第71話 帰還
ランドグレン伯爵領の領都である港町・ミトレア。白い壁とオレンジの屋根が鮮やかな街並みは、蒼い海と空に良く映える。
街は全体的に、港のある一帯を中心に地盤が低く、周辺に行くにつれてなだらかに高くなっていた。そのせいか、ミトレアの街には緩やかな坂道が多い。また家々の広がりが強調されて見えるため、街全体が活気に溢れて見える。
そのミトレアの街中にあるのが、南方騎士団ミトレア支部だ。東西南北の騎士団本部それぞれの指揮下、国防上重要とされる領地にはこうした支部や駐屯地が置かれるが、ミトレアの支部はその中でも、そこそこ規模が大きい方らしい。確かに、国を代表する港町の一つ、いわば海の玄関口ともいえる立地を考えれば、妥当なところではある。
ミトレアへの入港をつつがなく済ませ、アルヴィーと貨物船の船長は、事情聴取のためにそのミトレア支部に向かって歩みを進めていた。
――ミトレアへと向かっていた彼らが、救援要請を受けて出動した騎士団の戦艦と遭遇したのは、クラーケンを倒してから一時間ほど後のことだった。実のところ、クラーケンに襲われて船が無事に済むことはほとんどなく、騎士団の出動も救援というよりは、まだ現場近くの海域にいるであろうクラーケンの討伐と、犠牲者となった乗組員の収容に重きが置かれているのだ。今回もその覚悟で出動した騎士たちだったが、いざ行ってみれば船は健在、乗組員も全員無事、果ては中央魔法騎士団所属の《擬竜騎士》を名乗る少年が空から降ってきて、クラーケンを倒したなどと言う始末。仰天した騎士たちは、取るものもとりあえず所属するミトレア支部に連絡を入れ、念のため護衛として港まで同行して来たのだった。
騎士団の艦は周辺海域の安全確認のため、貨物船をミトレアの至近まで送り届けた後に再び外洋へ出たが、戦艦の方から支部に連絡が飛んだ際、アルヴィーが空から降ってきたことやクラーケンを倒した件も伝わったそうで、聴取の必要があると言われたのだ。加えて、アルヴィーが騎士団所属を名乗ったため、身元の照会もされるらしい。まあ本人と証明されたらされたで、行方不明だった間のことを根掘り葉掘り訊かれるのだろうが。
(……報告書要るかなあ……要るよなあ……)
アルヴィーが決して得意とはいえない書類仕事に頭を悩ませている横で、船長はさっきから上機嫌だった。
「いやあ、それにしてもクラーケンを二体も返り討ちにしちまうなんてなあ。俺たちゃ運が良かったぜ!」
「……そうなの?」
「当たりめえよ! 普通ならあんなデカブツ、出くわした時点で海の藻屑になる覚悟決めるもんだからなあ。それがほとんど無傷で済むなんざ、まったく騎士様々だ!」
バシバシと肩を叩かれて、アルヴィーはちょっと顔をしかめる。何せ海の男、馬鹿力だ。
「そういやあ、王都の方で何だか、すげえ火魔法の使い手が高位元素魔法士だかに認定されて、騎士団に取り立てられたって話を聞いたことがあるが、ありゃ兄ちゃん、おめえのことか」
「ああ……多分そうだと思う」
「道理で強ぇはずだ! ま、右腕がいきなり変形したのにはたまげたがな!」
がはは、と笑いながら、また肩を叩かれた。まあ、変に怯えられるよりはマシだが。それにしても、こんな南にまで話が伝わっているとは、ある意味恐ろしい。自分の知らないところで自分の話が囁かれているのかもしれないのだ。生まれながらに名が知れるような立場ならともかく、人生の大半をごく普通の村人として過ごしてきたアルヴィーは、そのことにまだ慣れなかった。
そんなことを思いつつ、辿り着いた南方騎士団ミトレア支部。さすがに海の玄関口というところか、建物も立派なものだ。港からさほど離れていないのは、今回のような状況の時に、できうる限りすぐに乗艦して出動するためだろう。
「俺の昔馴染みも何人か、王都の騎士学校に行ってなあ。もっとも、大体の奴はこっちに戻って来たがな。――ああ、噂をすればってやつか。おおい!」
いきなり野太い声で、少し離れたところを通り掛かった騎士に声をかける船長。呼ばれた騎士の方も表情を明るくして、こちらに大股で歩み寄って来る。
「おい、クラーケンに襲われたんじゃなかったのか!? 知らせを聞いた時は耳を疑ったぞ!」
「ははは、俺もあん時は船ごと沈む覚悟を決めたんだが、どうやらまだ運が残ってたらしいぜ。この兄ちゃんのおかげで命拾いだ。見物だったぜ、クラーケン二体をあっさり倒しちまってなあ!」
「ど、ども……」
またしても背中をバシバシ叩かれながら、アルヴィーは軽く会釈する。そんな彼を、騎士はまじまじと見つめた。
「へえ、こんなひょろい若いのが、噂に高いあの《擬竜騎士》か」
「…………」
男としては非常に不本意だったが、騎士の方も結構な筋骨隆々っぷりだったので、アルヴィーは反論できず黙った。どうやらこのミトレアでは、騎士も基本海の男らしい。とはいえアルヴィーもまだ成長途上であることだし、亡き母は女性ながらに体格の良い女傑だったので、そちらの血に期待したいところだ。
ともあれ、その騎士に案内されて、アルヴィーと船長は建物内の一室に足を踏み入れた。
そこには机と椅子が数脚。どうやら聴取に使われている部屋らしい。船長の知人の騎士はどうやら担当ではないようで、担当者を呼んで来ると言って席を外してしまった。
「何だ、茶ぐらい出してくれてもいいのになあ」
船長は早速椅子にふんぞり返ってそうぼやいたが、アルヴィーはそこまで強心臓にはなれなかった。手持ち無沙汰に室内を見回す。小部屋ながら一応窓があり、開け放たれたそこから潮の匂いを含んだ風が入ってきていた。
「――おお、そういやあ、例のクラーケンの魔石。ありゃあどうするんだ。仕留めたのは兄ちゃんだろ?」
船長が思い出したようにそう言い、アルヴィーも魔法式収納庫に一つ放り込んでいたのを思い出す。
「ああ……でもああいうのって、国が買い取るんじゃなかったっけ」
「そうだが、できる限り高く買って貰わねえと、損ってもんじゃねえか」
「うーん……」
正直なところ、《下位竜》の魔石で(自分的には)恐れをなすような大金が入ったので、それほど金に執着はない。そもそも物々交換メインの小村出身なので、大金を持つこと自体になかなか慣れないのだ。
と、そこに、
「おまえたちが例の貨物船の船長と、噂の《擬竜騎士》とやらか」
部屋に入ってきた男の第一声に、二人はそちらを見やる。戸口には、部下を引き連れた上級の騎士らしい男が立っている。彼は口髭を捻りながら、じとりとした細い目でアルヴィーを睨んだ。
「わたしはこのミトレア支部を預かる、ゴルド・ヴァン・コルネリアス一級騎士だ」
「《擬竜騎士》アルヴィー・ロイです」
一応礼儀として敬礼すると、ふん、と馬鹿にしたように鼻を鳴らされる。
「元敵国の田舎者が、生意気に騎士気取りか。――まあいい。聴取を始めろ」
ゴルドが顎をしゃくると、取り巻きの騎士たちが船長を押し退け、アルヴィーを挟むように立った。面食らう船長を余所に、彼らはアルヴィーを引きずるようにして部屋を出る。騎士が一人部屋に残ったので、船長の聴取は彼がするのだろうが、それにしても自分だけ連れ出される理由が分からない。
「え、ちょ、何――」
事態が呑み込めないでいる間に、アルヴィーは別の部屋に連れて行かれた。そこは先ほどの小部屋よりさらに狭い印象を受ける。おそらく窓がないせいだろう。
その戸口にアルヴィーを立たせ、ゴルドは居丈高に命じた。
「貴様、クラーケンを倒したそうだな。ならば魔石を持っているだろう。今すぐに出せ。倒した時に回収したのだろう」
「へ?」
「早く出せと言っとるんだ!」
「あ、はい」
証拠品として提出するのだろうかと思いながら、アルヴィーは魔法式収納庫から魔石を取り出す。片手に余る大きさのそれに、ゴルドの顔に喜色がよぎった。
「ほう、なかなかの大きさではないか……ではこれは、こちらで管理しよう」
「はあ。んじゃどうぞ」
証拠品ならばしょうがないと頷いて渡したら、なぜかゴルドが妙な顔になった。
「う、うむ……」
「? クラーケンの一件の証拠品ですよね? 確かにあいつら素材とか実物持って来れないから、魔石でもないと存在確認できないし」
「うむ、まあ……」
ゴルドは何やらもごもごと唸っていたが、気を取り直したように咳払いすると、
「……と、とにかく! 貴様はしばらく、ここに入っていろ! おい!」
「はっ」
彼が部下たちに鋭い声を投げると、騎士の一人がアルヴィーの背中をいきなり突き飛ばした。不意を突かれて転がり込むように入室するアルヴィー。その背後で、ガシャンと重々しい音を立てて扉が閉まった。
「……はあ!?」
アルヴィーは面食らう。なぜならその扉は鉄製で、顔の辺りに鉄格子の嵌まった窓がある――どう見ても、牢に使われるような代物だったのだ。慌てて開けようとするが、押しても引いてもびくともしない。
「ちょ、何だよこれ!?」
「口の利き方に気を付けろ。わたしはこのミトレア支部の支部長なのだぞ」
鉄格子の向こうでふんぞり返り、ゴルドはニタニタと笑う。
「貴様は《擬竜騎士》と名乗っているが、それが本当だという証拠はなかろう。少なくとも、中央に身元の照会ができて、確認が取れるまではな。ゆえにそれまで、ここでおとなしくしていて貰おう」
「証拠だったら、この魔法騎士団の徽章もあるし、何なら右腕見せたって――」
「徽章など、作ろうと思えば作れるではないか! ああそれと、この建物内で戦闘及びそれに準ずる行為は許さん! 分かったな!」
言い掛かりとしか思えないことを言い渡し、ゴルドは取り巻きを引き連れて去って行く。アルヴィーは腹立ち紛れに扉を蹴った。もちろん、本気で蹴飛ばしたら扉が壁ごと吹っ飛びかねないので、多分に手加減したが。
「何だあれ! 無茶苦茶じゃねーか、俺の右腕見りゃ分かんだろ!」
『理由などどうでも良いのだろう。ただ主殿をここに閉じ込めておくだけが目的のように、わたしには思えるが』
「俺を閉じ込めて、どうするってんだよ……つーか、椅子すらねーし」
がらんとした薄暗い部屋にため息をつき、アルヴィーはそのまま直に床に腰を下ろす。
(あーあ……いつになったら王都に戻れんのかな、俺……)
最後の最後までトラブル続きの旅路(といってもほんの数日程度のことではあるが)に慨嘆しながら、アルヴィーは遠く王都ソーマに思いを馳せた。
◇◇◇◇◇
ゴルド・ヴァン・コルネリアスは上機嫌だった。
「ふふふ、かの《擬竜騎士》が、まさか我がミトレア支部に転がり込んで来ようとはな」
「しかし、よろしいのですか。あのような扱いで、へそを曲げられでもしたら……」
「ふん、どうせあの小僧は中央の所属。南は特段、他国との火種を抱えているわけでもないし、こちらへ来ることなどもはやなかろうよ。ならば身元の確認が済むまで、逃げられぬように繋いでおかねばな。万が一どこかにふらふら出て行かれでもしたら、せっかくの幸運が水の泡だ」
中央魔法騎士団所属の《擬竜騎士》が連れ去られ行方不明となった件は、このミトレア支部にも聞こえてきていた。とはいっても、連れ去られた先の本命は北の《虚無領域》と見られていて、南には直接の関係などあるまいと思っていたのだ。そこへ、出動した艦から突然の連絡。よもや、救援要請を寄越した貨物船に《擬竜騎士》が同乗していようなど、彼らにも想像の外だった。
だが、その報告を受けたゴルドは、《擬竜騎士》の身柄を利用しての点数稼ぎを思い付いたのだ。
レクレウスとの戦争に、南方騎士団もそれなりの人員を送っていたが、ここミトレア支部は平穏なもので、武勲を立てる機会にはとんと恵まれない。そこへ文字通り降って湧いた《擬竜騎士》である。彼の身柄を“保護”し、中央に引き渡せば、中央に貸しを作れるし、覚えもめでたくなるだろう――というわけだった。
「それにわたしは、れっきとしたコルネリアス子爵家当主の弟。引き換え奴は、高位元素魔法士と認められたとはいえ、身分はただの平民ではないか。貴族のわたしが平民を多少手荒に扱ったところで、咎められる謂われなどどこにもないわ」
嘲るように鼻を鳴らし、ゴルドは先ほど取り上げたクラーケンの魔石を満足げに眺める。
「それにしても、この魔石はなかなかの上物だ。好都合なことに、あの小僧は証拠品として提出するものだと勘違いしておるようだし、有難くいただくとしよう。良い値で売れそうだ」
一般的に、魔石は強力な魔物のものほど大きく、内包する魔力も強い。このクラーケンの魔石は、この辺りでは滅多に見ないような大きさだった。
本来なら魔石は国がすべて買い上げるが、その窓口となるのは大抵が、騎士団のそれぞれの方面本部や支部だ。そこで情報を止めてしまえば、誰かが魔石を懐に入れてしまっても分からない。ゴルドはそれを存分に利用し、今までにも同じようなことを繰り返していた。
「ですが、《擬竜騎士》がそれを中央に報告してしまえば、はなはだまずいことになりますが」
「もちろん、口止めはしておくさ。幸いあの小僧、騎士団の組織構造には疎いようだ。南の事件は南で処理するものゆえ中央の口出しは無用だと言い含めれば、あっさり信じるだろう。――それより、中央には連絡したのか?」
「はっ、中央の本部にはすでに一報を入れてあります。身元確認及び引き取りの人員をすぐに向かわせると、返答がありました」
「そうか。むしろそっちの人間の方を上手く誤魔化さねばな」
思案げな顔でゴルドは呟き、魔石を仕舞おうとする。と、
「感心しないね、コルネリアス支部長。それは横領というものではないか?」
突然の声に、ゴルドはびくりとして足を止めた。
「! これは、ランドグレン伯……!」
ゴルドの忌々しげな目をものともせずに、いつの間にかそこに立っていた紳士はおかしげに笑う。年の頃は四十代前半というところ、銀髪に蒼と碧が混ざったような涼やかな色の瞳をした彼に、だがゴルドは慇懃な喧嘩を吹っ掛けた。
「……困りますな。“部外者”であられる方が、このような場所にまで」
ここが騎士団の施設の中であり、ひいては自分の陣地だという意識が働いてか、ゴルドは強気だった。が、相手にはまったく堪えた様子もなく、
「それは失礼。だがそもそも“部外者”であるわたしが、ここまで見咎められずに入り込めること自体が、いかがなものかと思うのだが。“責任者”であられる支部長殿には、是非ともご意見をお伺いしたい」
「ぐ……!」
痛いところを突かれて、ゴルドが詰まる。確かにこれは、ミトレア支部の失態として扱われるべき事態だった。
とっさに言い返せないゴルドに、紳士――このミトレアの主にしてランドグレン伯爵領を統べる領主、エイブラム・ヴァン・ランドグレンは、わずかにその目を細める。
「まあ、そう警戒することはない。わたしは騎士団内部――それも南方騎士団のことについては、あまり興味もないのでね。中央ならば息子もいるから話は別だが、このミトレアで誰かがこっそり自分の懐を暖めようと、わたしの関知するところではない。それは南方騎士団の領分だ」
清々しいまでの投げっぷりだが、騎士団内で汚職が発覚したところで、領主が責任を問われることはない。それはあくまでも、騎士団の落ち度となるのだから。そういう意味では、どこまでも他人事な彼の態度も間違いではないのだ。
「……ならば、どういうおつもりで?」
探るような目に、エイブラムは小さく笑う。
「大したことではないよ。ただ少し、融通を利かせて貰いたいことがあるだけだ」
「融通……ですと?」
困惑して眉をひそめるゴルドに、エイブラムは頷いた。
「ああ。――実は、ここにいるという《擬竜騎士》と会ってみたいんだが……協力いただけるかな? 支部長殿」
その言葉にゴルドは目を見開いたが――他に選択肢があるわけもなく、頷くしかない彼であった。
◇◇◇◇◇
がちゃん、と鍵の回る音に、座ったまま居眠りしかけていたアルヴィーは顔を上げた。
「……出ろ」
「はあ? 何なんだよ、いきなり閉じ込めたり出ろって言ったり」
「いいからさっさと出るんだ!」
まあいつまでもこの小部屋にいたいわけもなかったので、アルヴィーは言われた通りに部屋を出た。外の明るさに目を細めていると、騎士によって引きずるようにどこかへ連れて行かれる。
着いた先は、どうやら支部長の執務室のようだった。さっきの一件を思い出してまたイラッとしたが、執務机に陣取ったあのゴルドとかいう騎士も、なぜか苦虫を噛み潰したような顔をしている。そして室内のソファに座を占めた、もう一人に気が付いた。
その人物はアルヴィーの姿を認めると、微笑して立ち上がった。
「やあ、君が例の《擬竜騎士》か。噂は聞いているよ」
「ええと……どうも?」
良く分からないままそんな曖昧な返答をしていると、ゴルドがやはり忌々しそうに、
「……こちらは、このランドグレン伯爵領を治めておられる、エイブラム・ヴァン・ランドグレン伯爵だ。貴様にお会いになりたいとのことでな」
「え、じゃあウィ――じゃない、ランドグレン二級魔法騎士の」
「その節は、息子が世話になったそうだね。君とは是非一度、話をしたいと思っていた」
なるほど言われてみればと、アルヴィーは納得する。髪や瞳の色などそっくりだ。性格の方は大分違うようだが。
「君が息子に分けてくれた《下位竜》素材で、良い剣を仕立ててやることができてね。周りにも大分羨ましがられたんだ。親としても鼻が高い。礼を言うよ」
「あ、いえ」
アルヴィーはぎこちなく会釈する。《下位竜》素材を分けた、のくだりでゴルドが目を剥いていた気もするが、それはとりあえずどうでもいい。
だがそこでふと気付き、疑問を口に出す。
「あれ? でもそういえば……何で俺がここにいることが分かったんですか?」
港に船が着いてから、アルヴィーはほぼ直でこのミトレア支部に来た。そしてゴルドたちと顔を合わせてすぐに、例の小部屋に押し込まれたのだ。もしかして騎士団の誰かが情報を漏らしたのだろうかと思っていると、エイブラムがおかしげに、
「例の、君が乗船して来た貨物船の船員たちから、どんどん話が広まっているよ。何しろ、船が絶体絶命の時に空から降ってきて、いともあっさりクラーケンを倒したという話だからね。船乗りならば誰しも胸躍る英雄譚だ」
「……そうですか……」
アルヴィーはちょっと項垂れる。確かに話の内容は間違っていないし、褒められてもいるのだろうが、何だかまた話が変に大きくなりそうな気がしないでもない。噂というものはとかく、伝わるにつれて雪原を転がる雪玉のように膨れ上がっていくものだ。
「騎士団が急いで出動したという話も、耳には入っていたからね。ならば、聴取のために騎士団の支部に向かったと考えるのが自然だろう?」
「あ、なるほど……」
確かにその通りだと、アルヴィーは頷いた。
「それでまあ、《下位竜》素材の礼と、後は君と近付きになりたくてね」
「俺と……ですか?」
「君はおそらく、君自身が思っているよりも有名人だ。そのことを胸に留めておくと良い」
そんな忠告めいた言葉を残して、エイブラムはゴルドに向き直った。
「――では、わたしはそろそろ失礼するとしよう。協力に感謝する、支部長殿」
「滅相もない。――ランドグレン伯がお帰りになる。間違いなくお送りしろ」
「はっ!」
明らかにほっとした表情で、ゴルドは部下に命じた。部下の騎士が慌てて敬礼し、先に立って歩き出す。それに続きながら、エイブラムはアルヴィーの肩を軽く叩いた。
「息子は少々熱くなりやすいが、根は良い奴だ。これからもよろしく頼むよ」
「あ、はい」
答えたアルヴィーに小さく頷き、エイブラムは部屋を後にした。
支部の建物を出ると、待たせていた馬車に乗り込む。一頭立ての小型の馬車は、今回のようなちょっとした外出に便利だ。御者が馬に鞭を入れると、馬車は軽やかに動き出し、しばらく街中を走った後に一軒の屋敷の門に吸い込まれるように入って行った。
ミトレアの街には珍しい、屋根まで白亜で彩られた広大な館は、ランドグレン伯爵領の領主館だ。広い庭園の随所には花が植えられ、街中にほのかに漂う潮の匂いを圧倒して、その芳香を漂わせる。中央に据えられた噴水の脇を通り、馬車は館正面の馬車寄せに着けられた。
馬車を降りたエイブラムを、扉の前で控えていた従僕が恭しく出迎える。
「お帰りなさいませ、旦那様」
一礼して扉を開けた彼に頷き、エイブラムは玄関ホールに足を踏み入れる。そこには知らせを受けたのだろう、すでに執事が控えていた。もう老齢だが、それだけにこの館や街のことを知り尽くし、色々と助けになってくれる人材だ。エイブラムも彼には全幅の信を置いている。
「お帰りなさいませ、旦那様。かの御仁には、お会いになれましたか」
「ああ、ついでに支部長の不正も見つけたが、まあそちらは我々に害はないからな。ただ、弱みを握っておくに越したことはない。――それよりも、ここで《擬竜騎士》と面識が持てたことは収穫だったな。ウィリアムの繋がりでは、顔を合わせるのにもう少し時間が掛かっただろう。彼は間違いなく、この先の宮廷の権力争いの中心になる。本人が望む望まないに関わらず、な」
羽織っていた薄手のマントを執事に預けつつ、エイブラムは自室へと歩き出す。執事もまるで影のように、その後に続いた。
「では、旦那様も?」
「ははは、さすがにこんな南の端から、宮廷の権力争いに参戦する気はないよ。わたしはここの開放的な気性が気に入っているからね、陰湿な争い事に首を突っ込むのはごめんだ。だが、火竜の加護を血筋に得た高位元素魔法士と誼を結んでおくのは、少なくとも損にはならないだろう?」
「左様にございますな」
執事は頷き、ちょうど辿り着いた主の執務室の扉を開けた。エイブラムが入ると執事はそこで一礼し、扉を閉めて立ち去る。衣裳部屋へマントを戻しに行くのだろう。
エイブラムは執務机の椅子に座ると抽斗から紙を数枚取り出し、流麗な筆致でペンを走らせ始めた。
◇◇◇◇◇
ルシエルが飛竜を飛ばしてミトレアに到着したのは、ミトレア支部から緊急報告があった数時間後のことだった。
「――中央魔法騎士団第二大隊所属、第一二一魔法騎士小隊のルシエル・ヴァン・クローネルだ。《擬竜騎士》を名乗る魔法騎士の身元確認のため、王都から派遣された。早速だが、本人と面会したい」
「は、はい! こちらへどうぞ!」
応対に出た騎士が慌てて案内に立つ。応接室と思しき部屋に通され、待つことしばし。
「――ルシィ!」
騎士に連れられて来たアルヴィーが、室内を一目見て顔を輝かせた。
「身元の照会するって聞いてたけど、ルシィが来たのか!」
「カルヴァート大隊長から直々の命令だよ。――あと、この子もね」
腰に着けた袋の口を緩める。と、
「きゅ―――っ!!」
中から飛び出した金茶色の塊が、油断していたアルヴィーの顔面に飛び掛かった。
「わぶっ!?――フラムおまえ、だから人の顔面に飛び付くのやめろって!」
「きゅっ、きゅきゅーっ」
べりっと引き剥がされたフラムは、だが意地でアルヴィーの左肩に齧り付き、すりすりと顔を擦り付けてご機嫌だ。アルヴィーの存在を探知できる可能性があるということで、ルシエル共々“派遣”されたフラムは、久しぶりに再会できた飼い主に今までの分も甘え倒す勢いでくっつき、離れようとしない。
「まあ疑いようもないけど、彼が本物の《擬竜騎士》であることは僕が証明する。早速、王都への帰還の手続きを取りたいんだが」
「はっ、少々お待ちください!」
「それと、その間に王都の中央騎士団本部に連絡を入れたい。設備を借りられるか?」
「本部に連絡? 何で?」
アルヴィーが首を傾げるのに、ルシエルはため息をついた。
「あのねえ……アル、自分の立場をもうちょっと考えなよ。君は騎士団員であると同時に、稀少な高位元素魔法士なんだから。そんな人員が拉致されたとなれば、大騒ぎになるのは当然だろう? 王都じゃ《虚無領域》への捜索部隊まで組まれかけてたくらいなんだから。今回の報告が来て、多分一時中断してると思うけど」
「えええ……」
想像以上の大事に、アルヴィーは慄いた。
「捜索部隊って、それ何人規模だよ……俺一人の捜索に部隊が動くとか、何それ怖い……」
「今さら何言ってるの。――とにかく、アルの無事を王都に知らせるのが最優先だ。ちょっと交渉して来るから、アルはここで待ってて」
ルシエルは帰還の手続きと、通信設備を借りるために一旦部屋を出て行く。残されたアルヴィーはフラムを構いながら待っていたが、幸いルシエルはさほど時間も掛けず戻って来た。
「あれ、ルシィ。もう済んだのか?」
「ああ、何しろ部隊一つが動くかどうかが掛かってるからね。ちょっと強引にだけど捻じ込んで、通信設備を使わせて貰った。手続きも進めて貰ってるから、もう少ししたら戻れるはずだよ」
「そっか、それなら良かった」
“ちょっと強引に捻じ込んだ”というそこはかとなく怖い部分を、アルヴィーは聞かなかったことにした。と、安心したせいか腹の虫が騒ぎ始め、そういえばほとんど食事をしていなかったと思い出す。何しろ立て続けに色々あり過ぎて、それどころではなかったのだ。なまじ人並み外れて頑丈なので、それでも普通に活動できてしまうのである。腹に入れたといえば、あの貨物船で気を利かせてくれた船員が、余っていた保存食を分けてくれたくらいのものか。
「……そういや、飯食うの忘れてた」
「普通忘れないよ、そんなこと。一体今まで何してたのさ」
「……後で報告書出すよ」
言ったら怒られる、絶対に。嫌なことは少しでも後に延ばしたいアルヴィーだった。いずれは避けられないことだとしても、心の準備をする時間は欲しい。
「……まあ、後でしっかり聞かせて貰うから。――少し時間を取って、ミトレアで食事だけして行こうか。飛竜で来たから、多少ここで時間を食っても今日中には王都に戻れるはずだ」
「いいのか!? やった!」
アルヴィーは声を弾ませ、フラムも嬉しげに鳴く。もっともフラムは飼い主が喜んでいるのにつられただけだろうが。
支部にも食堂はあるが、どうせならミトレアならではのものをということで、外に出ることにした。支部の騎士たちも外に食べに出る者は少なくないようで、騎士団の制服姿もちらほらと見受けられる。支部の近くの店を何軒か見て回っていると、聞き覚えのある濁声に呼ばれた。
「おおい、兄ちゃんよお!」
「あれ、船長のおっさんじゃん」
あの貨物船の船長が、店の中からアルヴィーを呼んでいたのだ。まあ店とはいっても、建物の外に重石付きの柱を何本か立てて布を張り、簡易な屋根を作った下に、テーブルと椅子が何組か並んでいるだけの質素なものだったが。雨を凌ぐだけならこれで充分だし、嵐が来れば柱や屋根ごと片付けてしまえばいいということだろう。建物の中にも席はあったが、外の方が風通しや見晴らしが良いので、客の人気はあるようだった。とはいえ、昼食時を微妙に外しているせいか、ちらほらと空席も見受けられる。
特に道と仕切られているわけでもなかったので、アルヴィーはひょいと店内に入り、船長のテーブルへと向かう。ルシエルもそれに続いた。
「船長も今から昼なのか?」
「ああ、聴取は割と早めに済んだんだがな。何せ救援に来た騎士団の艦に話した以上のことなんざ、何もねえんだからよ。ただ、俺が預かってた魔石、あれを買い取って貰うのに、ちょっくら交渉が長引いてなあ。だが、おかげで良い金になったぜ」
船長はほくほく顔で、重たげに膨らんだ袋をテーブルの上に出して見せる。
「ただ、こいつは兄ちゃんが仕留めたもんだからな。やっぱその分はそっちに返すのが筋だろってなもんで、ここで張ってたのさ。ここなら支部から出て来た人間が良く見えるからな」
「え、そんなに気なんか遣わなくても良かったのに。あー……んじゃま、船代ってことでさ。俺が海面爆発させた時、何か船が妙な感じに軋んでただろ。その金で視て貰ってくれよ。あれのせいで船壊れたりしたら寝覚め悪りーもん」
そもそも船長に言われるまで、自分が一つ持っていたことも忘れかけていたくらいである。今のところ金には困っていない(というかむしろあり過ぎて困惑している)のだから、そっちに回して貰った方がアルヴィーの精神衛生上からしても良かった。
「へぁ!? い、いや、俺ぁ交渉分の手間賃貰えりゃめっけもんだと思ってたんだがよ」
「手間賃ってどんくらい?」
「そうさな、一割も貰えりゃ充分だ。それでも俺たちにとっちゃ、ちょっとしたもんだからな」
そこで話し合いの結果、互いが半分ずつ取るということで最終的に纏まった。アルヴィーにしてみれば、やはり自分の攻撃の余波を受けて船にダメージが行っているかもしれないことが、どうしても気になったのである。
話も纏まり金を分け合うと、アルヴィーはふと思い出した。
「……あ、でもそしたら、もう一つの魔石ってどうなんのかな。今、支部の方に証拠品ってことで預けてあるんだけど」
「証拠品?」
「ああ。ほら、クラーケンってデカ過ぎて船じゃ引っ張れないし、現物持って来れないだろ? だから、クラーケンが出たって証明に魔石を提出するって、そこの支部長が……あれ? 違うのか……?」
だんだんルシエルの眉間に皺が刻まれるに至って、アルヴィーも何だかおかしいと思い始め、窺うように親友を見やる。ルシエルは頭痛でも堪えるようにこめかみを揉むと、にこりと微笑んだ。
「……いや、何でもないよ。その辺りも後で、支部の方に訊いておこう」
「? ああ」
アルヴィーは首を傾げていたが、居合わせた船長は、何となく事情を悟ってしまって遠い目になった。
「……まあ、とりあえず細けえことは気にせずに、飯にすりゃあいい。ここの料理は美味えぞ。何せ港町だからな、魚が食い放題だ。そっちの兄ちゃんも、王都の出なら海の魚はそんなに食ったことねえだろう。川の魚とはまた違うぜ、この機会に食って行きな」
「海の魚かあ」
「確かに、王都には海の魚はあまり流通しないな」
というわけで、船長のアドバイスを受けながら、二人は料理をオーダーした。やがて運ばれて来たのは、貝の身を混ぜ込んだグラタン、ハーブをしっかり効かせた魚のソテーや、薄く切った魚の切り身と海藻、生野菜を混ぜ合わせたサラダなどだ。グラタンにはパン、サラダにはオールヴの実の油とレムルの実の果汁を混ぜ合わせた、爽やかな香りのソースが付いてくる。飲み物は麦を炒ったものを煮出し、冷やしたという冷茶だ。
魚のソテーをぱくりと一口、アルヴィーは目を見開く。
「美味いな、これ! ちょっと骨が面倒だけどさ」
ハーブの風味と共に、ほのかに酸味も広がるのは、こちらにもレムルの実が使われているのだろうか。魚の身は口に入れた途端に解れ、あっさりした味わいが舌を楽しませてくれる。たまに小骨が入っているのが玉に疵だが、さほど気にも留めず流せる程度のものでしかなかった。
グラタンの方も、プリプリとした貝の身にまろやかなクリームソースが絡み、噛めば一緒に混ぜ込まれた根菜と共に柔らかく崩れる。貝から出汁でも出ているのか、クリームソースにもしっかりと味が付いており、パンに絡めても薄まらない。
サラダの野菜を一部フラムに分けてやり、ソースを掛けて食べてみると、爽やかな酸味が鼻にまで抜けるようだ。生野菜のシャキッとした歯応えと、海藻の柔らかい歯応えが重なり、オールヴの実の油と思しき変わった風味がちらりとよぎる。
年相応の健啖ぶりを発揮し、二人は運ばれて来た皿を綺麗に空にした。麦の冷茶も、紅茶とはまた違う味わいがあり、料理の後味をさっぱりと洗い流す。
「――やっぱ、肉料理とはまた違うな。美味かったー」
「食材が新鮮なのかな。身が締まってて食べ応えがあったね」
「そうだろそうだろ!」
地元の料理を褒められて気を良くしたのか、船長が笑顔で若者たちの肩を叩く。
腹ごしらえも終わったところで、二人は支部に戻ることにした。ちなみに、勘定はアルヴィーが持つと言ってきかなかったので、ルシエルは素直に奢られておく。以前、王都で一緒に食事をした際にルシエルが支払ったので、そのお返しというところだろう。
そして支部に戻ると、ルシエルは微笑と共にアルヴィーの肩を叩いた。
「アルはちょっとここで待ってて。僕はさっきの件で、ちょっとここの支部長に訊きたいことがあるから」
「あ、おう……」
何となく深く訊いてはいけない気がして、アルヴィーはこくりと頷いた。親友の良い返事に、ルシエルは頷き返してさっさと歩いて行く。
――彼がいい笑顔でそれなりの額の入った袋を持ち帰って来たのは、半時間ほど後のことだった。
◇◇◇◇◇
ヴィペルラート帝国帝都・ヴィンペルン。その中枢たる《夜光宮》では、激しい議論が交わされていた。
「――エンダーバレン砂漠の呪いが消えた以上、その開墾に力を注ぐべきです! 他国に戦争など吹っ掛けている場合ではありませんぞ!」
「確かに、砂漠の呪いが消えたのは喜ばしいことだが、だからといって領土拡大の機を逃すわけには参りませぬ! 我が国の版図が広がるのですぞ、何をためらうことがありましょうや!」
集めた兵力を、エンダーバレン砂漠周辺の魔物討伐と、砂漠内の開墾に回すべきだと主張する穏健派。そしてこの機にさらに領土を拡大すべきと訴える外征派が、一歩も譲らぬ攻防を繰り広げているのだ。
双方の論戦を、皇帝ロドルフは玉座から眺めている。
(どちらの主張にも一定の理はあるが……さて)
彼が胸中でそうひとりごちた時。
「――陛下、ぼーっとしてないで話まとめてよ」
相変わらず国の最高権力者に対するものとは思えない物言いで、ユーリがうんざりしたようにそう言った。
「戦争するのか、しないのか。どっちなの」
「とは言ってもな。どちらも一長一短だ。我が国はこれまで、外への膨張路線を取ってきたからな。それを突然転換するとなると、地方の領主や国民への説明も必要となる。特に東の領主は、レクレウスの領土を幾許かでも分捕れると期待していたからな。エンダーバレン砂漠に注力するならば、それを納得させねばならん」
「では――」
勢い付きかけた外征派の貴族たちを、ロドルフは片手で制する。
「だが、差し迫った事情がなくなった以上、いつまでも外に打って出てばかりもいられん。外征のための戦費が、常に我が国の財政を圧迫し続けていたのは、皆も知っているだろう」
「む……確かに、仰る通りではございますが」
財政の問題を持ち出されると、一様に黙らざるを得ない。戦争というのはとかく金が掛かるものだ。
「ましてや、国境警備の兵が壊滅状態にされた今ではな。まさかそちらを放っておくわけにもいかん。兵の補充、物資の調達、殉職した兵の遺族への弔慰金……そちらにも、いくらでも金は要るぞ」
「左様でございますな。さすがに今すぐ足が出るとは申しませんが、野放図に戦争を仕掛けられるほどの余裕もございません。“確実に領土が手に入る”という保証があれば、一考の余地はございますが」
財政を司る大臣がそう明言したため、座が少しざわつく。
「……ユーリ、おまえはどう思う」
ふと、ロドルフがユーリに目を向けた。
「俺?」
「もし戦を仕掛けるとなれば、おまえにも出て貰わねばならんかもしれんからな。おまえの意見も聞いておくべきだろう」
「ふうん」
ユーリは納得したのかどうか分からない平坦さで頷いたが、すぐに答えた。
「俺、戦争はやだな」
ざわ、と先ほどよりもざわめきが大きくなる。
「そうか、嫌か」
「勘違いしないで欲しいんだけど。俺、別に戦うのが怖いとか、そういうんじゃないよ。前線に出ろって言われれば出るけどさ」
その碧がかった蒼い双眸が、何かを見透かすように細められた。
「戦争って、どうしても血が流れるし、恨みだって生まれる。――それは、水を汚すんだ」
「水を汚す?」
「水は、川や湖みたいに、表に見えるものだけじゃない。地面の下にだって、水は流れてる。その上で戦争やって血が一杯流れて、殺された奴が殺した相手を恨んで……そういうのが全部地面に染み込んで、だんだん地下の水を汚していく。見た目は普通に綺麗な水でも、それはいつか人を殺すよ。そういうものになる」
淡々と語るその口調が、かえっておぞましさを増しているような気がして、居並ぶ貴族たちは一様に息を呑んだ。
「……それは、おまえでも浄化できないものか」
「何でもかんでも俺に頼らないで。俺にだって、できることとできないことがあるんだから。泥水を綺麗な水にすることはできるけど、怨念で汚れた水なんか俺には扱えない。――エンダーバレン砂漠の呪いとおんなじだよ」
長年国を苦しめてきた呪いと同等と聞き、座が静まり返った。ロドルフは目をすがめる。
「そんなに厄介か、それは」
「当たり前でしょ。――人間の身勝手は、精霊だって狂わせる。そうやって、色んなものを壊していくんだ」
精霊の加護を受け、精霊と心を通わせて水を操る彼の言葉は、利害を巡る双方の主張など纏めて突き壊すほどの重みがあった。それはその場にいた人々の上に平等に圧し掛かり、論戦の言葉と気力を根こそぎ奪い去るほどに。
痛いほどの沈黙の中、ロドルフが一つ手を打った。ぱん、と響いた音に、座の人々がびくりと身を竦ませる。
「へ、陛下。何を……」
「はは、すまんな。だが、黙ってばかりでは決まるものも決まるまい」
あっさりとそう片付けて、ロドルフはその紫水晶のような双眸の眼光を強めた。
「現段階では、レクレウスへの侵攻は予定通り進める。――だが、本格的に進軍する前に、偵察部隊を出せ」
その言葉に、座の誰もが不可解な顔をした。
「偵察部隊……で、ございますか?」
「いくつか進軍経路として予定しているルートがあるだろう。そこを徹底的に偵察させろ。簡単に進めそうならば、そのまま侵攻だ。――だが」
そこでにやりと笑み、ロドルフは言葉を継いだ。
「苦戦しそうなら、侵攻は取り止めだ。集めた兵力はエンダーバレン砂漠に回す」
「陛下……!」
驚きの声があがるのを、彼は手を振って躱す。
「同じ苦労をするなら、国外より国内に労力を回したい。それに、せっかくユーリが水脈を引いてくれたんだ。放っておくのは勿体無かろう」
皇帝その人の決定とあらば、誰も異論はなかった。何となくそれで話は終わりという雰囲気になり、ほっとした空気が漂う。
ロドルフも小さく息をついたところで、ユーリがその袖を小さく引いた。
「うん? どうした」
「……ありがと、陛下。俺の意見聞いてくれて」
ぽつりとそう言ったユーリの頭に、ロドルフは何となく手を置いた。小さな頭、小柄な身体。こんな子供に帝都の水を頼り、そして戦争の戦力として数えなければならない業の深さに、彼はため息をつきたくなった。
「当然だろう。おまえもこの国を支える一人だ」
「……ちょっと、やめて陛下」
そのままぐしゃぐしゃと頭を掻き回してやると、嫌そうな顔で手を払いのけられた。子供っぽいその仕草に笑いながら、ロドルフは手を引く。
何も知らない子供を、世界を知るという題目のもとに連れ出し、こんなところにまで連れて来た。
人の業を教え、不条理を教え、まるで澄み切った水に泥水を少しずつ流し込むように。
――それでも、その濁りを押し流し、澄んだままでいられるのならば。
(おまえはいずれ、自由になれ)
流れる川がやがては、広い大海に注ぎ込むように。
いつか来るその日を思い、ロドルフはその双眸をそっと細めた。
◇◇◇◇◇
ふわり、と浮き上がるように、飛竜の体躯が空に舞い上がっていく。その背から眼下の景色を見下ろしながら、アルヴィーは歓声をあげた。
「やっぱ何回見てもすげーな、これ!」
「アルも似たようなことできるんじゃなかったっけ?」
「さすがに本物の竜とか飛竜とじゃ、比べ物になんねーよ。こいつら空飛ぶのが本職じゃん。――こらフラム、暴れんな。落ちるぞ」
「きゅー……」
胸元でもぞもぞするフラムを諌め、アルヴィーはルシエルの背に掴まる手に力を込める。もちろん、一般的な範囲内での話だ。アルヴィーが全力で掴まれば、人の背骨くらい簡単にへし折れるので。
彼らはルシエルが王都から乗って来た飛竜で、王都に帰還すべく飛び立ったところだった。
「――けど、あの支部長もやること狡いよなー。魔石ちょろまかして売るとか!」
「完全に横領なんだけどね。まあ、これに懲りれば多少はおとなしくなるんじゃないかな。相応の補償はさせたし」
相手が一級騎士にして支部長ということで、さすがに完勝とはいかなかったが、アルヴィーが本来受け取るべき額は分捕ることができた。金銭に対して無頓着なアルヴィーでは、そのままでまあいいやと済ませかねなかったので、ルシエルが乗り出したのである。
「それより、王都に帰ったら何があったのか、一切合財報告して貰うからね」
「……おう……」
アルヴィーはがくりと頷いた。またルシエルに怒られ、ジェラルドに小突かれそうな気がする。ひしひしと。
だがそんな彼の耳に、風に掻き消されそうなルシエルの呟きが聞こえた。
「……心配したんだ、本当に。僕も、みんなも」
「……うん。そうだよな」
いくら桁違いの戦闘力を誇ろうと、人外じみた回復力を持とうと、それは絶対ではないのだと――そう知っているのだから。
(……でも、俺は)
異形の右手に目をやる。またしても植え付けられた火竜の肉片。また一歩、人間から遠ざかった存在になったことを、否応なく噛み締める。
……それでも。
――『心のままに生きれば良い。その心が変わらぬ限り、身体がどうであろうが、それは些細なことに過ぎん』――。
アルマヴルカンのあの言葉が、親友の剣であろうとするこの心をさらに鍛えた。
その思いがある限り、自分はまだ“こちら側”で踏み止まれる――そんな気がした。
風を切って飛ぶ彼らの先で、空模様は刻々と変わっていく。中天にあった太陽が次第に傾き、空の色が青の濃さを失って黄金に輝き始めた頃、霞むほど遠くに白亜の城の威容を見つけ、アルヴィーは思わず声をあげた。
「見えた、城だ……!」
瞬間、胸にこみ上げる何ともいえない思いに、彼は息を詰める。“帰って来た”――以前廃墟と化した故郷を訪れた時にも感じなかった思いが、強く胸を締め付けた。
ああ、と改めて思う。
(俺の帰る場所って、もうここなんだ)
ルシエルがいて、仲間がいる、この場所が。
夕陽を反射して金色に輝く《雪華城》を間近に望み、飛竜は騎士団本部に設けられた、飛竜専用の発着場へと降下していく。そこで待つ、いくつかの人影。ミトレアを発つ時にルシエルが連絡していたのだろう、第一二一魔法騎士小隊の面々、それにジェラルドたちが、飛竜の到着を待っていたのだ。
――大丈夫だ。
帰る場所がある限り、自分はまだ、人間でいられる。
万感の思いを込め、アルヴィーは眼下に向けて大きく手を振った。




