第68話 縁
「――ほう。ヴィペルラートに動きがあったか」
ヴィペルラート帝国帝都・ヴィンペルンに潜入させていた者からもたらされた情報に、ナイジェル・アラド・クィンラムはわずかに眉を上げた。
ロドヴィック・フラン・オールトの“葬儀”に参列した彼は、現地に数日ほど滞在した後、王都レクレガンに戻った。念のために、オールト邸周辺に密かに人を置き、残された家族の身の安全を図ってはいるが、おそらくほとんど必要はあるまいと踏んでいる。復権を企む“元”強硬派の連中にとって、厄介なのは穏健派の思想と政治手腕、そして経験を併せ持ったロドヴィックその人だ。後継者の長男を始め、残された子供たちはまだ経験も浅く、さほどの脅威にはなるまい。ナイジェルでさえそう思うのだから。
だが、オールト家の一件が片付こうとも、問題というものは次から次へと湧いて出てくるものだということも、彼は良く理解していた。
「ヴィペルラートって、西隣の国……ですよね?」
ことん、と首を傾げたのは、ナイジェルの部下兼護衛である《人形遣い》、ブランだ。その隣には相棒のニエラもいる。対照的な肌の色と同じ銀髪を持つ彼女たちは、相変わらず薄いベールに隔てられた向こうから、興味深げに主を見つめた。
「そうだ。クレメンタイン帝国が滅んだ現在、この大陸で唯一“帝国”を名乗っている国だな。まあ、かの国はクレメンタイン帝国ともわずかながら縁もあるし、元は確かいくつかの国が合わさって出来た、一種の多民族国家だ。定義的にも間違ってはいない。もっとも今では、血が混ざり合って融和しつつはあるがな」
少女たちにそう説明しながら、ナイジェルは読み終わって畳んだ報告書を手持ち無沙汰に弄った。
「その国が動いたって……どういうことですか?」
今度はニエラが、おずおずと尋ねてくる。ナイジェルはこともなげに、
「ああ。どうやら今度はヴィペルラートの方が、我が国に侵攻しようとしているらしい」
……一瞬の空白。
そして、少女たちの裏返った声が、彼の執務室に響き渡った。
「えええええ―――っ!?」
「そ、それって大変ですよっ、旦那様ぁ!!」
まるで鏡写しのように、同じリアクションでわたわたと慌てる少女たち。決して政治に詳しいとはいえない彼女たちにも、敗戦直後の自国に別の国が侵攻してくるというのが、どういう意味を持つのかは分かった。
「レクレウスって、戦争に負けたばっかりなのに……」
「で、でも、そんな状態の時に戦争仕掛けるって、有りなんですかぁ……?」
「国際法上は、宣戦布告をすれば開戦は可能だ。だがさすがに、この時機に我が国に対してそのまま宣戦布告では、火事場泥棒と誹られても文句は言えまいからな。おそらく、何かでっち上げてくるとは思うが」
「でっち上げ?」
「例えば、我が国の側からヴィペルラートに戦闘行為を仕掛けた――とでもでっち上げて、それに対する自衛を口実に戦争を仕掛けるという可能性もある。口実さえ“ちゃんと”作っておけば、少なくとも他国に言い訳は立つからな」
「ええー……」
「そんなの、ズルイですよぉ……」
「それが政治というものだ。わたしがやったこととて、内実はとても喧伝できるものではないからな」
とはいえ、侵略されるのを座して待っている義理もない。そもそもナイジェルがこうして情報を掴めたのも、このことあるを予想して、予めヴィペルラート国内に間者を放っておいたおかげなのだから。
「……ともかく、西の領主たちには注意を喚起せねばな。領内の取り締まりを強化するだけでも、多少の効果は見込めるだろう」
いつの間にか領内に潜入され、レクレウス軍に成り済ましてヴィペルラートに武力行使でもされるのが、一番厄介だ。領内の取り締まりを強化すれば、そういった輩は動き難くなるはずだった。すぐに通達せねばな、とナイジェルは脳内の予定表にそれを最優先で組み込む。
「でも、どうしてヴィペルラートはレクレウスを攻めたいんですか?」
「戦争に負けたばっかりで、反撃され難いからですか?」
尋ねてくる少女たちに、ナイジェルは微笑ましい気分になりながら教えを垂れることにした。
「そうだな、それも大きな要因ではあるだろうが……そもそもは、あの国が国内に抱える問題のためだ」
「問題?」
「あの国は領土内に、精霊の呪いを受けた地を抱えている。貴族の領地が軽く数個は収まるほど広大な土地だ。しかもそれは、年々わずかずつながら広がっているという。そうなれば、そこに住んでいた民はどうなる?」
「そっか……暮らしていけなくなるから、余所に行っちゃうんですね」
「そういうことだ。だがその結果、残った土地に民が流れ込むことで人口密度が増え、次第に土地は不足していく。近隣に領地を持つ貴族にも、呪いの浸食でいくらか土地を削られた者はいるだろう。その不満にも対応せねばなるまい。つまりあの国は、確実に削られていく自国の領土を、他国から補填することを選んだというわけだ」
ナイジェルの解説に、少女たちは感嘆の声を漏らす。
「そっかあ」
「じゃあ、ヴィペルラートってずっと戦争してたんですか?」
「いや。そうしょっちゅう戦争していたら、ヴィペルラートといえど国力が保たない。戦争と呼べるほどの大規模な会戦は、ここ百年ほど控えているな。――まあ、百年前にある程度まとまった領土を得たということもあるが」
「それって……」
ブランが気付いたように声をあげる。ナイジェルは頷いた。
「そう。――旧クレメンタイン帝国領の一部だ」
そもそもヴィペルラート帝国は、クレメンタイン帝国とは申し訳程度にしか領土を接していなかったというのに、領土目当てで大戦に首を突っ込んできたのである。大元の原因が精霊の呪いなどというどうしようもないものなのだから、そこには同情しなくもないが、かといって領土を明け渡すかどうかはまったくの別問題だ。
「大戦でエンダーバレン砂漠に匹敵するほどの領土を得たはいいが、呪いの解呪がほぼ見込めない以上、国内の土地が食い潰されるという状況は変わらん。ましてや我が国は、敗戦直後で再軍備もままならん状態だ。ファルレアンとも講和を結びはしたものの、友好条約の類はまだ結んでいないからな。我が国に兵を出しても、ファルレアン側が干渉してくる理由は、少なくとも表向きは存在しない。狙うなら今しかないと考えたのだろう」
冷静に自国の良いとはいえない状況を確認し、ナイジェルはひとりごちた。
「……場合によっては、オルロワナ公にお出ましいただかねばならんかもしれんな」
レクレウスが唯一擁する高位元素魔法士。彼女に加護を与えたのは争いを厭う地の妖精族であるが、守るための戦いまで忌避しているわけではない。防衛戦であれば、十二分にその力を期待できるはずだった。そして今は、彼女を蛇蝎のごとく忌み嫌っていた前王ライネリオもいない。必要となれば誰憚ることなく要請できる。
「公も嫌とは仰るまい。民のために働かれることを良しとする、善き貴族の鑑のような方だ」
無論、彼女の力ばかりに頼ってもいられないので、できる限りの再軍備を、しかも秘密裏に行う必要があった。
「まったく、一つ問題が片付いたと思ったらこれだ。――まあ、致し方あるまい。おまえたちにもまた働いて貰わねばならんが、やってくれるな?」
「はい!」
「わたしたち、頑張ります!」
少女たちの力の入った返事に満足げに頷き、ナイジェルは早速通達を出すため、紙にペンを走らせ始める。
彼らが再びの穏やかな時を得るには、今しばらくの時間が必要だった。
◇◇◇◇◇
力強い翼に風を孕みながら、飛竜が地上へと降下していく。その背で、ユーリはその大きな目をわずかに細めた。
地上に下り立った調査団の一行に、エンダーバレン砂漠周辺の監視所に詰めていた兵士たちが駆け寄って来る。
「この度はこのような僻地までお運びいただきまして……」
「なに、これが我々の仕事じゃからな」
飛竜から降りた魔法士や学者たちが、兵士たちと挨拶を交わす。それを尻目に、ユーリはすたすたと砂漠に足を踏み入れた。
「あっ、お、お待ちくださいユーリ様! 危険です!」
「別に危なくないよ。俺は精霊の加護持ちだし。――それに」
視線を巡らせ、周囲の気配を探る。そして確信した。
「呪いは、もう消えてる」
見た目は以前と何ら変わらない、砂礫だらけの荒涼とした光景だ。
だが、前回訪れた時に感じた、生命を拒むような刺々しい空気が、綺麗さっぱりと消え去っていた。
「試しに、何か植えてみたら良いんじゃない。肥料も足したら、多分ちゃんと芽が出ると思うよ。水脈もこっちに呼んどくから」
ユーリは地面に手を当て、水の気配を探る。周囲で何か騒ぎ始めたようだったが、水脈探しに集中し始めたユーリの意識からはすぐに消え去った。
(……やっぱり、三百年も呪われてた土地じゃ、水の精霊も逃げ出したのか。――でも、水がないと開墾もできないしね)
探っても水の気配は見当たらない。予想はできていたので、ユーリも落胆はしなかった。何しろ高位精霊に呪われていた土地だ。それより弱い精霊では、この一帯に近付くこともできなかっただろう。
とはいえ、ここを再び領土として開発するためには、水がなくては困る。彼は立ち上がって手をはたくと、後ろで何やら騒いでいる調査団の方を振り返った。
「ねえ、この近くに川ってある?」
しかし彼らの方は、それどころではないようだった。
「ユ、ユーリ様! 先ほどの言はまことでございますか!」
「え? 何のこと?」
「精霊の呪いが消えたとのお言葉でございます!」
掴み掛からんばかりの勢いで詰め寄ってくる魔法士や学者たちに、ユーリはきょとんと目を瞬かせたが、
「ほんとだよ? 全部消えてる。ねえ、それより水脈引きたいから近くに川とか――」
瞬間、歓声が爆発した。
「お、おおおおおっ!!」
「ついに、ついに我が国を蝕んでいた呪いが……!」
「そ、そうだ、こうしてはおられん! 早速調査をせねば!」
我先に砂漠の中に駆け込んで行く調査団を無言で見送り、ユーリはぽかんと突っ立っている兵士たちの方に向き直った。あの分では調査団の方は、心ゆくまで原因を調査しなければ他の役には立つまい。
「ねえ、この近くに川とかあったら、教えて欲しいんだけど」
「は、はっ! すぐに!」
調査団の勢いに唖然としていた兵士たちも、ユーリに声をかけられてはっと我に返ると、急いで監視所から地図を持って来た。
「――この近くですと、こちらの方角に、それほど規模は大きくありませんが川が。ですが、十ケイルほど離れております」
兵士の一人が指差した方向を見つめ、ユーリは頷く。
「分かった。ありがと」
そして彼は、両手を天に掲げた。その両腕には、蒼い宝玉をあしらった銀の腕輪が、それぞれはまっている。
それは魔法士にとっての杖に当たるものだ。彼は養い親である精霊から旅の餞別にと貰った宝玉を、帝国で装身具兼マジックアイテムとして加工して貰い、大規模魔法を行使する際の補助として使っていた。普段は《夜光宮》の宝物殿で厳重に管理されているのだが、今回は何があるか分からないからと、そこから引っ張り出して来たのだ。
持って来て正解だったと思いながら、ユーリは短く呼ばわった。
「――おいで」
次の瞬間――彼の周囲に水が渦巻いた。
「水……!? どこから!?」
「川は十ケイルも向こうだぞ……!」
驚愕の声を余所に、ユーリは自らの周囲を巡る水、その中ではしゃぐ水の下位精霊たちに語りかける。
「向こうに川があるんだけど、そっちからここに、水脈引っ張ってくれない?」
精霊たちはきゃらきゃらと笑いながら、彼の頼みを聞き入れてくれた。澄んだ水の気配がぐんぐん近付いてくるのを感じながら、渦巻く水の中央で屈み込み、地面に両手を当てる。両腕の腕輪の宝玉が蒼い光を放った。
どう、と彼にしか聞こえない音が耳にこだまし、引かれた水脈が自身の立つこの場所と繋がったことを伝える。
だがこれで終わりではない。続いてユーリは目を閉じ、掴んだ水脈の気配を“編み上げる”。ここまで水脈を繋げたところで、それを砂漠の中に張り巡らさなければ水は行き渡らず、人の暮らせる土地にはならないのだ。
(……こんなもんかな)
それなりに行き渡る程度には流れを構築したと感じ取り、ユーリは瞼を上げた。
ぶわり、と。
彼を起点に、蒼い光が幾重にも枝分かれしながら、瞬く間に地の果てまで広がっていった。
「……ふう」
息をつき、彼は立ち上がる。もう一度気配を探ってみると、地の下には確かな水の流れが感じられた。後は肥料などで土を改良すれば、この地でも実りを得られるようになるはずだ。
水の精霊たちに礼と別れを告げると、ユーリは両手を払いながら砂漠を後にした。
「ユ、ユーリ様! い、今のは……!」
声を震わせる魔法士に、ユーリはきょとんと首を傾げる。
「水ないと困るから、近くの川から水脈引いたんだけど。ダメだった?」
「い、いえ、そういうわけではありませんが……ま、まさか、このエンダーバレン砂漠全域に?」
「そうだけど」
あっさり返されて、魔法士たちは絶句する。何しろ、一般的な貴族の領地が二つ三つは入りそうなほどの、広大な砂漠なのだ。たった一人でその全域に水脈を引くなど、彼らには想像もできないレベルの大規模魔法である。
「俺だけでやったわけじゃないしね。水の精霊にも手伝って貰った」
ユーリはそう言うが、どちらにしろ常人には真似できない芸当であることは確かだった。
もっともそれはユーリにはどうでもいい話だったので、話を変える。
「……で、そっちは何か分かったの?」
途端に、魔法士たちは顔を曇らせた。
「いえ……我々では皆目見当も付きません。三百年もの長きに渡って続いてきた呪いが、いきなり消えるなど……こんなことは初めてです」
「ふーん」
正直それも、ユーリにとっては何ら興味のない話だった。ゆえに短く相槌だけ打つと、すたすたと飛竜の方へ歩いて行く。
「とりあえず、俺の仕事もう終わったから、帝都に帰るね」
「は、はっ。お気を付けて」
調査団と監視所の兵士たちに見送られ、ユーリは護衛を伴って一足先に飛竜で帝都に戻ることにした。上空へと舞い上がった飛竜の背から、彼は遥か地の果てを見晴るかす。
(……さっき水脈を引いた時、特に抵抗っぽいものもなかったし……精霊が自分から呪いを解くか、精霊以上の力で呪いそのものを消すかしないと、こんなに綺麗さっぱりは消えないよね。砂漠全体が燃えたって報告はあったけど、痕跡はあんまり残ってなかった)
呪われていたとはいえ、ここはれっきとしたヴィペルラート帝国の領土内だ。何者かの干渉があったのなら、それをそのまま見過ごすわけにはいかなかった。いや、ユーリ本人としては割とどうでも良かったのだが、皇帝の側近という立場(不本意ではあるが)がそれを許さない。
(……ま、陛下に報告しとけばいいか)
ちょうど良い落としどころに一人そう頷き、ユーリは遠ざかるエンダーバレン砂漠から視線を外した。
◇◇◇◇◇
鼻を擽る澄んだ水の匂いに、アルヴィーは目を覚ました。
(……あれ? ここどこだっけ?)
ぼんやりと考えながら起き上がると、きらきらと蒼く輝く水面が目に入った。そこで思い出す。
――精霊共々海に落ち、水竜の起こした大波で浜まで運んで貰ったはいいが、だんだん身体がべたついてきて辟易していたところ、水竜が地底湖の水を引っ張ってきてくれたので、有難く水浴びに使わせて貰った。その後、戦闘による疲労などもあり、雨風を凌ぐため地底湖まで戻って、その畔で寝落ちたというわけである。
ちなみにそこまではどうやって戻ったかというと、
『――やっと起きたの。ずいぶん間抜けな顔して寝てたけど』
呆れたように宙に浮きながらアルヴィーを見下ろしてきた、地精霊のおかげである。アルヴィーによって呪いを焼き消され、何とか正気を取り戻した精霊は、馬鹿じゃないの、などとぶつくさ言いながらも、地上から地底湖まで道を作ってくれたのだった。何しろ地精霊、地面のことならお任せだ。
そしてその道の終点に広めの空間を造ってくれたので、そこでそのままバタン、という流れである。
ふああ、と大欠伸一つ、目を擦りながら地底湖に向き直る。その絶景に目が覚めた。
「うわ……すげえ」
アルヴィーが開けた大穴から射し込む光が、地底湖を蒼く輝かせる。その中に沈む竜の骨。湖面のきらめきは地中の空洞全体を淡く照らし、岩壁が星空のように細かな光を帯びている。湖底には昨日の戦いで沈んだ岩塊と竜の鱗が散らばり、雲海に浮かぶ岩山を思わせた。
「……あれ? そういやこの岩、何か混じってんのか? 光ってるけど」
アルヴィーは、寝床にしていた地中の道の壁に手を這わせる。そこにも密やかな輝きが宿っていた。目を凝らすと、銀色の小さな粒が壁面全体に散らばっている。それをしげしげと見つめていると、
『ほう、銀鉱脈か』
アルマヴルカンが感心したような声をあげた。
「へ!? 銀!?」
『大方、この山を造る時にできた副産物というところだろう。どうやら魔力を帯びてもいるようだ』
「へえ……すっげえなあ」
感嘆すると、地精霊は自慢げに胸を反らした。
『そうだろ! 集めて加工するとミスリルになるんだよ! この山の内側全体、こんな感じなんだから』
「へー。まあ、山の表とか普通に木も生えてたもんなあ」
表層と深層で土質が違うのだろう。まあ精霊が作った山なのだからそういうこともあるかと納得しながら、アルヴィーは水を補給させて貰おうと、魔法式収納庫からいそいそと水筒を取り出す。と、地精霊がなぜかむくれ始めた。
『……って、違うだろーっ! 何でさらっと流すの!』
「え、何かまずいことでもあったか?」
『ミスリルだよ!? 人間の世界じゃ貴重なんじゃないの!? それが目の前にどっさりあるのに、何で欲しがらないの!!』
「あー……俺もそんな詳しくないけど、ミスリルって魔法の補助になるとかなんだろ? ぶっちゃけ、俺そういうの要らねーし」
ただでさえ、補助などなくとも充分に威力過剰なのだ。それがさらに加速しそうなアイテムなど、割と切実に要らない。
「それよか今は水が欲しい。ここの水って飲めるよな?」
『問題はなかろう。水が清らか過ぎて魚もいないくらいだ。もっとも、外と隔絶されているからな。そもそもいなかったのかもしれんが』
「そういや魚いないな。いたら捕って食えたのに」
『もー!! ミスリルが水や魚に負けるとか、あり得ない!!』
ぷんすかとひとしきり怒った地精霊だったが、やがて何かを諦めたように肩を落とした。
『……そうだよね、精霊の呪いを力技で焼き消す大馬鹿だもん。人間の常識が通じるわけないよね……』
「おいそこ。当たり前みてーに人を非常識扱いすんな」
精霊に常識を疑われるという不条理に突っ込みつつ、水筒を地底湖の水でたっぷりと満たす。水の心配は要らないここを拠点にできそうなのは有難い。後はこの島の位置でも分かればしめたものである。
……とそこまで考え、アルヴィーはふと気付いた。
「あ、そういやさ。地の高位精霊だったら、この島がどこにあるのかとか分かんねえ?」
『僕を地図代わりにしないでよねー』
などとぼやきつつも、地に下り立った精霊の身体が光を帯びる。光は波紋のように地面に広がり、瞬く間に四方へと地を駆けていった。
『……近くに大陸があるよ』
やがて伏せていた目を上げ、精霊がそう告げると、アルヴィーの顔が輝いた。
「マジか! どれくらいだ?」
『ここからだと北に何十ケイルか、ってところかな。でも、ここの周りにはあの霧があるからね。――ねえ?』
問いかけるように語尾が上がる。アルヴィーが振り返ると、ふわり、と水色の光が水中に浮かび上がった。
『何か問題でもあるのかえ?』
『あれのせいでこの島、周りから完全に孤立してるじゃない。どうにかしないと、こいつ大陸に戻れないよ』
『ふむ。――戻る必要があるのかえ?』
「あるよ! 大有りだよ!!」
思わず突っ込んでしまうアルヴィーだった。何しろ現在、ファルレアン国内では良くて行方不明、悪ければ離反と思われてもおかしくないであろう状況らしいのだ。身の潔白を証明するためにも、万難排してファルレアンに帰国したいところである。
『なに、多少戻りが遅れても構いはせぬであろ。四、五年程度なら遅れにもなるまい』
「人間にとっちゃ割と大遅刻だから、それ!」
当然のごとく数百年だの千年だのを生きる側の感覚で考えられても困る。
頭を抱えたくなったアルヴィーだったが、幸い地精霊の方は水竜より人間の常識に詳しいようで、呆れたように突っ込んでくれた。
『人間は百年も生きないんだから。竜の感覚で考えてたら、こいつ島出れないで死んじゃうよ?』
『ふむ……惜しいことよの。妾はそこそこ、そなたを気に入ったのだがな。加護の一つでもやりたい程度には』
「え、と……どうも。けど加護は間に合ってるんで」
真正面からそんなことを言われて、面食らいながらもとりあえず礼を言っておく。と、水竜はころころと笑った。
『ふふふ、欲のないことよの。魂のみとはいえ《上位竜》、それに地の高位精霊とまで懇意になっておきながら、加護も望まぬか』
『僕は別に懇意になんてなってないけど!』
地精霊はそっぽを向いたが、先ほどアルヴィーの望みに応じて島の位置を調べてやったばかりだ。語るに落ちている。
だがあえてそこには突っ込まずに、アルヴィーは肩を竦めた。
「分相応ってもんがあるだろ。俺はもう火竜に加護貰ってるし、それで充分だよ。――それに、仲良くなるのに加護とか関係ないだろ。そんなもんなくたって、仲良くなりたきゃ、こうやって話をすればいいんだ」
互いに言葉を交わし、思っていることを伝え合う。ただそれだけで良いはずなのだ。
アルヴィーとルシエルがそうであったように。
それを疑うことなく信じる真っ直ぐな眼差しに、地精霊は俯く。
『……僕も、そうすれば良かったのかな』
もう取り戻せない、遥かな昔。ただ言葉を交わして思いを紡ぐだけで良かったというのなら、出会った頃の自分たちは、確かにそれができていたのに。
『加護なんか――あげなきゃ良かったのかな』
泣き出しそうに歪められた幼い顔に、アルヴィーが何とも言えず唇を引き結ぶ。と、
『今さら泣き言を並べたとて、何も変わらぬであろ』
さすがというべきか、水竜がいともあっさりぶった切った。
『妾たちが人間に加護を与えるのは、その者を気に入ったからというだけのことじゃ。つまりは気紛れのようなもの。それを人間がどう受け取ろうと、妾たちの知ったことではない』
つまりは与えっ放し、後は野となれ山となれ、というわけだ。ある意味迷惑な話だが、彼女たちのような強大な存在にとっては、人間などちっぽけな存在に過ぎず、その行く末など考えてやる必要もないということなのだろう。人間がその辺の虫の生き死になど、大して気にも留めないように。
アルヴィーがそんなことをぼんやり考えている間にも、彼女はだが、と言葉を継ぐ。
『そなたが誤ったとすれば、それは加護を与えたことそのものではない。導き方を誤ったのじゃな』
『導き方……?』
『そなた、その人間にあれこれと与えてやったのではないか? 人間というのは概して欲深いものじゃ――そこの者のような例外を除けばの。ゆえに、与えられればそれ以上を求めるようになる。力を与えるにしても、それに溺れぬ者かどうかを見極め、そうでないならばその域に達するまで導いてやれば良かったのではないかの。まあ、妾はそのような面倒なことをする気はないが』
最後に付け加えられた要らない一言に、アルヴィーの目も思わず半眼になる。
(……この人……っていうか竜、案外ズボラだよな)
『聞こえておるぞ』
「げ」
文字通り心の声に突っ込まれて、アルヴィーは小さく呻いた。まあ思い返してみれば、遠く海上にいたアルヴィーとも会話できていたのだから、人間の思考を読む程度は容易いのだろう。
だがそんなやり取りも、地精霊の心を解すには至らなかったようで、彼は項垂れたままだ。
息をついて、アルヴィーはその頭をわしゃわしゃと掻き回してやった。
『わっ!? 何すんだよ!?』
「あのさ、こういう言い方あれだけど、やっちまったことはもうどうしようもねーんだよ。――俺だって、色々やらかしてきたけどさ」
脳裏を過ぎ行くのは、救えなかった者たち、そしてこの手に掛けた者たち。その記憶を噛み締め、そして伝える。
「だから、覚えとくんだ。やっちまったこと、助けられなかった奴のこと。どうしてそうなっちまったのかも、全部。そしたら後で、考えられる。今、どうしたらいいのかって」
そうして積み重なった記憶は、きっとより良い道を選び、誰かを助けるための標になるから。
……たとえその記憶が、思い返すたびに胸を刺そうとも。
「一番ダメなのは、忘れちまうことだ。それはその相手のことなんか、どうでもいいって言ってるようなもんだから」
その言葉に、精霊の顔がふにゃりと歪んだ。
『……僕は』
「おう」
『ただ、喜んでくれればそれで良かった』
それは生き物に恵みを与える、大地の化身である彼らの性だ。奪うよりも与えることに満足を覚える存在。だが際限なく与える恵みは、せっかく芽吹いた芽をいつしか腐らせる原因にもなり得ることに、精霊としてまだ幼い彼は気付かなかった。
――出会った頃の気の良い青年のままで、笑っていてくれればそれで良かったのに。
『――……』
遥かな昔、確かに慈しんだその青年の名。
声にならない声で紡いだそれは、彼の裡だけで響き、涙と共に地面に落ちた。
◇◇◇◇◇
すらりと鞘から抜き放った愛剣は、紅玉のように明るく透き通った紅い刃で、朝の陽光を照り返す。
抜剣した《イグネイア》を構え、ルシエルは眼前の空間を見据えた。
無論、自宅の裏庭での鍛錬に、対戦相手がいるわけでもない。だが彼の纏う空気は、眼前に仇敵でもいるかのように、清々しい朝には不似合いこの上ない鋭さだった。
目を閉じて大きく息をつき、昂った気を静めると、瞼を上げる。ぴり、と朝の空気が引き締まる――瞬間、ルシエルは鋭く踏み込み、《イグネイア》を一閃させた。
チッ、とごくかすかな音。風に乗って漂ってきた細い草の一片が、《イグネイア》の切っ先を掠めるが早いか燃え尽きる。まるで彼の燃え盛る心の内を反映したかのように、竜鱗の剣はいつしか熱を帯びていた。
(――まだ足りない。《虚無領域》への捜索部隊に確実に選ばれるためには、力を示すしかないんだ)
《擬竜騎士》の親友だからといって、無条件で選抜されるとは限らないことを、以前の一件でルシエルは学んでいた。宮廷での権力闘争の行方如何では、選抜から漏れる可能性も否定できない。だが彼は、親友の捜索を他人の手に委ねる気は毛頭なかった。
だから彼は、ただひたすらに剣を振るい、その剣閃の鋭さを研ぎ澄ませる。誰も文句の付けようがない力を手に入れるために。
――常になく殺気立った鍛錬を終え、ルシエルは息をつくと剣を下ろした。一振りし、鞘に納める。今まで使っていたものではない、見るからに真新しいその鞘は、アルヴィーから貰った《下位竜》の皮を使ったものだった。武具店に頼んでいたものが、つい先日出来上がってきたのである。
ランクの違いがあるとはいえ、同じく竜種の素材からできたその鞘は、竜鱗の剣を納めるに充分な強度を持っていた。それどころか、その辺の剣では掠り傷すら付かない代物だ。いざとなれば、これ自体が立派に武器として通用するかもしれない。ただ、意匠はさほど派手なものではないので、一見しただけではそんなとんでもない代物だとは分からないだろう。
邸内に戻って用意させていた湯で汗を流すと、ルシエルは身支度を整える。今日も市街巡回の任務が入っていた。
この間の襲撃は、王都でもひとしきり話題になったが、騎士団の情報操作もあり、クレメンタイン帝国を名乗る者たちの存在は伏せられていた。――そして、《擬竜騎士》の行方不明も。
ルシエルたち巡回組の任務は、市街の治安維持もさることながら、それに紛れて情報を収集・操作することも含まれていた。特に、アルヴィーが行方不明だという事実は、最高レベルの機密に該当する。ファルレアンが擁する二人の高位元素魔法士、その一角が行方不明だなどということは、決して一般の市民たちに知られてはならないのだ。ルシエル自身、母のロエナにすらそのことを漏らしてはいなかった。
無論市民に対してだけではない。他国に対しても、それは隠し通さなければならない機密事項だった。幸い、襲撃があったのは国主催のオークションも終わりに差し掛かった頃で、他国の要人も帰国した者が少なくなかったため、情報は洩れていないと考えて良いだろう。だが、あまりに長くアルヴィーの情報が途絶えれば、その不在を疑われないとも限らない。
(その前に、アルを捜し出さないと)
決意も新たに、身支度を済ませたルシエルは自室を後にした。
食堂で朝食を摂ると、騎士団本部へと向かう。面倒ではあるが、一旦本部に顔を出して、任務に就くことを報告しなければならない。任務を終えて解散する時も同様である。
本部で彼は、自隊の隊員たちと合流した。
……そして、その内の一人が携えている“それ”をまじまじと見やる。
「……ユナ。それは?」
「フラムです」
金茶の毛並み、ぴんと立った長い耳とゆらゆらする尻尾、つぶらな緑の双眸。額には深紅の宝玉のような器官が存在を主張している。
「きゅっ」
籠にちんまりと収まったその小動物は、よろしく、とでも言うように一声鳴いた。
確かに、本来の飼い主のアルヴィーが現在行方不明中のため、フラムの面倒は動物好きなユナに一任されていた。だが何も仕事場にまで連れて来ることはあるまい。
ルシエルの視線に込められたそんな思いを過たず察したのか、ユナはフラムを示して説明する。
「あの、この子、アルヴィーに付けられた使い魔だそうなので……もしかしたら、居場所を辿れるかもしれないと思って」
「アルの居場所を?――だけど多分、もう王都にはいないと考えるべきだと思うが」
「それはその通りだと思います。ですが、この子がアルヴィーさんに着いて回るように“設定”されているとすれば、大まかな方角だけでも分かるのではないかと思いまして」
シャーロットが援護するように口を挟み、フラムを抱き上げた。フラムも満更ではないのか、目を細めてそれを受け入れている。
「……確かに、やらないよりはましか」
ルシエルもそう結論付け、フラムの同行を許可した。
「さて、許可も下りたことですし。――あなたのご主人様がどこにいるのか、分かると良いんですけどね」
シャーロットにそっと撫でられ、フラムは返事のように一声。微笑ましいその絵面に、ルシエルもわずかながら心が和んだ。
と――そのフラムが不意に、きょろきょろと首を巡らせ始めた。
「……どうしたんだ?」
「さあ……何か気になる匂いでもしたんすかね」
一同が見守る中、フラムは一つの方向に顔を向けたまま動かなくなる。シャーロットの腕の中で、何かを探すように首を精一杯伸ばし、ぱちぱちとその大きな目を瞬かせた。
「――きゅっ!」
「きゃっ!?」
やがて確信を得たかのように声をあげると、フラムはいきなりじたばたと暴れ始め、シャーロットの腕が緩んだ隙を突いて飛び下りる。だが駆け出そうとしたその尻尾を間一髪、カイルが引っ掴んで事なきを得た。
「あっぶね! 何だよいきなり?」
「きゅっ、きゅーっ! きゅきゅーっ!」
四肢をぱたぱたさせてなおも逃げ出そうとするフラムをがっちり掴み、カイルが眉を寄せる。ジーンが呟いた。
「もしかして……本当にアルヴィーの居場所の見当が付いたのかしら」
空白。
「……ま、まさかぁ……」
「いくら何でも……」
一同がさすがにそれはないだろうと乾いた笑いを浮かべる中、ルシエルはフラムが目指そうとする方角を見る。
「だが、こっちは……」
フラムが反応を見せた方角――それは、《虚無領域》とはまったく逆方向の南だった。
◇◇◇◇◇
ひとしきり涙を零して、地精霊はようやく、自らの過去を受け止めたようだった。
『……さて。ではそろそろ、そなたの帰路の算段をせねばなるまいの』
そこへかけられた水竜の言葉に、アルヴィーは目を瞬かせる。
「え、手伝ってくれんの?」
『無論、そなたをここに飛ばした者のような荒業は無理じゃがな。あれはおそらく、何かの術式の稼働を利用して、それを弄ったのであろうし』
「……あ。心当たりあるわ……」
げんなりと、アルヴィーは呻いた。
「じゃあそれがないここじゃ、一気に飛ばすなんてことは無理なのか」
『左様。――まあ、自力で戻れというのも酷じゃしの。この島の周りの霧を、ひと時ばかり晴らしてやろう。さすれば、人間の船が通り掛かることもあろうしの』
「え……でも、誰にもここに来て欲しくなくて、霧を張ってたんじゃ」
『ふふふ、そなたならばいつでも来て構わぬよ。――ふむ、そういえばそなたの名を訊き忘れるところであったな』
「え、この場面で? いや、確かに名乗る余裕なんかなかったけど」
『主殿』
なぜかアルマヴルカンが諌めるように声をあげたが、その時にはアルヴィーはすでに名乗っていた。
「俺はアルヴィー。アルヴィー・ロイだ」
すると。
『ふむ。アルヴィー・ロイじゃな。妾はマナンティアル。そなたには名を呼ぶことを許そう』
瞬間――何かがするりと、自分の裡に入り込んでくるような感覚をかすかに覚えた。
「? 何だこれ」
『……主殿。人間同士ならばともかく、このような腹に一物あるような竜などに、軽々しく名乗るものではない。もっとも、今さら遅いがな。――今の名乗りで“縁”を結ばれたぞ』
「へ? 何それ」
『そう警戒するでない、火竜の。存在を感じ取れるようにする程度の軽いものではないか』
『あーっ、ちょっと!』
竜(の魂)同士で軽く揉めかけた時、地精霊も割り込んできた。
『だったら僕の名前も覚えなよ! 僕はシュリヴ! ベ、別に名前で呼んでもいいけどね、僕もアルヴィーって呼んでやってもいいし!』
するともう一度、先ほどと似たような感覚。どうやらこちらとも“縁”なるものが結ばれたらしい。
『おやおや、可愛いものよの』
ころころと笑い、水竜ことマナンティアルは打って変わって、穏やかな声でアルヴィーに告げた。
『さて。――死してより後、退屈に微睡むのみの日々であったが、面白いものを見せて貰ったゆえの。褒美じゃ。この湖を、そなたにやろう』
「……へ?」
ぽかんと間の抜けた声をあげるアルヴィーに、マナンティアルは楽しげに、
『そなた、ここを美しいと言うたであろ。どの道妾はすでに骸すら朽ちかけておる。《竜玉》さえここに留め置いてくれるのならば、後は好きにするが良い。妾は今まで通り微睡むことにするゆえな』
「え……でも、俺の方こそ手伝ったりして貰ったのに」
『ふふ、褒美に値するかどうかを決めるのは妾じゃ。そしてそなたは、それに適ったというだけのこと。それに言うたであろ、妾はそなたが気に入ったと。加護も要らぬと言うしの』
「えええ……」
慄くアルヴィーに構わず、マナンティアルはすっかり、この湖をアルヴィーに譲ると決め込んでしまったようだった。そこへさらに、地精霊シュリヴが追い討ちを掛けてくる。
『だ、だったら僕も、さっきの銀鉱脈あげてもいいけど! その、呪いを焼いてくれたのは事実だし!』
「いやだからミスリルはいいって!」
『何だよ、そっちの竜は良くて僕はダメなの!?』
「う……いや、そういうわけじゃ」
『人間に加護はやらないけど、い、一応恩義には報いないと、精霊の名が廃るからね! おまえのことが気に入ったとか、そういうんじゃないから!』
びしりと指差してそう宣言すると、シュリヴはあっという間に地面に溶け込んでしまった。だが岩壁にちらちらと黄白色の光がちらつく辺り、まだ周辺をうろついてはいるのだろう。
一連の流れでおかしげに笑ったマナンティアルが、《竜玉》をふわりと光らせた。
『これで良い。――今、霧を晴らしたゆえな。外を見てみるが良い』
「え、あ、ああ、ありがと」
彼女とは対照的に、一連の流れに唖然としていたアルヴィーは、はっと我に返って礼を言うと、外に駆け出す。そして思わず、感嘆の声をあげた。
「――うわ……!」
霧が晴れた今、そこには見渡す限りの海原が広がっていた。
「すげー……これが海か……」
空の蒼と海の蒼。確かに違う二つの蒼がどこまでも広がり、遥か彼方の水平線で交わる。霧の帳を脱ぎ捨てた海の蒼は、遠くに行くにつれ深く純粋な紺碧となり、その深淵を思わせた。
「俺、初めて見た。――アルマヴルカンは、見たことあるか?」
『さてな……昔のことだ。忘れた』
「そればっかだな」
本当に忘れたのか、それとも思い出すのが面倒だったのかは知らないが、まあ思い出せと強要するようなものでもない。
「すごいな……何か、時間が止まっちまったみたいだ」
動くものが見えない一面の蒼に、まるでここだけが時間の流れから切り取られたような気がして、ふとそう呟く。遠く聞こえる波の音だけが、確かに時が過ぎていることをアルヴィーに伝えた。
と――その蒼の中にぽつりと、違う色が浮かんだように見えて、アルヴィーは目を凝らす。
(……何だ?)
それは見間違いなどではなく、確実にこちらへと近付いて来ていた。すると、自身の中のアルマヴルカンが唸る。
『まさか、この気配は……』
「え? 知ってんのか?」
思わず自身の胸の辺りに目を落とした、次の瞬間。
『――ほう、よもやこのようなところで、再び見えようとはな』
頭上が翳り、見上げた先には大きく翼を広げた竜の姿。火竜であることを示す深紅の鱗を纏うその姿と声には、アルヴィーも覚えがあった。
「まさか……イムルーダ山の時の?」
『その通りだ。しばらくぶりだな、確かアルヴィー・ロイといったか』
イムルーダ山でアルヴィーに加護を与えた火竜エルヴシルフトは、そういって笑うように唸った。




