水底には水竜の鱗が輝き、その光景を目にした人々に感嘆の声をあげさせた。
「素晴らしいな、これは……!」
ダリルも例外ではなかったが、すぐに我に返って部下たちに指示する。
「さ、早速調査だ! 一班はここに残って山の地質調査と湖の水の採取、二班から四班は島を回って地質調査と、以前に人が上陸した痕跡などがないかを調べろ!」
「はっ!」
調査員たちが慌ただしく動き始める中、門外漢のアルヴィーとウィリアムは、仕事を振られるでもなくいきなり手持ち無沙汰になった。どうすれば良いのか訊こうにも、ダリル始め調査員の面々は気迫すら感じる真剣さで早速調査を始めており、何だか声をかけ辛い。
「なあ……俺たちどうすれば良いかな」
「……僕はひとまず、現時点までの報告書を作る」
「そっか。じゃあそっちは任せるとして、」
「貴様、僕に押し付ける気か!」
「だって報告書は一部で良いだろ! 俺が書くよかそっちが書く方がマシだよ! 中身が!」
お世辞にも得意とはいえない報告書作成を、何とか免れようと足掻くアルヴィーに、
『ならば、妾の話し相手にでもなって貰おうかの』
マナンティアルが笑いを含んだ声をかけてきた。
「話し相手?」
『何しろ、長らくここで微睡んでおったゆえな。外では何があったのかとんと分からぬ』
「あーまあ、そりゃそっか」
『それに、何やら変わったものも連れておるようじゃしの』
「変わったもの……? フラムのことか?」
「きゅ?」
そっくりの仕草で首を傾げる飼い主と小動物に、マナンティアルは楽しげに肯定する。
『左様。――ま、近う』
彼女が促すので、アルヴィーは魔法障壁の足場を展開して湖をひょいひょい渡り始めた。周囲の人々がぎょっとするが、今さらである。
マナンティアルの《竜玉》と骨が沈んでいる辺りまで来ると、ふわりと水中に淡い光が生まれた。
「ごめんな、何か騒がしくなって」
『ふふ、構わぬよ。そう長いことでもあるまい。――それよりも、その使い魔じゃがの』
いきなりズバリと看破されて、アルヴィーは目を見張った。
「っ、それ」
『案ずるな、今はそなたにしか妾の声は聞こえぬゆえな。じゃが、そのカーバンクルは使い魔であろ? それも余所からの』
「……分かるのか」
『見縊るでないぞ。これでも千年は生きておったからの。それだけはっきりと魔力の繋がりができておれば、すぐに分かろうというもの』
マナンティアルはこともなげにそう言うが、アルヴィーにはそんなものはさっぱり見えない。
(……そんなもんなのか?)
『今のわたしは欠片でしかない。その水竜ほどの力は使えんさ』
『そう拗ねるでない、火竜の。――さて、見たところその使い魔は、どこかへ情報を流しておる。ずいぶん遠くから操っているようじゃが、首に縄が付いていてはそなたも煩わしかろう。少し屈んでみよ』
「? こうか?」
アルヴィーが首を傾げながらも屈み込んだ、次の瞬間。
「――どわっ!?」
「きゅぶっ!?」
突如渦を巻いて伸び上がった水が、アルヴィーとフラムを纏めて呑み込んだのだ。
『――ふむ。このくらいで良いか』
だが水に呑まれたのはほんの数秒で、それはすぐにアルヴィーたちを通り過ぎるように巻き上がり、細かい飛沫となって空中に溶け消えたが。もちろん、アルヴィーもフラムも頭からずぶ濡れだ。
「……ぶはぁ! 何だ今の! おいフラム、生きてるか!?」
「……ぷきゅー……」
とっさに息を止めていたアルヴィーが大きく息を吐き出せば、フラムもへろへろと声をあげる。
「ちょ、いきなり何すんだよ!?」
『済まぬな、そなたはついでじゃ。まさかその使い魔を湖に放り込めとも言えぬしの。――じゃが、これでその使い魔に仕込まれた術式は消えたであろ。先ほど“洗い流して”やったからの』
「……そんなことできんの?」
『ここには妾の《竜玉》もあり、魔法の媒介となる水もある。なかなか見事な術式を組んでおったようじゃが、何事も組み上げるより壊す方が容易いものゆえの』
“ついで”でずぶ濡れにされては堪ったものではないが、彼女なりの親切なのだろうから、文句は呑み込んでおくことにする。フラムに仕込まれた術式を解除したことについては、もちろん許可など得ていないので事後報告になってしまうが、経緯が経緯なので咎められはしないだろう。きっと。
とりあえず、炎を生み出して自分とフラムの全身を乾かすと、マナンティアルに礼を言う。
「……ありがとな。びっくりしたけど」
『礼には及ばぬ。これも暇潰しゆえの。――ところで』
《竜玉》の光が面白がるようにふるりと揺れた。
『シュリヴ、そなたもそのようなところで拗ねておらぬと、こちらに来れば良かろうに』
『べ、別に拗ねてなんかないし!』
打てば響くような即応っぷりで、壁の中から飛び出して来たシュリヴがアルヴィーの眼前に下り立ち口を尖らせた。
『そんなことより! 調査っての済んだら、あいつらすぐ帰らせてよね! そもそもこの島は僕の縄張りなんだからさ!』
「分かってるよ。けど、ファルレアンの領土ってことにしとけば、まだ色々融通利かせて貰えると思うけど、そうじゃなきゃ他の国にちょっかい出されるかもしんねーだろ? さっきも言ってたけど、名前だけだよ」
『……だったらまあ、いいけどさっ』
ぷい、とそっぽを向く様は、見た目通りの子供っぽさだ。が、何か気掛かりなことを思い出したような複雑な表情になり、シュリヴはアルヴィーの右手を見つめた。
「? どうかしたか?」
『……別に! 何でもないよっ』
「そうかぁ……?」
訝しげな顔になるアルヴィーだったが、その時岸の方から彼を呼ぶ声が聞こえた。
「あ、悪い、呼ばれてるからちょっと行って来るな」
言い置いて、アルヴィーは再び足場を岸まで繋げるとその上を駆け戻って行く。それを見送り、シュリヴは小さく呟いた。
『……あいつの中の火竜ってさ、マナンティアルは知ってる?』
『ふむ、確かアルヴィーが一度、アルマヴルカンとか呼んでおったの。あれもおそらく古くから生きた力のある《上位竜》であろうが……そもそも我ら竜は、敵対でもせぬ限り、互いのことなどさほど気にはせぬ。確たる縄張りを持たず流れる竜であればなおさらの。あれもおそらく、その類と見えるが』
『ふうん……』
『それがどうかしたかえ?』
『べ、別にっ!』
シュリヴは半ば強引に話を終わらせると、ふいと飛んで岩壁の中に飛び込んでしまう。静謐でひんやりとした地中は、彼のお気に入りの場所だ。
だがその静けさの中で、彼は以前、風の大精霊シルフィアが接触してきた時のことを思い出していた。アルヴィーに渡した水晶を介して接触してきた彼女は、こう言ったのだ。
『――それにしても、あの子の中の火竜の欠片は、前より強くなったわね? 右腕だけで済めば良いけれど』
(……人間の中に竜の魂を取り込んだ奴なんて、僕は今まで見たことなかった)
無論、精霊としても年若い部類に入るであろうシュリヴは、まだこの世界のことにさほど明るくはない。しかし、アルヴィーという存在が通常ではあり得ない、稀有なものであることは理解できた。本来、人間とは脆弱な存在だ。そんな存在の中に、欠片とはいえ《上位竜》などという強大な力を取り込むなど、まず考えられない事態だった。よほど人間側と竜の相性が良く、しかも竜側の同意がなければ成り立たない関係だ。
だが、それにも限度はある。
たとえば、竜の力が少し増大するだけで、両者の均衡は容易く崩れ去るのだ。
それを再び釣り合った状態に戻すには――。
(……もしかしたら、あいつは“何か”を代償にしてる……?)
浮かんだ考えに、シュリヴは胸の奥で何かがぞくりと冷えるような感覚を覚える。
それが“不安”と呼ばれる感情だということを、幼い彼はまだ知らなかった。
◇◇◇◇◇
「……あら」
《薔薇宮》の中庭で、いつものように紅茶を嗜んでいたレティーシャは、不意にそう呟いて顔を上げた。
「陛下? どうかなさいまして?」
気遣わしげに尋ねるベアトリスに、レティーシャはにこりと微笑んでみせる。
「いいえ、大したことではありません。――少し用ができましたから、お茶はもうよろしいですわ。後片付けをお願いできますかしら」
「はい、仰せのままに」
一礼するベアトリスに後片付けを任せ、レティーシャはある部屋に向かった。
そこは彼女が、アルヴィーに付けた使い魔からの情報を受け取るために使っている部屋だった。そこに安置した水晶柱で送られてきた情報を読み取っていたのだが――その水晶柱は今、見る影もなく粉々に砕け散っていたのだ。
「まあ」
レティーシャはわずかにその群青の瞳を見開いた。
(やっぱり、あの使い魔に仕込んでいた術式が壊された……万一の場合の反動が、術具の方に行くように設定しておいて正解だったということね)
それなりに複雑な術式を仕込んでいたのだが、やはり世の中に“絶対”という言葉はないようだ。
砕けた水晶の欠片の一つを取り上げ、手の中で弄びながら、レティーシャは思案する。
(あの子のデータはそこそこ取れているし、体組織のサンプルも施術の時に採取したものがあるけれど……できれば、経過の観察もしたいものね。あの子のことだから、上手く馴染んだとは思うのだけど……)
弄んでいた欠片を床に落とし、彼女は部屋に置いてある銀の鈴を鳴らした。程なく現れた侍女に部屋の片付けを言い付けると、レティーシャはその場を後にする。
静寂の中に、彼女自身の靴音だけが単調に響く中、レティーシャはこれからの“計画”について考えを巡らせた。
(使い魔の件は、いっそ捨て置いても構わない。それよりも重要なのは研究施設の方……人造人間の第一陣もそろそろ仕上がるはず。あの子たちをそろそろ、こちらへ呼び戻す頃合いね。それから――)
廊下から建物を出、地下研究施設へ。扉を開け、並ぶ水槽の間を歩き切った彼女は、一つの水槽の前で足を止めた。
それは、見た目は他の水槽と何ら変わりないものだったが、その中に満たされた液体は、他のそれと違って紅かった。まるで――血でも流し入れたかのように。
その中に沈むのは、一見肉の塊に見える、赤黒い物体だ。水面の揺らめきでわずかに蠢いて見えるそれを、レティーシャは満足げに見下ろした。
(あの子を見つけられたことは、幸運だった。――これが成功すれば、わたしの望みも叶う)
これまで何度も挑み、そして手が届かなかった、ただ一つの望み。
それが今回は、今までで最もこの手に近いところまで手繰り寄せることができている。
ずっとずっと昔から、狂おしいほどに求め続けてきた、その望みが――。
レティーシャの唇がわずかに弧を描き、白い指先が愛おしむように水槽の縁を撫でる。
その唇から零された呟きは、彼女以外の耳に届くことはなく、水音に紛れて虚空に溶けた。




