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片翼のドラグーン  作者: 八月 あやの
第九章 霧の向こうで
71/136

第70話 想いの行方

 抜けるような青空に投げ出され、眼下には一面の海。自身の翼で飛ぶよりもさらに高みから望む光景に、アルヴィーは思わず声をあげた。

「うわ……すっげえ!」

 島はあっという間に後方に遠ざかり、きらきらと輝く水面が目を射る。

 ふと頭上に影が差したので見上げると、大きな竜の影がもう一つ。エルヴシルフトの奥方だろう。“彼女”もアルヴィーに悪意は持っていないようで、ちらりとこちらに視線を向けると、小さく唸った。仔竜たちの身体が浮き上がり、母親のもとに引き寄せられていく。

『――見えたぞ。あれだ』

 エルヴシルフトの声に前方を見やると、遥か彼方に一つ、極小の点のようなものが見える……気がした。何しろ正真正銘の竜、アルヴィーよりもよほど遠くまで見渡せるのだろう。

 だがやがて、点はアルヴィーの目にもはっきりと、船の形を成し始めた。そこそこ大型の帆船のようだ。もちろん船など話に聞くだけで、実際に見るのはこれが初めてのアルヴィーは、感嘆の声をあげつつその姿を見つめる。

 と、


「……ん? なあ、あれ、何かあの船、襲われてないか……?」


 船から目と鼻の先で、ぐねぐねとうごめく気味の悪い物体を見つけて、アルヴィーは眉を寄せる。だがその正体について尋ねるより先に、

『では、そろそろ下ろすぞ』

「え!? この状況で!?」

『おまえならどうとでもなろう。多少高度は下げてやるが、後は自力で何とかしろ』

 エルヴシルフトが翼を広げ、速度と高度を落とし始める。一応アルヴィーに気を遣ってくれてはいるようだ。下りる先が魔物の襲撃真っ最中の船というのは少々いただけないが、まあ他に船の姿もないのだから仕方あるまい。

(……それにある意味、人助けではあるか)

 あの船がどこの所属かは知らないが、一応国に仕える騎士としては、魔物に襲われているのを見過ごすという選択肢はない。民を守る剣にして盾であれ――それが騎士という存在なのだから。

 見る間に近付いた船は、今や甲板で逃げ惑う人々の姿もはっきり分かるほどだ。しかし、エルヴシルフトが近付いただけで、人間はおろか魔物さえ、その気配に打たれたようにぴたりと動きを止めてしまった。人外とのお付き合いが濃過ぎてそこそこ免疫ができたアルヴィーはともかく、一般人に《上位竜( ドラゴン)》の気配の威圧などもはや天災に等しいだろう。

 ともあれ、この機を逃す手はない。アルヴィーはエルヴシルフトに礼と別れを告げる。


「――じゃ、そろそろ下りるよ。送ってくれてありがとな、助かった! 元気でな、家族で仲良く暮らせよー!」

『無論。ではさらばだ』


 瞬間、アルヴィーを支えていた力場のようなものが、ふっと消失する。

 彼を投下し、エルヴシルフトは再び上空へと舞い上がって行った。それを見送るいとまもあらばこそ、アルヴィーは魔法障壁の足場を経由して落下の勢いを殺しながら、眼下の船へと飛び下りる。

 ……だが少々目測を誤り、船の端ギリギリに下り立つこととなってしまったが。

「よっ、と」

 端も端、細く不安定な船縁ふなべりの上で何とか体勢を整え、息をつく。

「――あっぶね、もうちょいで海に落ちた……!」

 思わず漏らした声は、しかし小声のため甲板上の人々には聞こえなかったようだ。そもそもそれどころではあるまい。

(にしても……でかいな、これ。つーか、ヌメってて気持ち悪ィ……)

 少々引き気味のアルヴィーに、アルマヴルカンが注釈を入れてくれる。

『クラーケンだ。そこそこ大物だな』

「あれがクラーケンか、初めて見た」

 細長く伸びた丸みのある頭部、どこか無機質さを感じさせる大きな眼。互いに絡み合っているせいで本数が良く分からない触腕しょくわんは、まさに船を絡め取ろうとしたところで動きを止めている。だがエルヴシルフトが去った今、いつ再び動き始めてもおかしくはなかった。

(今の内に倒しとくべきだよな、やっぱ)

 右腕を戦闘形態に。《竜爪ドラグ・クロー》が伸び、右肩の翼が朱金の光を零す。が、そこでふと気付いた。

(……そういやこいつ、毒とか持ってないよな)

『クラーケンが毒を持つという話は、聞いたことがないな。吹き飛ばしても問題はあるまい』

「そっか。じゃ、遠慮なく――こっから、だなっ!」

 まずは、船の安全を確保しなければならない。アルヴィーは《竜爪( ドラグ・クロー)》に炎を纏わせると、数倍の長さに伸びたその刃で、船に伸ばされたクラーケンの触腕を纏めて斬り落とした。

『…………!』

 声帯がないのか、クラーケンは悲鳴こそあげなかったが、その代わりとでもいうように、斬られた触腕を振り回して暴れた。海面が派手に波立ち、飛沫が豪快に飛んできたので、アルヴィーは辟易へきえきして飛び退く。

「うぇっ、何か生臭っ!」

 だがその波で、船がじりじりとクラーケンから離れ始めた。甲板では野太い歓声が弾けたが、揺れる船上では《竜の咆哮( ドラグ・ブレス)》の狙いが付けられず、アルヴィーは早々に船に見切りを付けて空中に足場を創る。空中に浮かんだように見える彼に目を剥く船員たちを余所に、《竜爪( ドラグ・クロー)》の切っ先を掲げ、クラーケンに向けて振り下ろした。


「――《竜の咆哮(ドラグ・ブレス)》っ!!」


 撃ち放たれた光芒は、狙い違わずクラーケンの胴体をやや斜めに両断し、海面に触れて大量の水蒸気を巻き起こした。それはもはや爆風のような勢いで広がり、その一部を受け止める形となったマストが不吉な軋みをあげる。しかしそれは、船にとっては強烈な追い風ともなった。

「よ、よし! 船が動くぞ!」

「って、ちょ、待っ」

 危うく船に置いて行かれそうになり、アルヴィーは慌てて足場を蹴ると甲板に転がり込んだ。せっかくエルヴシルフトに送って貰ったのに、その船に置いて行かれて海上ひとりぼっちなど笑えない。

 何とか滑り込んで一息ついたところで、彼はようやく、自身を遠巻きに見る甲板の船員たちに気付いた。とりあえず右腕は通常の状態に戻したが、どの道手遅れだろう。

「……あ、あんた一体……」

 及び腰で尋ねてくる船員に、アルヴィーは頭を掻きながら、

「あー……えっと、怪しい者じゃないんだけど。あ、そうだ」

 魔法式収納庫ストレージをごそごそ探り、取り出したのは魔法騎士団の徽章きしょうだ。本来なら常に制服の襟に着けておかなければならないものだが、アルヴィーの場合あまりに頻繁に制服が駄目になるので、着け外しが面倒になってついつい、魔法式収納庫ストレージに放り込みっぱなしになっていたのだった。もちろん、上官ジェラルドへの報告時やその他、公的な場に出る時は着けるが、鍛錬などの時は基本的に外している。厳密には規程違反だが、そのおかげで拉致された時に制服諸共の処分を免れたのだから、何が幸いするか分からないものだ。

「俺、これでもファルレアンの中央魔法騎士団所属なんで――」

 すると。


「おおっ! 騎士団かっ!」

「今しがた鳥飛ばしたばっかだってのに、もう来てくれたのか!」

「え、いや俺は何ていうか、別件で、」

「有難え、助かった!」


 騎士団の名前と徽章の威力か、船員たちは救世主でも見たような顔で殺到してくる。むくつけき男たちのむさ苦しい歓迎に、もみくちゃにされそうになったアルヴィーは、慌てて彼らを押しとどめた。

「待って!――とりあえずこの船どこ行く船か訊いてもいいか!?」

「あ、ああ、この船はミトレアに向かってるんだが……」

「ミトレア? って、どっかで聞いたような……」

 何となく聞き覚えのある名前に、アルヴィーが首を捻っていると、船員が補足してくれる。

「南のランドグレン伯爵領の領都だよ。国でも一等栄えてる港町だぜ!」

「あ……あー! あそこか!」

 聞き覚えがあると思ったら、何度となくアルヴィーに絡んできたウィリアム・ヴァン・ランドグレンの地元が、確かそこだったはずだ。つまり、ファルレアン国内である。

「よっしゃー!!」

 どうやら上手く帰国できそうだと分かり、アルヴィーは思わず快哉かいさいを叫んだ。

「じゃあさ、頼みがあるんだけど。俺もミトレアまで乗っけてってくれないかな」

「そりゃ構わんが……この船は貨物船だぜ。中央の騎士様がお気に召すような船とは思えんがな」

「浮いて進めば充分だよ」

 自力で海を渡るのに比べれば遥かに楽だ。そもそも故郷で猟師をしていた頃は、森に入れば獣に襲われないよう木の上で眠ることも珍しくなかったし、ファルレアンに移ってからもそんなに贅沢な生活はしていない。

 アルヴィーの言葉に納得したのか、船員たちは彼の乗船に異を唱えなかった。

「ならいいがね。――ただし、先にちょっくら野暮用を済ませたいんだが、それは構わんかね」

「野暮用?」

「あの忌々しいクラーケンの魔石を引っぺがしてやるのさ」

「へえ……あいつも魔石取れんのか」

 確かに魔物なのだから、魔石を持っていてもおかしくはない。何しろあの巨大さである。

 とはいえ、大型帆船は小回りが利かないので、急遽きゅうきょ小舟が海面に下ろされた。浅い海での陸との行き来や乗組員の救命のため、両舷に備え付けられているものだ。その内の一隻が下ろされ、数名の船員が乗り込む。アルヴィーも興味があったので、護衛を兼ねて同行した。

 母船から数百メイルほど離れた辺りに漂うクラーケンの死骸は、早くも異臭を発し始めている。顔をしかめるアルヴィーを余所に、船員たちは慣れているのか、顔の下半分に布を巻き、小舟を死骸に横付けしてさっさとよじ登り始めた。

「……この辺りかぁー?」

「多分そうだろ。臭くて敵わねえ、さっさとやっちまおうぜ」

 船員たちは持って来た大振りの刃物をクラーケンの死骸に突き立て、程なく魔石を探り当てた。抉り出してみると、成人男性の拳より一回りほど大きいかというところ。

「へえ! こいつはなかなかのもんだ!」

 船員たちから歓声があがった。だがアルヴィーは首を傾げる。

「そうなのか? 図体でかい割に魔石はそうでもないかなって感じだけど」

「いやあ、クラーケンでこれくらいありゃ上等だぜ!」

「ふうん、そんなもんなのか」

 まあこれに関しては、アルヴィーの基準の方がずれているのかもしれないが。何せ、今まで倒したり関わってきたりした相手が竜を筆頭に、一般人では滅多にお目に掛かれないレベルばかりなので。

 取り出した魔石は海水で洗って回収、船に戻ることにする。死骸はそのままにしておけば、別の魔物や海の生き物たちがえさにするそうなので、そこに残しておいた。……正直、アレを餌にしたものなど、口にしたいとは思わなかったが。悪食あくじきにも程があると言いたい。

 とはいえ、いつの世にも挑戦者チャレンジャーというのはいるもので、船員の話ではその昔、クラーケンを試しに食べてみた剛の者がいたという。結果、餓死寸前でも口にはしたくないほど不味いと述べたそうで、アルヴィーは心から納得した。

「……しかし、こんな海域ところにクラーケンが出るなんてなあ。珍しいこともあるもんだ」

「そうなのか?」

「ああ、この辺りはもう陸地にも近いし、沖に比べりゃ水深も浅い。クラーケンは大体、水深のある沖合にいるもんだから、俺ら船乗りもなるべく、陸から離れ過ぎねえように航路を取るんだ」

 船員の説明を聞きつつ、アルヴィーはふと嫌な予感を覚えた。

(……何か、ヤな感じするなー……)

 と。


「――おーい、早く戻って来ーい!」

「また出やがったぞぉー!!」


 母船から聞こえてきた叫びを、アルヴィーの鋭い聴覚ははっきりと聞き取った。

(また出たって、まさか)

『ふむ、主殿、当たりだ。もう一体来るぞ』

「やっぱりかー!」

 こんな時ばかり的中してしまう勘に天を仰ぐと、アルヴィーは船員たちを急かす。

「おい、クラーケンがまた来たって、船の方で言ってるぞ! 戻った方が良くないか!?」

「何だとぉ!?」

「まさか、渡りにでもかち合っちまったのか……!?」

「渡りって?」

「縄張り争いに負けたクラーケンが、余所に移動することだよ。十年に一回くらいはあるって話だが……こうしちゃいられねえ、すぐに戻るぞ!」

 船員たちは慌てて小舟を漕ぎ始めたが、その後ろ、海中を巨大な影が追って来ているのを、アルヴィーはしっかり見てしまった。

「げ! 来た!」

「ひいいいいっ!」

 船員が悲鳴をあげるのとほぼ同時に、海面を突き破ってうねる触腕が現れる!


「――《竜の障壁(ドラグ・シールド)》!」


 だが間一髪、アルヴィーが張った《竜の障壁(ドラグ・シールド)》に阻まれて、触腕は小舟を捉えることが叶わなかった。

「うわああっ、お、お助けぇっ……!」

 ひいひいとわめきながらも、船員たちが全力でかいを漕いだおかげで、小舟は何とか母船への帰還を果たす。すぐさま縄梯子が投げ落とされ、船員たちは必死の形相でよじ登っていった。

 それを守るように、アルヴィーはクラーケンと相対する。右腕はすでに戦闘形態だ。

 そしてクラーケンが再び海面上に姿を現した瞬間――彼はその右腕を水平に一振りした。

 空を薙ぐように放たれた光芒が、クラーケンの触腕も胴体もお構いなしにぶった斬る。先ほど《竜の咆哮( ドラグ・ブレス)》が海面に接触してとんでもないことになったので、間違っても爆発などしないようにとの水平射だ。

「……もういないか?」

 ぶすぶすと煙をあげるクラーケンの骸をにらみ据えながら、アルヴィーはアルマヴルカンに問う。ややあって、答えが返ってきた。

『ひとまずは、これで打ち止めのようだな。だが、また新手が来んとも限らん。面倒事が嫌ならば、魔石を回収して早々にここを離れることだ』

「だよな。じゃあとっとと済ませるか」

 先ほど船員たちが手本を見せてくれたので、要領は分かる。魔法障壁の足場で大分楽をしながらクラーケンの死骸に近付き、見当を付けた辺りを《竜爪( ドラグ・クロー)》でざくりとひと裂き。成人男性が数人掛かりでやっと囲めそうなほどの胴体だったが、《竜爪( ドラグ・クロー)》の前にはあえなく敗れた。臭気に顔をしかめながら傷口を右手で探り、魔石をほじくり出す。

「…………」

 早くも身体に染み付きそうな臭いにげんなりしながら、アルヴィーは魔石を洗って魔法式収納庫ストレージに突っ込むと、船に向かって足場を蹴った。もちろん、船に戻ったらまず真っ先に、身体を拭いて着替えるつもりである。

 ――船に戻ると首尾良く船室の一つを借り受けることができ、アルヴィーはそこで着替えを済ませた。船員が騎士団に救援要請をしたそうなので、ミトレアに着くまでに騎士団の救援が来るかもしれないと、一応きちんと制服を着ておく。無論、徽章も襟元にバッチリだ。

 そうして甲板に戻ると、なぜかちょっとした騒ぎになっていた。

「……どうしたんだ? 何か騒がしいけど」

 手近な船員を捕まえて尋ねると、


「それが、もうすぐ“霧の海域”のはずなんだが……霧が綺麗になくなってて、代わりに島があるらしいってんで、びっくりしてるんだ。様子見に、ちょっくら船をそっちに寄せてみるがな」

「へえ……霧がなくなって、島が……」


 ……何だか、とっても身に覚えのある話だ。

 アルヴィーが微妙に顔を引きつらせた時、船員の一人が指差した。


「――見ろ! 本当に島だぜ!」


 彼が指差した先、確かに島が一つ、海の上にぽっかりと浮かんでいる。小高い山になっていたであろう中央部は、だがその一部がまるで吹き飛びでもしたように不自然に崩落しており――。

「…………」

 そっと目を逸らすアルヴィーに、アルマヴルカンが駄目押しした。

『ふむ。今までいたのはあの島か。あの水竜と地精霊の気配も感じるぞ』

(ンなこた分かってんだよ! ああああ、何かまたややこしいことになりそうな気がする……!)

 いきなり島が一つ出現した件に関わっているなどと知れれば、騒ぎになることは確実だ。だが、口を拭って知らぬふりを決め込むわけにもいくまい。

 何だか胃が痛くなってきたような錯覚を覚えつつ、アルヴィーは船員たちの大騒ぎを横目に、遠い目で島を眺めるのだった。



 ◇◇◇◇◇



 レクレウス王国王都レクレガン――その中枢である王城の一画、奥まった場所にまるで押し込められるように建てられた一棟。

 そこに、人目を忍ぶようにマントを羽織って、人影が一つ近付いて行く。

 その人影は建物の出入口で見張りに立つ兵士に歩み寄ると、小袋を渡した。兵士は心得たように袋を仕舞うと、懐から鍵を取り出し、入口の扉の鍵を開ける。

「……いつもの通り、手短にお願い致します」

「分かっておる」

 マントの人物は小うるさげに手を振ると、扉を潜って中に滑り込む。それを確かめると、兵士は再び鍵を掛け、何食わぬ顔で再び見張りに立ち始めた。

「……やれやれ、兵士一人抱き込むにも金が要る……」

 建物に入り、扉が閉まる音に紛れてそう呟いたその人物は、一つ息をついてマントを脱ぐ。その下からは、痩せ形のやや気難しそうな顔をした、壮年の男の姿が現れた。

 扉が開く音を聞きつけてか、使用人の少年がやって来る。男の姿を見つけて一礼した。

「陛下――前国王陛下はどちらにおわす?」

 尋ねると、少年は慇懃いんぎんな身振りである方向を示し、先に立って歩き始める。彼を含め、この棟で立ち働く使用人たちは、いずれも口が利けず字も読めない。そうなるように育てられた者たちだからだ。

 この棟に入れられる“病人”の中には、時に王家の恥部ともなり得る人間もいた。だが同時に彼らは身分高き存在でもあるため、その生活にはどうしても他人の手が必要となる。そのための存在が、今こうして案内をする少年のような使用人たちだった。

 彼らはほんの幼い頃に国によって密かに集められ、物心付く前に喉を潰される。この棟の中で見聞きしたことを、万が一にも外に漏らさないようにするためだ。そして手紙で伝えることもできないよう、文字に触れることもなく育てられ、働ける年頃になるとこの棟に入れられる。後は暇を出されるまで、ずっとこの中で働くのだった。伴侶や子を持つことも許されない。彼らもまた、この棟しか世界を知らぬがゆえ、さしたる不満もなくここで日々を過ごすのだ。

 まるで、籠の中で飼われる鳥のように。

 二人分の足音だけが響く静寂の中、ふと少年が立ち止まる。そこには扉があり、少年はその扉を礼儀正しくノックした。

「……入れ!」

 中から投げ付けられた声に、少年はうやうやしく扉を開けると、客人に道を譲る。男は扉を潜り、室内に足を踏み入れた。


「ご無沙汰致しております、陛下。子爵位を頂戴しております、トビアス・ルーグ・フォルネスにございます」


 床にひざまずいての挨拶を、前レクレウス国王ライネリオ・ジルタス・レクレウスは、ワイングラスを片手にソファにだらしなく背を預けて受けた。

「……ああ、貴様か」

「この度は是非ともお耳に入れたき情報がございましたゆえ、急ぎせ参じました」

「情報だと?」

 ライネリオはわずかに眉をひそめる。ワインで少しばかり現実の憂さを忘れた頭でも、その言葉には興味を惹かれたのだろう。

 彼の気を引くことに成功したと悟り、トビアスは勢い込んで告げた。


「は。――実は、ヴィペルラートが我が国に侵攻をくわだてているようでございます」


「……何だと!?」

 一拍置いて、ライネリオの頭にもその意味が染み通ったらしい。グラスをテーブルに置くのももどかしく腰を浮かす。

「そ、それはまことか!?」

「はい。さる筋から掴んだ情報なのですが……何でも、ヴィペルラート国内で物資の商取引が活発化しているとのこと。――戦争には、大量の物資が必要となりますゆえ」

「何ということだ……今の我が国では、とてもヴィペルラートの攻勢を跳ね返すなど」

 権力の座から離れたことで、ライネリオにも少しばかり、自国の状況を客観的に見る余裕ができていた。もはや国政がどう動こうと、自分がそれに関わることは叶わないが、そうして距離を置いてこそまた見えるものもある。

 だが――彼はそれを受け入れるには、まだ過去の栄光に未練があり過ぎたのだ。


「しかし同時に、これは好機でもございますぞ、陛下。これを利用し、貴族議会を転覆させてしまえばよろしいのです」


 そんな甘言に、簡単に耳を傾けてしまうほどに。


「好機……だと?」

「左様でございます。貴族議会はまだ発足して日があそうございますゆえ、様々なことに不慣れ。政治面で密かに当てにしていたであろうオールト元宰相も、すでにこの世の者ではございません。そのような状況で、国の舵取りなどできるとは、とても……」

「なるほど。しかも戦時ともなれば――か」

「仰る通りにございます。貴族議会の力不足は、必ずや露呈致しましょう。その時こそ、陛下が返り咲く時にございます」

「うむ、貴様の話は良く分かった。確かにそれは、好機であるな」

 ワインの酒精も手伝い、ライネリオの気分はひどく高揚していた。この棟に閉じ込められ、籠の鳥もかくやという不自由な生活の中、楽しみといえばこうして酒をたしなみ、いつか表舞台に返り咲くことを夢想するのみ。そんな時にいきなり降って湧いたようなこの話だ。心惹かれない方がおかしかった。

「……して、何か案はあるのか?」

「は……密かにヴィペルラートと繋ぎを取り、情報を流す見返りに、侵攻後には我々の後ろ盾となって貰おうかと考えております。力を失った貴族議会と、ヴィペルラートの後ろ盾を得た正当なる国王陛下……どちらが国を導くに相応しいかは、子供でも分かりましょう」

「ははは、それは良い! 国力を高めれば、いずれはヴィペルラートの干渉も跳ね除けられようしな!」

 ライネリオは哄笑こうしょうし、グラスに新たなワインを注いだ。それをぐっと飲み干し、酔いのためばかりではなくぎらつく瞳をトビアスに向ける。

「……して、その案。勝算はあるのだろうな?」

「すでに志を同じくする者たちが動いております。陛下には申し訳ございませんが、今しばらくここで貴族議会の目をあざむいていただければと……必ずや、吉報をお持ち致します」

「ふむ、仕方があるまい。幸い、母上のおかげをもって生活の方には多少の融通が利く。ここでもうしばし、雌伏しふくの時を過ごすとしよう。金も、必要ならばわたしに言え。母上が都合してくださるはずだ」

「有難く存じます」

 ライネリオの母である王太后は、発言力はかなり落としたものの、今も後宮の主として君臨している。彼女は現国王であるライネリオの弟の生母でもあるため、貴族議会も幽閉などの強硬措置を取れなかったのだ。そのため、彼女の差配さはいでライネリオには密かに生活や金銭面での援助がなされていた。愛息子の失脚や敗戦などのショックで、一時寝込むまでに追い込まれた彼女だったが、少しでも息子たちを守るため、何とか立ち直ったのである。

 だがその援助をもってしても、ライネリオの心は満たされなかった。一度味わった栄光、国王として国のすべてを手中にするという甘美な誘惑を、彼はずっと忘れられなかったのだ。

「では、吉報を待っているぞ。そのつもりで励め、フォルネス」

「は、必ずや……」

 ライネリオに一礼し、トビアスはその部屋を辞した。

 ――見張りの兵士にもう一度鍵を開けて貰い、建物を後にすると、トビアスは足早に歩いて行く。この辺りはほとんど人気もないが、やはり誰にも見咎められないに越したことはないのだ。何しろ本来、貴族とはいえ彼のような爵位の低い人間が、ここまで奥に入り込むことは許されていないのだから。ここまで来るにも、先ほどの兵士とは別に手懐けた侍女の協力を得ている。

 万一誰かが通り掛かっても、決して顔を見られることなどないよう、彼はマントのフードを目深に被り直し、彼が歩いていても問題のない区画を目指して立ち去って行った。


 ……だから、彼は気付かなかった。


 彼とライネリオが会話を交わした部屋の窓から傍の木立に伸びる、数本の魔力の糸に。



 ◇◇◇◇◇



 数刻の後。

 王都の一画にあるクィンラム公爵邸に、二人の少女が目立たないように帰還した。

「――旦那様、ただいま戻りました」

「糸越しでしたけど、話は全部聞けました」

「旦那様が“わざと”流したヴィペルラートの話、ちゃんと届いてたみたいです」

「ヴィペルラートが攻めてくるのを利用して、貴族議会を潰そうっていう感じのことを話していました」

 きちんと仕事を果たしてきた、忠実な手駒たる《人形遣い( パペットマスター)》にして糸遣いの少女たちに、ナイジェルは満足げに頷く。

「そうか、良くやった」

「……でも、大丈夫なんですか? ヴィペルラートが戦争を始めようとしてるって、“向こう”に教えても」

「あの連中、また勝手に何かやりそうです。ただでさえ、また戦争になったら大変なのに……」

 どこか不安げなブランとニエラに、だがその主は平然たるものだ。

「心配することはない。むしろそれを狙っていたんだ」

「え?」

「どういうことですか?」

「つまり、あちらの陣営――元強硬派の貴族どもに対する餌ということだ。向こうはオールト家やオルロワナ公への手出しができず、そろそろれてきている頃だろう。だから、その鼻先に餌をぶら下げてやったというわけだ」

 オールト家にはイグナシオ・セサルを始めとして数人ほど護衛を張り付かせているし、ユフレイアの方にもクリフ・ウィスと“協力者”がいる。彼女の方は地の妖精族も守りに付くだろうし、前王ライネリオや彼の息が掛かった貴族の手先風情では、その守りは崩せまい。

 そこへヴィペルラート侵攻の情報が入ればどうなるか。まともに国を案ずるならば、少しでも戦禍を小さくするべく動くだろうが、自分たちが権益を掴むことしか頭にない連中のこと。彼らは逆にヴィペルラートの侵攻を利用しようとすると、ナイジェルは踏んでいた。

「そもそもあの連中は、自国が戦争で不利な状況にあったにも関わらず、私腹を肥やすことに忙しかった者たちだ。ヴィペルラートが攻めて来るなどと聞けば、国を守るどころか、逆にヴィペルラート側に内通するくらいはやりかねん。――だが、そんな利敵行為をむざむざ放っておくこともないだろう?」

「あ、そっか。そういえば、さっきあの貴族も同じこと言ってました」

「誰がヴィペルラート側に付くのか調べて、弱みを掴むんですね!」

「そういうことだ。馬鹿をあぶり出し、完膚かんぷ無きまでに叩き潰すにはちょうど良いと思わないか?」

 ナイジェルは酷薄な笑みを浮かべた。

「無論、だからといって侵攻を座して待つつもりもないがな。侵攻に対する準備はもう進めている。オルロワナ公から協力の確約も得た……後は、連中が動き出すのを待つだけだ。――おまえたちにも、もう少し働いて貰わねばな」

「はい!」

「頑張ります!」

 意気込む少女たちを微笑ましく見やっていると、部屋のドアをノックする音が聞こえた。

「――旦那様。モルト様がお見えになっております」

「ああ、入って貰ってくれ」

 入室を許され、一人の男性が部屋に入って来る。目元を仮面で隠し、顎鬚あごひげを短く整えた初老のその男性に、ナイジェルは微笑した。

「ようこそ、モルト殿――いや、ここではロドヴィック殿とお呼びした方が?」

「モルトで構わぬよ、クィンラム公。ロドヴィック・フラン・オールトはもうこの世におらぬ存在なのでな。今のわしはただの“モルト”で充分じゃ」

 自らの死を装って表舞台から姿を消した彼――ロドヴィックは、密かな自慢だった長い顎鬚すら短くし、仮面で顔を隠して王都に舞い戻っていた。今はクィンラム公爵邸の敷地内にある小さな家(コテージ)を住まいとし、貴族議会の運営や外交・軍事についてナイジェルに助言を与えている。

 かつては一国の宰相にまで上り詰めた大貴族でありながら、彼は今や日陰の身となった状況に文句一つ言わず、ナイジェルに的確な助言を与えてくれていた。以前の自分に繋がるものは一切排除し、もはや自身は死んだ身であるからと、古い言葉で死者を意味する“モルト”を名乗っているのだから筋金入りだ。

 彼は猫のように自分を見つめる少女たちに目をやり、ふと口元を緩めた。

「……その娘たちも、若いながらに良く働いてくれているようじゃの」

「ええ、色々と役に立ってくれていますよ。――して、モルト殿。今日はどのようなご用件で?」

「うむ、ヴィペルラートが我が国に侵攻を企てておるということで、儂が覚えている限りの、過去の情報を持って来た。実は、あの国が我が国に“仕掛け”ようとしたのは、これが初めてではないのでな。儂が宰相として陛下のお側に上がる前から、父や祖父より話を聞いたこともあるし、儂自身があちらに密偵を放って、情報を集めたこともある。これまではいずれも、今回のように本格的な侵攻にまではならず、計画だけに終わったことも少なくないが……運良く侵攻予定経路や集められた兵員のおおよその人数などを調べられたこともあったのでな。それをここに纏めてみた。ヴィペルラートを迎え撃つに、幾許いくばくかの役には立とう」

「それは……この状況では何にも勝る宝ですな。有難い」

 ナイジェルは差し出された紙束を受け取り、食い入るように読み始める。ざっと目を通し、一つ息をついた。

「よくこれだけの情報を……わたしの知らぬ情報ばかりだ」

「ふふ、さもあろうな。いかに随所に耳を持つクィンラム公といえど、自身が生まれる前の機密情報などは集めようもあるまい。こればかりは、その時に生きておらぬと如何いかんともし難きことじゃ」

「この情報は、必ず有意義に使わせていただきますよ。感謝致します、モルト殿」

 紙束を丁寧に纏め直し、ナイジェルは礼を述べる。

「なに、互いにこの国を守るために力を尽くすまでじゃ、礼なぞ不要。――では、儂はこれにて失礼する」

 モルトはそう言って、あっさりと部屋を後にする。情報や助言は与えても、彼は貴族議会の政策そのものについては、直接口を出そうとはしなかった。おそらく自分たちを政治家として育ててくれようとしているのだと、ナイジェルは考えている。


(この国の未来のために……ということか)


 モルトはもう老齢といわれる年に差し掛かっている。その彼があれこれ口を挟んで、貴族議会が彼に頼ってしまうようになってはならないのだ。それでは彼がこの世を去った後、また指導者不在の状況に陥ってしまう。

 彼はこの先の生を、貴族議会、そしてそれを動かしていける人材を育てるために、使おうとしてくれているのだ。


「……ならば、応えてみせねばな」


 自らを奮い立たせるようにそう呟き、ナイジェルは怪訝けげんそうな顔の少女たちを下がらせると、改めてモルトの残していった書面をつぶさに読み返し始めた。



 ◇◇◇◇◇



「――南へ、だと?」

 眉をひそめたジェラルドに、ルシエルは頷いた。

「はい」

 騎士団本部、中央魔法騎士団第二大隊長の執務室で、ルシエルは部屋の主たるジェラルドと差し向かいで直談判していた。

 行方不明になったアルヴィーの捜索のため、騎士団は北の《虚無領域》への遠征を決定し、現在その部隊の選抜と必要物資などの準備に大わらわだった。そんな中、アルヴィーの無二の親友であるルシエルが、まったくの逆方向である南への、自身の小隊の遠征許可を求めてきたのである。

「でも、どうして南へ? 遠征を申し出るということは、それなりの確証があるということよね?」

 パトリシアの疑問に、ルシエルはどう言ったものかと一瞬頭を悩ませる。だが結局、ありのままを答えることにした。

「実は……フラムが」

「フラム? あの毛玉か」

「はい。あのカーバンクルがアルに付けられた使い魔(ファミリア)だというのは、大隊長もご記憶のことと存じますが」

「……ああ、そういやそうだったな。あんまりとぼけた顔してやがるから、危うく忘れるところだった」

 確かにフラムのあののほほんとした顔と、アルヴィーに対する全力の甘えっぷりは、使い魔(ファミリア)というより飼い主大好きなただのペットだ。ジェラルドの返答が一拍遅れたところを見るに、彼も本気で忘れかけていたのだろう。ルシエルも同意しそうになったが、気を取り直して説明を続ける。

「そのフラムが、南の方角に対して顕著けんちょな反応を見せました。もちろん、何かの勘違いや偶然という可能性も捨てきれませんが……」

「ふむ……」

 ジェラルドは小さく唸り、使い魔(ファミリア)の専門家の意見を仰ぐことにした。

「セリオ。あり得ると思うか?」

「そうですね、使い魔(ファミリア)のランクや、込められた術の強さにもよりますが……フラムの“本来の”主は、僕ですら追えない遠距離からフラムを派遣しています。それを考えれば、フラムがこのソーマにいながらアルヴィーを察知できた可能性も、ないとは言い切れません」

「なるほど。そうなると……」

 ジェラルドは少し考えたが、

「……南への派遣自体は、俺の裁量で何とかなる。――だが、もし行ってみて外れだった場合、《虚無領域》への遠征には間に合わんぞ。選べるのはどちらか片方だけだ」

「心得ています」

 ルシエルは頷いた。そのアイスブルーの瞳に、迷いはない。

 ジェラルドがふと笑みを零した。

「上等だ。――よし、行って来い」

「ありがとうございます!」

 声を弾ませるルシエルに、ジェラルドは小さく手を振る。

「だが、飛竜ワイバーンは動かせんぞ。行くなら地道に馬だ」

「はい」

 ルシエルが再び頷く。ジェラルドはパトリシアに目をやった。

「パトリシア、第一二一魔法騎士小隊を選考から外す。ついでに南への派遣命令書を作るから、何か良さげな言い訳を考えてくれ」

「南ですね。南方騎士団から何か案件が来ていないか、探してみます」

 彼女はすぐに席を立ち、執務室を後にする。南方騎士団から応援や協力要請が来ていないかどうかを、問い合わせに行ってくれたのだろう。

 だが幾許もしない内に、彼女は常になく慌てた様子で戻って来た。

「――隊長!」

「何だ、どうした。珍しく慌てて」

「そ、それが……とにかくこれをご覧ください。つい先ほど、南方騎士団ミトレア支部から届いた緊急報告です」

 パトリシアは一枚の紙をジェラルドの眼前に差し出す。それを受け取り目を通したジェラルドは、一瞬目を見開いた。そしていきなり笑い始める。

「くっ、ははは……何ていうか、あれだな。偉大だな、昔馴染みってのは」

 どこかで聞いたような台詞を紡ぎ、彼はルシエルを見据えた。


「前言撤回だ。飛竜ワイバーンの使用を許可する。すぐにミトレアに飛べ。――《擬竜騎士( ドラグーン)》を名乗る魔法騎士一名が、今しがたミトレア支部に出頭したそうだ。ミトレア支部から身元の確認要請が来た」


 ルシエルは息を詰めた。

「――それ、は……!」

「派遣理由も申し分ない。王都で《擬竜騎士アルヴィー》の偽者が出たばかりだからな。真偽の確認が要る……が、偽者を即座に見抜いた親友なら、身元確認に派遣するにはこれ以上ない人選だろう」

「はい! すぐに向かいます!」

 ルシエルは顔を輝かせて敬礼する。命令書は今からすぐに作ってくれるということで、ルシエルは一旦退出して、その時間を準備に充てることにした。命令書を受け取ってすぐに現地に飛べるようにだ。

 はやる気持ちを抑えつつ、急ぎ足で廊下を歩いていると、曲がり角で誰かにぶつかりそうになり、彼は反射的に飛び退いた。

「っ、すまない」

「い、いえ! こちらこそ失礼致しました!」

 ぶつかりそうになった相手は、騎士団所属を示す若草色の差し色の制服を纏った少女騎士だった。ルシエルの、二級以上の騎士しか纏えない裾の長い意匠の制服を一目見るや、すぐさま敬礼する。鷹揚おうように手を振り、先を急ぎかけたルシエルに、だがその時彼女が恐る恐る声をかけた。

「お急ぎのところ申し訳ありません……もしかしてクローネル二級魔法騎士でいらっしゃいますか?」

「ああ、そうだが。君は?」

「申し遅れました、わたしは中央騎士団所属、ニーナ・オルコット四級騎士です。――その、《擬竜騎士( ドラグーン)》の……アルヴィー・ロイの件について、何かご存知ではないかと……」

 最後はほとんど消え入りそうな声で、彼女は目を伏せる。無意識なのだろう、その両手は固く握り合わされていた。指先が白くなるほど強く握り合わされたその手の震えに、彼女のただならぬ感情を見た気がして、ルシエルは彼女に尋ねた。

「……君は、アルとはどういう?」

「そ、その……わたしは以前、彼に助けられました。ですから、今度はわたしが、何か彼の役に立てないかと……」

 伏せていた顔を上げ、ニーナは真摯しんしにルシエルを見つめる。そのわずかに潤んだ碧の双眸からは、どこか思い詰めたような光と――そして、それとはまた異質な熱のようなものを、ルシエルは感じた。それにどこか覚えがあるような気がして、ルシエルは記憶を探る。そして、思い当たった。


 以前顔を合わせた婚約者の少女、ティタニア・ヴァン・メルファーレン。

 ルシエルに憧れを持っていたらしい彼女が、初めて彼と顔を合わせた時の潤みを帯びたあの黄緑の瞳は、眼前の彼女のそれと良く似ている――。


 すがるような瞳で自分を見つめる少女に、ルシエルは口を開いた。

「……まだ未確定情報だから、他言はしないで貰いたいが……アルらしき騎士が見つかったと、さっき緊急報告があったらしい。確認のために、僕が現地に飛ぶことになった」

「――――!」

 ニーナが息を呑み、そしてその表情が、花がほころぶように明るくなった。

「……良かった……!」

「だがこれはあくまで、さっき入ったばかりの未確定情報だ。さっきも言った通り、他言は無用だ」

「はい……!」

 ニーナは何度も頷く。その瞳から零れ落ちた涙が、光の加減か宝石の粒のようにきらめいたように見えた。

「……すまないが、急いでいるので僕はこれで」

「は、はい。お急ぎのところ、申し訳ありませんでした。どうぞ、お気を付けて」

「ああ、ありがとう」

 ルシエルは何となくいたたまれない思いで、彼女と別れて再び歩みを進める。彼女がアルヴィーに抱く想いを垣間見た罪悪感のようなものが、彼の背を押しているようだった。


(まったく……意外と罪な奴だったんだね、君は)


 自身の副官的存在である少女のことを思い浮かべながら、この場にいない親友に向かって愚痴を零すと、ルシエルは先ほどの遅れを取り戻すために足を早めた。


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